ふと、自室のデスクに置いた小さなカレンダーが目に留まる。四月一日、新たな年度の始まり、そして、エイプリルフール。
平日であるこの日は、屋敷への来客が予定されていたため、愛之介は事務所へは行かず、自室でパソコンに向かうことにした。忠は、事務所へ顔を出すといって、愛之介の支度を丁寧に整えた後、いつも通りに出掛けて行った。
世間では、この日に便乗して、様々なお遊びが流行しているらしいが、愛之介にはこれまでに、縁のないものだった。
しかし、今年は少しだけ違う。
一年前のあの日、愛之介が一生捕まえておくと決めた男は、満面の笑みでそれを受け入れた。
それからの日々は、あっという間だった。愛之介にとって、これまで生きてきた中で、最も多忙で、それでいて最も充実した時間は、瞬きの間に過ぎ去った。
愛之介はこの一年、あの男、菊池忠の表情を、余すことなく見てみたいと考えていた。子供の頃であれば、笑った顔、泣いた顔、喜ぶ顔、拗ねた顔、沈んだ顔、困った顔、そして、驚いた顔。それこそ、ありとあらゆる表情を見た。
しかし、大人になった今となっては、見られる表情には偏りがある。特にこの数年は、思い返せば表情のない顔ばかりを見ていた。
もちろん、子供の頃には決して知ることのなかった、愛之介の身体を必死に食らいつくそうとするような獣欲にまみれた忠の表情を、この一年の間に知ることになったのは、満足のゆく結果である。しかし、それでも未だ、不足があると感じていた。
「……あいつ、驚かないよな……」
無人の部屋の中で、ぼんやりと呟く。
政治に携わるものとして、特に負の表情を表に出すことは禁忌である。その点、表情の読みにくい忠は、よくできた秘書だと言えよう。
しかし、それがパートナーとなって、プライベートな時間を過ごす今となっても、というのは、愛之介にとっていささか納得のいかないものだった。
(そうだな、『お前の手綱は、今の僕には必要ない、……この一年でわかったよ。僕はもう、きっと一人でも平気だ』……とか)
驚かせるための言葉を、頭の中で選んでは繰り返す。偽りの言葉は、四月一日、それも午前中のみのつもりだった。
愛之介は、忠がおらずとも、仕事は進むであろうことをわかっていた。忠以外の秘書にも不満はないし、事務を取り仕切る者も、自他ともに認める優秀な者ばかりである。初めのうちは多少苦労するかもしれないが、いずれその穴は埋まってゆく。
しかし、一を聞いて、十どころか百以上を理解する忠の存在は事務所としても大きく、愛之介としても今後の人生において彼を手放すなど、とてもではないが考えられることではなかった。
「……失礼します」
控えめなノックが響く。来客予定の時間までには戻ると言っていたが、愛之介が思っていたよりも、忠の戻りはずっと早かった。
「事務所のほうは問題ありません。年度初めではありますが、皆、普段通りに」
いつも通り感情の薄い、公の顔をしたままの忠から一通りの報告を受ける。報告の言葉が途切れて暫くしてから、愛之介は立ち上がり、忠の隣に立った。
「……新たな年度にもなったことだし、お前に、言っておこうと思う」
思わせぶりな言葉にも、忠は表情を崩さない。
「はい、なにかありましたら、おっしゃってください」
「……お、まえ、の…………」
そこから先の、言葉は続かなかった。
(お前が、この手からまた、離れていくのか?)
子供の声、薔薇の庭園、焦げたにおい、焼けたボード、月あかりの下、そして、笑顔。
ほんの一つ、瞬きをする間に、まるで走馬灯のように浮かんで消えた。
「お、まえ……の、……」
考えていた言葉が喉に引っかかって、吐き出すことができない。唇を開いて、閉じて、また開く。それでも、言葉は声にならなかった。
「…………………………あ、えッ? ぅあ、ぁ、愛之介さまッ?!」
口を噤んだ愛之介の頬を、ひとつぶの水滴が伝って落ちる。黙り込んでしまった主人に、怪訝な顔をしていた忠だったが、やがてその目はみるみるうちに、大きく見開かれていった。
混乱した忠は、口ごもりながら意味を成さない音をいくつか呟いて、ようやくと言った風に、主人の名を呼ぶことを思い出す。その声に、愛之介の目頭がまた、きゅうきゅうと締め付けるような痛みを訴えていた。
「………………ッまえ、のこと、ぜったい、はなさないからな!!」
もしも廊下を歩いていた使用人がいたならば、その声量に驚いて、なにごとかと部屋へ飛び込んできただろう。それくらい、愛之介の声は、広く絢爛な部屋の中に響いていた。しかし幸いにも近くにいる者はなかったようで、忠が息を潜めた間も、扉がノックされることはなかった。
忠は、扉と、目の前で鼻をすする愛之介とを見比べながら、おろおろと手を伸ばしては引っ込めている。
「は、え、ぇと、えと、愛之介、様、何か、あの」
俯いたまま、ひくひくと嗚咽を漏らす愛之介の様子に、忠はひどく動揺していたが、やがて自らを落ち着けるかのように、一つ、深く息を吐いた。
「……愛之介様、大丈夫ですよ」
腕を回して、震える身体を抱きしめる。子供の頃よりもずっとたくましく鍛えられ、厚みのある身体だったが、俯いて涙を流す姿は、忠の脳裏に小さな愛之介の姿を思い出させていた。
「……一年前、お約束くださったではありませんか。私はここにおりますよ」
「う゛、う……」
肩口に顔を埋めて、涙に震える声を聞きながら、忠は愛之介の耳元に、静かな言葉を落とす。
「……あなたはあの日、私を捕まえたとお思いかもしれませんが、……私が、あなたの一生を手に入れた日でもあるのですよ。……ほら、泣かないでください、おめめが真っ赤になってしまいます」
かつて、隠れて泣いていた日。年上の少年に言われたのと同じ言葉を聞きながら、愛之介は瞼を閉じる。顔を埋めたスーツの肩は、じっとりと濡れていた。
「……今日の嘘は、もうやめる……」
それだけを絞り出すのが、精いっぱいだった。