ブラックドック・イン・ザ・レイン Vがホロコールに応答しない。別段珍しいことではない、急用というわけでもなし、仕事中なら出られなくとも当然だ。
そうリバー・ウォードは思い、しかし胸騒ぎを無視することもできなかった。刑事時代から悪い勘ほどよく当たった。取り越し苦労であればとあってないような期待をしつつ、その足はナイトシティにいくつかあるVの自宅のひとつ、グレンのアパートへと向かっていた。
エレベーターのスキャナーへ認証コードを送信し、上階へ上がる。コードは以前に訪れた際、Vから譲り受けていた。
直通のドアが開くと、静かな室内がリバーを出迎えた。Vの姿は見当たらない。窓の外に広がる曇天のナイトシティを背景に、レコードプレイヤーから聞き覚えのある曲が小さく流れている。
やはり仕事中だろうか。帰りを待とうか出直そうか、と思ったその時、床に落ちている赤い雫に気がついた。見まごうことなき、血液だ。
入口から点々と落ちている血痕を追うと、ベッドとバスルームのある二階へと続いていて、さらにバスルームから引き返す水滴と交差して、狭いロフト部分へと向かっている。そして手すりの向こう、大きなクッションの上から力なく垂れたゴリラアームの腕が目に入った。
リバーは息を呑んだ。無意識のうちに懐の銃を確かめ、慎重な足取りでロフトへ上がる。
ロフトには作り付けの書架に無数のペーパーバックの山、救急キットの箱と床に散乱したエアハイポの空容器、赤い染みのついたタオルと、飲みかけで蓋の開いたままの酒瓶。それらに囲まれて、クッションの上で丸くなっているVの姿があった。
身につけているのはショーツだけ。濃褐色の肩と脇腹には皺のよった止血パッドが貼り付けられている。幸い、緩やかな呼吸に合わせて胸が上下していた。
シャワーを浴びたのか、相貌を隠す瑠璃紺の長髪が濡れている。リバーがそっと髪を払いのけると、目を閉じたVの横顔があらわになった。目元には疲れが見て取れるものの、顔つきは穏やかだ。
その姿は、ともすればあられもない格好だというのに、怪我を追った野良ネコを彷彿とさせた。安全な場所に隠れて耐え忍ぶ、人馴れしていない生き物。
けれど彼の人は逃げるでも爪を立てるでもなく、ほんのりと口の端とまぶたを持ち上げた。
「ごめん、爆睡してた。来たのは気づいたんだけど、起きるの億劫でさ」
『心配した』『驚いた』『連絡してくれれば』――リバーはつい口から突いて出そうになったあれやこれやをぐっと堪えた。出会ってからというもの、Vのお人好しのほどはもちろん、他人を頼ることを苦手としていることも思い知らされていた。それはもう、十分に。
リバーはVの傍らへ膝をつき、止血パッドをめくってみた。銃創のようだが、出血は止まっている。その横にはエアハイポの注射跡が、まるでヘビの噛み傷のように二つ添えられていた。
「怪我が多いくせに、手当がヘタクソだよな」
「いいんだよ、もう塞がりかけてるし。それより鎮痛作用が効きすぎてて」
「こういうときに飲み過ぎるのは――」
「いや、酒じゃなくてウェアのほう。この前アップグレードしたばっかりなんだけど、調整が甘かったみたいでさ。あとでヴィクんとこ行かないとな。どこのリパー使ったんだ、ってグチグチ言われるだろうけど」
ヴィク、とは度々その口に上るチャイナタウンのリパードクのことであろう。リバーは直接の面識はないのだが、Vの身を案ずる者同士として、つい同情の念を抱いてしまう。
「それで、今回はどうしたんだ? 仕事か?」
「ああ。いや、ええと、でも仕事中っちゃそうか。俺は静かにやってたんだけど、想定外の外野登場からのどんちゃん騒ぎに巻き込まれて。まあ、依頼は達成したし、不慮の事故みたいなもんだよ」
「これが?」
リバーはムッとしつつ、止血パッドを多少の力を込めてきれいに貼りなおしてやった。Vは痛みに顔をしかめつつ、「労災も追加報酬もないけどな」と軽い口調で返した。
「いつか、これだけじゃ済まなくなる」
ちょうど曲が終わったところへ、リバーの真摯な声色が響いた。そのあとに続く微かなホワイトノイズは、スピーカーからではなく外からだ。Vは雨が降っていることに気が付いた。
雨のナイトシティは好きだ。暗くなった空にコンクリートジャングルが沈む一方、けばけばしいネオンが鮮やかに浮かび上がる。濡れた路面に乱反射する蛍光色。静けさと勘違いしてしまいそうな雨音。このろくでもない街をよりみすぼらしくも、美しくも見せてくれる。
けれど同時に、あの夜を思い出す。チューマを失い、生と死が一転した、あの夜のことを。車窓に不規則な縞模様を描いて流れる雨粒。腕に張り付くシャツの感触。ジャッキーの死に顔。もしかしたら目を開くんじゃないかと、全部間違いだったんじゃないかと、つい無意味な期待をしてしまったことを。記憶に怪しい部分もあるが、そうした断片を妙に鮮やかに覚えている。
「……かもな。でもこれ以上、ならもう経験済みだ」
Vは皮肉な笑みを浮かべ、手で作ったピストルで自分の頭を撃つジェスチャーをした。リバーは何か言おうと口を開きかけ、しかしまた引き結んで、傷を止血パッド越しにさすった。
下手な慰めや気休めでごまかそうとしない、そうしたリバーの実直さをVは気に入っていた。
「ごめん、嫌味な言い方して。来てくれて嬉しいよ」
ゴリラアームの手がリバーのクローム製の義手に重なる。手首から指の付け根を辿り、くるりと手首を返して、指先を絡めるように弄ぶ。血の通わない手と手が、しかし温もり以上のものを通わせて。
リバーは手のひらを押し付けるように、Vの手を握り返した。
「次は、返事くらいしてくれ」
「『ただいま電話に出ることができません。トリプルAとニコーラを用意して、グレンの住所まで直接お越しください』」
「腹減ってるのか?」
「冗談だよ。来てくれただけで十分」
本当は〈Relic〉の影響で体調もすぐれなかったのだが、それをリバーが知る必要はない。そう思いつつVが繋いだ手を引き寄せると、求めに応じてリバーがキスを返した。窓にあたる雨音が濃さを増す。
《ピロートークにゃうんざりだ》
窓際にデジタルゴーストが現れた。タバコと雨で乳白色にけぶる街並みを見下ろしている。
《そう思うんなら引っ込んでろよ。それにまだヤってない》とVは頭の中で言い返した。
《まだ、な》ジョニーは長々と煙を吐き出した。《いい加減、重いって言ってやれよ》
《重い?》
ジョニーはうんざりとVを見上げた。そしてリバーを。
《重くなんてない。お前がイライラしてんのは、リバーが俺みたいのを気にかけてくれるようなイイ奴だからだろ》
《糸の切れたカイトを追っかけて、やっと捕まえたと思ったらまたカイト自ら命綱を切るんだ。掴めなくなるまで、何度もな》
《どうしろってんだ。俺にだって曲げられないこともある。お前が一番よく知ってるだろ》
《それでどうなった? 俺の仲間は? ……クソみたいな結果の中でも、割を食うのは〝イイ奴〟ばっかりだ》
『わかっている』と『余計なお世話だ』を、Vは言葉ではなく感情に乗せて返した。破滅型のテロリストとも古傷のあるインプットとも、失ったものの数で競い合うなんて馬鹿げたことをしたくはない。
「なあ、本当に大丈夫か? 何かできることがあれば言ってくれ」
ジョニーとの応酬に気を取られて、リバーからすればぼんやりと窓辺を見つめているだけのように見えてしまったのだろう。Vは彼を安心させるように微笑みを浮かべ、義手にキスを返した。
ジョニーは小さく鼻を鳴らし、《沈黙が気まずいなら、BGMぐらいかけてやったらどうだ?》とタバコの火先でレコードプレイヤーを指し示した。Vがつられて視線をそちらへ向けた途端、亡霊は消え失せた。
遠隔操作でレコードを再生すると、〈SAMURAI〉の『Black Dog』が流れ始めた。憂鬱から逃れられない男の曲。ジョニーの選曲か、と一瞬疑うも、単にアルバムの最初の曲が再生されたというだけだった。
ジョニーに言われずとも、リバーが自分との将来を夢見ていると、薄々感じてはいた。そしてあるいは、その夢をかなえてやりたいと思っている自分のことも。
けれどいつか、リバーは気づくに違いない。夢を共有したのではなく、ただ彼の夢を叶えようとしただけなのだと。だから例えリバーに見切りをつけられたとして、この手を離すことにためらいはないだろうということも。
ただ今は、温もりを分かち合う夜が欲しい。目が覚めた時、隣で軽いいびきをかいて眠る姿があればいい。一緒にコーヒーを飲む朝がいとおしい。夢を追わずとも得られるものを、手放したくないと願うのはわがままだろうか?
Vはジョニーのため息を聞いた気がした。
「なあ、やっぱり腹減った」
リバーはにっこりして、「よし。何か用意するから、まずはベッドに行こう」
「なに? 血の匂いに興奮するタイプ?」
「そうだな。血と硝煙と……バカ言うな。ちゃんとしたところで寝てくれって言ってるんだ」
屈みこんだリバーの首に、Vは腕を絡めるように巻き付けた。そして慎重な足取りで階段を下りるリバーの腕の中、厚い胸板の上で揺れるペンダントトップをいじる。『首にキスマークをつけようとしたら、かわいい声をあげてくれそうだ。落っことされるかもしれないけど』などとくだらない企みにほくそ笑む。そうでもしないと、こらえきれなくなりそうだから。