フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン・リバー パシフィカは港湾部。ナイトシティの中でも海運の要所であることから、貨物コンテナの山はごくありふれた光景だ。だが壁を取り除いて内部をつなげ、ギャングのアジトとして改装したとなれば話は変わってくる。
蛍光灯が不安定に明滅する通路へ、男女二人のアニマルズが飛び出した。リバーはその背にどうにか追いつき、男のジャケットを掴んで退き倒した。逃げるもう一人の背へ銃口を向けて何発か撃つも、階段の手すりに当たって弾かれた。おまけに弾切れだ。取り押さえたはずの男が、サイバーウェアで増強された筋力でもってリバーを振り払った。先を行く女は、出入り口から差す外光に希望の色を浮かべる。
次の瞬間、その顔からナイフの刃先が飛び出した。Vが木箱に刺さっていたナイフをモノワイヤーで掴み、後頭部めがけて投げつけたのだ。
それを目の当たりにした男がとっさに足を止める。その隙にリバーは再び追いつき体当たりした。銃床で頭部を殴って昏倒させる。
「リバー、危なかったな! 大丈夫か?」
「ああ!」
リバーの無事を確認すると、Vはほっと胸をなでおろして前へ向き直った。足元で尻もちをついている男の股の間に、音を立てて踵を振り下ろす。
「ってわけで、おしゃべりできるのはあんただけになっちまった。あの子らは、どこに、いるんだ?」
問い詰めながら、足先を少しずつ降ろす。ブーツの下で睾丸と陰茎インプラントが表面積を広げてゆく。
「お、お、俺は連中の一味じゃない!」
「答えが違う」とVはさらにつま先に体重をかけた。「その紙装甲でアニマルズを名乗ろうってほうが無理がある。だからって居場所を知らないとは言わせねえ」
「吐いたら首が飛ぶ!」
「その前に高級チンプラントが焼きソーセージになるぞ。お、さすが腐ってもBD俳優、感覚エディターも上物だな。さぁて、先にイくのはご立派さんかシナプスか。撮影準備はいいか?」
ハッキングにVの目が光る。平たくなる陰部に、食い破られるファイアウォールと迫るデーモン。男の頬を汗と涙の混ざりものが伝い、シャツの襟をしとどに濡らしてゆく。そしてとうとう、ここからほど近くの通りの名を口にした。
一瞬の間をおいて、男の命乞いと叫び声の混ざったものが響き渡る。やがてふっつりと静かになった。
リバーはギャングの生き残りを縛り上げ、小さなため息をついた。近づく足音に振り返ると、Vがまくっていたジャケットの袖を降ろしながら部屋へ入ってくるところだった。
「リバー、怪我はないか?」
「ああ。さっきはありがとう」
「気にするな。居場所がわかったぜ。ここから少し南、廃船の中だって」
「聞こえてた。さっきの監視カメラの映像、船倉だったのか。普通の倉庫にしちゃ違和感があると思った」
「だな。車を回してくる」
今回Vが受けたのは、『探偵としての初仕事を手伝ってくれ』というリバーからの依頼だった。リバーも当初は、誘拐ではなく単なる家出やギャングの仲間入りをしたのではといぶかっていた。しかし捜査を進めるうちに、失踪したのは捜索依頼を受けた少女だけではなく、似たような状況から姿を消した少年少女たちがいることが判明した。それも、裏BD作成のために。
自分ひとりの手には追えないと判断したリバーは、フィクサーを通してVに指名依頼を出したというわけだ。
かくして二人は、被害者たちを救い出すことに成功した。警察とトラウマチームへ後始末を引き継ぎ、Vはリバーが事情聴取を追えるのを待っていた。前に二人で解決した、『ピーターパン事件』を思い返しながら。そこへ新たに警察車両が止まり、数人の男女が降り立った。その姿に気づいた子どもたちがワッと泣き出し、両者がお互いに駆け寄って抱き合う。親子の再会が果たせたらしい。
警察から解放されたリバーがやってきて、Vの視線の先を辿る。
「いい光景だ」
「だな」
リバーは眩しいものに目を細めるように微笑んだ。それが不意に曇り、思いつめた様子で口を開く。
「あいつ、『首が飛ぶ』と言っていたな」
「うん?」
「おまえが、その、踏みつけにしてた奴が」
「ああ、そう言えば」
「裏で牛耳ってるやつがいるってことだ」
「そりゃあな。ギャングはたいてい仲介役かただの武器だ。高い買い物を楽しんでる顧客、保護と称して人身売買を手がけるコーポ、権力者アングラ法曹界エトセトラ」とVは呪文のように並べ立てた。「候補はいくらでもいる。オマケにそういう連中は、しっぽ切りがうまいんだ」
「だが――」
「あの子たちを見つけて、助け出す。それが依頼内容のはず。あとは警察の仕事。だろ?」
その警察が信用できるのか。リバーの言わんとすることはVとて十分に理解していた。それでも。
「俺は傭兵だ。そうじゃなくても、あんたに頼まれたら、俺はやるよ。でもそれをいつまで、どこまでやる? ソロができることにだって限界はある。あんたひとりにできることにもな」
リバーは忸怩たる思いで手を握りしめた。自分の心に従い決めた道のはずが、またこんな思いをするなんて。認めたくはないが、飲み込むための覚悟、あるいは覚悟の皮を被った諦めを身に着けるにはまだ時間がかかりそうだ。
「リバー、俺が言うのもなんだけど、ここはナイトシティだぜ? 善行でも悪行でも、どこかで線引きをしないと」
「……ああ」
噛みしめるようにうなずくリバーに、Vは先程のリバーの笑みと似たほほ笑みを浮かべた。
「やっぱり、この街にあんたはもったいないよ。でも、あんたみたいなのが必要だ」
「どういう意味だ?」
「あれを見ろよ」とVは抱き合う親子を示した。「理由なんて十分だろ?」
『ただいま』。そうVから連絡を受け、リバーはコーポプラザにあるVのアパートへ向かった。会うのは数日ぶりだが、しかしVの顔は何ヶ月もろくに休めていないように見えた。ドッグタウンに行っていたのは知っているが、その細部までは聞いていない。どうしたのかと尋ねるも、「色々あって」と答えを濁すばかり。言葉少なに酒をあおり、シャワーを浴びに行ったと思ったらいつまでたっても出てこない。いつもならオリーブ色の肌に水滴を残したまま、ベッドの上から手招くのはVのほうだというのに。様子を見に行くと、Vは降り注ぐシャワーの下でウトウトとしながら突っ立っていた。リバーはバスルームからその体を引っ張り出して甲斐甲斐しく拭いてやり、髪を乾かし、ベッドの上へ運んで包み込むように抱きしめた。Vは何も言わず、やがてリバーの胸元で寝息を立て始めた。
翌日、リバーが目を覚ましたのはすでに日が高くなってからだった。自然な目覚めではない。あまりの焦げ臭さに起こされたのだ。見上げた天井にはもんやりと煙が立ち込めている。
火事か。焦って飛び起きて、ベッドの上にVがいないことに気づく。どこだと探すまでもなく、キッチンに立つその後ろ姿を見留めた。フライ返しを手に、「うるさいな」とか「文句言うだけなら黙ってろ」などと呟きながら、フライパンから立ち昇る狼煙と格闘している。なぜか上にパーカーだけを羽織っていて、下は下着すら履いていない。おそらくパーカーの下だって何も身に着けてはいないのだろう。
リバーは気疲れを覚えつつも立ち上がり、Vの元へ向かった。「おはよう」と声をかけて、張りのある頬へキスを落とす。よく眠れたらしい。
「おはよ。ごめん、うるさかったろ」
「いや、においがな。火事じゃなくてよかった」
「あー、ちょっと燃えたけどな。換気システム、はこれか」
Vのアイ・インプラントが瞬く。換気扇が唸りを大きくし、天井の薄曇りが吸い込まれていった。
「なにがあったんだ?」
「早く焼けるかと思って、コンロをハックして火力を上げたんだ。そしたら加減ミスったみたいで。あ、火災報知器は大丈夫。すぐにオフにしたから」
「……朝飯を作ろうとしてた、ってことだよな?」
「さすが名探偵リバー。まあ朝飯っていうか、もう昼だけど。ヤバそうな食材を始末しなきゃと思ってさ」
「料理、できるのか?」
「この前あんたのところでやったから、できると思ったんだ」
煮立つ鍋をかき混ぜ、米を注ぎ入れるだけの作業を『料理した』と言ってよいのなら同意できるのだが。リバーはVが料理をしているところを見たことがない。キッチンに立つのは、飲み物を用意するときぐらいなものだ。まな板の上に包丁ではなくコンバットナイフが刺さっていることに気づき、リバーは笑いと咳払いが混ざったような音を立てた。
「シナプスを焼く方が簡単だな。火加減なんてベタ踏みでいいし」
「ああ、うん。ところで、何か履かないのか?」
「なに、気になる?」
「気になるというか、気が散るというか」リバーはいたずらっぽい笑みを浮かべたVの顔と、股間に揺れるものの間で目を泳がせた。
「フフ、あとでな。まずはこいつをどうにかしないと」
Vはフライ返しでフライパンを擦り、黒焦げになった何かを削ぎ落とそうとしている。ゴミ箱へ落ちてゆくのは、乱切りにされたおそらくズッキーニと葉物野菜、そして何かの塊。
「水を入れて、少し火にかけた方が取りやすくなる。ほら、貸してみろ」
リバーはVからフライパンを取り上げて、言葉どおりにした。ほどなくして、フライパンから焦げが剥がれ始める。Vは感嘆の声を上げた。
「もうだめかと思った」
「ハハ、まさかお前が料理で根を上げるなんてな。で一応聞くが、何を作ろうと思ったんだ?」
Vは不思議そうな面持ちでリバーを見上げた。「焼き野菜と、焼き肉?」
「ああ……」
「ほら、ちょっと色がヤバそうなとこを削って、火を通せば大丈夫かなって」
頭の中の居候とやらですら、チャレンジ精神を止められなかったのか、あるいは料理への認識が同程度だったのか。リバーは食材の焼死体と共にそうした憂いを片付け、犠牲にならずに済んだ食材を探した。戸棚の奥で眠っていた賞味期限ギリギリのパスタを茹で(これはVがやった。やっとホットパンツを履いて、ハックは使わずに。)、乾燥バジルとトマトペーストの缶詰でソースを作る。パスタをソースと絡め、カチカチの石鹸みたいな合成チーズを削ってふりかける。
一口食べて、Vは目を丸くした。「ワインがほしいけど、夜にとっておこう」と言って次々とフォークを口へ運ぶ。酒にはうるさいくせに、食べ物にはこだわらないんだからな。リバーはそう思いこそすれ、口には出さなかった。今日はこのまま一緒にいられるとわかったから。
ブランチを終えて二人で後片付けも済ませると、リバーはコーヒーを淹れた。Vはキッチンカウンターに浅く腰掛け、タバコを吸っている。アラサカを追い出されてからはほとんど吸わなかったはずが、ここのところは喫煙量が増えているらしい。コーヒーと紫煙の香りに、リバーは警察署のデスクを思い出した。
「V、やっぱり、何かあるんだろ?」
リバーはコーヒーのマグを手渡しながら問うた。Vはなんでもないように振る舞おうとして、しかしリバーの真摯な視線に目を伏せた。
「話してみろよ。俺でよければ力に――」
「終わったことなんだ。だからその、どう言えばいいのか……」
「例の、大統領を救ったとかなんとかって話しか? 映画みたいじゃないか」
「そのあと怒らせちまったけどな。まあ、思った以上に気に食わないオンナだったからいいんだけど」とVは鼻で笑い、やおら深い溜息をついた。「それとは別、とは言えない、のか」
「なんだ?」
「……ともだちを、見送ったんだ」
「友達?」
Vはローズピンクの髪をかき上げ、細く煙を吐き出した。震えた軌跡を描く煙の向こう側、ナイトシティの空を見上げる。今日は快晴だ。ビル群の合間に、うすぼんやりとした半月が浮かんでいる。
「いや、そんなふうに考えたことはなかったけど、他に何て言えばいいか。仕事相手、ってだけじゃ足りなくて、だからって、ともだちってのはどうなんだろう。けどまあ、一番それが近いような気がして」
「何があったんだ?」
「んー……彼女、組織から逃げるために俺を利用して裏切って。それで、月に行きたいって言うから、送ってやった」
あまりに肝心な部分をカットし過ぎた要約ではあるが、リバーには思い当たることがあった。昨日のニュース番組で、『ナイトシティ国際宇宙空港で銃撃戦があり、当面のあいだティコ・ターミナルは封鎖となる』との報道を目にしていた。新合衆国軍対オービタル・エアー警備隊の戦闘により、死傷者も大勢出たとか。なれどここはナイトシティ、こうした騒動は珍しくはない。まさか、Vが関わっているとは思いもしなかったが。
それにしても、だ。
「……それは、友達って言っていいのか?」
Vは笑った。「俺があいつだったら、同じことをしてたと思う。ともだちなんてきれいな言葉で脚色したって、結局、そういうことなんだ」
「お前のことだ、見捨てるなんてできなかったんだろ」
「まあ最初は、俺の問題に片をつけられるかもっていう期待があったからな」とVは自分の頭に指を突きつけた。「そのために、別の手段で彼女を救おうとしていたやつを、俺は殺した。相手も本気だったから、こっちも退けなくてさ。殺したくなかったよ。出会い方が違ったら、って思えるくらいには」
リバーは無言で先を促した。
「最終的に、損得勘定も信頼なんてのも二の次でさ。ただ、彼女を救えないなら、自分のことも救えないって思ったんだ。俺も少し前までは、組織の犬だったから。誰かの思惑に操られて、揚げ句飼い殺しになるなんて、そんなもんクソくらえだ」
リバーも少し理解できた。自分の良心を抑えつけたまま、腐敗した警察組織から甘い汁を吸うなんて。抜けた今だからこそ言える。あのままでは、自分は自分ではいられなかっただろう。
「でも正直、望みを叶えたソミがうらやましい。彼女を蹴落として、ただ自分が助かる道を手に入れることも考えた。もういっそ何もかも、しがらみだの理由だの、そういうものを全部捨ててさ」
Vは窓に映る自分の――ジョニーの顔と、同じぐらい半透明な月を見つめた。ジョニーは何も言わず、ただ、いつになく気遣わしげな目をしている。普段なら腹立たしくも思うところだが、Vには彼がそんな目をする理由が痛いほどわかっていた。俺たちは似ている。他の道を考えた時には、すでに誰かへ中指を立てたあとなのだ。
「なあV、前に、俺のことをナイトシティにはもったいないって言ってたよな」とリバー。
「言ったか?」
「言ったよ。言葉を返すようで悪いが、俺も、お前にこの街はもったいないと思う」
「そうか? 今にも食われかけてるのに?」
リバーはマグを置き、皮肉に歪んだVの頬へ手を添えた。「V、月に行きたいか?」
Vは少し驚いて、リバーを見つめ返した。やや厳つい顔つきと無機質なクロームの片目、それに似合わないと思ってしまうほどの思いやりと優しさを語る、茶色の瞳を。やがて「いいや」と微笑んで言った。
「それよりキスがいい。他には何もいらないから」
「何も?」
「ンン、何をくれるかによるな」
クスクスと笑うVをリバーは片腕で抱き寄せ、深く口づけた。もう片方の手で、タバコを取られるまいと逃げる華奢な手を追う。どこか苦い味を噛みしめながら。