ある夜に 王都から遠く離れた村の方が、異端審問が曲解されていることが多い。人命がかかっていることが多いため、馬の利用が許されていても異端の審議のために何日もかけて旅をすることがしばしばあった。極力街道沿いを通るとはいえ運よく村や集落があるとは限らず、野営になることもある。
「最初の不寝番は私がしましょう」
「悪いな」
馬を連れているとなると、野盗に襲われることもある。暖を取る意味でも、火の番は必要だった。
元から頑健な方だと自負しているが、その夜は疲れているはずなのにベルナールはなかなか寝付けなかった。
「眠れませんか?」
「カイム」
「いや、大丈夫だ」
カイムは穏やかに微笑んでいる。背こそ高いが、まだ二十歳にもなっていないカイムはベルナールよりもずっと線が細い。その彼が平然としているのに疲れたとは言い難く、ベルナールは首を振った。
「無理はいけません。私はあまり寝なくても大丈夫な性質でして」
メギドラルでは睡眠や食事の概念すら個々で異なる。追放メギドとして、ヴィータの体である以上食事や睡眠もとらなければならないがカイムはベルナールに身振りで寝ているようにと示した。
「ああ。だが、なんとなく眠れなくてな」
ふう、とため息をつくベルナールにカイムは頷いた。
「そんな日もありますね。でも、横になっているだけでも違いますよ」
「そうなんだけどなあ」
ベルナールは火とカイムの髪を交互に見た。赤い。助けられなかった人を焼いた火、殺してしまった領主の体から流れた血。その赤を忘れる日はないだろう。好きだった少女が自分を呼ぶ声さえもう思い出せないのに、領主を殺したことを後悔しているわけではないのに、どうしても追憶に足を引っ張られる。
「では、一つ話をしてさしあげましょう」
「お?何だ?」
書庫で、彼が母を探していることをベルナールは当てては見せたが、カイムはあまり他者と積極的に話そうとはしない。あの時も名前を憶えていないと平然と言ってのけたくらいだ。その整った面差しと流れるような立ち居振る舞いも相まって、人形めいて見えることすらある彼が自分から話をするのが珍しく、ベルナールは身を乗り出した。
「ベルナール、横になってください。話はそれからです」
「ああ」
ベルナールが寝そべるとカイムは話し始めた。
「むかしむかしあるところに……」
いつもの皮肉は鳴りをひそめ、穏やかに柔らかな声で話し始める。なんだ、おとぎ話じゃないかと思ったのは束の間、聞いているうちにベルナールは眠りに落ちていた。
揺り起こされたのは、明け方近くになってからのことだった。
「ん、もう朝か」
「いいえ。まだ日が昇るまで時間があります。でも、交代の時間ですので」
「そうか。すまないな」
「いえ。私も少し休みますね」
「そうか。おやすみ、カイム」
何気なく言った言葉にカイムは目を丸くした。
「そんなことを言われたのは、とても久しぶりです」
「このくらいで、何を言っているんだ」
「このくらい。そうですね、でも……おやすみなさい、ベルナール」
小さくした火の照り返しにまぎれて、カイムが頬を赤らめていたことにベルナールは気づかなかった。気づいたのは違うこと。
糸が切れたように眠るカイムをベルナールはそっと見下ろした。
「ずっと、一人だったのか……?」
お休みをいわれるのが久しぶりだと言っていた。誤った異端審問に母を連れ去られたと言っていた。それからずっと一人で過ごしていたのだろうか。もしや、おとぎ話は母との思い出なのだろうか。
「カイム」
母を助けたいと願う彼を、綺麗だと思う。引き寄せられるように、ベルナールは顔を近づけた。
「……」
眠るカイムの薄い唇が動いて、ベルナールではない誰かを呼ぶ。それは、幼い子供が母を呼ぶのに似ていた。
「すまん」
兆した欲をベルナールは恥じた。
「必ず、助けるからな」
改めて決意に変える。おとぎ話の騎士を思い出しながら、その手にそっと唇を寄せた。
気付けば朝日が最初の光を彼らに投げかけていた。
「……ん……」
「あ、あのその、カイム、俺は」
「ベルナール?」
「おはよう。えっとその、キスとかその、えっと、メシは俺が用意するから」
「お願いします。私は馬たちの様子を見てきます」
慌てふためくベルナールを尻目にカイムは立ち上がった。
「別に、貴方なら構わないんですけどね」
仕えるべき王はいまだ現れず、王なき道化としての生に意味はない。多少なりとも、意義があるとすれば連れ去られた母のために費やす時と、傍らの友と過ごす時間くらいだ。この身にベルナールが意味を見出すのであれば、くれてやっても構わない。それが好意の現れだと自覚しないままカイムは呟いた。