髪の話 継承し、転魔を果たした身に流れる時間は少しゆっくりとなる。それでも元がヴィータの体である以上、髪や爪は伸びる。
「くそったれ」
鏡を覗き込んだチユエンは、髪をかきむしった。美猴の魔は金の獣だったからというだけでなく、母の言葉を伸びてきた黒い髪は思い出させる。父親によく似た息子に、かつて奪われた恋と憎しみを重ねてしまうと言っていた母の言葉を。だから、故郷では髪を染めていた。
「髪が伸びてくるのが嫌?じゃあ剃ればいいんじゃない?」
「それでも伸びてくるだろ」
「そうねえ。じゃあ、色を変えてみたら?」
「できんのか?」
「アタシに任せなさい。そうねえ、いっそ金なんかいいんじゃない?」
そう言ったヴリトラは、次の日髪を染めてくれた。なぜ染めたいのかを一切聞かず、むしろ伸びてくると彼の方からそろそろ染めたほうがいいとやってきたものだった。
しかし、カクリヨを出てひと月以上が経っている。今度は自分で染めなければならないだろう。
「こっちにもあるか?」
なにくれとなく世話を焼いてくれるサキュバスなど女性メギドの中には化粧をする者もいるが、髪を染めている者はいただろうか。
「とりあえず探してみるか」
アジトの共有備品が置かれている棚へ向かう。
「おや、何をお探しですか?」
飄々とした声に振り返ると、赤毛の背の高い男が立っていた。
「えっと、確か」
「カイムと申します。チユエン殿」
「俺の名前」
「私めは王都への報告なども行っておりますのでね」
チユエンは後で知ったのだが、カイムはハルマの麾下にあった異端審問会に所属していたという。
「ああ、それでか。ちょうどよかった、ここに髪を染めるモンはあるか?」
「見たところ、その髪に霜が降りるほどの歳月は過ぎていらっしゃらないようですが」
「黒くしたいんじゃねえ。逆だ。見ればわかんだろ」
カイムはニッと笑った。
「こっちにもクソ蛇みたいなやつがいるんだな」
目の前の青年は火のような髪と瞳をしており、まとう色彩はむしろ真逆だ。だが、回りくどい態度と中性的な面差しは、どことなく東の地に置いてきた友を思い出させる。
「髪を染める品は王都の市場ならあると思いますが、お一人でできますか?」
「う」
チユエンは言葉に詰まった。
「そりゃ、前はアイツが染めてくれてたけどさあ」
カイムが眉を上げた。女性に声をかけまくった結果、しばらく単独行動を慎むようにという意味で告げたのだが、チユエンは違う受け取り方をしたことに気付く。
「染めてくれる方がいたのですか」
「そんな丁寧な言い方しなくてもいいぜ。あのクソ蛇、顔は綺麗だが口が悪い。そのくせ、最後は俺を助けようとして……」
故郷に戻った彼は今どうしているだろうか。唇を噛むチユエンに、カイムは首を振った。
「失礼しました。私の方こそ失言を詫びなければなりませんね」
「あ、ああ。で、髪を染める道具なんだけどよ」
「今日のご予定は?」
「特にねえよ」
「では、しばしお待ちいただけますかな?雑務を片付けたら一緒にまいりましょう」
カイムが微笑んだ。
「おう、頼む」
チユエンがぱっと笑った。あまりに屈託ない様子に目の前の青年が根っからのお人好しだのだとわかる。彼が自分が残ることで友を帰還させたことを改めて思い出させられ、寸の間追憶にカイムは胸の痛みを覚えた。全く似ていない。ただ、命の借りがあることを改めて思い出しただけだ。
「ん?どうした?」
「何でもありませんよ。ああ、お茶でも飲みますか」
「紅茶ってやつか?カクリヨとは少し違うけどうまいよな」
「ええ」
他愛ない会話と笑みに隠して、ただ一人の友を思い出した追憶の痛みをカイムは飲み干した。