かりそめの円舞曲 〜ウェブイベント用〜 秋風も心地よい午後。開け放した窓からの風に舞い上がりそうな、薄い柿色の生地を手で押さえながら、マダムと呼ばれる裁縫好きの婦人が話を続ける。
「縫うのは大好きなの。それで、今年はこの本から想像を膨らませていろいろ縫ったのよ。楽しかったわ」
その言葉通り、部屋中のトルソーやハンガーに、ハロウィンをイメージしたシックでありながら華やかなドレスやジャケットがかけられている。
ここは、裁縫好きが集まるサロン。隣には、製菓好きが集まるサロンがあり、丁度甘く魅惑的な香りが漂ってきたところである。
「貴女の腕前は、一流よ。今年の衣装も素敵だわ」
釦屋の女主人が微笑む。彼女の店で扱うアンティークの釦たちも、マダムの作品にセンスよく使われている。
「でも、なにか不満そうね?どうかしたの?」
女主人の言葉に、マダムは我が意を得たりと、大きくうなずく。
「そうなのよ!こんなに素敵にできたのに、着てくれる人がいない‥ううん、この服たちのイメージに合う人たちがいないのよ!」
ああ、このドレスは歩いたときの裾の動きが素晴らしいに、このジャケットを着こなせる男性はいないかしら‥マダムは胸の前で両手を握りしめながら嘆く。たしかに、服は着てもらって映えるもの。長きの友人でもあり、上客でもあるマダムの思いを叶えられないかしら‥釦屋の女主人は考えて、ふと一人の少年と一人の青年を思い出した。
「ねぇ、ハロウィンパーティを開いたらどうかしら?」
「ハロウィンパーティ?」
「そう。ドレスコードは貴女の作品。来場客には、会場でこれらのドレスやスーツに着替えてもらうの」
「なるほど‥それで、誰か当てがあるの?」
「ええ、いるわ‥」
それはね‥と話す前に、鼻先に先ほど香りを漂わせていた甘くて魅惑的なスイーツが差し出された。
「ねぇ!ハロウィンパーティするの?」
そう尋ねてきた、猫のような眦のマダムより年下に見えるパティと呼ばれる女性に、二人は笑いながら答えた。
「ええ、そうよ」
「貴女は、唐突に現れるわ。猫のようにね」
ふふふ‥と笑って、パティは布や釦の詰まった硝子瓶をよけて見つけたテーブルの隙間に、お皿を置く。
「お裾分けよ」
「いつもありがとう」
「それで、ハロウィンパーティって?」
マダムの作り上げた衣装たちを着てもらうためのパーティを開くのだと説明すると、彼女の目が輝いた。
「ねぇ、パーティに並ぶ軽食やお菓子たちを、私たちに任せてくれないかしら!自分たちの腕前を披露したいの。だって、家族や友人たち以外からも『美味しい』って言ってもらいたいのよ」
「ええ。もちろん!貴女たちの力作を食べられるなんて、私はパーティドレスのウエストを緩めに作り直すわ」
マダムの返事に、二人は顔を見合わせてから笑い出し、それでは‥と、美味しいお茶とスイーツを楽しみながら、ハロウィンパーティの計画を練り上げていった。
※
キメツ学園高等部二年 冨岡義勇が、幼い頃から行きつけの骨董屋に顔を出した日、そこには釦屋の女主人の姿があった。
今日は少し暗めの紫地の袷に雁が飛ぶ帯を締め、髪型は緩やかに片側に纏めている。奥のカウンターに並んだ背の高い椅子に腰掛け、隣の椅子には折り畳んだショールと小振りの風呂敷包みを置いていた。
「あら、久しぶりね。元気にしてる?」
店主と談笑していた彼女は、その笑みのまま義勇に声をかける。
「はい、お久しぶりです。変わらず元気にしています」
「それはよかった。学校は楽しい?」
「ええ、友だちもいるし、勉強はちょっと大変ですけど‥」
ひとしきり三人で話した後、女主人はそろそろ暇を‥と立ち上がる。
「そうそう、今年、私の友人たちとハロウィンパーティを開くの。貴方もおいでなさいな」
そう言うと、チラシを一枚義勇に差し出した。
「ハロウィンパーティ?」
「私の友人に裁縫好きがいてね、沢山作った衣装を着てもらう機会がほしいっていうから、パーティーを開こうってなったのよ」
「私もお声がけいただいたんだが、生憎どうしてもずらせない用件があってね。そうだ、このチラシもあげよう」
義勇は、手にした二枚のチラシに目を落とす。
会場は、骨董市が開かれる神社の隅にある洋館。義勇が生まれるだいぶ前に、かつての名主の遺族から市が買い取った洋館で、市民であれば申込をして借りることができる。
「ええっと、ドレスコードは会場で‥」
「友人の作品はどれも素敵だから、楽しみにしてて」
チラシ一枚で五名入れるから、お友だちもどうぞ‥と聞いて、すぐにいつもの面子を思い浮かべる義勇である。参加費もお小遣い程度で、時間は夕方六時から八時まで。アルコールは無し、軽食とお菓子も出る。
「軽食とお菓子も、自信作ばかりよ」
「みんな、喜びそうです」
チラシから目をあげて、義勇がにっこりと笑った。
骨董屋からの帰り道、道端で早速みんなにメッセージとチラシの画像を送ると、即「参加する!」との返事が集まった。
竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、不死川玄弥‥キメツ学園に入学してからの友だちだが、とても仲がいい。みんなとなら、どんなパーティも楽しくなるはず。
さて、もう一枚のチラシはどうしようかなあと考えながら歩き始めると、背後から声をかけられた。
「義勇くん、こんにちは」
明るい声の主は、キメツ学園高等部の卒業生で、義勇の先輩にあたる甘露寺蜜璃だった。
深い赤紫色のブーツが似合う蜜璃は、にこにこしていて、もしかして、これから伊黒先生とデートなのかな‥と義勇は思う。
「こんにちは、甘露寺さん。お出かけですか?」
「うん。これから伊黒先生と待ち合わせなの」
うれしそうにうなずく蜜璃は、義勇が所属するビオトープ同好会顧問 化学担当 伊黒先生と恋仲なのだ。
「義勇くんは?」
「俺は骨董屋さんに行ってました。この後は家に帰って、宿題です」
答えながら、ああ、そうだと思い立った義勇は、ハロウィンパーティのチラシを蜜璃に差出す。
「これは?」
「俺の知り合いのアンティーク釦を扱うお店の方が、お友だちとハロウィンパーティを開くんです。それで‥」
義勇は、釦屋の女主人から聞いた説明と、自分たちも参加するのだと一通り話した。
「よかったら、甘露寺さんもどなたかとどうぞ」
「ありがとう‥」
へぇ、衣装は主催者側で用意なのね‥と、チラシを受け取った蜜璃は、載っていたゴシック調の、それでいて品のよい華やかなドレスなどの写真に釘付けになる。
「えー、どれもかわいいわ。着てみたい!それで、ええっと、ハロウィンパーティのテーマは‥?」
二人でチラシを確かめると、そこにはこう書かれてあった。
『仮面舞踏会』
「‥‥どう思う?」
「怪しいな‥」
「でも、洋館の貸し出しに怪しいところはなかったんだろ?」
「‥これに、義勇たちは行くのかァ?」
キメツ学園高等部の職員室‥蜜璃が持ってきたチラシが置かれた机を囲むように、伊黒先生、煉獄先生、宇髄先生、不死川先生が頭を寄せ合っていた。
「怪しいことないと思いますよ。義勇くんが昔から行っている骨董屋のご主人も知っている方の主催ですし」
男性教諭四人から少し離れた場所で、蜜璃が声をかけた。
仕事が終わらず、待ち合わせに遅れそうだと伊黒先生から連絡を受けた蜜璃は、迎えに行きますと、学園の職員室に顔を出した。
そこで、さっき義勇に会ったこと、ハロウィンパーティのチラシをもらったことを話したところ、この状態となった。
「伊黒さん。よかったら、一緒に行きませんか?」
蜜璃が目をきらきらさせている。チラシに載っているドレスを着てみたいのだ。
「嫌かしら‥?」
しゅんとしてしまった蜜璃に、伊黒先生は慌てて「嫌なんてことはない!一緒に行こう!」と答える。
「うれしい!それじゃ、みなさんもご一緒に。このチラシ一枚で五名だから‥人数ぴったり」
ぱちんと手を合わせて笑う蜜璃に、伊黒先生も「ああ、それがいい。お前たちも心配するなら、行けばいいんだ」と言い出し、こうして不死川先生たちもハロウィンパーティに参加することになった。
ハロウィンパーティの当日。
「仮面舞踏会ねェ‥」
俺にはまったく縁のないことだと不死川先生は思いつつ、伊黒先生たちと待ち合わせて会場の洋館に向かう。
すっかり日の暮れた神社の杜を進むと、ほわんと明るく暖かい光に包まれた洋館が現れた。
背の高い鉄製の門から建物まで繋がる前庭には、ジャック•オー•ランタンがあちこちに飾られ、幾つもの洋燈が橙の火を灯しながら、背の高い木の枝から吊り下げられていた。
「わぁ、素敵!」
蜜璃はスマホを取り出して、カシャカシャとあちこちを撮影している。
「へぇ、なかなかセンスいいんじゃない」
と、美術担当である宇髄先生も興味深そうに見ていた。
「もう冨岡たちは着いているのだろうか?」
「たぶんな‥」
煉獄先生に聞かれ、不死川先生はうなずく。
自分たちも参加すると聞いたら、義勇たちは警戒しそうだからと、弟の玄弥にも今日の参加については黙っていた。
ポーチから開かれたステンドグラスを嵌め込んだ古い扉を通ると、受付がある。仮面舞踏会に沿った衣装と顔の上半分隠す煌びやかなマスクを付けた女性が、受付後に女性はこちらへ、男性はこちらへ‥と案内してくれた。
「甘露寺、また後で」
「ええ、伊黒さん、みなさん、会場で」
受付女性の衣装に目を輝かせた蜜璃と分かれて、男性四人も衣装部屋へと入る。
そこには、何着もの衣装やシューズ、仮面が並び、天井に取り付けられたシャンデリアの光を浴びて眩しげに反射している。
どうしたものかときょろきょろしていると、幾人かの仮装したスタッフがやってきて、天鵞絨のカーテンがついた姿見の前へと案内された。
そこへ、華やかな装いのマダムが入ってきた。そして、感激した声で「まあ、なんてイメージ通りのみなさんでしょう!」と呟くと、さっと室内を動いてジャケット、コート、パンツ、シャツ、ブーツに小物、そして、仮面を選んではスタッフに運ばせた。
「ちょっと、俺様には地味じゃねぇか?」
最初に着替えた宇髄先生が呟くと、すかさずマダムが「いいえ、貴方には抑えきれない華やかさと色気があるのだから、このくらいでいいの。この衣装が貴方の魅力を引き立たせるのよ」と解く。
「じゃあ、ここは、ちょいとね」
と、機嫌よさそうにシャツをアンシンメトリーに着こなした宇髄先生に、マダムは少しだけ苦笑して「それも素敵よ」と返した。
煉獄先生には、フロックコートとパンツの裾模様がゴールドで縁取られた衣装を。快活で珍しくも目立つ髪色とのバランスがいい。
「よくお似合いだわ‥貴方には炎が燃え立つようなそんなイメージが湧くわね。この裾模様は動いた時が更に素敵なのよ」
「ありがとう、ご婦人!これは着心地も良い」
煉獄先生の笑顔に、マダムもにっこりと笑う。
「貴方が、あのかわいいレディをエスコートするのね」
だから、彼女と調和するようなこの衣装がいいと思うのよ‥そう微笑むマダムに、伊黒先生は少しだけ頬を赤らめるとそっと頭を下げた。
マダムが手にした衣装は、長いシャツとマントの裾が緩いレースのようになっており、伊黒先生はさらりと着こなしていた。
「さて、貴方にはこちらを。そうそう、貴方が大切にしている青い目の小公子さまは、もうホールにいるわ」
マダムの言葉に、不死川先生はなにを言っているのだろうと顔を顰めたが、彼女は気にする様子はない。仕方がないので、手渡された紫色のシャツに素直に袖を通す。小公子って、むかしそんな話があったよな‥と思いながら。
「貴方は‥少しワルイオトコって感じがいいかしら」
白いパンツにブーツ、丈の長い乗馬風コートの下のシャツは腹が見えるほどに前を開ける。
「あ、これも持って」
渡された馬上鞭に、不死川先生は困惑気味だ。
「これはいらな‥」
「小物まで含めて、私の作品なのよ」
そう押し強く返されては、受け取るしかない。
それから、これも‥と右耳にイヤーカフを二つ付けられた。
「不死川、えっろいな」
宇髄先生がにやっと笑っていうから、思いっきり凶悪顔を返すが、煉獄先生も「不死川らしくていいと思うぞ」と言うので、ため息をついてしまう。
姿見で見ると、たしかに高校の数学教師には見えねェなあ‥と思うが、ここにいる全員が教師には見えないから、まあいいかと思い直す。
「さぁ、仮面をつけて」
渡されたのは、片目だけが隠れる仮面。
言われた通りつけると、薄い色硝子のレンズに覆われていても案外見やすい。
「お、仮面舞踏会らしいね」
宇髄が楽しげに言う。
マダムが、そっと指を唇に当てる。
「よろしいですか、仮面をつけている間は誰しもが対等です。そして、ここは舞踏会。どなたも紳士らしく、優雅に振る舞ってくださいね。もちろん、本当のお名前はヒミツです。かりそめの名を名乗ってくださいね」
それでは、楽しいハロウィンを‥‥
「伊黒‥じゃない‥ええっと、蛇柱、恋柱はどこだ?」
宇髄先生が伊黒先生に尋ねる。懐かしい呼び名に、ちょっと驚いた顔をした伊黒先生だが「まだホールにはいないようだ。俺は、ここで彼女を待つから、先に行くといい」と答えた。
「そうか、なら先に入るか」
「ああ、また後で」
開かれた扉から光溢れるホールに足を踏み入れると、そこには、仮面をつけたさまざまな人たちが笑ったり、話したり、テーブルに溢れんばかりになんだケーキやクッキー、マフィン、綺麗に切り分けられたサンドイッチなどを楽しんでいた。
仮面の種類も様々で、不死川先生たちと同じ形のもの、顔の上半分を隠すもの、顔全体を隠すもの‥そして、マダムのものと思われる衣装ではなく、動物や鳥の衣装を身につけていたりするものもいる。それぞれが思い思いに過ごしていた。
「アイツら、どこだ‥」
「‥そうだな‥少し散らばって探してみるか」
「それじゃ、俺と炎柱はあっちから行こう」
「わかったァ」
宇髄先生、煉獄先生と二手に分かれた不死川先生は、壁に沿うように進んでいく。手渡された馬上鞭は、腰の専用ホルダーに下げた。
「あれは‥」
スイーツを楽しみむ人たちの中に、見慣れたピアスとイノシシの仮面を見つけた。竈門炭治郎と嘴平伊之助だ。炭治郎は、側にいる白いエプロンを身につけた女性にあれこれと話しかけている。それに答えている女性がうれしそうだから、クッキーなどの作り方を炭治郎は聞いているのかもしれない。
そこに、蜜璃を連れて伊黒先生がやってきた。並んだスイーツに歓声をあげる蜜璃を、伊黒先生が優しい目で見ている。ほんとうに優しい顔をするんだな‥と、同僚であり、友人でもある伊黒先生とその横に並んで笑顔を見せる蜜璃を、僅かにうらやましいような気持ちで眺めてしまい、不死川先生はふっと息を吐いた。
さて、あとの三人は‥と、もう一度ホールを見回すと、背の高い鶏冠のような髪がゆらゆらしているのを見つけた。玄弥だ。その隣の金髪は‥我妻善逸だろう。なんの話をしているかはわからないが、周りの人たちと共に随分と楽しげに笑っている。その弟の明るい表情を見て、遠いむかしを思い出すと、今の歳相応な姿に心底安堵する。
そして、思う。自分と義勇が同い歳に生まれ変わっていたら‥あんな風に笑って過ごしていたのは‥自分だった‥‥
もし‥そうだったら‥なんて、思ってもどうしようもない‥そう、むかしから何度も味わっていたのに‥と、苦笑する。
気持ちを切り替えるんだ‥そう自分に言い聞かせて、不死川先生はホールに目をやる。
義勇は、どこにいるのだろう。
「あそこにいるわよ」
不意に声をかけられて、不死川先生は驚き、振り返る。艶やかなドレス姿の見慣れない女性がそこにいた。
「はじめまして」
釦屋の主人をしていると聞いて、拾ったまま義勇に返しそびれている釦が付いたお守りのことを思い出す。
「ああ。そうだ‥貴女は、義勇の‥」
ダメよ‥というように、黒いレースの長手袋をはめた指先が、不死川先生の唇にすっと触れて離れた。
「ここでは、本当の名前は言わない」
「そうだったな‥」
じゃあ、アイツをなんて呼べばいいんだ‥と思うが、浮かぶ名は一つだけだった。
今、その名で呼んでも、きっと義勇は振り返らない。そう思いながら、釦屋の女主人の視線の先にいる義勇を見て「な‥んで‥」と驚く。
背の高い窓際の近くの柱に寄りかかるように、微笑んでホールの様子を見ている義勇は、幼い貴公子をイメージさせるような腰にたっぷりとしたリボンをつけたかっちりとしたロングのジャケット。白い顔の青い目半分を隠す仮面‥そして‥なぜか、後ろ髪が長い‥むかし見慣れていた『水柱 冨岡義勇』を鮮烈に思い出させる姿。だけど、水柱はあんな表情を滅多に見せなかった。
「他意は無いわ。似合うと思ったから、付けたんじゃないかしら?」
「似合う‥?」
ああ、そうだろう。でも‥でも‥
不死川先生が、唇を噛み締める。
「血が出るわよ」
呆れたように言われて、不死川先生はふっと肩の力を抜いて、唇を開いた。
「貴方は、アイツとはどんな関係なんだ?」
「ちょっとした知り合いよ。あの子、かわいいし、それに‥少し気になるのよ。縁がね‥」
「気になる‥」
「そう、少しね」
その声音に心配な気配を感じ取って、不死川先生は話を促すように黙る。
「あの子は、前の世の記憶を持っているはずなの‥貴方もだけど、複数の記憶を持っているってことは、ときに重なった記憶に惑って生き辛いことがあるわ。貴方たちは、記憶を持つ者たちで集まっているから、生き辛さが軽減されている‥そういう環境なら、記憶を思い出しやすいはずなのよ」
「なら、どうして、アイツは思い出さないんだ?」
どうして、義勇は思い出してくれないんだ‥ずっと待っているのに‥思い出してくれたら、真っ直ぐに俺の腕の中に飛び込んでくるだろうに。
「貴方‥あの子が記憶を思い出すのが、最善だと思っている?」
「え?」
「前の世の記憶を思い出すのが、最善だと思っているかって、聞いたのよ」
「それは‥」
答えが直ぐに出てこない不死川先生に、彼女は綺麗な笑みを浮かべて返した。
「貴方の『大事な人』は、それを今も考えているんじゃないかしら?」
どういうことなのかと黙り込んでしまった不死川先生に、優しく微笑かけてから釦屋の女主人はそこから離れていった。
「忘れないで、仮面をつけている間は、ここでは誰しも対等よ」
「参ったな‥」
一人残された不死川先生は、前髪を掻き上げながら呟いた。
自分も時々考えていた。義勇は、思い出したくないのではないかと。思い出したくない理由が、義勇にとって大きく重たいものならば、思い出さなくてもいい。
むしろ思い出さない方がいいんじゃないか。
そうだ、今のまま、高等部を卒業してから思いを伝えればいい‥それでいいのだと思う日もある。
けれど、互いに思い合って触れ合い、数えきれないほどに交わした言葉や肌の温もり、それらがすべて忘れ去られてしまう‥それは、カナシイ‥ツライ‥と、どうしようもなく叫びたくなる日もあった。
義勇は、こんな自分の思いを知らずにいるのだろう。いつまでも思い定まらない。
わかっているのに‥
どうして‥
どうして、俺ばかり‥
「お前は、俺のこと‥‥」
呟けもせずに、胸の中で幾つもの言葉を押し殺す。
炭治郎たちが、義勇を呼んだ。
笑いながら、義勇が輪の中に入る。
そこにいるのは、高校生として、自分の教え子としての彼だ。
仮面越しでもわかる屈託の無い笑顔。
そのうち、軽快な音楽が奏でられはじめた。
聞いたことはない曲だが、誰もが踊れるらしく、ホールにいる人々は大きな輪になって、全員が隣同士で手を繋いでくるくると回る。
きらきらと光を放つ仮面やドレス、ジャケットにつけられたビジューたち。楽しげな笑い声。眩しくて胸が苦しくなる。
不死川先生は、そっとその場を離れて、バルコニーに出た。広々としたバルコニーには、誰もいない。木々に囲まれて、喧騒もなく、見上げると沢山の星が見えた。まるで硝子の球体の底に、ただひとりいるようだ。
「声はかけない方がいい」
宇髄先生が、そっと煉獄先生に告げる。少し離れた場所に蜜璃といる伊黒先生も、うなずいていた。心配そうに眉を下げる煉獄先生だが、わかったとうなずいた。蜜璃も何か言っているのだろう、伊黒先生が安心させるように彼女の腕をぽんぽんとしている。
義勇の姿を見た宇髄先生たちも驚いた。そして、不死川先生の心情を思いやる。彼がずっと探していた愛する相手。やっと出逢えたのは、歳下の教え子だった。今もかつての記憶は思い出されることもなく‥
「風柱‥不死川は大丈夫だろうか‥」
「ああ。大丈夫だろ。アイツは‥強いから」
さ、俺たちはパーティを楽しもう。その方がいい‥そう促されて、煉獄先生と連れ立って宇髄先生はホールの中に戻った。
ひとしきり踊って、義勇は踊りの輪から抜け出した。笑いながら踊っていたから、喉が渇いたのだ。
グラスの並ぶテーブルで、ジュースを選んでいると「楽しんでる?」と声をかけられ、振り返ると釦屋の女主人がグラスを二つ手に持って微笑んでいた。
「はい、とっても。みんなも楽しんでます」
誘っていただいて、ありがとう‥と笑顔で答える義勇に「それはよかったわ」と彼女は手にしたグラスの一つを手渡した。
「いただきます」
義勇は、美味しそうなジュースに口をつけた。
その様子を見ていた彼女が、秘密を共用するような笑みを浮かべて、義勇に話しかける。
「ね、あそこに一人きりでいる人がいるの。パーティを楽しめていないみたいだから、このグラスを持っていってくれない?」
「いいですよ」
誰だろう‥あ、仮面をつけているから、誰でも初対面としないとな‥そう思って、義勇は空のグラスをテーブルに置くと、渡されたエメラルドグリーン色のジュースが注がれたグラスを手に、バルコニーへと向かう。
どこにいるかな‥と見渡すと、見慣れた白に近い銀髪がふわりと風に揺れているのを見つけた。手摺に両手を置いて、夜空を見上げている。
もしかして‥と思いつつ、名前‥呼んじゃだめなんだよね‥と、ジュースを溢さないように近づいてから、声を掛けた。
「あの‥‥こんばんは‥‥」
義勇の言葉に、そのヒトは振り向いた。
仮面のせいか、衣装のせいか、それとも見えている目から投げかけられる怖いような視線のせいか、義勇は思わず目を伏せてしまう。
「‥‥‥」
なにか言ってほしいと思いながら、義勇は固まってしまった。
「あ、あの、いい月夜ですね!」
思いきって言ってから目を開けると、不死川先生は紫色の目を丸くした後に、おかしそうに笑い出した。
「なあ、どこにも月は出てないぜ」
「‥っ!え!ほんとに?」
義勇が見上げると、沢山の星は見えても月は見当たらなかった。義勇は、かああぁと頬を赤くする。
「だって、なんだか月が出てるんじゃないかって思ったから!」
そう言い訳をする義勇の頬に、笑みを消した不死川先生の手が触れた。僅かに熱を帯びた頬に触れる手が思いの外冷たくて、義勇はまた何も言えなくなってしまう。義勇の頬に触れた手は、ゆっくりと前髪から後ろ髪へと滑るように動いていく。
「なぁ、お前、なにも思わなかったか?」
静かな目で、静かな声で問われて、義勇は小さく首を傾げた。なにを問われているのだろう。
「‥‥まあ、いいや‥」
諦めたような低い声音に、義勇の胸はぎゅっと痛くなる。そして、ああ、先生は、また俺じゃない『冨岡義勇」さんのことを考えているのだろうとも気がついて、少なからず傷つく。
今、ここにいる『冨岡義勇』は俺なのに。
「‥‥‥」
うつむいては涙が出そうだと思いながらも、我慢できずにほろりと溢れ落ちた涙は、エメラルドグリーン色のジュースの中に、ひと雫溶けていく。
「‥‥悪い‥‥ごめん‥‥」
不死川先生の後悔を滲ませた言葉に、義勇はただ首を横に振る。どうしたらいいのか、どうしたいのか‥わかるようでわからない感情に、言葉が返せない。
つと髪を触っていた手が離れ、そのまま義勇が握りしめていたグラスを取り上げる。義勇が見つめる中、不死川先生は一気に飲み干すと床にグラスを置いた。
一呼吸してから、不死川先生は仮面を外し、義勇に向き合う。義勇の潤んだ目を真っ直ぐに見つめて、口を開いた。
「‥‥俺は、お前が思うほど、強くねェよ。でも、決めてるから」
どういうこと‥なにを決めているの‥とも聞き返せず、わかったとうなずくこともできない義勇に、不死川先生は優しく笑う。その笑顔がどこまでもかなしそうで、義勇はただ見つめるだけだった。
仮面を付け直した不死川先生が、そっと義勇の手を取る。
「一曲踊ってくれるか。今夜は、舞踏会だからな‥」
気がつくとホールから、ゆっくりとした三拍子の曲が流れてきた。
「俺、踊りはよく知らないのだけど‥」
おずおずと答えた義勇に、大丈夫だと笑う。
「ここに腕を‥そう。あとは俺に任せればいい」
‥‥ホールから流れる円舞曲に合わせて、星空の下のバルコニーで、二人だけで踊りました。
仮面をつけた優しいひとの力強い腕に支えられ、繋いだ手から感じるどうしようもない程の熱に、はじめての恋の甘やかさと、胸に細波のように広がる苦しみも知りはじめた幼い公子さまは、見つめてくる紫色の目をただ見つめ返しながら、この夜が、この音楽が、どこまでも長く続けばいいのにと‥そう願うのでした‥‥
ハロウィンパーティは、やがて終わりを告げた。仮面を外した義勇たちは、衣装を脱ぎ、元の姿に戻る。
マダムや釦屋の女主人、見送りをしてくれる人たちにお礼を伝えて、洋館の扉を通りぬけた。
パーティの余韻に浸りながら、門まで続く道に飾られたジャック•オー•ランタンや幾つもの洋燈を名残惜しそうに見ながら歩いていると、門のところで待っていた先生たちが声をかけてくる。
「おい!お前たち、家まで送ってやるから、さっさと来いー!」
宇髄先生の号令に、顔を見合わせた後、はーいと揃って返事をしながら、星空の下を一斉に走り出す。
そんな少年たちを見送るように、ようやく今夜の月が、洋館の後ろから顔を出しはじめた。