薔薇を喰らうヒト 薔薇が綺麗に咲き誇る季節は、纏わりつくように細く静かに雨が降る。
硝子で覆われた鉄の柱が支える高く広い温室の中は、むせ返るような薔薇の香りが満ちて、黒い布を纏った丸天蓋が雨音を遮る。
香りを放つ無数の深紅の薔薇たちが、義勇と不死川をその中に閉じ込めた‥‥
座敷の電灯を点け、お館様の屋敷から飛んできた鎹鴉が持参した書面を広げる。
曇天のため、まだ昼間なのに全体的に薄暗い。天井からの灯りだけではこの暗さは拭えず、義勇は外廊下に面した障子を開けた。
音もなく雨が降り出したらしい。ふぅと、雨の気配が入り込んできて、義勇の髪や袖をしっとりとさせる。
——— 外国人居留区域で、人が姿を消す現象が複数発生。慰留品は見つかれど、行方不明者の痕跡を示すものは見つからず。
始まりは一年ほど前。当初は通りすがりの者が姿を消したために、誰にも気がつかれなかったが、最近はこの区域に住まう者、訪ねてきた者が姿を消すようになり、徐々に表沙汰となった。
僅かな証言では、幾人かが消息を断つ前日、または、当日に、とある国から来日した鉄道技師と会っていたそうだ。
表向き警察が動いているが、恐らくは鬼の仕業。この鉄道技師と接触し、鬼の仕業であった場合は倒すことを命ずる‥ ———
義勇は表情を変えずに指示書を読んでいたが、最後の一文で目元が僅かに動いた。
——— なお、この任務は、水柱、並びに、風柱の二名であたること ———
指示書には、任務に赴く際の服装などについても事細かに記載されており、これは後で屋敷勤めの隠に伝えた。
服装の詳細で、どのような立場に扮して対象者と接触するのかは推測ができる。あとは、その立場の人物に上手くなりきれるかどうかだ。
ばさばさと羽音がして、外廊下の沓脱ぎ石のところに一羽の鎹鴉が舞い降り、濡れた翼から水滴を落とすように動かす。それから、すっと廊下に飛び上がってきた。
「爽籟、雨の中すまないな」
義勇の言葉に、風柱 不死川実弥の鎹鴉 爽籟は首を横に振る。義勇が、手近にあった手ぬぐいで丁寧に拭っていく。寛三郎も近くに寄ってきた。
「風柱カラァ。待合セノ時刻ト場所ヲ伝エル」
爽籟から伝言を聞き、義勇がうなずく。
「承知と伝えてくれ」
「ワカッタ」
「少シ雨宿リシテイケ」
寛三郎が爽籟に暫し待つように伝えるが、「実弥ガ待ッテイル」と、爽籟は雨の中に再び羽ばたき、帰っていった。
爽籟を見送ったあと、義勇は文机に向かい一筆認める。送り先は、恋柱 甘露寺蜜璃。
「寛三郎、明日の朝、雨が上がった後にこれを甘露寺に渡してくれ。返事をもらってから、帰ってくるのだぞ」
そう側にいる鎹鴉に伝える。
「承知シタ。‥‥今夜モ警邏ニ行クノカ?」
立ち上がり、着替えを始める義勇に寛三郎が尋ねる。
「ああ。どんな夜でも鬼は出るかもしれないからな」
それでは、わしも‥と年老いた鴉も立ち上がる。歳を重ねても、鬼殺隊の鎹鴉としての立場は忘れない。
「今夜も頼むぞ、寛三郎」
支度を終えた義勇が、寛三郎を抱き上げて、にこっと笑った。この笑顔を他の者にも見せられるようになればよいのにのう‥と寛三郎は願う。
さて、今回の任務で義勇たちは書生姿となる。一般家庭出身の甘露寺なら、書生としての振る舞い‥どのような書を好み、流行りのもの、カフェでの振る舞い方など‥がわかるのではないかと教えを乞いたところ、快く協力してくれるとの返事を得た。
任務のため、書面での回答となって申し訳ない‥と記載されていたが、知りたいことが詳しく書いてあり、義勇は甘露寺の協力に感謝した。
それから、屋敷勤めの隠に幾つかの事を頼んだ。
任務当日は、今にも雨が降りだしそうな曇天であった。まとわりつく様な水の気配が、間も無く雨を呼ぶ。
書生の装いをした義勇は、雨除けに外套を羽織り、編み上げ靴を履く。この編み上げ靴は、特注品だ。長い髪は、常より高い位置に結び、日輪刀は、竹刀を仕舞う袋に入れて背負おう。
「書生に見えるだろうか?」
見送りに出た隠に問うと、「はい、見えますよ」と笑顔と共に答えが返ってきた。では、あとは話し方や振る舞い方だけだな‥と甘露寺からの手紙の内容を思い出す。
それでは、行ってくる‥と屋敷を後にした。
「‥‥冨岡ァ‥」
不機嫌さを隠さない書生姿の不死川に、待ち合わせ場所へ先に到着していた義勇は、ため息をついた。不死川の白く目立つ髪は、学生帽の下だ。
「不死川‥お前は今回の指示書を読んだのか?」
「あァ?読んだから、この格好だろうが」
また義勇はため息をつく。格好だけでは駄目なのだ。潜入先の相手の懐に入るのだから。
「‥‥行くぞ」
こんなに柄の悪い書生もいまいと、義勇は今一度不死川に任務について話をすべきだと考えた。
「おい、そっちじゃねェだろう?!」
「いや、こっちで合っている。潜入前に、相互確認が必要だ」
きっぱりと返した義勇に対して、チッと舌打ちをしながらも不死川はついてくる。
言葉を交わさずに通りを進み、甘露寺おすすめのカフェへと入店する。不死川は何か言いたげだが、黙ったまま案内された席へと座る。
「‥‥説明してもらおうか、冨岡さんよ?」
メニュを見て、おさげの可愛らしい女給にミルク珈琲を二つ頼んだ義勇に対して、剣呑な様子で不死川が尋ねる。
「‥‥不死川は、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、ニーチェ‥これらの中で、聞いたことのある名前はあるか?」
「‥‥‥ねェ。なんだ、テメェの知り合いか?」
「すべて哲学者の名前だ‥‥不死川、俺たちは書生として、対象者に接触するんだ。格好だけで通ると思うのか?」
義勇の言葉に、不死川がぐっと黙り込む。
「お待たせしました」
おずおずと、おさげの幼なげな女給がミルク珈琲を運んできた。
「ありがとう」
義勇が、少しだけ微笑んで応える。
二つ置かれたミルク珈琲の真ん中に、角砂糖の入った壺が置かれる。
不死川は、学生帽を深くかぶって顔を見せない様にした。内心は、義勇に指摘を受けてかなりムッとしている。俺には、学はねェよ‥と独り言るが、指示書の真意を測ることはできたはずだ。それを怠ったのは反省すべきだが、義勇に指摘されるのは、何故か腹が立つ。
「砂糖を入れるか?」
黙りこくってしまった不死川に気を使うのか、義勇が聞いてくる。
「‥いらねェ」
「そうか」
それ以上聞ずに、義勇はカップに口をつける。
不死川もミルク珈琲を飲むが、初めて飲む味は、なんとも言えない。苦い‥これが旨いのか?砂糖を入れたらマシになるかもしれないが、涼しい顔で飲んでいる義勇の手前我慢する。
「それで、どうするんだ」
「‥‥主に俺が話をする。お前は無口なフリをしてくれ」
それは、普段の二人と逆である。
「できるのかよ‥?」
「やるしかあるまい。一応、哲学書と文学書を数冊、それから対象者の著書を読んできた」
「役に立つのか?」
「付け焼き刃だがな‥対象者に関わりがある話をされたら、よろこぶんじゃないか?」
うーん‥と不死川が唸る。そうもしれないが‥
「相手に話をさせろ。なにか水を向ければ、よく話すだろ。それに相槌打ってりゃいい」
「わかった。そうする」
それから、義勇は通りかかったおさげの女給に、この辺りに薔薇が咲き誇る美しい庭園があると聞いてきたが、知っているか?と尋ねた。
義勇に尋ねられて、少し首を傾げた後、彼女は一人の外国人の名前を挙げた。
「その方の庭が、今時期は薔薇が沢山咲いていて、この辺りでは一等綺麗だそうです。ただ‥」
口をつぐんでしまった女給に対して、義勇が「何かあるのかい?」と優しく続きを促す。不死川もそっと彼女の表情をうかがう。どこか、怯えた様な様子で、小さな声で彼女は続けた。
「その方の屋敷近くで、人がいなくなっているんです。もう何人も‥」
「人攫い‥?」
「わかりませんが、誰かが話してました。『何か恐ろしいモノの餌食になったんだ』って」
そこまで話すと、女給は他の人に呼ばれてしまい、ぺこりと頭を下げると足早に行ってしまった。
「ドンピシャ‥」
感心したように不死川が呟く。指示書にあった鉄道技師と名前が一致していた。
「この辺りじゃ、割と知れ渡っているようだな」
不死川の言葉に頷きながら、しかし、もう少し情報がほしい‥と義勇は考える。
「この辺りをちっと歩くか」
不死川も同じ考えのようで、二人で情報収集を続けることにした。
カフェをあとにし、通りにあった肉屋へ入っていく。自分たちは、鉄道工学と西洋哲学などを学んでおり、件の鉄道技師に会いに来たのだと、義勇が告げた。事前に相手と約束をしているわけではないが、行けば会ってくれそうな人物だろうか?とも聞いている。
まあ、淀みなく嘘を述べるものだと、義勇の背後で、不死川は若干呆れている。平素は言葉が滅法少ない同僚は、任務のためなら饒舌にもなれるらしい。普段もこのくらい話せばよいものを‥
人の良さそうな肉屋の店主は、義勇の話を聞いて、あれこれ教えてくれた。
‥‥以前は、同郷の助手と一緒によく店まで買いに来ていたが、いつのまにか助手の姿を見なくなった。注文も減ったが、時々御用聞きで屋敷に伺うと、人気がほとんどなくてぞっとする。
あそこの屋敷には立派な硝子の温室があるが、なぜか黒い布に一面覆われている。温室なのに、光を遮るなんて妙だろう?
それに、薔薇の咲く時期じゃなくても、あの屋敷一帯は不思議と薔薇の香りがよくするんだ。
まあ、鉄道技師本人は愛想のいい旦那なので、行けば会ってくれるだろう‥‥
義勇たちは、あれこれと話してくれた店主に礼を言い、店を後にした。
「いろいろと話してくれたな‥あれが、水を向ける‥ということなのだな」
そう義勇が、不死川に向けてむふふと笑う。不死川は、曖昧に笑みを返した。
他の店にも聞いてみるかと、幾つかの商店で話を聞いてみたが、大体が同じような話しで、中には「あの屋敷に近づくのは、やめた方がいい。人攫いが出るんだ。男も女も関係ないからね」と忠告をくれる者もいた。
義勇と不死川は、足早に、目的の屋敷へと向かう。歩いているうちに、雨がしとしと降り出した。
商店のある通りから外国人居留区域へ進むと、瀟洒な洋館が並び建つのが見えてくる。どの敷地の生垣にも色鮮やかな薔薇が植えられていた。
白色、淡い赤色、濃い桃色‥それぞれの薔薇の香りが雨に染み込むのか、濃厚な華やかさを纏った甘い香りが、辺り一面に立ち込める。
「‥‥息苦しい‥‥」
そう呟いたのは、義勇だった。不死川が義勇の横顔を見ると、眉間に皺が寄っている。
「薔薇の花弁を食べてるようだ‥」
そんな独り言に、思わず不死川が吹き出した。
義勇がツンと唇を尖らす。
薔薇の花弁を喰らうか‥‥
気に食わない男の、その尖らせた唇に薔薇の花弁の赤さを重ね合わせてしまった不死川は、己に呆れ、義勇に気付かれないようため息をついた。
やがて、鬱蒼とした森を背にして、石造りの塀に囲まれた大きな屋敷と黒い丸屋根が見えてきた。黒い丸屋根の建物が温室だろうと、頷きあう。
開いたままの門扉から、義勇は躊躇うことなく中に進んでいく。不死川は、その後ろを少し俯き加減に歩いていく。
庭は少し荒れているところもあるが、白鳥の台座の噴水は水面が美しく、白鳥の嘴から滔々と水が流れ落ちている。噴水を見つめていた不死川が、あることに気がつく。
「薔薇がないな‥」
義勇も不死川の言葉に周りを見回す。たしかに、庭の中には、薔薇が植えられていない。
「あの娘は、薔薇が沢山咲いていると言っていた‥」
「ああ。一体どこに咲いてるんだ?」
その時、ジャリジャリと靴音がした。
そちらを見ると、蝙蝠傘をさした背の高い紳士がこちらに向かって歩いてきていた。金褐色の髪と口髭、濃い茶色の目が優しく微笑んでいた。
「‥‥我が家に、何か用かな?」
思った以上に流暢な日本語で話しかけてくる。
義勇が一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。そして、自分たちは工学科で鉄道工学を学ぶものであること、貴方の著作を読み、お話を聞かせていただければと、無理を承知で訪れた‥といったことを話す。
紳士は、ふむと義勇の話を聞いてから、少しだけ耳を澄ますような仕草をした。不死川の目が素早く周囲を見るが、声を発するような者は見当たらなかった。
「そうですか‥もうこの国の事業からは引退してだいぶ経つのですが、話を聞きに来てくれたのですね」
このまま帰しては‥と呟くと、どうぞこちらへと案内をされた。
「ありがとうございます」
義勇のお礼の言葉に合わせて、不死川も静かに頭を下げた。
彼について庭を歩きながら、義勇が尋ねる。
「貴方の庭には、薔薇の花が沢山咲いているとうかがっていたのですが‥」
紳士の背が、ふと震える。
「‥‥薔薇をご覧になりたいか?」
義勇と不死川が顔を見合わせた。義勇が「はい。とても見事だとお聞きしていますので」と答えた。
「それでは、温室でお茶にしましょう」
彼は振り返って微笑むと、母屋ではなく、その手前にある丸屋根の温室に向かった。
温室は、天井だけでなく、全体が黒い布に覆われていた。建物が近くなると、先程の香りよりも、もっと濃く、そして重く絡むような甘い香りが漂ってくる。
「薔薇は、日の光が無くても育つのですか?」
不死川が、初めて言葉を発した。振り返らずに、紳士は頷く。
「ええ、特別な品種なので、日の光はかえって毒になるのです」
二段ほどの階段を登り、硝子の扉を開けて「さあ、どうぞお入りください」と促された。
開いた扉から、無数の花弁が襲ってくるような、そんな香りの風が吹きつけた。思わず顔を歪めた義勇を庇うように、不死川が先に温室へ足を踏み入れた。
高い丸天蓋を支える優美な鉄の支柱。女性が指を組んだような白色の柱や天蓋の中心から、幾つも燈がぶら下がっている。紳士が柱の釦を押すと、一斉に明かりが灯った。黒い布で覆われていなければ、この温室はまるで水晶のように輝いて見えるに違いない。
そして、薔薇。
無数の赤い薔薇が、一面に咲いている。
どの薔薇の花弁も深い赤色。
まるで、深紅の天鵞絨で作られたかのよう。
風もない温室の中で、薔薇たちは重たげに頭を揺らしていた。
「見事‥」
義勇が呟く。その言葉に、若干の裏が込められていることを不死川は感じ取る。
温室の一角はタイルが敷き詰められ、そこにテーブルと椅子が用意されていた。ここで待つようにと言いおくと、紳士は母屋へと戻っていく。
「冨岡‥」
話しかけてきた不死川に対して、義勇が静かに首を横に振る。
ここはすでに鬼の領域なのかもしれない。
ただ二人並んで、黙ったまま薔薇を見つめていた。不死川は学生帽を取り、テーブルに置いた。
やがて、ギィと母家に通ずる扉が開くと、紳士が茶器の乗ったカートを押して戻ってきた。
義勇たちも手伝って、テーブルにお茶が用意される。
「さあ、温かいうちに紅茶をどうぞ。この雨は、身体の芯を冷やすでしょう‥」
お礼を述べつつ、義勇も不死川もカップを手にした。濃い琥珀色から、ゆらゆらと立ち上がる湯気が温かい。
「貴方は、我が国に来られてから‥」
紅茶に口をつける前に、義勇が話し出した。それは、お茶よりも何よりも話が聞きたいのだという熱意のある姿勢に見え、不死川も同様の熱心さを持って紳士に向き合う。
しかし、あんなに話ができるとは、冨岡は随分と著作を読み込んできたのだろう‥と、不死川は感心する。
「君は、よく読んでくれているね‥その話の始まりは‥」
紳士も身を乗り出して、話し始めた。義勇たちは、熱心に耳を傾ける。
もし、この時間が任務で無くても、鉄道技師として歩んできた彼の物語は興味深かった。特に不死川には、今までの人生で聞くことがない話ばかりで、知らず目が輝いていく。そんな彼の様子をちらりと横目で見た義勇であったが、つと手に持っていたカップを傾むけてしまう。
「あ!」
義勇の声に、紳士は話を止め、不死川は顔を歪めた。
「申し訳ない‥」
しょぼんと謝る義勇に、紳士は優しく「火傷はしていないか」と聞いてくれた。「火傷はしていないが、袴が濡れてしまったので、シミになる前に水で流したい。洗面所をお借りできないか?」と義勇が答えると、紳士は柔らかく笑顔を浮かべた。
「もちろん、洗面所は一階の‥」
洗面所の場所を聞いた義勇は、一礼するとすぐに母屋へと向かう。
母屋の勝手口を通ると、広い厨へ出た。
義勇は、ふっと息を整えると、廊下に出て真っ直ぐ進む。教わった洗面所は、この廊下の突き当たりにあるが、そちらには行かず、途中にある階段を上って二階へと上る。
この広さの屋敷なのに人気は無く、どの部屋も深緑色の窓掛けが重く下がっており、全体に暗い。
屋敷の中に人気は無いが、何かの気配‥おそらくは鬼の気配がする。日輪刀を温室に置いてきてしまったが、鬼の所在だけは確認したい。ちらりと、不死川の怒った顔が思い浮かぶ。日輪刀を持たずに行くとは、無謀もいいところだと非難するだろう。
「君は誰?」
不意に声をかけられた。姿はまだ見えない。
暗い廊下の先、並んだ部屋の一つ。その扉から、こちらをうかがっている様子がわかる。
顔を出したのだろう、暗闇に二つ紫色に光る‥目が見える。
「貴方は、この屋敷の主人の助手の方か?」
義勇は、問いかけには答えず、逆に相手に問うた。鉄道技師であるこの屋敷の主人には、同郷から随行した助手にあたる人物がいた。だが、肉屋の店主が言うには、最近、姿を見ることがなくなったという。
「助手‥?僕はそんな者じゃない‥」
彼の返事に、義勇は素直にうなずく。この紫色の目をした人物は、助手という名目ではあるが、紳士にとって大事な相手なのだ。それは、どんな手を使っても死なせたく無い程に‥‥
任務のために取り寄せて読んだ著作の中で、目の前の人物と紳士が二人寄り添うように、にこやかに微笑んでいる写真を見た。この写真では、二人の年齢差はさほど感じられなかった。けれども、今対峙してる人物は、あからさまに若い。まるで少年だ。
「‥‥ねぇ、君はなにをしにきたの?」
紫色の目に悪意の火が灯った。
「貴方は、祖国に帰ろうとは思われないのですか?」
温室に残された不死川は、紳士に問いかける。どれだけこの国で功績をあげても、自分であれば、祖国‥故郷が恋しくなるのでは無いだろうか。しかし、紳士は静かに首を横に振る。
「私には‥私たちには、戻る祖国が無いのです」
その悲しみに満ちた声に、不死川は押し黙ってしまう。戻る故郷がないことの悲しさ。どんな理由で帰れないというのだろうか。
「君は‥日本人にしては、珍しい眼の色をしているね」
紳士の指摘に、ああ、と不死川が自身の目元に手をやる。自分の眼と髪色が周囲と異なっていることは、幼い頃からよく言われた。
「綺麗な色だ」
そして、私の好きな眼の色だ‥と、彼は祖国の言葉で呟いていたが、不死川は言葉の意味がわからず、首を傾げた。冨岡なら、彼の言葉がわかったのかもしれないと思いながら。
そうしているうちに、不意に、強い殺気と鬼の気配を感じた。不死川は立ち上がり、竹刀袋の口を開く。
どこからだ?
‥‥ 上?
温室の天井!!
驚いた顔の紳士を庇うように前に立ち、刀の柄に手をかける。
不死川の背後では、戸惑うように「どうしたのかね?」と声を上げていた。
「‥‥頭をかばえ!」
不死川が怒鳴る。
同時に、天井の硝子が砕ける音が響いた。
大きな音に顔を顰めながら、片手で頭を庇う。
硝子と共に裂けた黒い布を絨毯にして、深紅の薔薇を踏み潰すように冨岡が降り立っていた。足元には、深緑色の天鵞絨の布が何かの金具と共に落ちている。
「冨岡!何しやがった!」
「不死川、刀を!鬼だ」
コイツ、やっぱり説明が足りねェ!そう腹を立てながら、竹刀袋から出した冨岡の日輪刀を投げて渡す。
「オイ!足は無事なのかよ?!」
硝子を突き破ったのだ、不死川の懸念は尤もだが、義勇は大丈夫だと言う。
「靴底と爪先に鉄板仕込んであるからな」
僅かに得意げな義勇の返事に、「あっそう‥」と不死川は呆れたような声をあげた。
「君たちは、いったい‥」
紳士の濃い茶色の目に、困惑が浮かぶ。
「貴方は、鬼を養っていましたね」
少しだけ振り返りながら、義勇が冷たく言い放つ。
「俺たちは、鬼狩りです」
その言葉が終わる前に、ゾッとする気配を纏い、紫色の目を光らせた鬼が、温室の上、義勇があけた穴から飛び降りてきた。
何事か叫んでいる。
不死川には、何と言っているかがわからない。「オイ!なんて言ってるんだ?!」と義勇に怒鳴るが、「俺がわかるわけないだろ」と冷たく返された。
「‥‥だが、おそらくは‥‥」
ムッとした顔の不死川が、何か言いかけた義勇を見るが、その言葉は鬼の雄叫びにかき消される。
「あ!待て!近づくな!」
不死川の背後にいた主人が、両腕を広げて、何事か答えながら、鬼に近づこうとする。
鬼は、不死川と主人を見比べるような仕草を見せた後、不死川目掛けて、爪を長く尖らせて襲ってきた。
「コノヤロ!」
不死川の日輪刀が、爪を弾く。その隙に、義勇が主人を抱えるようにして、温室の端に跳ぶ。
鬼の言葉は異国の言葉のようで、不死川にはわからないが、とてつもない悪意を向けられているのはわかる。不死川が、ククク‥と小さく笑いだす。
「なんだ‥オマエ、俺が憎いのか‥そうか‥ヨォ!気が合うなァ!!俺もオマエらが憎くて仕方ねェ!!」
その首、切り落としてやらァ!!と吼えながら、不死川が飛び上がる。
「風の呼吸 壱ノ型 塵旋風 削ぎ!」
鋭く鎌鼬の爪のような刃が、鬼に襲いかかる。
鬼は、両腕を前に出して庇うが、斬撃に切られた腕は赤い血を噴き出しながら薔薇の中に落ち、首にも傷がついたのか、呻きながら後ろに飛び下がる。
「や、やめてくれ!!」
制止する義勇の腕を解こうと、紳士はもがきながら叫ぶ。彼の口が呼びかける名前は、鬼の耳に届いているのだろうか。
メキメキと音を立てて、鬼の両腕が再生する。
鬼が深く息を吸うと、無数の薔薇の花弁が舞い上がり、鬼の全身を覆ったかと思うと、皮膚に吸い込まれるようにして消えていった。
花弁を失った薔薇は、茎や葉が急速に枯れていく。枯れて朽ち落ちた地面から、白いものが見える。
「あれは、行方知れずになった人たちの亡骸ですね」
義勇の静かな声に、力無く膝をついた紳士がうなずく。
人の血肉を薔薇の花弁に変えて鬼に与えていたのだ。愛する人が、人を貪り喰う姿を見たくないと思ったか‥
「心臓に、薔薇の種子を埋めるのだ‥そうすると美しい薔薇が咲く‥」
夢を見ているような声音に、義勇の眉間の皺が深くなる。
薔薇の花弁を取り込んだ鬼の身体が二回りほど大きくなった。
「決して、ここを動いてはならない」
そう言い置いて、義勇が鬼に向かって走る。
「不死川、退がれ!」
「チッ!余計なことすんな!」
不死川の返しを無視して、義勇が刀を振るった。
「‥水の呼吸 壱ノ型 水面斬り」
青い水の尾を引いて、鬼の首へと刃が伸びるが、すんでの所で、刃を躱された。
「あの鬼、さっきから何を言ってんだ‥」
「‥なんとなくはわかるが、言ったら、不死川は怒る‥」
「あぁ?!何かしやがったな、オマエ!」
「‥‥‥気にするな」
「気にするわ!バカが!」
振り下ろされる鬼の太い腕を避ける。
「次で決める」
義勇の言葉に、「了解」と不死川が短く答えた。
それじゃ、先に行くぜ!というように刀を振り上げた不死川の動きが止まる。
「オイ!どけェ!!」
「だめだ!切らないでくれ!彼を失ったら、私は‥独りに‥!」
義勇の言葉を無視し、鬼を守ろうと飛び出してきた男は、鬼を背に両腕を広げた。その悲壮な顔に向かい、鬼の腕が無情にも振り下ろされる。
「クソガァァ!!」
不死川の振るった刃が、寸前で鬼の腕を切り飛ばす。
「水の呼吸 伍ノ型 干天の慈雨」
静かな義勇の声が、一時の静寂を生み出した。
不死川の背後から飛んだ義勇が、すぅと刀を振い鬼の首を斬り落とした。倒れゆく鬼の体に、薔薇の花弁が纏わりつく。
「‥‥‥!」
頭を切り落とされた鬼の紫色の目から、つぅっと一筋涙が溢れた。その頭を抱き留めた紳士の濃い茶色の目からも、涙が止めどなく流れる。
二人の囁き合う声は、異国の言葉で、不死川にはなにを話しているのかはわからない。だが、言葉はわからなくても、互いに許しを乞い、それに優しく応えている‥それだけは、不死川にもわかった。
ふと横に立つ義勇を見ると、唇を真一文字に結んでいた。この表情、コイツは怒っているのだろうか‥それとも、かなしんでいるのだろうか‥
鬼の体が朽ちるに合わせ、あれだけ咲き誇った深紅の薔薇は黒く枯れてゆき、やがて塵芥となる。温室の丸天蓋に空いた穴から、鬼の朽ちた体と薔薇であった塵芥が、細く降り続ける雨の空へと上っていく。
「‥俺たちは、鬼を切るのが仕事。貴方が犯した罪を裁くのは、俺たちではない」
かつての恋人であった鬼の遺した僅かな服の切れ端を握りしめて蹲る男に、義勇は冷酷とも言える声で告げた。
「‥彼を鬼にしたのは、私だ。彼は病で、私を遺して死んでいく‥それに耐えられずに、あの男の‥提案に乗った」
紳士の震える声の告白を、義勇は黙ったまま聞いている。不死川も黙ったままだった。
———その望みのために、どれだけの者がここに埋められたのか。結局、独り遺されたこの男も、鬼と化したのだろう。
天蓋の穴から、ふわりと一羽の鴉が舞い降りた。
「寛三郎。隠をここへ」
上向けた手のひらに降り立った鴉に、そう義勇が告げると、「ワカッタ。シバシ、待ットレ」と寛三郎が羽ばたいていく。
その後、隠たちが鬼の痕跡を消すために現れ、埋められた複数の亡骸を掘り起こした。ほぼすべてが骨と化していた亡骸たちを丁寧に布で包み、運び出していく。
義勇と不死川は、温室の隅に立って、犠牲となった彼らへと手を合わせる。
この屋敷の主人であった鉄道技師は、ぼんやりと隠たちの働く様を見ていたが、やがてよろよろと立ち上がると、振り返りもせず母屋へと姿を消した。
義勇も不死川もそれに気が付いていたが、互いに何も言わなかった。
隠が退いた後、書生姿のままの二人は温室をあとにした。
扉を閉じながら、義勇は温室の中に今一度目を向ける。黒々とした土の上で、砕けた硝子が涙のように幾つも瞬いていた。
少し先で義勇を待つ不死川は、また学生帽を深く被っており、その表情はわからない。
来たときと変わらず、滔々と水をこぼす白鳥の噴水の側まで戻ったとき、義勇は立ち止まり、屋敷を振り返った。
「どうかしたか?」
不死川の問いに、義勇が首を振る。
「なんでもない。さあ、帰ろう」
雨は、変わらず降り続ける。
雫の中に薔薇の香りを探しても、もうあの濃く深く絡まるような甘い香りを見つけることはできなかった。
梅雨晴れの午後。
風屋敷の縁側に、鉄道工学の書籍と数冊の哲学書、それに丁寧に折り畳まれた新聞が置かれていた。これらを持ってきたのは、水屋敷に勤める隠だ。
何の伝言なく、これだけを届けさせた義勇の言葉の無さに、不死川は呆れる。しかし、伝えたいことは、なんとなくわかるから、腹が立つ。
縁側に腰を下ろした不死川が、新聞を広げた。
そこには‥‥かつて、我が国の鉄道事業を支えた技師の館から火の手が上がり、温室含めて全焼した‥‥という小さな記事が載っていたのであった。