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    1000kobari

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    1000kobari

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    初めてライジャン書いてみました。
    本編軸。時系列としては、トロスト区攻防戦(マルコ死亡)後〜第57回壁外調査(初・女型の巨人戦)前と4年後とをライナーのモノローグで行ったり来たりという感じのお話です。
    致してる場面がありますが直接的描写はないので全年齢扱いとしています。

    #ライジャン
    laijun
    ##ライジャン

    いつかの夜、グレイプニルが解けるまで ――手だ。声をかけたのはそれが理由だった。
     あれは、いつの事だったか。記憶が朧気なのは、すでに余程の昔になっているということなのか。それともこの身を巨きく変えた弊害が今更になって表れたのか、はたまた無意識に〝分裂先に移動していた〟からか。
     いずれにせよ。ちらつく明かりを受け輪郭を際立たせたその手だけは、ひどく印象に残っていた。付随してぱちぱちと小さな破裂音が耳を訪れる。この世に音とはそれしかないと勘違いできそうなくらい、その場が静かなことを意外に思った気がする。
     ああ、火だ。火を、焚いていた。
     夜だ。そう、夜だった。いつだかの、遠い夜の出来事。
     影を揺らし空間に浮かび上がる細く長い指は、その下の骨の形を見るに女のものではない。手首の方へ視線は一度下り、肘の部分で折り返して肩へと向かう。その際に盾と交差する翼のエンブレムが過ぎった。
     新たな手がかりが、また一つ。これは、調査兵団の誰かだ。
     喉仏に上り、強健そうだが幼い線をした顎から薄らと開いた唇へ。そして通った鼻筋に沿って行き着いた双眸は、あまりにも。
     悪魔と呼ぶには、あまりに似つかわしくなさすぎて。だから――
    「ジャン」
     つい、彼の名を口にしてしまったのだ。

        ◇ ◇ ◇

    「……ライナーか」
     ひらけた空に合う、と感じたことがある。咽頭の成長を終えてなお男としては比較的高く、されど耳に決して障らない、薫風のようなよく通る声だと。
     正直、夜にまったく馴染む気がしていなくて。しかしそんな予想とは裏腹に、彼がぽつりと零した自分の名は驚くほど穏やかに闇に溶けて霧散していった。
    「手、どうかしたのか」
    「え?」
     聞いてから、少し先走ってしまったかと焦りが生まれる。冷静に見れば、別にそう不自然な行動でもなかったかもしれない。彼がこちらの姿を捉えて右手を握りしめたのは単なる反射に過ぎず、『何か』を隠そうとする意図などは一切なかった可能性だって大いにあるというのに。けれど、変に間を置いてからでは尋ねにくくなるのも確かであった。
    「なんかじっと見つめてたみたいだったが。怪我でもしたか?」
     妙だと勘繰られるところは何もないはずと気を落ち着けながらゆっくりと近付き、隣りに座すことには成功する。あまり手ばかりを注視するのも相手の警戒を招くかと思い、出来うる限り狼のそれとも称される色合いに近い彼の目を見ながらそう問うた。
    「ああ……別に。そういうんじゃねぇ、けど」
     指のひとつひとつがゆるりと解かれていく様に、静かに息を呑んだものの。顕になった場所には、確かに何もなかった。ただ、彼はこちらにはわからぬ何かをそこに見ながら――あつい、と。そう言った。
    「熱い?」
    「……そんな感じがするだけだ。なんでもねぇ。たぶん……バカになってんだ、もう」
    「…………外からは何もないようでも、中で異常が起きてることだってあるぞ。ちょっと見せてみろ」
     やたらと彼の手を気にするのには、もちろん理由がある。同期のよしみでいつもとどこか様子の違う彼を心配している、わけではなく。自分にとって『手の傷』とは、身体的被害以外の大きな意味を持つものだからだ。判断材料とするには弱くとも、疑わなければならなかった。始祖ユミルの時代から連綿と引き継がれてきた九つの巨人をこの身に宿す戦士として、彼が〝そう〟であるのかどうかを確かめる必要があったのだ。
     故郷のマーレが保有している巨人の力は六つ。残りはこの小さな島に存在しているはずだが、今この瞬間に限っての対象は任務の最優先事項となっている『始祖』ではない。『進撃』の継承者は既に判明しているため、そちらとも違う。はるばる海を越え、敵地に潜入してすぐ。無垢の巨人に食い殺された仲間が元は有していた――未だ行方知れずの『顎』である。個人的に言えば、最も所在を気にかけていた巨人の力だった。
     知性持つ巨人を宿す人間は、通常なら致死レベルの負傷であろうとものともしない脅威的な回復力を有することになる。少なくとも調査兵団に入って以降、顎の巨人は確認されていない。仮に彼――ジャン・キルシュタインが〝そう〟だったとして。基本的に単独行動を取れない兵卒の身で人知れず巨人化するのは難しいだろう。試みてはいるかもしれないが、まず成功はしていないと見るべきだ。
     ただ巨人化が不発に終わろうと、潜在能力による自然治癒は問題なく行われるはずで。彼の言う右手の熱が損傷した皮膚や筋肉の再生時に発生するものだと肯定出来るわけではないが、否定もまた出来ない。同期の一人であるエレン・イェーガーに巨人の力が継承されていた事実がある以上、二人目の可能性を考えないわけにはいかなかった。
     あくまで気遣う体は保ったまま。彼の右手首をそっと掴み、観察のために引き寄せようとすると。
    「ッ、‼」
    「!」
     思いの外乱暴に振り払われて、少し面食らってしまった。頬にぴり、と感じたのは恐らく爪が掠ったのだろう。
    「……あ。わ、りぃ」
     こちら以上に自分で自分の反応に驚いたらしく、彼にしては珍しく素直に謝罪を述べた。
     その表情に嫌悪や苦痛の色は見られない。ただ不安からか近くで再び小さく弾けた光源の影響からか、並んだアンバーが金に揺らめいていた。
     これはどうだ、と頭は決めあぐねている。明らかに過剰な返しではあったが、もう少し注意深く掘り下げてみなければ黒か白かの判断はつけ難い。
     そも彼は現実主義で言葉を飾らないがゆえに軋轢を生みやすい性分だと認識している。入団以降はそういった部分もいくらかなりを潜めたようではあったが。今の反応も特に裏などなく、ただ単に不躾に触れてくる人間を好まないというだけのような気がしないでもない。
    「こっちこそ急にすまん。痛かったか」
    「いや……だから、怪我とかじゃねぇんだって」
     断念しようとした矢先。極力影にならぬようにという有難い配慮付きで、彼自ら右の手のひらを提示してきた。そこに目立った傷などはやはりなく、巨人の派生能力による回復時においての蒸気が発生した様子もない。
     図録向きの、いかにも適例という形をした手。しかし内側は牧歌的に生きる人間のものとは大きく異なり、立体機動装置を扱ううちに出来たのであろう胼胝が多数見られる。硬く肥厚した皮膚にはあまりにも偏りがなく、負担削減の極致を語っていた。
     この男は情報処理と手先の巧緻性に長けているのだろう。確かに訓練時を振り返ってみても、装置の生命線であるガスの消費を最小限に抑えつつ慣性等を上手く利用して長距離・長時間の活動を得意としていた。良い意味では目を引かない人物という印象が強かったけれど、空中を行く彼の姿には素直に感心した覚えがある。俊敏度合いや効率の良さを優先するのなら、もっと立体機動を上手く使いこなせる者はいた。それこそ人智を超えた動きを見せる者も。彼が他と違っていたのは、言うならば赤子が歩き始める自然さだ。最初から、それが出来るものとして生まれたかのような。道具により大地を一時的に離れることを可能にした、のではなく。『飛ぶ』という行為への馴染み深さがひたすらに抜きん出ていたのだ。
     いつか彼が海を渡り、最新鋭の武器を手にしたなら。すぐさまそれを使いこなし、より無駄なく、より多くを殺し尽くす本物の悪魔になるのだろうか――と。思考によそ見を許してしまった。
    「……死体を、」
     雨の降り始めみたく彼が切り出す。つくづく今夜はらしくないと思った。相手がなのか、それとも自分がなのか。
    「みんなで焼いただろ。調査兵団に入る前の、夜に」
     炎の中に過日を見ながら、言葉はしとしとと。彼曰く、熱を持っているらしい右手を鎮めんとしてか落ちていく。
    「骨を、拾ったんだ。あの時。誰のモンか……マルコのかどうかもわかんねぇ、燃えカスを」
    「っ、」
     屋根瓦の音に伴って心臓が跳ねた。二人分の体重が衝突した時のものだ。つい今しがたまであった静寂が脳裏からの哀哭に破られる。何故、と絶望を零れ落とす眼差しが肝を割いていく。
    「まだ……ここに残ってる気がする。熱いんだ、ずっと。その時……本当に熱かったのかなんてのも、もう覚えてねぇのに」
     異常に大きく響いたように感じた嚥下にも、隣りの彼は何も示さなかった。どうやら自覚しているほど、動揺は外には表れていないらしい。これほどまでに耳に迫る断末魔の叫びが、彼には届いていないのだ。実際には今この場所に音として発生していないのだから当然ではあるのだが、あろうことかその時の自分は薄情な奴めと心中でほざいてしまっていた。何故助けないのか、仲間みたいな面をしておいて――と。
     そこで、ふと。体温が失われていく感覚がした。
    (この感情は、誰のものだ? これは……これを持つべきなのは、)
     泳いできた火の粉が、招き入れようとして結ばれかけた手をふわりとすり抜ける。わずかに追い縋る動きを見せたのを追い風にして、それは腕の可動範囲外へ舞い飛んでいってしまう。
    「今日、」
     こちらの記憶の中で咀嚼される彼を親友としていた隣りの人物は、去っていくそれに目を細めながら読み聞かせにも寝物語にも聞こえるささやかさで述べ始めた。伸ばしていた手を引き寄せて、膝を抱えて。残った熱をいくらかでも留め置きたいという意志表示に見えた。
    「起きたら昼過ぎでよ。……解散式からこっち、バタバタし通しだったからな。結構限界来てたみたいで、久しぶりにぐっすりだ。近く壁外調査だろ、しばらくは英気を養っとけって話だったし誰に怒られるでもねぇんだが……慣れってのは嫌なもんだよな。身体がもう非常事態仕様になってるっつーか……必要ねぇのに、慌てて飛び起きちまって」
    「……?」
    「そん時に。「くそ、何で起こしに来ねぇんだよマルコの奴!」って……俺、言ってて」
    「え、」
     素直にコイツは何を言っているのかという戸惑いと、何故その人物の話を自分にするのかという動揺とで、今の立ち位置が現実と悪夢のどちらなのかがわからなくなる。彼がその名を口にする度に、火が弾ける音に伴って自分の中の何かまでもがそうなる感覚がしていた。
     場合によっては彼を今ここでと冷静に思考する傍ら、お前の隣りにいるのがその親友の仇なわけだがさっさと殺さなくていいのかと純粋に疑問をぶつけたくなっている。
    「いや、バカかよって思ったよ。でも」
     一瞬、本当に尋ねてしまったのかと思った。
    「その後メシ食おうとして、席探してる時にも。「なんだよアイツ、もう食い終わっちまったのか?」って」
    「……ジャン、お前」
     彼は徐ろに両耳を覆ってそれを遮る。薫風は徐々に湿り気を帯びてきていた。
     言ってはいけない、と警鐘が鳴っている。その続きは、彼にとっても自分にとっても。絶対的に悪手でしかない、という予感がしてならなかった。
    「入団して、エレンに再会して、俺言ったんだぜ。少しくらいつっかえると思ったのに、全然、さらっと。死んだ、って、はっきり。なのに」
    「お前、まだ」
     泣いてなかったのか、と。ついには、音にしてしまった。
     瞳そのものを零れ落としそうなほどに見開いて、こちらを向いた彼は。ぼろ、と堰を切った熱に暫し呆然とした後。顔中を歪ませて笑った。
    「――は。ああ……なんだ。はは、なんだよ。俺……ほんとに、バカに、なって」
     何を思って、そうしたのか。今となってもわからない。耐え難い怒り、もしくは焦り。ふつふつとした汚泥にも似た感情に支配されて、衝動的に動いていた。悪魔の末裔がそんなものを流すはずがない、とでも思ったか。自身の行動の結果への直視を恐れたか。正体を現せ、と。どちらにしても叫んでいたのではなかろうか。
     屋根に叩きつけたのは、己より全体を優先させる男だった。力ずくで組み伏せたのは、聡明で機転の利く少年だった。放り捨てて餌食にしたのは、罵倒ではなく相互理解を望む声を上げる柔和な人物だった。
     目の前の彼とは、何もかもが違う。入隊式にして、憲兵となり内地で楽に暮らしたいと言ってのけた男。臆して逃げることを良しとする少年。頭にあるのは自分のことだけの、矮小な人物。
     親友などであるはずがない。最後まで敵意を向けなかった穏やかな彼と、同種の人間であるわけがない。それでは、駄目だ。こんな風に、今にも儚く砕け散りそうな様子でいてもらっては困るのだ。
     頭が、心が、血が。『逃してはならない』という絶対的な命令に支配されていた。
     ――縫い止めよう。留め置こう。猫の足音、岩の根っこ、魚の息吹に熊の腱、鳥の唾液に女の髭。縛り付けよう、レージングより、ドローミよりも。強く、硬く、柔く、緊く。滅びの獣よ、我が運命よ。永く、幾久しく、お前を此処へ――
     こちらの名を紡ぎかけたそこへ、目元から滑り落としてきた指を掛けた時。かろうじてまだ残っていたらしき故郷の記憶が詠ってきた。
     自分たちの始祖よりも遥かに旧い、神々が生きたとされる世を綴った御伽噺。母の声を通してノルンは告げる、『騙りし代償に、戦神の盾持つ腕は食い千切られよう』と。恐怖と破滅の具現。獣の形をした不可避の因果律。終わりを告げる怪物の到来を。
    「ジャン」
     濡れた瞳が翳る。抵抗はなかった。なかった、と認識している。あくまで、こちらは。
     不思議だった。彼には想い人がいたはずで、いくら傷心していたといえど拒みたくなる痛みも不快さも屈辱もあったであろうに。
     火を落として、夜の腹。人である証などかなぐり捨て、原始に返った。『貪り食らうもの』の意に沿うように、どちらの息とも汗とも影ともつかぬまで。時折、切れ切れに上がる意味のない高い音だけがお互いの境界を表していた。青空にくれてやるには不似合いな色のそれを、耳に収めては唇で塗り潰して。
     最中、右手に触れる度。彼は振り払い、決して拳を開かなかった。他の何を許しても、その内にあるものだけは譲らなかった。
     また、わからないことが増えてしまった。わかるまでは終われないと思ってここまでやってきた。それでも、なんとはなしに。今から見てはいつかの夜、自分がこうした理由については。彼が頑なに守るそれにこそ、そこにこそある、と。そう、強く感じた。
     巨きな人にでも、大きな世界にでもなく。ただ一人のために生まれ、ただ一人に向けられて奔る怨嗟と慟哭。彼こそは己が業の形、己が悪魔の顕現。その感情を、眼差しを、他の誰にも遣ってほしくはなくて。だから幾重もの偽りを以て留め置こうとした。自分がもういいと断じられる瞬間まで、世界の終わりまで、その心がどこにも行けなければいい。
     この、いつかの夜の出来事さえ。彼の獣を巨きく肥えさせる糧になればいい。目鼻から噴き出す炎に焚べる薪炭となればいい。
     祈りと呼ぶには、酷くさもしいもの。ずっと、ひたむきに。射抜いていてほしい、焦がしていてほしい。地獄の底にいるこの身へと、あるいは本当の其処へいつか堕ちるこの身へと、振り下ろしてくれるのを待っている。その混じり気のない裁きを。自分のためだけの鉄槌を。

        ◇ ◇ ◇

    「それって、」
     戦勝祝いの喧騒から少し外れ、普段より幾分かだけ豪盛な料理を突っついていると。隣りからあどけない目が意外そうにこちらを見上げていた。
    「ん?」
    「あ、いえ、何でも……!」
     恐らく言葉に出すつもりはなかったのだろう。慌ててそれを戻すように具の少ないスープを喉に流しこもうとしたかと思うと、気管に入ったのか少年は激しく噎せだす。
    「大丈夫か、ファルコ」
     小さい背中を気持ちばかりに叩いてやっていると、咳の合間を縫って苦しげに肯定と謝罪の意を示した。〝異物〟のわいていない、それも熱いスープなど貴重だったであろうに悪いことをしたと、呼吸が落ち着いてきた頃を見計らって手を摩る動きに変える。自分の口を拭うのも後回しに片付けを行おうとした少年を、どうせそう経たないうちに彼の兄含む同胞たちの吐瀉物だらけになるだろうことを見据えて止めた。酒のせいもあるが、新聞には決して載らない彼らの前線での頑張りを思えばもっと身体の拒まぬ食を与えても良かろうに、と眉を顰める。
    「それで?」
    「はい?」
    「さっきの続きだ、何か気付いたことがあったんだろう?」
    「えっ……ああ、その。いいんです、それは。自分の早とちりというか、勘違いだと思うので……」
    「勘違いかどうかは、聞いてみて俺が決める。発言には責任を持て。半端な真似はやめろ」
    「す、すみません!」
     なおも床を気にして身を屈めようとするので、短い金髪に軽く手を置いて窘めた。かと思えば威圧的に発言する自分の行動のちぐはぐさに、一度顔を合わせたきりの父と作戦開始直後に喪った仲間の姿とが浮かんで自嘲してしまう。一番半端なのはどこのどいつだ、一体どの口で言うのか、と。
    「あ、あの。先程の話……ブラウン副長が接触したのは、現地の。それも、敵の主戦力に属している悪魔……なんですよね」
    「……ああ」
     この身に宿る『鎧』を引き継ぐのは従妹だとほぼ確定している。しかし彼女を救うため、まだ自分の胸の高さの背丈もないこの少年は代わりに継承者になると覚悟を表した。いずれ対峙することになる敵について少しでも知っておきたいという彼の頼みに口を噤んでいられず、何を思ったかあの夜のことを漏らしてしまった。無論詳細に伝えるわけにもいかないので、あくまで『敵方の兵士への最接近時、得も言われぬ思考の混乱に見舞われた』という、かなり漠然とした言い回しではあったが。少年の年齢を鑑みなくても、悪魔と形容されている存在とまぐわったなどと知られれば卒倒ものだ。
    「自分は、未熟者です。戦闘だけじゃない、あらゆる経験がまだまだ足りていません。なので、その。現状で知ってることにしか、例えられないんですけど……とても失礼に当たる、かもしれなくて。ぶ、侮辱する意図は決してないというのを大前提で聞いて頂ければ……っ」
    「構わん。特にそれでお前やコルトを罰したりすることはない。……言ってみてくれ」
     すっかり萎縮してしまっている姿に申し訳なさを覚える。ただでさえ彼の親は母国を裏切ったとして楽園送りにされているのだ。少しでも反逆の疑いを持たれれば、必死の思いで信頼回復に努めてきた兄をも巻き込むことになると常に案じている。同世代である従妹に比べて戦士としての能力こそ劣ってはいても、その聡さには目を見張るものがあった。それが身についた事情を思えば、喜ばしいとはとても感じられないけれど。
    「その……思ったんです。副長が、そのひ……悪魔に対して抱いたのが、まるで――」
     たぶん、それを聞いた自分は唖然としていた。
     子供の方が、ずっと物事をわかっていると思わされる瞬間がある。歳を重ねるほど、簡単なことさえ見えなくなるのは何故なのだろう。もう余命幾許もないこの状態から、せめて自分の心くらいはわかるようになるのだろうか。

        ◇ ◇ ◇

     横殴りの太陽にも似た鋭い目つきも、瞼を落としていれば穏やかなもので。静謐で規則的な息遣いを聴いていると、彼のそれが破られない限り世界もまた目覚めることはないのではないかという錯覚に陥る。
     今ならば、全ての目を盗めるような気がして。まずは彼の鼻背を柔く食み、そのまま投げ出された右手をそっと掴んだ。恐る恐る指を滑らせると、ゆるく握られたそこを暴かんとする。
    「……る……さ、い」
    「……!」
     重なり合う寸前。単なる放出作業ではない音がそこから漏れる。硬い膝の上、告解にも似た響きを散らしながら。彼はすらりと長い四肢をどんどん縮こまらせていく。
    「ぉ……ね、……から、ッ……ずか……に、……て、くれ……っ」
     逃れるように手を引くと、一度きりしゃくり上げて。ほろり、と一つ、二つ。三つ目は目頭と鼻根の間に留まるに至る。潮騒を思い起こさせる些細な木々の揺らぎもないこの空間で、一体何が聴こえているのか。耳を塞ぎ世界を拒む彼の、ゴシキヒワの上背を溶かし込んだような髪に指を差し入れると、ゆるりと梳く動きに合わせて残された雫を迎えに行く。唇を潤したそれは、見た目と同じく透き通った味がした。
    「……、……」
     やがて眉間の強ばりが解け、寝息が一定の調子を取り戻したらしき頃合に。名を落とそうとした口を、そのまま閉じる。まだ彼も、他の誰も目覚めなくていい。何事かに怯えるこの姿を暫しの間、自分だけが知っていたかった。
    (まだ早い。また……陽が昇る)
     滑るような指通りに心地良さを感じつつも、少しくらい引っ掛からないものか、痛みを覚えてはくれないものかとも考えてしまう。この淡い色合いが苦難を取り除くと伝えられる件の鳥を想起させたために、自分は彼に手を伸ばしたのだろうか。肌寒かろうと掛けてやっていた深緑のマントの刺繍が、何とも皮肉に思えてくる。やっていることは、地に引きずり落として片翼をもぎ取ったに近いというのに。
    (救いの、色)
     補給を絶たれた自分たちを先導して飛んだ彼を追いながら、靡くその髪を見て。街並みから覗く空に合うのは声だけではないと気付いた。その時の彼の背に、まだ翼の紋章はなかったけれど。その姿を見失わなければ開けた場所に行ける、と。後になって、何故かそう思えたのだ。
     奇しくも。彼から親友を奪ったのは――同じ日だった。
    「ぃ、…な」
     それは目を保護する役割を果たす、ただの体液でしかないはずだ。何ら珍しい代物でもない、この狂いに満ちた世界では特に。だというのに、彼が落としたものにあの鳥の美しい鳴き声を見てしまうのは。自分がそこに求めているもののせい、なのか。
     眠りの挨拶は、唇で形取るだけにして。撫ぜる手に合わせ、足枷の素材を胸で唱える。来たる夜までずっと、子守唄の代わりにでもするように。

        ◇ ◇ ◇
     
     四年の月日は、永いと呼ぶには烏滸がましいだろうか。ゆらりと立ち上がった彼よりも、それを眺める自分の方が眠りから覚めたかの気分だった。地を舐る太陽が浮かび上がらせた幽鬼もかくやというその影は、明らかに記憶にあるより大きくなっている。かつては目の位置に彼の頭頂部を見ていたものだが、もしや背丈などは越されているのではなかろうか。元からそうだった手足は更に長く、身幅は雄々しくもしなやかに。幼さの消えた直線的な輪郭には濃さこそなけれど髭が生え揃い、髪もまた随分と伸びた様子で頬に張り付いた毛先が含んでいるのは水気だけではないように感じた。
     煩わしげに首を右へ、左へ。雑に雫を飛ばす仕草は実に獣じみていて。それでもしとどに濡れたままの顔が泣いている風にでも見えていなければ、過去の彼の姿と重なることはなかったかもしれない。
    「ジャン……?」
     知ってか知らでか。いや、きっと呼びかけには関わりなく。頭を擡げた彼はこちらに気付くなり、わずかな瞠目と共に静止して。哀愁に近い何かで其処をとろりと閃かせた。
     いつ、どうやって知ったか定かではないが。同じ名を持つ知り合いが故郷にはいなかったことも関係しているかもしれない。久しぶりに発声したその音について、密かに思いを馳せていた。
     由来は『恵み深い』とされている。みだりに呼んではならぬもの、とも。その存在を彷彿とさせる力をこの身に有しておきながら、祈ることも縋ることも遙けき日に置き去りにしてきた自分としては。呼ばれぬ名に果たしてどんな意味があろうものかと、ただただひんやりした。どこか遠い国から、時代から、継がれてはまた枝葉が如く伸びていくのに。穢してしまうからという理由で口にされないことが、敬虔な誰かにとっては正しいのだとしても。自分なら、存在を確立するその証を音にして傍らに置きたいと願っていた。
     川面が、燃やされながら輝いている。何かの最後というのは予想に反してひどく美しく、安堵する代物なのかもしれない。
     ざぱりと飛沫を上げ、大きな影はこちらへと。頭の奥で、巫女が再び予言する。そしてそれはこの日に他ならない、という自分の強い予感へと繋がっていく。
     成長を遂げた獣が、黄昏色の眼をした狼が、永い時を経て夜を連れてきた。枷から放たれ、標的を睨み据え。怒りを吼えながら、牙を剥くだろう。
     ああ、ようやく。恐れが全くないかといえば、そうではないが。迎えられた事に対する、歓喜。その方がずっと勝っていた。
     待ち侘びていた。その名を血と裏切りを以て穢したあの日から。彼を――彼がもたらすこの、終末の夜を。
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    1000kobari

    DONE初めてライジャン書いてみました。
    本編軸。時系列としては、トロスト区攻防戦(マルコ死亡)後〜第57回壁外調査(初・女型の巨人戦)前と4年後とをライナーのモノローグで行ったり来たりという感じのお話です。
    致してる場面がありますが直接的描写はないので全年齢扱いとしています。
    いつかの夜、グレイプニルが解けるまで ――手だ。声をかけたのはそれが理由だった。
     あれは、いつの事だったか。記憶が朧気なのは、すでに余程の昔になっているということなのか。それともこの身を巨きく変えた弊害が今更になって表れたのか、はたまた無意識に〝分裂先に移動していた〟からか。
     いずれにせよ。ちらつく明かりを受け輪郭を際立たせたその手だけは、ひどく印象に残っていた。付随してぱちぱちと小さな破裂音が耳を訪れる。この世に音とはそれしかないと勘違いできそうなくらい、その場が静かなことを意外に思った気がする。
     ああ、火だ。火を、焚いていた。
     夜だ。そう、夜だった。いつだかの、遠い夜の出来事。
     影を揺らし空間に浮かび上がる細く長い指は、その下の骨の形を見るに女のものではない。手首の方へ視線は一度下り、肘の部分で折り返して肩へと向かう。その際に盾と交差する翼のエンブレムが過ぎった。
    10014

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    aYa62AOT

    DONE美味しいチョコありがとうございました。
    ハピエン厨ですびばぜん!!!
    ライナーへチョコを渡せなかったジャンの話 ジャンはもう30分右へ左へウロウロとショッピングモールのチョコ売り場の前を行ったり来たり繰り返している、ここ数日売り場の前を行ったり来たりしては帰るばかりだったものの流石に今日は買わなければと意を決したようにジャンは漸く、売り場の中へと足を踏み入れる。
     友チョコ、なんてものがあるとは言えやはり居心地は悪い、しかし手近にあるチョコを買って帰る事はせずにしっかりチョコを吟味する辺りにジャンの生真面目さやプレゼントする相手への気持ちの強さが窺えた。
    「——よし、これだ」
     売り場に入ってから少しばかり急ぎ足で一周ぐるりと回って決めたビターテイストのトリュフチョコの詰め合わせを手に取る、黒に金字で文字の書かれたシンプルでシックな包装紙はきっと幾つも可愛らしいチョコを貰うであろう相手の目を引くはずだ。なんて打算的なことも思いながらジャンはレジへと向かう。支払いの間はやっぱり気恥しさから俯きマフラーへ口元を埋めながらボソボソと返事をして足早に店を出る、駆け足に売り場から何十メートルか離れたところで漸くジャンはホッと息を吐き出す。
    3026

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