虹色の箱庭⑤ あの日から、一ヶ月経った。
ライナーはただ鳴らないスマートフォンの画面を毎日眺める、あの日からジャンの家への定期配送も止まり配達することすら無くなった。間違えました、なんて言って部屋を訪ねようかインターフォンを押してしまおうか。そう何度も思っては止め、思っては止めてを繰り返した。
画面を横へとスライドさせるとあの日カメラを構えたジャンの写真が映る、やっぱりあの日共に朝を迎えていたなら。あの日からライナーは後悔ばかりだ、そして自分の不甲斐なさに落ち込むばかりだった。
やっぱり待ってばかりの自分は性に合わない、とライナーは休日のとある日ジャンのマンションへとやって来る、あの日暗闇から見上げた淡い光は当然昼間のベランダには無くて休日だからかどの部屋も陽気な笑い声が漏れ、それに合わせて踊る様に色とりどりの洗濯物が風に揺れていた。
そんな中、ジャンの部屋だけがぽつんと静けさを残してそして、カーテンのないガラス窓が暗い部屋にぼんやりと光を差す。あの部屋がもう空室なのでは無いか、と気付くまでに少し時間がかかった。
なぜあの日ジャンが自分から連絡すると言ったのか、なぜあの日朝を共に過ごすことを拒んだのか…ライナーは漸くその意味に気付き、立ち尽くす。
「一緒に行こうって、言っただろ…」
あの日と同じ幸せの声に包まれてライナーの悲痛な声が消える、そしてまたあの日と同じ様に静かに歩き出すと一歩踏み締める度に初めて会ったジャンの顔が思い出される、ただの優しい客の一人の顔から友達の顔に変わってそして、愛しい人へと変わる。
夫と関係を修復したのか、一人どこかへ姿を消してしまったのかそれすらもライナーには見当がつかない。
そのくらい自分はジャンのことを何も知らない。一夜の過ちで片付けられたっておかしくないくらいに何も、知らない。
「…馬鹿みてえだ、」
重たい足取りで自宅に戻ると壁に掛けた、あの日ジャンがくれた海辺の写真をぼやりと眺めてそして手を伸ばすと壁から写真を外す。そしてそのままゴミ箱へ伸びた手がカタン、と音を立てて写真を落とした。
それきり、ライナーはジャンのマンション、だった場所を訪れることは無かった。
*****
海沿いの安アパートの錆びた階段をカン、カンと音を立ててサンダル履きの足が降りていく。車の往来の隙間を縫って道路一つを渡ると目の前には見渡す限りの海と少し遠くに灯台がぽつんと見える。
古びたアパートの唯一の利点はこの景色に徒歩1分で行けるところだ。
「……よし、」
この街に住んでもう一年、また夏がやってきて去年より少し髪の伸びたジャンは都会生活でいつも身綺麗にしていた頃とは違いラフな格好で傍から見ればすっかり、この街の住人だ。
いつも通りにカメラを構えてそして、ファインダーを覗く。レンズ越しの世界は色褪せてどこかセピアがかって見える、あの日あの時、一番美しい写真を撮った代償だとすらジャンには思えてただシャッターを切り続けてきた。
あの日以来また、ジャンのファインダーの中は色を失ってしまった。
ライナーを見送って夫に電話をかけ別れを切り出したあの時、何度も謝罪を繰り返す夫に「俺も好きな人がいる、だからもうおしまいにしよう」それだけ言って離婚届を夫の赴任先へと送った。それからはもう早くてなんの迷いもなくずっと勤めた会社を辞めて自宅を引き払い、思い出になりそうな家具は全て捨てようと決めたら最低限の衣類とこのカメラだけがジャンの手元には残った。
ライナーの電話番号は夫との電話を切ってすぐに消去していた、巻き込みたくない。ジャンにあるのはそれだけで、一緒に行こう。その一言だけでジャンはこの先ずっと、生きていける気がした。
心機一転どこかへ行こう、そう思ってジャンが辿り着いたのが自分が一番気に入りの景色のあるこの街だ。小さな会社に再就職して今は休日に海岸で気の済むまで写真を撮るだけの毎日だ。
母にもう、荷物はいらないから。と引っ越した日に告げた時「そう。欲しいものがあれば電話しなね。」といつもの優しい口振りで母は笑った、母を悲しませただろう事だけが、ジャンには唯一の後悔だ。
ライナーの事を、思わない日は無かった。
ただそれは後悔なんかじゃなくて、募る恋心。そんな子供じみたようなでもいつまでも秘めていたい感覚でジャンは時々ライナーを思い出してこの海で一人、涙を流した。
もう二度と、会うことは出来ないけれど、あのたった一度きりの甘い時間がジャンの心をいつも軽くしてそして、救ってくれる。
今朝もライナーの夢を見た、自分の手を握り明るい方へ明るい方へ走っていくライナーの夢だ。
目覚めた時にはいつも頬が濡れていて、ジャンは暫く動けなくなる。それでもライナーを傷つけてしまった罰だと、ジャンはそれをいつも受け入れてただ人形の様にベッドに横たわり一人の孤独と重たい罪悪感を背負い続けた。
「……なんだかなぁ、」
やっぱり今日も思った様な写真は撮れなくて肩を竦めてはみるもそれもいつもの事で、酒の肴に漁港に魚でも見に行くか。とカメラをまた首へと掛けてサンダルと足の裏の隙間に入った砂を落とそうと身を屈めた後ろからフッ、と大きな影が掛かる。
「——お届け物です」
「——え、…?」
振り向き見上げたジャンは思わずその眩しさにキュと眉間に皺を寄せて目を細める、陽の光を反射して金色の髪が輝き潮風で小さく揺れた。
「お届け物、って」
「……俺」
「……受け取り拒否「はお断りしてます」
立ち上がり目線が重なり合った二人が一年ぶりに対峙する、そしてライナーが砂浜へと跪いてそして小さな小箱を取り出すとベタだけれどジャンは驚きとときめきで激しく胸が跳ねて鼓動が速まる、小箱には眩しい陽に照らされて七色に輝く小さなオパールがあしらわれたリングが姿を見せた。指輪と緊張して顔の強ばるライナーを交互に見やってジャンはカメラのネックホルダーを無意識に掴む、そうでもしなければ今にも涙が溢れそうで堪らなかった。
「気の利いた事も、カッコつけたことも言えないけど…お前が好きだ。もうどこにも行くな」
「……なん、で…俺の事なんか、忘れろよ1回ヤッた相手のことなんか、…」
「その一回が俺を変えた」
「お前、馬鹿だ…ッ、こっちから、捨ててやったのに、馬鹿だ…」
「……ああ、ばかだ…大馬鹿だ。…置き土産の場所探すのに1年、掛かっちまった」
そう言ってライナーがジャケットに忍ばせていた写真を一枚取り出す。あの日貰った写真、一度はゴミ箱に放り投げたそれだ。
あの日と変わらず綺麗なまま、ライナーの手元にそれは残されていた。
「ジャン、愛してる。…俺が言いたいのはずっと、それだけだ」
「ライナー…」
「また、写真撮ってくれよ」
ライナーが写真をしまい、手を伸ばす。ライナーの右手とジャンの左手が重なり薬指にゆっくり、ゆっくりと指輪が嵌ると悔しいことにサイズはピッタリでジャンの指にもうずっと居たような顔で小さな宝石が七色にキラキラと色を変えて輝いた。
「何言われても、今日はぜってー帰んねえからな。もう逃がすかよ」
「誰が、っ…逃げるかよ…」
愛してる、そう震える声で呟いたジャンの体がグイと引かれてライナーの腕へと収まり背中に回したジャンの手も離れまいとジャケットの布地を掴んでしがみつく。左手の薬指に飾られた指輪はまるでジャンの心を表すように次々と忙しなく色を変える。笑ったり、泣いたり…そんなジャンと同じ様に次々と。
生活感もほとんどない安アパートの日焼けした薄黄色の壁には一枚の写真が飾られている。あの日のライナーの笑顔の写真だけがただ一枚、飾られていた。
そしてきっと、これからこの壁を幾つもの二人の思い出の欠片が一枚一枚と埋めつくして満たしていく。