ストレルカ、星になれない君へ/APH仏英もともと帰れないとわかった旅であったという。
地上から大気圏を突き抜けて、真空の宇宙へ到達するためのそれは、二度目の大気圏突入ができるようには作られていなかった。しかしながら、宇宙への片道切符しか持たぬそれには、地球軌道を周回した最初の動物が乗っていたというのである。
スプートニク2号という宇宙への片道切符に乗り込んだのは、ライカ、というメスの犬だった。
ライカは死んでしまった。真っ暗な、どこにも何もない孤独な場所で。そこで彼女が生きた時間はわずか数時間であった。
ライカは縋る手すら持たなかった。
インスタントのコーヒーを注いで、いつもならばまるで泥のようだと嘲り笑ってやるのに、なぜだか今日だけはそれはままるで宇宙のような黒さだなと思った。ありふれたセンチメンタリズムは普段の感性すら容易に変える。コーヒーをひとくちすすって、間近に迫った黒さに瞠目する。こんなにも黒いのだろうか。宇宙というのは。
「またブラック?」
お兄さんはカフェオレのがすき、と言う男に、好きで飲んでんじゃねぇよばーか、と返してやる。俺の手にも、やつの手にも数枚の書類。規則正しく並んだ文字には何の感傷も抱けない。現実はそこにあった。
世界会議の休憩時間。前にも後ろにも進まない会議は何もかもを消耗させる。こんなときは紅茶を飲みたいのだけれど、インスタントの安っぽい紅茶を飲むくらいならすきでもないコーヒーを飲んだほうが数倍ましだと思う。
ベルカとストレルカは、地球軌道を周回して無事帰還した初めての生物だ。スプートニク5号はもう片道切符の船ではなかった。
ライカは孤独だった。ひとりぼっちの片道切符。
スプートニク2号のなかで、ストレスと高温によって死んでしまった彼女。彼女にもしも、ストレルカがいたのなら、あるいは。そんなことを思わずにはいられないのは、たぶん、俺がベルカには到底なれないからだ。
生まれたその瞬間を俺はよく覚えていない。しかし、自分が人間ではないと気づいたその日のことはよく覚えている。いつまで経っても大きくならない俺を不審がって、そしてずっとずっと時が経ったある日、自分すらも成長していないことに気づいた人間は頭がおかしくなって俺を切りつけた。俺は死ななかった。小さな人間の子どもの身体なら、それは致命傷となりえた傷だった。人間の、子どもならば。俺は死ななかった。
まるで永遠のようなときを生きることを生まれたその瞬間に定められていた。広大な時間はきっと宇宙にもたとえられる。
ライカはひとりだった。ベルカにはストレルカがいた。
俺はひとりだった。俺はベルカにはなれない。
「もしもライカにストレルカがいたのなら、ライカは生きていたと思うか」
フランシスは書類に落としていた顔を上げた。
「アーサー、それは無理な話だ。だって、スプートニク2号には大気圏再突入は不可能だったんだから。それ以前に俺たちのエゴはライカを殺したよ。仮にスプートニク2号が大気圏再突入ができたとしても、ライカにはストレルカはいない」
そうやって世界はできてるんだ、と、ifのすべてをフランシスは否定した。
「俺はベルカにはなれない。そうだな、俺にはお前が言うように、ストレルカがいないから」
「それは……」
フランシスは何かを思案するような顔をした。ううん、と唸って、自分でいれたカフェオレを飲み干す。やつのもインスタントだ。まずい、そうこぼした。そして、「それはやっぱり、ちがうんじゃない」と言った。
「だってお前は生きてる。お前がもしライカだったのなら、お前はどう足掻いても10日後に安楽死しているし、それを避けても大気圏で宇宙の塵になってるはずなんだよ。だからねアーサー、お前はもうベルカだよ」
そう言ったフランシスに、俺はやつと同じように「それはちがう」と言った。
「俺にはストレルカがいない」
「ううん、いる」
フランシスは俺の手元のコーヒーを奪い取った。追い縋った手をやつは否定しないけれど、受け容れることもなかった。宇宙みたいな色したコーヒー。さっきのカフェオレみたいに、飲み干す。ああ、俺の宇宙。これからの永い永い俺の時間。宇宙。
縋った手は受け容れないくせに、やつは俺の これから を飲み干した。
俺の宇宙がやつに飲み干されて、やっぱりまずいね、と言って笑った。
「いるよ。俺とか」