三月◇春の風 甘味溶かして 愛と化す◆
「――美味しいです。チョコと抹茶の甘さやほろ苦さが混ざりあった味はもちろん、口溶けも良くて……なんでしょう、優しい感じがしますね」
2月に僕たちがプロモーションを務めたスケートボード大会のPVは公開され、テーマソングも含めて好評を得ている。公開から暫く経って少し落ち着いた今日は、僕の方から九郎先生の住むお屋敷へ遊びに行く約束となっていた。
鎌倉にあるお屋敷はとても大きくて、来るのは今日が初めてではないけれど、門の前に立っただけでも緊張で体が少し強ばる。魔王の城まで辿り着いた勇者一行もきっとこうなるのかもしれない。ここに住んでいるのは魔王じゃなくて、真面目で強く美しい心を持った僕の恋人ですけどー。
呼び鈴を鳴らすより先に『着いたよー』と彼にLINKを送れば、すぐに「お待ちしておりました!」と満面の笑みで門前まで迎えに来てくれた九郎先生は、まるでご主人の帰りを待っていた犬みたいだなと思ったのは内緒だ。
「『とても大事な話をするので、部屋にはあまり近づかないでいただけると助かります』と伝えてありますので、誰かが突然部屋に入って来る可能性は低いかと思います」
「あ、ありがとうー」
九郎先生に案内されて向かったのは彼の部屋。部屋の中は物も散らかってなく綺麗に纏まっていて九郎先生らしいといった感じ。ある筈の布団はちゃんと畳んで押入れの中に仕舞ってあるのかな。机には本やノートPCの他にも僕がクリスマスプレゼントとして贈ったアロマキャンドルも置いてある。贈ったあの日よりも蝋は溶けていて、ちゃんと使ってくれているんだなとわかってとてもうれしくなった。
九郎先生が淹れてくれたお茶を飲みながら、「良かったらこれ、一緒にどうぞー」と僕が持ってきた抹茶チョコが入った包みを渡すと九郎先生は宝物を見つけたかのように目をキラリと輝かせながら僕にお礼を告げて、チョコをひと粒口に入れ美味しそうに味わって食べてくれている。
今日は僕と九郎先生の間に遅れてやってきた、《大切な人に感謝を伝える日》でもあるのだ。
――3月某日 清澄邸・九郎の私室
「改めて、美味しい抹茶チョコレートをありがとうございました。先月にはファンの皆様からお菓子に限らず様々な物をいただきましたが、北村さんからも感謝の気持ちをいただくことができてとてもうれしいです」
「バレンタインはもう過ぎてるどころかそろそろホワイトデーって時期だけど、2月も過ぎてるから『先月のPV撮影お疲れ様ー』っていう意味も込められた……と思えばこれはこれで良かったのかもねー」
「ふふ、甘くて優しくて――幸せになれる素敵なご褒美でもあるというわけですね」
優しい月色の瞳でいとおしげに包みを見つめながらそう告げたあなたの言葉こそ、かなりの甘さが宿っていることに本人は気付いてるのかなー?
九郎先生のことだからその言葉に込められた想いは嘘偽りのない本物だとわかるけど……わかるからこそ自分の胸の鼓動が強くなり、顔の熱が高まっていくのもわかる。
付き合い始めて半年は経つけど九郎先生からのストレートな愛の言葉にはまだ敵わないようだ。
……ちょっと悔しいなー。
「バレンタインデーは私も忙しくて用意できませんでしたし……次のホワイトデーには必ず今回のお返しを用意しますね」
「一応言っておくけどホワイトデーの3倍返しは全く気にしないでいいからねー?」
「3倍返し……そういったものがあるのですね」
「あるんだけどかなり大変そうだからー。リクエストがあるとすれば『九郎先生にとって無理のない範囲でお願いします』かなー」
「なるほど……肝に銘じておきます」
先にこう言っておかないと、九郎先生は3倍どころか5倍や10倍にしてきそうなところがあるとクリスマスにサンタクロースからプレゼントを貰った僕は思っているので。12月の始まりからひとつずつ窓を開けていったアドベントカレンダーの箱は今も僕の家に置いてあって、スノードームも棚……じゃなくて、僕の部屋の机に飾ってある。
早速、お返しはどうしようか考え始めているのか九郎先生の表情が考え事をしているときのものに変わる。変わって……チョコをもうひとつまみして……うん、美味しい。と再び微笑んだ九郎先生を見て僕は思わずくすりと笑ってしまった。
「……どうしました?」
「そのチョコ、すごく気に入ってくれたみたいだねーって微笑ましくなっただけですー」
「そうですね。今度お店で見かけたら買ってみようかと考えた程です。……良かったら、北村さんも食べますか?」
「え、いいのー?」
「先月の練習や撮影を頑張っていたのは北村さんも同じでしょう? お返しとはまた別になりますが北村さんと、このご褒美を分け合いたくて」
ご褒美……僕から九郎先生に渡して、九郎先生から僕が貰う、か。それなら――
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかなー」
「わかりました! では、こちらをどうぞ」
「はーい。いただきますー」
まずは九郎先生がこちらに向けて差し出してくれている包みに手を伸ばしてチョコをひと粒取り、それを口へ運ぶ。
「……ふふっ、美味しいねー」
噛まずとも、舌の上でころころと転がすだけでチョコはすぐに溶けていく。
「んー、もう1個貰ってもいいー?」
「分け合いたいと言ったのは私の方からですし、全部でなければ構いませんよ」
「ありがとー。……ねえ、次はさー」
――九郎先生が食べさせてくれるー?
「えっ……!? 北村さん、それはつまり」
「ご褒美はあなたの手から貰いたく。九郎先生、だめー?」
「……北村さんからのその頼みを断る理由なんてありませんよ。ただ、ほんの少しだけ驚いてしまいましたが」
九郎先生が驚くのも無理はない、と僕は思う。僕らがそうだったようにこれは“人による”のだろうけど付き合い始めた半年前から今日まで、一緒にご飯を食べた日はあっても「食べさせてー?」みたいなことは一度もしたことがなかった。
ピッキーゲームはやったことあるけど、あれはまた違う枠に入る気がするしー……
すぅ、とひと呼吸してから九郎先生がチョコをひと粒手に取ってこちらへ差し出してくれる。
(表情に、少しの緊張見え隠れ)
「……あれは言った方が良いのでしょうか?」
「……九郎先生のお好きなようにどうぞー?」
「はい。では、北村さん――あ……あーん」
言うか言わないかお好きにさせると九郎先生は言ってくれる側なようだ。
「あーんっ」
口を開けて、顔をその手に近づけて小さな立方体の形をしているチョコを迎え入れるとき、九郎先生の指先も一緒にパクッと咥えることになる。
「ひゃっ……!?」
チョコだけじゃなく、彼の指先も舌でぺろっと舐めてみると九郎先生からそんな高めの声が漏れてきた。……ちょっと面白いけどチョコを舌の上に残したまま、その指を口から解放してあげる。
「どうしたの九郎先生ー?」
「えっ、その、て……手が」
「手? チョコが指に着いちゃったりしたー?」
どうしたのかはだいたい検討がつくけど、僕は悪戯っぽくそう訊いてみる。今は僕の方を向いているけれど、僕が声を掛けるまで九郎先生の目は自由になった右手をじっと見つめていた。
僕の唾液がついちゃった、細長くて綺麗な指。
「な、なんでもない、です。チョコも着いてないですから……」
「…………それならいいんだー」
そう言ってまた視線を逸らして、机の上にあるティッシュで自分の指を拭っている彼の表情は、なんでもない筈ないだろうとわかるくらいに動揺を隠しきれていない。もー、九郎先生は嘘を吐くの得意じゃないんだからー。
「……こん……どは」
「んー?」
「今度は、北村さんの方から私に、していただけないでしょうかっ」
顔はキリッとしていても頬はまだ赤みが強くなっているまま。
本当に……かっこよくて、かわいい人。
「うん、いいよー」と九郎先生に返事をしてからチョコを取――その前にひとつだけ。
「普通にあーんってするのもいいけどー、チョコがもっと甘く感じる食べ方があるの、九郎先生は知ってるー?」
「…………魔法をかけたりするのでしょうか?」
「あ、真っ先に思い付くのそれなんだー?」
頭上に見えないはてなマークを浮かばせながら首を傾げる九郎先生のその閃きは意外に思えたし、九郎先生の周りにいる人のことを考えるとそこまで意外ではなくも思えた。
「先日、華村さんたちとメイド喫茶へ行きましたから。それに言霊というものもありますし、魔法をかけるというのはかなり正解に近いのではないかと思ったのです」
「そういえば九郎先生、前に話してたねー。確か和風なメイド喫茶だっけー?」
「はい! そうです、その時のです!」
「なるほどねー」
LINKで九郎先生がそういう話をしていたのを思い出す。事務所にいる人で例えるなら咲くんのようにパピッとしてる空間とはまた違うシックで落ち着いた雰囲気で九郎先生的には良かったようだ。(彩のみんなとメイドさんで撮ることになったらしい写真は見せてくれなかったけど)
「メイドさんの『おいしくなーれ』っていう呪文とは違うかなー? あでも、魔法なのは合ってるかも……」
「半分間違え半分正解したようなものなのでしょうか?」
「うーん、九郎先生がどういう魔法を想像してるかによるねー」
「……私にとっては北村さんの手から直接チョコをいただけるという時点で甘みの増す魔法のようなものですが……」
「…………」
「北村さん……?」
あなたのそういうところに、まだ敵わない。
だんだんと頬も胸の内側も温かな熱でいっぱいになっていく。それを少しでも九郎先生に気付かれないように僕はいつもの笑顔を顔に浮かばせた。
「――それじゃあ、答え合わせしてみよっかー」
そう言ってやっとチョコをひとつ手に取る。
「九郎先生、口開けてー?」
「は、はい……!」
今よりも距離を詰めて、小さく開いた口元へとチョコをひょいと入れてから……
「……っ!?」
九郎先生の口を、自分の口で塞いだ。
「っ……」
口が閉じきる前に舌を入れ絡ませていく。
そのふたり分の舌の熱でチョコが先程よりも早く溶けていくのは視界に映ってなくてもわかる。九郎先生は僕の行動に驚きつつも(驚いてなかったら逆にこっちが驚くかなー)僕の動きに合わせていた。向こうの両手は僕の服をぎゅっと掴んで離さず……キス自体を嫌がってはいないようだ。
「んぅ……は、あっ……」
……気が付けばチョコは完全に溶けきっていて形がない。なので深いキスもここで止めておこうか。これはあくまでチョコがより甘く感じる魔法の答え合わせだしねー。
「はぁ……っ、きたむらさん…………」
「どうー? とても甘く感じたでしょー?」
口元を開放してあげて、お互い肩で息をする。
「突然あのような深い口付けをされたら、なにも考えられなくなるじゃないですか……」
と言いながら口元を手で覆い隠して、こっちを……睨んでいるつもりなのかなーその顔は。
「ただ……とびっきりに甘くなったのは伝わったような気がします。ですので――」
――もういちど、してみてもよろしいですか?
甘い時間、ふたりで分け合い溶けていく……
深呼吸をしてから、桃の花の様に頬の染まった九郎先生はそうゆっくりと僕に告げた。
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