四月◇夜風舞う 桜の花びら 月に落ち ◆
――4月某日 公園
桜が満開になってきた今日は、事務所の皆とお花見をすることになっている。敷いたレジャーシートに座り空を見上げ、僕らの頭上を彩っている綺麗に咲いた桜の木を眺めて、お弁当を食べたり花より団子に夢中になってる人もいる。
ユニットの枠を越えていろんな会話を交わしているところもあって、例えばうちの雨彦さんだと次郎先生たちと集まっていたのを見かけたし、僕も九郎先生や一希先生と一緒に桜を見ながら九郎先生が点てたお茶を飲みつつ句を詠んでみたりして楽しいひとときを過ごしていた。
実は数日前から九郎先生とこっそりある約束も交わしていたのだ。夜になったら、ふたりでまたここに来て夜桜を見る約束を。
解散して19時頃になったら公園に集合ーでも良かったけど、九郎先生のリクエストで公園に向かう前にお蕎麦屋さんで一緒に夕飯を食べることになった。お花見の前に食べるは月見蕎麦……ふふっ、とても美味しかったですー。
そして今は、(食後の運動も兼ねて)桜提灯に照らされた道を九郎先生と肩を並べのんびり歩いているところなのである。
「やっぱりお花見の時期になると、夜でも人が結構いるねー」
「それでもお昼頃よりは静かで落ち着きますね。桜の木も先程とは違った表情に見えます……」
陽が登っている時の青い空ではなく、月と星が浮かんだ夜空を背景にした桜の木は、九郎先生が言うように昼頃に見た時と受ける印象が違う。
出口の見えないトンネル、底が見えない穴……見えているのは全く違うものなのに、とても綺麗だと感じたそれからはそんなワードが浮かんでくるようだ。ずっと眺めていたら、なにかに腕を引っ張られて引きずり込まれてしまいそう……
(あ、クリスさんに連れられてLegendersの3人で見に行った夜の海に対しても同じことを思ったな)と思い出した。夜という時間には不思議な力があるらしい。
「…………」
さっきよりも、ほんの少しだけ、九郎先生との距離を縮める。……今ここで僕ができるのはそれだけ。そのときに一瞬だけ肩同士がぶつかって、九郎先生の視線が僕の方へと向けられた。
「あっ、すみません北村さん、大丈夫ですか?」
「……うん、痛いとかは全然ないよー」
すぐ近くに僕たち以外の人はいないけど九郎先生にだけ聞こえるように小さな声で続けて話す。
「もうちょっとだけそばに寄っててもいいー?」
そう尋ねた僕に「いいですよ」と答えてくれた九郎先生の声色は桜みたいに優しい色をしてる。
「ふふ、ありがとー」
後ろでひとり組んでいた僕の手のひらを、風がそっと撫でていく。
前方に見えるとても仲の良さそうなふたり組がしているような……
――“手を繋ぐ”という行為を、僕たちはすることができなかった。
◆
去年の秋、九郎先生と想いが通じ合ってから3日も経っていなかっただろう頃に僕はあることを九郎先生に提案した。
《僕たち以外の人がいる所で手は繋がない》
『誰かに僕らの関係が気付かせない為に』『騒ぎにさせない為に』と思って僕が考えていた決め事であり対策。九郎先生はそれを受け入れてくれた。まあ僕の部屋とかでなら手は繋げるから、この先ずっと繋げないという訳ではない。だからそれが寂しいとは特に思わなかった……けど、僕たちみたいに外を歩いていて、僕たちと違って手を繋いでいる人たちを見かけるとふと過ぎる。
(ああいう風に恋人と手を繋いで観光地とかを見て回るのってどういう感じなんだろうー)
手のひらに、冷たい風じゃなくて温かい手が触れてくれていたら……
(なんて……いまは悩む時間じゃないよねー)
ほら、九郎先生は冷え性だから手は冷たいかもしれないしー。……その手が握れたら温めることもできるんだけどさ。
「――さん……北村さん」
「へっ?」
九郎先生が僕を呼ぶ。その声がした方へ顔を向けると、隣にいた筈の九郎先生は僕の1歩先で僕を心配そうに見つめていた。
「あれ、どうかしたー?」
「それはこちらの台詞です。隣から足音が聞こえなくなったと思い振り返ってみれば北村さんが立ち止まっていらしたので……」
「ああー……心配かけたみたいでごめんねー。ちょっと考え事してたら集中し過ぎちゃって、足が止まってたみたい」
すぐににっこりと笑みを浮かび上がらせて、九郎先生のもとへと駆け寄る。
「もう大丈夫だから、先に進もうー?」
「本当に、大丈夫なのですか?」
「平気だよー」
「……それなら良いのですが……なにか相談したいことなどがありましたら、私が相手でよければ話を聞きますからね」
悩みごとを隠してもあの時のように九郎先生は僕のそれによく気付く人だからただの時間稼ぎにしかならないと思うけど……いまは、気にしないでほしいかな。
「『いつでも』とは言い切れないのが少し悔しいですけど……でも、貴方が困っているのなら力になりたいという気持ちに嘘はありませんので」
「うん、ありがとうー。九郎先生に話したいと思ったことはちゃんと話すようにしてるよー」
その言葉には嘘はない。
一歩足を進めると九郎先生もそれに続いて、夜桜を眺める小さな旅が再開する。僕の中にある仕方のないモヤモヤはまだあなたには話せないと思うけど、それでもさっきよりかはスッキリしてるかな。
「そういえばさ、新曲のことなんだけどー」
再び隣に来た九郎先生の方へ顔を向けると僕はまた立ち止まってしまった。
「九郎先生、ちょっとストップ」
「え、は、はいっ」
「そうそう、そのままじっとしててー……」
「あの、北村さんっ? ここ外で――」
「はい、もう自由にしてオッケーだよー」
「…………ええっと……?」
「ふふっ、いつの間にこんなかわいい髪飾り着けてたんだねー?」
九郎先生の頭の方へ手を伸ばして、髪に着いていたそれを取り目の前に見せてあげた。
薄いピンク色の小さな桜の花びらが視界に入った九郎先生の顔は困惑しつつもどこかホッとしたような表情に見えた。
「あ……ありがとう、ございます……」
「桜の花も九郎先生のファンなのかもねー?」
(花も九郎先生に見惚れるかー……わかるよー、その気持ち)とは心の中でだけ呟いた。
「ふふ、もしそうだとしたらうれしいですね」
桜提灯の灯りに照らされているのもあってか、にこりと笑った九郎先生はいつもより幻想的な雰囲気を纏っているように感じてとても美しい。
「北村さん、その花びらをこちらに」
九郎先生が差し出した手にそっと花びらを近付けて渡すと九郎先生はその花びらを大切そうに見つめ「ありがとうこざいます」と告げて、取り出したメモ帳の間にそれを挟む。
「持って帰るのー?」
「あのまま花びらを手放してしまうのは寂しい気がして。あとは……」
あれ、もう1枚取っていくんだ。たまたますぐ近くに舞っていた別の花びらも九郎先生は先程と同じようにメモ帳に挟みそれを仕舞った。
「……お待たせしました、こちらはもう大丈夫です。北村さんがよろしければ先へ進みましょう」
◆
「……そろそろ、時間でしょうか」
「だねー。九郎先生は楽しめたー?」
「はい、とても! ……今年は貴方と――」
「詳しい感想はあとでゆっくりと聞くのでー。ふふっ……僕も楽しかったよ、九郎先生」
時間というのは、ここから駅へと向かう時間のこと。ちなみに九郎先生は僕の家に泊まっていく予定だから『駅に着いたら今日はここでさよなら』というわけではない。
1日中楽しめたし、綺麗な桜も見れたし……
(まだ……一緒にいられるんだ)
「ね、北村さん」
「んー?」
「来年もまた、一緒に見に行きましょうね」
「……そうだねー。来年も一緒に、いろんなこと話しながら歩けたらいいねー」
『来年も』『一緒に』……手は繋げなくても、心は、いまの関係は途切れずに繋がっているだろうかと勝手に考えてしまう。
「北村さん――約束ですよ」
「あ……」
僕がなにを考えていたのかまでは気付いていない筈の九郎先生は、不安を抱えだした僕を安心させるかのように、その言葉がとても大事であるかのように、『約束』だと告げて指切りをしようと小指を出した。
それは言葉にしなくても、まるで『離しませんし途切れさせたりもしませんから』と伝えてくれているようで……僕はそれが……
「うん……約束」
暗い夜道を照らすお月様の光みたいで、安心して……とても、うれしかったみたいだ。
◆
――数日後の朝 事務所にて
「おはようございます――あっ、北村さん!」
「ん、ああ、おはよう九郎先生ー」
「ちょうど良かった……北村さんに用事がありまして、いまはお時間よろしいでしょうか?」
「えーっとねー……」
僕はすぐそこにある時計を見て現在の時刻を確認する。いまは朝の9時ちょうど。Legendersのレッスンは30分後。
「……9時半からレッスンがあるんだけど、支度の時間も含めると空いてるのは15分くらいかなー? それまでなら大丈夫だよー」
「ありがとうございます。すぐに終わりますのでレッスンには間に合う筈です、間に合わせます」
「うん。それで、用事ってー?」
九郎先生が僕の向かい側のソファに座り、僕たちふたりは向かい合う。正座でなくてもシュッと背筋を伸ばしていて姿勢が良く、綺麗だなと近い距離で見てひっそり思っていた。
「前に北村さんから借りた小説なのですが、読み終わりましたので返そうと思っていたのです」
ソファの間にあるテーブルの上に1冊の本が置かれる。お花見の帰りに九郎先生が僕の家に来た際に貸した推理小説シリーズの4巻目だ。
「おー、お疲れ様ですー。後半からかなり辛い展開になってるけど、九郎先生はあの辺り大丈夫だったー?」
「それが……私はどうやら藍川さんに感情移入しすぎてしまうところがあるようで……」
「あー……」
探偵である主人公への感情移入……それはきっとあの世界を一番楽しめる読み方でもあり、一番辛くもなる読み方だ。
「読み終えた日の夜はなかなか寝付けませんでした……あ、それでですね、特に印象に残った場面に栞を挟んでみたのです」
「へぇ、どれどれー……」
その栞が挟んであるページを開いて真っ先に目に入ったのは、細かい文字の羅列ではなくて1枚の栞だった。
「ねぇ九郎先生、これってもしかして……」
「……あのとき持ち帰った桜の花びらを押し花にして栞を作ってみました」
あのクリスマスプレゼントもそうだったけど、九郎先生って手先が器用というか小物を作るのが得意だよねー。
「その栞は私から北村さんへの贈り物です。……北村さん、先日は私に付き合っていただきありがとうございました」
……どうして花びらを追加でもう1枚取ってたんだろうって思ってたけどその理由がわかったような気がする。
「ふふっ、こちらこそー。この栞も大切に使わせてもらうねー」
あと何日か過ぎていくと桜の花は散って、また来年の春が来るまでの間会えなくなるけど、栞になったあの日の思い出は、見るたびに思い出して忘れないものになるのだろう。
……そしてそれは、目の前でうれしそうに微笑んでいる九郎先生も同じなんだろうなあと僕は信じていた。
◆