夢か現か 気がつけばクロムはベッドに寝かされていた。
瞬きをし、ぼんやりとしたまま目を開けると、記憶にない天井が翠の双眸に映る。“お目覚めですか”と声を掛けられそちらに視線を遣れば、線の細い若い男が背を向けて本を読んでいた。穏やかだが隙のない男とは面識がなくクロムは相手の名を知らない。男と会話を交わすものの彼は疲労困憊のあまり意識を保てず、すぐさま再び昏睡状態に陥った。
その後どれほどの時間が過ぎただろうか――再度憶えなき天井を見、クロムはようやく己が連れ去られたのだと理解した。
頂上決戦で倒れた彼は担架に運ばれ、本来ならばXタワーの医務室に搬入されるはずだった。だが正体不明の者の手に落ち、彼は世間的には行方不明という扱いになった。常人ならば事実を知ったならば恐慌をきたすであろう。あるいは警察に訴え出るか。しかし彼は平然とした表情でもって異常事態を受け入れ、得体の知れぬ者に対しても感情の揺らがせはしなかった。
男に連れられるまま足を進め、着いた先はベイ航空宇宙局。プラネタリウムらしき場所には男の同志らしき不遜な男と、仮面を被った白ずくめの女が居た。女に言われるがまま百人のブレーダーの相手をし、すべて完膚なきまでに叩きのめした。クロムの力量に感じ入った女は禁断のベイを彼に授ける。底知れぬ女はベイを見つめるクロムに満足げに笑い、妙に芝居がかった口上を述べた。
「目覚めよ、龍宮クロム。さすれば世の理を超えたベイは、お前自身を超えるベイとなる」
夜空に星々が胡粉の如く煌めく中、女は朗々たる声を響かせ彼を誘う。女に促されるまま胡乱なるベイを手に取った瞬間、クロムの身に大きな変化が及んだ。全身の血がたぎり心臓が不気味なまでに大きな音を立てて脈を刻む。体の中でエネルギーが膨張するのを感じ、彼は信じがたき力に双眸を見開いた。
黒き龍と一つになり、青年は自分がこれまでの自分とは違う存在へと変貌するのを感じ取る。魔龍との合体に彼は苦悶の声を上げたが、力を求める彼は激痛すら進んで受け入れた。ただ一つの望みさえ叶うならばどうなろうと構わないがゆえに。たとえ道を踏み外そうと、彼は大願が果たせるならば何もかもがどうでもよかった。
(この力があれば“あいつ”に勝てる)
黒須エクス。
今は仮面Xと名乗るブレーダー。頂上決戦のあの日青年は一矢報いる力すら持たず、相手から1ポイントも取れぬまま敗北した。エクスはクロムが修練の果てに編み出した技を、ただ一度目にしただけで真似てみせた。青年のドラゴニックブレイクは少年のそれに下され、青年は圧倒的な力量の差を見せつけられた末に敗北した――彼は大敗をもって道を終えた、そのはずだった。
しかし新たなるベイを手にした今。
(今度こそあいつを倒す。必ず)
「たとえ道を踏み外そうとも、勝利以外のすべてを失おうとも」
双眸を闇に染め邪悪なる波動に身をゆだねる。紅き雷光が走る暗黒の空間にて、クロムは呪詛に等しい言葉を吐く。彼は勝利という呪に囚われ、自ら望み堕ちていった。彼の頭には仮面X――否、黒須エクスしかない。彼に勝つためならば他には何も要らなかった。
「黒須エクス……!」
地の底から響く声で名を呼び両目を真っ黒に染めたとき、
「はっ……!」
龍宮クロムは、今度こそ本当に目を覚ました。
仰向けに眠る彼の目に飛び込むのは毎朝目にする天井だ。自室の、太陽が昇りすっかり明るくなった天井を瞳に映し、彼はしばしの時間呆然とした。目を見開いたままゆっくり上体を起こし時刻を確認する。午前六時だ。夢の中だった意識が一気に現実に戻った。
「……」
生々しく、現実と錯覚する夢だった。
たとえ血液が高速で全身を巡ろうと、邪悪な気に呑まれようと。漆黒の龍と一つになり強大な力を獲得しようと、それはただの夢に過ぎない。だが目覚めてなお鮮明に思い出せるそれは、クロムにとって下らぬと斬り捨てるにはあまりにリアルだった。見知らぬ人物に超常の力を持つベイ。そして魔龍――クロムは背中に嫌な汗を伝わせる。体が熱を持て余しているにもかかわらず冷水を頭から浴びたような寒気を覚える。相反する感覚が苦しく、彼は“はあっ”と大きく息を吐く。肺に溜まった空気を一気に出し、クロムは一言、かすれた声で呟いた。
「夢、か」
クロムが悪夢を見たその日の十時、ペンドラゴンの三人はとあるラグジュアリーブランドの本社の会議室に居た。部屋を占める巨大なテーブルの一角に三人が並んで立っている。青年の男女に挟まれた少年が卓上の“それ”を凝視し、双眸を熱情で輝かせていた。
「オレ達の、イメージ香水…!」
シグルがモデルを務めるブランドは香水もまた手掛けていて、前々からペンドラゴンとのコラボ企画を立ち上げていた。ペンドラゴンの三人をイメージした香水を作り期間限定で販売する。シグルはブランドを通じある程度情報を得ていたが、シエルとクロムはあまり企画に携わっていなかった。特にシエルはリーダーのクロムと違いスケジューリングに口を出す立場になく、数日前に話を聞かされただけだ。香水に関し雑誌に彼等の写真とインタビュー記事が掲載される。シエルは初めて目にするハイブランドの香水を見、緊張で体を強張らせた。
「是非お試しになってください」
企画に携わったブランドの営業社員が、テーブルに並べられた小瓶を示しにこやかに勧める。小瓶はスタイリッシュなデザインのガラス製であり、それぞれ群青、薄紫、オレンジ色であった。順にクロム、シグル、シエルのものだ。洒落たフォントで名前とフレグランス名が刻まれていて、シエルは興奮のあまり目を見開いている。彼はハイブランドに縁なき生活を送っていて、自分の名とイメージ香水の名前が小瓶に書かれているのを見て大いに驚いていた。
「シエル様、手首にワンプッシュしてお使いください」
「は、はいッス……!」
営業社員につけ方を教えられ、シエルがどぎまぎしながら香水を使う。香水を手首に吹き掛けた瞬間、爽やかな香りが彼の鼻腔をくすぐった。シトラスの香水――オレンジとベルガモット、レモンを混ぜたようなさりげない香りにシエルが感嘆の声を上げる。
「わあ……」
清潔感溢れる香りに彼の目が輝きを増す。
「オレってこんな匂いなんスか……、」
「イメージだから」
シグルが無表情で強調する。
「君の匂いそのものじゃない」
香水はあくまで彼等をイメージして作られたものであり、彼等の体臭とは一切関係ない。シグルは浮ついた少年の発言を一蹴したが、当の本人はまともに聞いていないようだった。シエルは相変わらず舞い上がり、初めて体験する香水に頬を紅潮させている。ベイ一筋だった少年はハイブランドの香水という未知の世界にすっかり心を奪われていた。
「私のイメージは――バイオレット」
彼女もまた手首に香水を吹きつけ、自身を基にした香水を確かめてみる。クールな中に優しい甘さを感じさせるスミレの香りは、無表情の中に凛とした強さを持つ彼女によく似合っていた。プロブレーダーと兼業してモデルの仕事を行っている彼女は香りをまとう所作も慣れたものだ。彼女がシエルに“どう”と訊くように手首を示す。バイオレットの香りを捉えシエルの胸がドキリと高鳴った。
(シグルさんの匂い……じゃなくて!)
普段スパーリングで散々シグルと対面しているにもかかわらず、この時彼は妙にそわそわする。あくまでイメージ、と、頭の中で必死に唱え、多感な少年は己の思考を大慌てで払わんとした。彼が赤面しながら焦るさなか、今度はクロムが香水を手首よりは下の、露出した腕部に香水瓶を近づける。香水がかからぬよう髪をどければ髪飾りの龍が銀の光を放つ。目を凝らさねば違いに気づかないが、彼の髪飾りは石の色を青から緑へと変えていたのだった。
クロムが腕に香水を吹き掛けると甘く濃厚な香りが広がる。官能的とも言える香りが胸を高鳴らせる少年の許に届き、シエルはいよいよ慌てふためき、はわわわ、と意味を成さない声を上げた。
「クロムさんの匂い……!」
「イメージだ、シエル」
顔を茹蛸の如く真っ赤にする少年に、クロムもまた厳然と訂正する。営業社員の手前あまり興奮してはチャンピオンチームとしての体面に影響が出かねなかった。挙動不審に陥る少年を制しクロムはシグルと同様切って捨てる。彼は普段香水を身につけぬものの所作は中々整っていた――三つの香水の中では最も印象に残る香りをまとい、
「あくまでそういった企画でパフューマーが作ったものだ。オレの匂いじゃない」
「は、はい……」
それなりに鋭い眼光をもってシエルに言い聞かせる。シエルは未だ顔を赤らめているものの青年の態度に圧を見出し、徐々に冷静さを取り戻した。
「わかればいい……成程」
香水を用いた腕を見やり、青年は“こんなものか”という顔をする。彼は今回の企画にさして関心がなく、香りをまとったところで別段感想を持たなかった。彼の香りはオーキッド。もっともトップノート――最初に広がる香り――は蜂蜜とラムがメインである。花束を思わせる香りは扇情的であり何処となく夜を連想させる。小瓶の群青色がより宵闇を思わせるのだろう、彼はふっと遠い表情をした。
(夜……)
満天の星の下、ゆっくりと花開くイメージが彼の脳内に広がる。途端彼は目を覚ます直前の、己が魔龍と一つになった夢を振り返った。
――目覚めよ、龍宮クロム。
数多の星が輝く夜空の下、白ずくめの女が青年を見下ろしている。正体不明のベイを手にした瞬間、彼の体内を魔性の龍が荒れ狂った。あの夢はまるで現実で起こったかのように臨場感に溢れていて、クロムは全身を駆け巡る血液の熱を今なお鮮やかに思い出せる。とても夢とは思えない夢だった――他愛ないやりとりをしている現実こそ夢かと疑念を抱くほどに。
(夢か現か)
夜を想起させる香りに身を包まれ、クロムはふと顔を翳らせた。
「――……」
物思いに沈む彼は、傍目から見れば香水を吹き掛けた場所を凝視しているだけに映る。よほど細やかな神経の持ち主でない限り、彼の内面は悟られようがなかった。どうということのないやりとりを経て写真撮影と香水にまつわるインタビューが開始される。
「では早速始めましょう」
カメラマンと雑誌記者の男性が和やかなムードでやって来る。クロムの外面の良さが功を奏すのか、ペンドラゴンの仕事はすこぶる順調だった。
シエルが新たなメンバーとして加わってからは仕事はよりスムーズに進行する。少年は明るく健気で、少なくとも黒須エクスに比べ遥かに仕事に協力的だった。
「それじゃ皆様、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いしますッス!」
シエルは初めてのコラボ企画に体を強張らせていたが、それでも殊勝な態度を示す。少年はインタビューで如何なる発言をすべきか頭が真っ白になっていて、緊張の度合いはそれはかなりのものであった。
写真撮影とインタビューはシエルが緊張のあまりわたわたしながらも無事に終わり、三人は午後一時に出先からほど近くにある商業施設に向かった。最上階に位置するカフェに入る。コーヒーとランチが味わえるカフェは最も混む時間帯を過ぎ、客はピーク時よりは数を減らしていた。平日であるのもあって店内は落ち着き、昼食を摂る場所は心地よい静けさが保たれていた。従業員にオーダーを伝え彼等は一息つく。すっかり喉が渇いたシエルはグラスの水を一気飲みし、盛大に溜息をついて脱力した。
「疲れたッス……」
お洒落とは無縁の生活を送っていたゆえ、インタビューには甚だ苦労した。彼は混乱し話した内容をロクに憶えていないが、“爽やかな香りをイメージしてもらえて嬉しいッス!”との発言だけは記憶していた。ベイに関するインタビューならばアマチュア時代に数多こなし、プロになってからも数回あった。それらの類とはまったく異なる話に彼はテンションを乱すばかりであった。
「シエル、何だかんだでよくやってた」
「そ、そうっスか!? 嬉しいッス!」
隣に座るシグルの言葉にぱあっと顔を明るくし、シエルは喜びを弾けさせる。少年の屈託ない笑顔を見守り、クロムもまた口元に笑みを乗せた。以前シエルを粗雑に扱っていた彼は今では打って変わって大切なチームメイトとして接している。頂上決戦を経て彼は変わり、昔の――純粋に道を歩む彼に戻りつつあった。
柔らかな微笑をたたえる彼は、しかしその後表情を曇らせる。明け方見た夢が胸をよぎり、彼は無意識のうちに小さな溜息を吐いていた。憂いの滲む吐息が微かに、しかし確かに彼の口から零れ落ちる。シエルは大切な人の変化に気づき、
「クロムさんもお疲れですね」
おのずと気遣う面持ちとなった。
「……!」
クロムは正直なところ内面を悟られるとは思わず、シエルの勘の良さにドキリとする。青年は内心はどうあれ常に品行方正を保ち、普段から他者に感情を読まれぬよう上手く取り繕っていた。シエルが献身的なためか、それとも気を許すがゆえに思わず心中が漏れてしまったのか。気づけばシグルまで青年を凝視している。クロムはぎこちなく視線をそらし、躊躇いがちに呟いた。
「そう、だな……」
肯定の言葉はかすれて弱々しく、彼の心の揺らぎが決して小さなものではないと示している。青年は瞳に影を乗せ、しばしの間沈黙する。話すべきか否か――彼は逡巡の末、
「妙な夢を見た」
と、案じるシエルと無表情のまま事態を見守らんとするシグルに言った。
「夢……」
「夢……ッスか」
「頂上決戦で倒れた後の夢だ」
相槌を打つ二人に青年は少しずつ話しだす。思い返せば恐ろしい、悪夢とも呼べる夢だった。
「オレは何者かに拉致され、正体不明のベイを渡された」
インパクトドレイク、と仮面の女は口にしていた。宇宙の法則を捻じ曲げるベイと称されたそれは、クロムに全身の血液が高熱と化すような凄まじい感覚を与えた。漆黒の波動に包まれ、侵され、クロムは自分が今までとは違う何者かに変貌する感覚を得る。魔龍と融合し、絶大な力を獲得し――彼は力の凄まじさに圧倒されながら確信した。
この力があればエクスに勝てる、と。
常識を覆すベイ・インパクトドレイク。彼はペルソナと戦うという条件を呑み、新たなるベイを手中に収めた。
「クロムさん……」
「随分と、物騒な夢」
話を聞かされたシエルとシグルは、片や固唾を呑み、片や淡々と端的な感想を返す。どちらも硬化した空気をまとい、じっとクロムに視線を注いだ。シエルは畏怖の感情を双眸に宿し、シグルもまた針の光を目に宿す。ただの夢と一蹴するにはあまりに恐ろしい夢だった。
クロムは二対の瞳を受け止めながら胸に苦いものを覚える。己を凝視する瞳は鋭く、青年は正面から受け止めて胸がひどくざわつくのを自覚した。彼は翳った双眸を伏せ、黙し。数秒後にふっ、と自嘲気味に笑った。
(夢ごときに揺らぐなど、惰弱なことだ)
「夢は夢に過ぎん」
彼なりに踏ん切りをつけようとする。軽く笑って流せば済む話……と、彼は不可解な夢を忘却せんとした。
「それにしても」
つくづく思う。
「目を覚ましたら拉致されていたなんてな。恐ろしい話だ」
もし現実に起きていたならば警察沙汰だ。クロムは“ははっ”と軽やかに笑い、不穏な夢を総括する。語るうちに喉が渇き、彼はグラスの冷水を一気に飲み干した。氷水の温度が嫌な熱を溜める胸を落ち着かせ、彼はふうっ、と一息つく。テーブルに置いたグラスがカランと氷の音を鳴らし、心地よい音が彼の精神を幾分和らげた。空になったグラスが無色透明の輝きを彼に見せる。香水の小瓶に似ている――クロムは己がまとう夜の香りを顧みる。
忘れようとするほど、星々を散らす夜空が脳裏に蘇る。女が差し出したベイは大いなる力を宿していた。
(絶大な力、か)
もしインパクトドレイクが実在するならば彼は手にしただろうか。明け方クロムは自問したが、寝起きのまとまらない頭で考えたところで結論は出なかった。ただの夢だ。だが彼はもし現実だったならばと考えずにはいられない。すべてを捨ててでも力を得ただろうか、と。
たとえ邪悪な波動に呑まれ、外道に堕ちようとも。
(オレは……)
もし目の前に魔性のベイがあったならば。
「すまない。馬鹿げた話をした、」
「もしそんなベイが現実にあったら」
話を終えようとするクロムにシグルは真剣な眼差しを向ける。見る角度によって虹色の光がうかがえる灰色の瞳が、クロムのエメラルドの双眸を見据えていた。彼女は夢がただの夢ではないと――少なくとも笑い飛ばせるものではないと直感している。彼女はクロムが朝方自らにした問いを、時間を変えて再び突きつけた。
彼女は夢がクロムの深層心理を表していると見なしている。エクスに勝つためにクロムは何もかもを捨てるつもりなのか、彼女は上手く言語化出来なかったが決して小さくない危機感を覚えた。青年はエクスによって一時壊れひどく精神をこじらせた。もしかしたら――考えたくはないが――何かのきっかけで再び異常をきたす恐れがある。
彼女としては捨て置けない。過去に精神を病んだ彼を目の当たりにしたシグルは、場が凍るのも構わず訊いた。彼女の雰囲気がまるで判事のような、相手を見定めんとするそれとなる。もし使用者に凄まじい力をもたらすベイがあるならば、
「クロムはどうする?」
「……」
彼は圧力のある目を受けて押し黙った。
(シグル…)
青年の夢は悪夢と呼べる代物であり、本来ならばすぐにでも忘れてしまいたいと思えるものだった。しかし強さを求め強さにだけ従ってきた彼は恐れを感じる一方、インパクトドレイクなるベイにひどく惹きつけられた。超常の力を受け入れ新たな自分に生まれ変わる。人の道を外した禁断のベイは、クロムにとって抗いがたい魅力を秘めていた。
(オレは)
シグルは心の奥底を読み取ったのだろう、そう彼は鋭き双眸に射抜かれて理解する。彼が知る女性は常時冷静で感情の揺らぎなく、ただじっと見つめる人物だった。彼女の同じ目を目の当たりにしたのは確か、仮面Yとして暗躍していた頃――あの夜の瞳を再び受け、彼は此度は心臓に直に触れられたような恐れを感じた。
彼が答を出したとき、彼女は何と言うだろう。
「オレは、」
揺らぎの強い声を発したとき、
「ご注文のローストビーフサンドです」
店員が彼のオーダーを持ってきた。
間を置かずシグルとシエルの昼食が供される。シグルはスモークサーモンとクリームチーズを挟んだクロワッサンサンド、シエルはデミグラスハンバーグプレートだった。完全に話の腰を折られた彼はそこで話題を打ち切り、昼食へと向き直った。食事と共に添えられたコーヒーがかぐわしい香りを立ち昇らせる。カップの中の液体が彼の胸の内を代弁するようにじんわりとした苦味を発散した。
食事中の会話はシグルの仕事やスケジュール管理等事務的なやりとりに終始し、三人の間には雑談で華やぐといった様子は皆無だ。クロムとシグルはどちらも多弁ではなく、シエルは普段は明るい性格ながらも無理に場を持ち上げるほどの余裕はなかった。
「シエルは、この後は自主トレだったか」
「はいッス」
銅田産業の本社にはトレーニングルームがあり、クロムはよく鍛錬に励んでいる。片腕のみで行う腕立て伏せは負荷が高く、彼は汗だくになりながら課題をこなしていた。最近ではシエルも同様の筋トレを行うようになり、時に二人でトレーニングする日もある。体格差もあるのだろう、シエルがクロムと同じ課題に取り組むのは過酷だった。だがひたむきな少年は不満も言わず、むしろ憧れの人と過ごせる時間にかけがえのなさを感じていた。
「クロムさんは確か、エキシビションマッチの打ち合わせでしたっけ」
「ああ」
頂上決戦での騒動もあり、クロムのスケジュールはかつてより慎重に組まれている。彼の仕事が過密にならぬよう戯画谷専務もマネージャーも気を配っていた。彼は午後二時からマネージャーと会う予定が入っている。以前は多すぎて苛立ちを覚えたエキシビションマッチは頻度が減り、クロムは精神的に随分と助けられたものだった。
「マネージャー、昔に比べて、仕事を断れるようになった」
シグルが抑揚のない声で呟く。
「クロムに余裕が出来たし。私も。これからマルチと動画撮影するし」
バトルを通じ家族と和解した彼女は、七色マルチとベイカフェで落ち合う約束をしている。
「二人とも専務とマネージャーによろしく……社長にも」
銅田産業は銅田社長が企業のトップであるが、社長は彼等から見て無害に笑うのみの存在であり、実質的にスポンサーとしてペンドラゴンに注力するのは専務の戯画谷だった。気弱な男性マネージャーおよび専務との接点が多く、社長はどうも影が薄い。シグルは悪気なく最初はスルーし、語尾に思い出したように付け足した。
「ああ」
「了解ッス!」
「それじゃ、またね」
カフェがあるのは5階であり、通常ならば客はエレベーターを使って1階に降りる。しかしこの時シエルは何らかの意図があってクロムを階段へといざなう。不自然な誘い方は如何にも何かあると言った雰囲気をクロムに感じさせた。クロムはシエルに気づかれぬ程度に険しい目で相手を見る。シエルは平静を装いつつ表情がぎこちなかった。
「クロムさん。運動も兼ねて階段、降りませんか」
「……。いいだろう」
シグルは不審を覚えたが、自分は二人の間に挟まってはいけない空気を読み取りシエルの好きなようにさせる。二人が階段を降りはじめ、シグルはエレベーターを待つ。彼女の目に映る二人が、彼女の視覚が届かぬ場所へと行った。
シエルはクロムを導くように先に階段を降り、踊り場に足を乗せる。スニーカーの靴底が踊り場で少しだけ進んだとき、クロムの足もまたシエルと同じ場所に至った。二人の靴音が二人以外誰も居ない空間に反響する。二人以外無人ゆえに彼等の音は莫迦に大きく聞こえた。
クロムがシエルと同じ高さに足を置いたとき、ふとシエルが立ち止まる。“クロムさん”と振り返りもせず名を呼ぶ少年に、青年は“何だ?”と短く返した。
「……」
シエルは答えず背を向けてたたずむのみだ。微動だにしない少年の背に青年が緊張を帯びた声を発した。
「どうした、シエル」
「――クロムさん」
ようやく口を開いたシエルは振り返り、目許にきつい皺を作り青年を見つめる。直後、
「シエ、」
青年の言葉を待たず、愛しい人の胸に勢いよく飛び込んだ。
突然の出来事に、クロムは答える術を持たなかった。
驚く彼の胸に少年の橙の髪が埋もれる。密着するがゆえ少年の顔はクロムには見えなかったが、服越しに伝わる嗚咽から少年が涙していると推察出来た。湿った吐息が、涙に濡れたしゃっくりがクロムの耳に届く。抱きついたシエルの体は微かに震えていた。
「行かないで」
短い言葉に溢れんばかりの感情がこもっていた。
「どこにも行かないでください。たとえ強くなれるとしても、その道を……人の道から外れた道を、選ばないでください」
「……」
「あなたの居る場所はここです……ペンドラゴンです、クロムさん」
「……」
胸に顔を埋めるシエルはいよいよ声を湿らせる。涙に濡れた声はクロムの胸は疼き、彼は無意識のうちに両腕をシエルの背に回していた。
大切な人の熱を背に感じたためだろうか、シエルは体の震えを徐々に鎮めていき、しゃっくりもまた少しずつ小さくしていく。青年に抱擁されてしばらくして、少年は吐息を普段の落ち着いたものに戻した。クロムの両腕に包まれた体が段々と強張りを緩めていく。気持ちを鎮めるよう少年は大きく息を吸い、クロムの胸の中にゆっくりと吐息を零した。
少年の精神が平らかになったのをクロムは呼吸から感じ取る。彼は大切な存在を胸に抱き、気遣いを感じさせる声で名を呼んだ。
「シエル」
「夢の話、聞いてたら」
ぽつり、ぽつりと話しだす。彼もまたシグルと同じく、ただの夢と聞き流せはしなかった。不吉な予感は彼の胸を掻き乱し恐ろしい未来を想像させる。食事の間、彼は嫌な想像ばかりを脳内に反芻させていた。
「クロムさんが居なくなってしまうんじゃないかって」
愛しい人が自分の許から消える恐怖にたまらなくなり、彼は青年と二人きりになった。誰も来ないであろうこの場所でシエルは己の気持ちを打ち明ける。食事中ずっと考えていたのはただ一言、“行かないで”という言葉だけだった。
「シエル……」
少年を抱く腕の力を強め、クロムは悲しそうに双眸を伏せる。端正な顔に憂いを乗せ、恐怖に胸を潰した少年に詫びた。
「すまない。不安にさせるようなことを言った」
「いいえ……オレこそ泣き言言って、申し訳ないッス」
「そんなことない。……オレが悪かった」
少年の不安を掻き消すよう強く抱きしめ、青年は己の心臓の音を、規則正しくリズムを刻む心音をシエルに聞かせる。確かにここに存在するという証を、彼は自身の温度と鼓動でもって伝えた。いたいけな少年の熱を感じながらクロムはこれまでの少年とのやりとりを振り返る。思い返せば彼はシエルに何度もひどいことをした。
スカウトしたときも記者会見のときも。今もまた、そうだ。
(オレはシエルを傷つけてばかりだ)
背に回した腕の片方をそっと離し、たくましい掌で少年の頭を撫でる。掌の感触に心を和らげたのか、シエルはクロムの背に腕を回し吐息を安堵の滲むものに変えた。
「どこにも行かない。約束だ」
無言のまま深く頷き、シエルは愛おしそうに青年の背を撫でる。彼等は互いの存在を感じるため、長い時間抱き合っていた。ふとクロムはシエルがまとう香りを想い、柑橘の爽やかな空気に安らぎの表情を浮かべる。薄れ、消えつつあるオレンジの香りを吸い込みクロムはうっとりする。太陽を連想させる香水は少年によく似合っていた。
(いい香りだ)
かけがえのない人のまとう柑橘の香りに、クロムは愛おしそうに目を細める。近い距離により強く意識されるそれに、クロムは改めてシエルの存在の尊さを実感した。頂上決戦数日前、最も荒んだ頃であっても少年は彼のそばに居た。過ちを犯した彼を赦し共に居てくれる。クロムは愛おしさに胸に熱を灯し、愛しい者の香りを吸い込んだ。
(オレはここに居る。シエルのそばに)
魔龍の力がどれほど驚異的であろうと、禁断のベイによってエクスに勝てるとしても。彼はシエルを独りにさせてまで力を得ようとは思わない。外道に堕ち修羅と化す未来を選ばない。たとえ何が起ころうとも。
「オレはペンドラゴンのリーダーだ。今も、これからもずっと。
君とシグルと、三人で頂上を守る。
もしインパクトドレイクがあったとしてもオレは夢とは違う選択をする。過ちを繰り返さない……君達と共に強くなる」
「はい。オレも強くなって、あいつを……あなたをも超えてみせます」
「ああ」
頂上決戦でのシエルの誓いを、当時意識を失った彼は後日記録映像により記憶に留めている。あの日の誓いを再び口にするシエルに、クロムは慈しみに溢れた声で首肯した。
「そうだな、シエル」
強く、強く抱きしめる。
シエルを感じ、また自身の存在を感じさせるために。
熱い抱擁にシエルもまた青年の胸中を察したのか、安らぎの滲む吐息を零し青年の熱に身をゆだねた。