陽の光がきらきらと降り注ぐ中で、嵐の王は恥じいることなく衣類を脱ぎ捨てたが、隣にいたオベロンは額を手で覆って「集中力が途切れる」と呻いていた。
満足のいく仕上がりになったのだろう。小さな身では一抱えほどになってしまう布を抱えた家主は“着てもらうのが待ち遠しい”とばかりに階段を駆け上がってきた。
その音で目を覚ました嵐の王は、チュニックの裾を太ももまでたくし上げると「脱いでも良いか?」と眠たそうにオベロンへ訊ねた。真白い脚が陽に晒されて、オベロンは「いいよ」と声を絞り出すのが精一杯だったが、王様はよりにもよってオベロンの真横で服を脱ぎ出してしまった。裸体を見られることにまったく頓着ないらしい。
深く息をついたオベロンが平常心を取り戻した頃、嵐の王は翅の氏族に手招きされて銀糸で織られたお召し物に袖を通すところだった。部屋の隅では家主についてきた蜘蛛の妖精がころころと丸まっている。
翅の氏族が持ってきたのは「かわいい服を作りたい」という宣言通り、背中が大きく開いて、腰の位置がはっきりと分かる華奢な作りのドレスワンピースだった。
縁にはボビンレースがあしらわれており、オベロンの編んだチュニックを上から羽織れば、華やかな線帯が裾から覗いていかにも少女が好みそうな装いになるだろう。銀糸は陽が当たるたびに煌めいて、それを着こなした王さまの溜め息の出るような美しさといったら。
骨格は似たようなものとはいえ、オベロンは僕が着てもこうはならないと感じていた。“王”と称されただけあって、嵐の王は品格を保った厳かな立ち振る舞いで妖精と対峙してみせるのだ。理性を忘れがちな彼らを糾弾するように。
嵐の王にじっと見据えられている翅の妖精は、夜通しで縫い上げた服がお客さまの身体にぴったりと沿った感動があったのだろう。一頻り歓声をあげて喜んでいたが、やにわに勢いを無くすと小さな声でぽつりと呟いた。
「頼まれたとおり虫の糸で服を作ってしまったけれど本当によかったの?他の布地もあったんだよ」
「構うもんか。このブリテンに本物が分かる妖精が一体何翅いることか!さすがに氏族長の前には着ていけないけどね」
オベロンにぱちりとウインクをされて、滞りなく仕事を終えられた実感がようやく湧いてきたのか、妖精は深く安堵のため息をついた。
「そっかぁ、それならいいのかな。嬉しいなあ、わたしたちの生きがいは人間にあたたかく過ごしてもらうことだったから」
力を尽くして取り組むほど肩の荷が降りたとき安心してしまうものだ。妖精のため息はその証左だろう。持ち合わせを探りながらオベロンは思案した。
「お代だけれども僕の手持ちでなんとかなるだろうか。こんなに上等なお召し物、街でもそうそう見かけないぞ。いやー相場がまったく分からない!」
金目のものを取り出しかけたお客さまに、小さな妖精はお代はいらないよと手荷物をしまうよう促したが、「そのかわりに」と“人間の奴隷”をおずおずと見上げた。
「お金も魔法の粉もいらないけれど、もしなにかして貰えるなら抱っこして欲しいなぁ。人間のお客様がいまどれだけあたたかいのか確かめたいんだ」
それはささやかなお願いであったが――終末装置には人間らしい温かさや活力といったものが備えられていない。要求に応えて落胆させるだけならばまだいい方で下手をすれば訝しがられてしまう。
逡巡した嵐の王がオベロンへ目配せをすると、彼は“心配要らないからほんの少しだけ待っていて”と分かるようにジェスチャーをした。異界常識に手を加えて、もうちょっとだけ現実から目を逸らしてもらうことにする。
大丈夫、今だけはきみを本当の人間にしてみせる。妖精の嗜好品、生命力の具現、なくてはならないもの――
オベロンに頷かれたのを合図にモースの王は蜘蛛の妖精を招き寄せると、翅の氏族ごと二翅の小さな妖精を抱き上げた。オベロンには妖精たちの感情が見える。“こんなに幸せなことってほかにない”と。
「気持ちが落ち着くまでは夢の中にいて貰おうかな。別れは告げ損ねてしまったけれど、名残惜しさが執着に変わるよりはよっぽどいい」
嵐の王に抱えられた妖精をオベロンはすぐさま魔法で眠らせてしまった。人のあたたかさを惜しむあまりに、彼らが悪妖精化ないしはモース化してしまうのを危ぶんでのことだった。
妖精は生まれつき呪われているから感情のままに振る舞えば周囲を巻き込んで破滅する。しかし針仕事をひとつ熟しただけで大喜びするほど、この二翅を孤独に追い詰めてしまったのはオベロンを含む後の妖精社会に違いない。
許してくれなんて図々しいことは微塵も考えてはいないが、夜毎眠りにつくとき“人間”の温かさを思い出して、ほんの少しだけ幸福になって欲しい。オベロンは女王暦に切り替わったときに見捨ててしまった同胞の頭を一撫ですると、嵐の王の腕から妖精たちを取り上げた。
「王様、付き合ってくれてありがとね」
「何かしてやったつもりはないが、あんたにとって得るものがあったなら俺も嬉しいよ。なにせ森からずっと世話になりっぱなしだ」
両手の空いたモースの王は身支度を整え始めた。王様はワンピースの裾に縫いつけられたレースを外殻に引っ掛けてしまわないか確認しながら、慎重にチュニックを羽織っている。
オベロンは採寸の時にたくさんの布を持たされていた王様のことを思い出していた。世界の終末に比べたら些細なことだが、服の仕立てが目的の妖精にとっては布地を一つ選ぶのも大切な作業だった。嵐の王はそういった拘りを無下にすることなく最後まで妖精たちに付き合ってくれたし、虫糸のお召し物さえも「一定の価値あるもの」として扱おうとしてくれる。
妖精らしい先入観を持たないだけといってしまえばそれまでだが、オベロンにとってはその態度こそが目映いものだった。なにをお返しされなくてもオベロンは嵐の王からずっと得難いものを貰っている。
王様がクロークのフードを被ったところでオベロンも異界常識を畳み、出立するべく荷物をまとめた。そうして小さな妖精たちを抱えて一階まで降りたはいいが、挨拶をしようにも、もう一翅の居住者がどこにも見当たらない。
モースの王が「薪の弾ける音がする」と門口を開けにいくと、鏡の氏族は屋外で焚き火をおこしていた。積まれた薪の上には鍋が据えられて、蓋の隙間からは白く蒸気が漏れている。
お客さまに気がついた鏡の氏族は、熾火になった薪をそのままにして小屋へ戻ってきた。眠りに落ちた妖精たちを、なにやらいたく感心した様子で覗き込んでいる。
「ありがとう、この光景が見たくてあなたたちがくるのを村の入り口で今か今かと待っていたんだよ」
「ああ、どうりで話が早いと思ったよ。未来像でこうなるのを知っていたんだね」
鏡の氏族は頷いた。街の情勢が不穏でここまで宿を探しにきたといっても、大抵の妖精はオベロンたちを敬遠するだろう。ここまでの成り行きが視えていたのなら納得だ。ついでとばかりにオベロンは訊ねた。
「君たち、鏡の氏族は諍いに嫌気がさして北に引っ込んだのに、どうしてこんなところにいるんだい。北部でなにか問題でも……」
湖水地方を越えて南下するのならば獰猛なモースのいる一帯を通り抜けなければならないはずだ。毒に耐性があっても険しい道のりが予想される。オベロンの思慮をよそに、妖精はかぶりを振った。
「向こうは平和そのものだよ。こっちに来て長いから、いまはどうか知らないけどね。ただ、あそこにいてもやりたいことが見つからなくてさ」
南部なら楽しいことがあるかもという一心であの地帯を抜けたんだと妖精は笑った。
「モースを避けて彷徨ってるうちに、森の隅っこでわんわん泣いてるこの子たちに出会ってね。罪人を置いてくれる場所は少ないから、徴税逃れのふりをしてここに隠れ住んでる。目的を見失ったもの同士、四苦八苦しながら過ごすのはわりと楽しかったよ」
こっちに出てきて良かった。その一言には翅の氏族たちやオベロンを非難するような趣旨はまったく無く、純粋に出逢いを貴ぶ気持ちだけが含まれていた。
オベロンから二翅の友人を受け取った鏡の氏族は、嵐の王に改めて向き合うと「わぁ、かわいく着てもらえて嬉しいな」とその佇まいを誉めそやしてから、思い出したとばかりに焚き火のあたりを顎でしゃくった。
「人間って食事が要るんでしょう?お料理はよく分からなかったけれど、街のほうではあったかいお湯を飲むのが流行ってるって聞いたから沸かしてみたんだ」
妖精は“出立前に良かったら一服していって”とだけ伝えると、同居人たちを寝床へ連れていこうとした。夜通しで仕立てを手伝った鏡の氏族もこれから眠りにつくのだろう。眠たそうにふわぁと欠伸をしている。オベロンは礼を述べた。
「色々と助かった、恩に着るよ」
妖精は振り返ると「楽しい時間をありがとう、また来てね」とお別れの挨拶をした。
お湯を口にした嵐の王は「あったかい」と声をこぼした。
鏡の氏族のいう“湯を飲むのが流行っている”とはおそらく喫湯店のことだった。漂流してきた文化ではあったが、外から流れてきたのと同時期に妖精國でも自然発生していたように思う。はやりに倣ってオベロンも手持ちにあった甘草の根を細かく削り鍋に混ぜてみたのだが、嵐の王は甘くなったお湯を前に「なんの味もしない」と首を傾げていた。味覚が薄いのかもしれなかった。
「あんたの血の方がまだ味がしたな……」
「ははは、妖精國のご禁制も形無しだなあ」
食事とは縁遠く生きてきた鏡の氏族が用意した鍋は、草木染めに使われる小道具のようだった。計量用の木彫りの器が湯呑みの代わりにと添えられている。
それに口をつけながらオベロンは書簡に混ざっていたベアトゥス図を開いた。外の文明を真似て描かれたそれは、“北部”、“中央の罪都キャメロットとソールズベリー”、“田舎圏の西部”、“東部のロンディニウム”と大まかに分かれている。いずれロンディニウムの名前が、ノリッジやオックスフォードに変わっていくのかもしれない。
二人はモース王への警戒が薄いうちに、本命の大穴へ向かおうと決めていた。オベロンたちが今いるのは“田舎圏の西部”だ。このまま川沿いに三日ほど歩いていけば大穴へ到達する。こちらにも乗合馬車を提供している妖精馬がいれば今日中にキャメロットには着くだろうが、検問を行う衛兵と鉢合わせたくはない。街へ寄るのも荷車に乗せてもらうのも最小限にしたかった。
「傷が治っていれば途中まで静脈回廊を使ったのに」
嵐の王は裂かれた腹部を撫でながら何気なくつぶやいた。
確かに並みの妖精は寄り付かない場所ではあったが、あんな迷宮を通過するくらいなら都市部を闊歩するほうがまだ楽な気がしてしまう。王様の物言いにオベロンはふと思い至った。
「まさかきみ、僕と出会うまでそこで寝泊まりしてたのかい」
訊ねられて嵐の王はこくんと頷いた。どうりで女王軍に見つからなかったわけである。妖精騎士くらいの腕っぷしがあってようやく踏破出来る地下迷宮を、事もあろうに根城にしていたというのだから。
合点がいったのと同時に、森奥で彼の療治に手を尽くしていたとき大した寝床も用意してあげられなかったのをオベロンは悔いた。ブリテンに生み落とされてこの方、心休まる瞬間が嵐の王にはあったのだろうか。
喫湯のために借りた小道具を川水で洗い流して、焚き火の始末をしたオベロンたちは大穴に向かって足を進めた。森を抜けたときにも思ったが、モースに襲われないというのはオベロンにとって信じ難い現象であった。嵐の王もまた、妖精達に恐れられないことを奇妙に感じているだろう。
旅路の途中、嵐の王は暇さえあれば書き損じの手紙を開いて、オベロンに妖精語を教えて貰っていた。元々話すことは出来るので、文字の形と音さえ覚えてしまえば文章を読むことは容易い。しかし法則性はあるとはいえ、膨大にある単語の綴りを覚えていくのは大変だ。
「代書屋なんてものがあるわけだな」
「きみは妖精と交流しないのだから、読めるだけでも十分じゃないかい」
感慨深そうにしている嵐の王の横で、オベロンは来し方に燃えてしまったモース毒の調査結果をまとめ直していた。今まで書いたものは定期的に氏族長へ送っていたが、これは自分だけのものである。
嵐の王はオベロンの手元を覗き込むと、覚えたての文字を確かめるように紙に記された単語を一つずつ読み上げていった。
「被毒現象、暴露量、体内吸収からの回復時間――?」
「習得が早いねえ」
瞠目する妖精に見守られながら数行読み進めたところで、“これはモース毒を抑制する企みだ”と書面の内容を把握した嵐の王は「呪いを阻害されると困る」とオベロンにもたれ掛かって抗議をした。書き留めを邪魔しているつもりなのだろうが、可愛いらしいだけだった。
「妖精の小細工でなんとかなるような呪いじゃないが、下手に知見を広めるのはやめてくれ。苦し紛れに人間を使い潰されるのも癪だ」
「大丈夫、これは僕しか読まない。それにモースだって、元はといえば妖精だ。大昔、誰のことも襲わず独りでに朽ちていった個体を見たことがあってね……」
嵐の王は物申すのをやめると、大人しくオベロンの話に耳を傾けた。
「大丈夫かと訊ねても、助けさえ乞わずに消えていったその子を見たとき、“どうせなら同族の手で屠られるより、自己を保ったまま穏やかな終わりを迎えられた方がいい”と思ったんだ。それで耐毒法を調べ始めたんだけど……いま思えばこれは毒じゃなくて呪いの類いだから、精神性に依拠する罰みたいなものだよね。はい、そういう事にして、この話はおしまいです」
「煙に巻こうとするんじゃない。治療法を紙にまとめる必要はどこにもないだろう」
「かわいいきみ、許しておくれ。せっかく調べたものを灰のままにしておくのは勿体なかったのさ」
オベロンは愛しい王様を引き寄せると、あやすようにその目元に口づけを落とした。
びくりと身を震わせた嵐の王は「モースについて調べたのなら不用意に近づくのはやめろ」とその手をたちまち振り払った。寄り添うだけならともかく、唇で終末装置に触れるのは良くない。
嵐の王に咎められながらオベロン自身も己の行動に驚かされていた。なんてことだろう、情動に任せてキスをしてしまった。理性的に振る舞えなかったことを恥じたオベロンは“こんな不心得は二度とすまい”と誓ったが、王様にあったのは同行者を気遣う気持ちだけで、不躾な妖精を嫌悪する感情などはそこに一片たりとも見られなかった。
野営をしたり、村に寄ったりしているうちに三日三晩が過ぎて、物々しく聳え立つキャメロットの城壁が見えてきた。口づけのことにはお互い触れないままだった。嵐の王には気まずさもなければ、汚辱された怒りもなかったから、あれは小鳥に啄まれた程度の事と思っているのかもしれない。それならそれでありがたかった。
目的地を見据えたオベロンは大穴の気配に身をすくませた。
「この距離からでも恐ろしいなぁ」
ここまでくると軍の妖精はおろか民間人さえ見当たらないが、オベロンは立派な翅をしまうと古びた外套を被り、如何にもごみ捨てを命じられた罪人らしい姿を装った。
念のために廃棄物を積み込んだ荷台も用意してある。荷は大穴に放り込まれがちな、“無くならないもの、壊せないもの、邪魔なもの”で、その正体は嵐の王に呪いをかけられた獣の死体だ。中を検められても問題はない。
二人は息絶えた獣をこうして利用することを心中で詫びた。けれども罪深い大地に還っていくのと、終末装置によって跡形もなく葬られるのは一体どちらがましなのだろう。正直今となってはオベロンには判断がつかない。
「異様な心地だね」
荷台を引きながら大穴へ歩を進めるごとに胸がざわつき、気持ちが悪くなっていく。嵐の王は「妖精にとっては罪を直視するようなものだからな」とオベロンへ労わるような声をかけた。
祭神の亡骸に“倒木”を積み上げて、過ちから目を逸らそうとした妖精達のことをケルヌンノスは許さなかった。燻り続ける神の心臓は、罪を覆い隠そうとするあらゆるものを拒絶しながら海の底で鎮座ましましている。
神の怒りを肌で感じながら、俺も頭の隅に追いやっていた現実と向き合わなければいけないなとモースの王は城壁を仰ぎ見た。モースの王が後回しにしてきた問題とは、ブリテンの解放とオベロンのことだ。
お人好しな妖精の“一緒に大穴を見に行きたい”という好奇心のために嵐の王はここまできたが、積荷を穴に投げ捨て終わればオベロンは遠からず自分のもとを去るだろう。
お別れをしたら、オベロンは他の妖精のようにモースの王の敵になるか、自分ともども奈落の虫に飲み込まれるか、はたまた――いや、ここで殺しておくほどの危険性はこの男にはないはずだ。いずれにせよ、一緒に過ごした記憶は夢のように掻き消えてしまう。
モースの王は口づけられた感触を今もなお“あたたかいもの”として大事にしていた。あんなに柔らかく触れられたことはない。ブリテンの生き物とは対立するしかなかったから、肩を抱かれたのも、誰かと寝床を共にしたのも、話をするのも初めてだったのだ。
もう一生分くらいの報酬は受け取った。あとは忘れる準備をしていかなければ。大穴を検めたらこの妖精と別れて、國を崩す方法をまた一人で考え直そう。
嵐の王が果たすべき使命へ意識を傾けていると、隣からは感慨もひとしおといった様子のオベロンの声がした。罪の発生地にはそぐわない、充足感に満ちた声色だった。
「この下にきみがいるなんて信じられない……」
大穴は恐ろしいものだと忌避してきたけれど、そう思うとなんだか愛しいね。ぽつりと零したオベロンは「ちょっと休憩しようか」と言うと、隣で荷台を引いていた嵐の王を抱え込み、地面に座り込んでしまった。王様の服が汚れないよう、自分の膝の上に座らせて。
妖精にとっては息をするのも苦しい場所だろうに! しかしこの触れ合いも間もなくお仕舞いなのだと思うと、嵐の王は遠慮するのをやめてオベロンの胸元にくったりと頭を預けることにした。城壁に備えられた聖槍が鈍く光っているのがここからも見える。
「俺がいるのは正確にはこの下の下だよ」
「大きな神さまに踏まれてるんだっけ。その神さまってやつもよく分からないんだけど、彼を起こしたらきみも自由になれるのかな?」
「ケルヌンノスはあれでも穏健派だからどうかな……祭神をなんとかするなら、数百年規模の計画を立てなきゃならない。この様子だと大厄災を利用しても起き上がってくれるかどうか……」
800年前の大厄災の年、女王は祭神を祓えていたのだが、“奈落の虫”を抑えておくためにケルヌンノスを封じるだけに留めておいた。それからも祭神は呪いの腐肉を蓄え続けて、もはや誰にも動かせない重しと化してしまった。
――こいつをどうにかするくらいなら、女王の首を獲るほうがまだ現実味を帯びている。比較すればましというだけで、到底叶えられそうな話ではないが。
大穴を見つめて黙り込んでしまった嵐の王の傍らで、オベロンは「百年単位の問題になるかもしれないんだね」と呟くと、腕の中のかわいい人を抱き寄せた。
「ほら、街では人間連れの妖精が警戒されていただろう?同じ顔になったいま、きみを奴隷じゃなく僕の次代と言い張って、翅の氏族のコミュニティを利用するのも手かなと思っていたんだけど、長期計画になるのなら迂闊なことは出来ないね」
数十年くらいは主従のふりをしたままひっそり暮らそうか。そのあとはどうしよう――ごく自然に述べられていく先の話に、モースの王は耳を疑わないではいられなかった。
「あんたはもしかして、この先も終末装置に付き合っていくつもりなの」
「そうだよ。どう切り出そうか悩んだんだけど、遅くなっちゃってごめんね……」
全てのものへ等しく訪れるものにオベロンは恋焦がれていた。オベロンの根底にあり続けるものは、國を維持するために切り捨てられていった弱者への嘆きだ。ケルヌンノスは始祖の罪を認められるもののみを許し、女王の治世は選ばれたものしか救わない。
取りこぼされるものが生まれるのならば、この子が齎す世界の終わりを望みたい。妖精達に罪を贖わせようとしている優しい神さまは、僕のことを決して許しはしないだろうが、その怒りが正当なものならば、どうか気の済むまで呪ってくれたらいい――
寄り添い座り込む二人は、遠方からはまるで大穴に向かう途中で力尽きた罪人のように見えたことだろう。嵐の王はにわかには信じ難い心地のままぼんやりとしていたが、しばらくすると「こんなところでする話じゃないな」とふふとおかしそうに笑い、オベロンの腕からするりと抜け出ると、荷台のもとへ歩いていった。