花粉症「くっそ、きょねんまでなんとも、か゛った、のっ」
ぶえっくしゅ! と盛大なくしゃみが相談所に響いた。大変そうですねえ、と呑気な声で芹沢が言う。換気のために開けた窓から、光と共にやわらかな風が入ってくる。昼休みということも相まって事務所全体の空気はどこか気が抜けていた。のどかで穏やかで、春だった。落ち着かないのはくしゃみを連発している霊幻だけ。
アレルゲンとなる物質、つまり花粉、が体内に入り込むと、体の中で抗体が生まれる。コップに水を注ぎ続けていけばいつか溢れ出してしまうように、体内に抗体が増え続け許容量を超えたとき、くしゃみや涙などのアレルギー反応が起こり発症する。生物の授業で習った花粉症の仕組みを思い出しながら茂夫は、去年までなんともなかったってことはやっぱりあれは嘘だったんだなと、漫画を読むふりをしてちらっと霊幻を見る。鼻水を垂らしながら目を真っ赤にしている師の顔を見ていると、なぜだか茂夫も落ち着かなくてそわそわする。
以前、霊幻は「花粉症かな?」と言いながら泣き顔を茂夫に見せた。茂夫が初恋の女の子に告白しようとして、ずっと抑えつけていた感情が暴走し災害となって街をめちゃくちゃにした日のことだった。
『最初から嘘だったんだ』
初めて見る師の泣き顔と告白に茂夫はショックを受けていた。何も言えずに彼の言葉を聞き、その姿を見ていた。いつも堂々としている師が隠していた、本当はずっと隠しておきたかったはずの脆さが、茂夫の目の前にあった。たぶん、茂夫のために見せてくれたものだった。
本当はこの人はずっと弱くて卑怯で情けなくて、懸命に取り繕っていただけなんだ。
それが分かった時、霊幻への言いようのない親しみと尊敬が茂夫の胸に溢れた。その感情は「頼りになる師匠」に対して抱くものではない、すべての人間へ、そして自分自身へと通じるものだった。
生まれた感情は、それだけだったはずだ。
ならあの時はどうだっただろう? 同じ年に行われた、霊幻の誕生日パーティー。霊幻の手から落ちたケーキを超能力で浮かそうとした一瞬、茂夫はある雑念を抱いた。結果ケーキは霊幻めがけて飛んでいき、その顔全体にべったりと生クリームを塗りつけて白くした。あの時はみんな笑ってくれたし茂夫も笑ったけれど、今までだったら絶対しなかった悪ふざけに、やりすぎだったかもなと帰って反省もした。ちょっとしたいたずら心は確かにあったのだけどそれ以上に、師の赤くなった目に溜まった水が溢れ出してしまう前に皆の視線から隠してしまわなければと強く思ったのだった。だって師匠はきっと皆に泣き顔を見られたくないだろうと思った。茂夫も皆には見せたくなかった。そうだ、あの時もう既に、そう思い始めていたのだ。
噓から出た実、時が経ち本当に花粉症を発症した霊幻は、涙でぐしゃぐしゃの顔を晒して隠そうともしない。感情が揺さぶられたのが理由で出た涙ではないから、見られてもなんとも思ってないんだろう。花粉症だったら泣いていても恥ずかしくない、『花粉症かな?』という発言はそういう意味だ。霊幻はいつも通り堂々としている。
なのになんで茂夫だけが、こんなに落ち着かないんだろう。
いまの霊幻の顔を、誰にも見えないように超能力で隠してしまいたい。
「さっさと病院で薬もらって来いよ」
霊幻の上をふよふよ漂いながら、呆れたようにエクボが言う。
「いや、まだ市販薬でなんとかなるって」
「なってねーよ」
「なってないでしょ」
「なってないわ」
「なってないですね」
往生際の悪い反論を従業員四人につぶされて、霊幻は黙った。「あのねえ霊幻さん、その顔……」トメはやれやれと息をつくと、霊幻に向かってびしっと指を突き付ける。
「鼻水ぐちょぐちょで汚いのよ! 見苦しいわ!」
があんと衝撃が走る。
汚い?
霊幻はハッと手で顔を覆うと「嘘……俺の顔、汚い……!?」と何かのCMみたいな台詞を言って、勢いよく立ち上がりダッシュで手洗い場に向かう。しばらくしてざばざばと水音が聞こえてきた。顔を洗っているのだろう。
「暗田さん、言ってくれてありがとうね」
「お前かシゲオが言うのが一番効くからな。良く言った」
エクボと芹沢が口々にトメを褒めたたえる。自分の名前も出されたけど、茂夫はまだショックで反応できなかった。
汚い? 見苦しい? そうだ、良い大人があんないろんな汁まみれの顔してたら、ふつうは大丈夫かなって心配したり、あとはやっぱり、汚いなとか近寄りたくないなって思うだろう。なのに茂夫はそうは思わなかった。見たくないんじゃなくて、他の人には見せちゃダメだと、見せるならどうか僕だけにして欲しいと思った。それは霊幻の顔が汚いからじゃなくて、見苦しいからでも、情けないからでもなくて。ただ、
「モブ? どうした、へんなかおして」
顔を洗った霊幻が、タオルで顔を拭きながら戻ってくる。顔周りの髪の毛から、まだ雫が落ちている。
「おーい、モブ?」
ひどい鼻声で、たくさん泣いた子どもみたいに、潤んだ目の周りを腫らしていて。熱に浮かされてるみたいにどこかぼんやりと茂夫を見ていて。
すごく、可愛い……。
気づいた瞬間、急に心臓が走り出す。顔が熱くなって胸が苦しくなって息が出来ない。今までこんなことなかったのに、ふつうとは違う、過剰な反応が体に起きている。ああそうだ、きっとこんな感じだ。意識されないまま少しずつ蓄積されて満ちていたものが、今、
「師匠あの、ぼく、師匠のこと、」
あふれる。