お題「ケンカ」 ソファに座って、背中ごしに霊幻の気配を感じながら、茂夫は黙っていた。正確には、茂夫は茂夫の言いたいことをすべて言い終えて、霊幻の返答を待っていた。もう何回目かも分からない喧嘩だった。
「……なんとか言ったらどうですか」
霊幻は答えない。茂夫は舌打ちする。いつからか、霊幻は喧嘩の時にこうやって黙り込むことが増えた。以前なら怒濤のマシンガントークでやり込めたり煙に巻いたりしていたものを、茂夫が生来の空気の読めなさを遺憾なく発揮して反論することを覚えてから、そしてふたりが同じ家で暮らすようになってから、霊幻は、口をつぐみ、目を逸らすようになった。それは言葉が尽きたのではなく、言葉を飲み込んだように茂夫には見える。その言葉が何なのかを茂夫は知らない。知らないことが腹立たしかった。
「言葉にしてくれなきゃ分からないでしょう」
言えばいいんだ、前みたいに。ああしろこうしろって、偉そうに言えばいい。でも霊幻はそうしない。いつも。黙って、顔を背けて、そして。
「……ちょっと頭冷やしてくる」
また。
カッと頭に血が上る。茂夫はソファから立ち上がって振り返る。霊幻の背中は玄関へと向かっていく。
「なんでいっつも黙ってどっか行くんですか!」
ここはあんたの家なのに。あんたと僕の家なのに。
「僕に不満があるならはっきり言えば良いじゃないか。いつもの良く回る口はどうしたんだよ!」
廊下に茂夫の声が響く。こんなに大声出して近所に迷惑だ、と心のどこかで思う。
霊幻は、ゆっくりと振り向いた。
「……俺にだって」
苦しげに眉を寄せて、茂夫を見た。喉の詰まった掠れた声で言った。
「俺にだって、言葉にできない、言葉にしたくない、感情とか、思いがあるんだ」
茂夫は息を呑んだ。視線の先でガチャンとドアが閉まる。霊幻は、暗く冷たい家の外へと、出て行った。
本当は、探そうと思えば居場所なんかすぐに分かる。でも絶対に追いかけてなんかやらないと思っていた。『頭を冷やしてくる』と言ったのは霊幻だ。茂夫はただ待っていれば良かった。そして夜が深くなって、このままずっと帰って来ないんじゃないかとか、危ない目に遭ってるんじゃないかとか不安になるころ、霊幻は家へと戻ってきた。『ごめん』、『俺が悪かった』、『喧嘩はもう終わりにしよう』、そして吹っ切れたような笑顔を浮かべて、茂夫に触れた。茂夫はこれでいいのかなと戸惑いながら、でも蒸し返すのが怖くて、霊幻に流されて元の状態へと戻っていた。
今まではそうだった。
夜の公園を、茂夫は歩いている。遠く離れたベンチにぽつんと霊幻が座っているのが見えた。街灯の頼りない光がぼんやりと、霊幻の吐く白い息を照らしていた。
彼は、自分の爪先を見つめている。
その隣に、茂夫は座った。
「ごめんなさい、師匠」
「……何が?」
霊幻は気の抜けた、柔らかい口調で返事を寄越した。
「僕はずっと、師匠が言葉をくれるのを待ってるだけだった。師匠はいつも、僕やお客さんの混乱や不安を解きほぐして、言葉にして安心させてくれたから。僕はそれに慣れきって、師匠から言葉を貰えないと怖くて不安で、だから怒って誤魔化していただけだった」
「いいんだよ」
フフッと霊幻は真白い息を吐いた。
「俺にはそれぐらいしか能がねえんだから」
「良くない。僕はあんたに甘えていた」
師匠は僕よりなんでも分かってるんだからって、思い込んでいた。
誰より上手に言葉を操るひとだから、言葉にする恐怖があるなんて、想像もできずにいた。
茂夫は手を伸ばし、霊幻の、ポケットに入れられていた手をとった。霊幻ですら言葉に出来ない気持ちを、茂夫が分かることなんてできない。茂夫はただ、自分の感情を伝えることしかできない。
「あなたが好きです」
口にしたそばから、言葉にならなかった感情がこぼれて消えていく気がした。けれど、それでも言葉にするしかなかった。せめてと思って強く手を握った。
「……俺も」
手を握り返される。
「お前が好きだ」
絞り出された泣きそうな声に、茂夫は手を強く引いて霊幻の身体を抱き寄せた。冷え切った身体を掻き抱く。霊幻も強く抱きしめ返してくる。きつく、苦しいほどに。
言葉にならない僕たちの感情。指の隙間からこぼれていく想い。でもせめて本当のことだけを、嘘にしたくないことだけを抱きしめて、ふたり、夜の中にいた。