「あぁ?…なんだよ誰オマエ」
長年連れ添った相棒から放たれた鈍い錨は、ジェイドの心の臓に深々と突き刺さった。
そして悟ったのだ。
このツイステッドワンダーランドからジェイド・リーチという存在が消えてしまったのだと。
ジェイドと双子のフロイドの誕生日前日。
この日はあいにくの未曾有の大嵐。趣味の山散策もあまりの気候の悪さに足を万が一滑らせたら大変だと判断し、泣く泣くすぐに寮に戻って来ていた。急遽予定が空いたということで、少しの時間ならとラウンジで働く。そして相方であり、双子の兄弟であるフロイドはシフトが休みであった為、姿を見せなかった。
嵐であった為か、放課後に外で運動をすることが出来ない生徒たちが溜まり場としてラウンジに足を運ぶ。大抵はジュースやちょっとした軽食をおやつに授業の復習や予習をしたり、はたまたマジカメを漁りながら週末の予定を立てたり、人それぞれだ。
しかし同じ客が長いこといるので回転率が悪いのだが、支配人であるアズールは特に気にした様子もなく、それどころか、なんとはなしにソワソワとしていた。
「珍しいものですね、貴方が黙ったままそれほど落ち着かれないとは…いつもなら客の回転率が悪いとイライラして駄々を捏ねるというのに」
ジェイドはアズールの隣に立ちながら横目でちらりとその表情を伺う。
「まったく、お前はいちいち一言付け加えないと物も喋れないのか?」
アズールはジェイドの皮肉混じりの問いかけに眉間に皺を寄せ、歯を剥き出しにして睨む。リーチ兄弟以外には滅多に見せないこの反応が面白く、つい昔からジェイドは褒めるにも心配するにも一言余計な事を言ってしまう。アズールは顔を顰めながらもため息をつくと「嵐ですよ」と言った。
「嵐がどうかしたんですか?」
「胸騒ぎがするんですよ。嵐は全ての物を破壊していって、良くないモノを運んでくるんです」
「陸ならそうでしょうね。しかしこの寮は海の中。学園は妖精達が気候管理をしているので、学園内にいればそう大きな被害は無いと思うのですが?」
「そう、ですね…確証のない不安を抱えてウジウジしていても仕方ありません。そうと決まったら、このような大嵐の日に向けて何か策を講じなければ…」
アズールは何時もの支配人としての顔に戻ると腕を組みブツブツと喋りだす。今脳内でメニューやキャンペーン、シフトやら営業時間について、様々なアイデアが浮かんでいるのだろう。
それを見て、ふとジェイドはここにはいないフロイドに思いを馳せた。
彼は今、何をしているのだろう…
ラウンジの仕事を早々に切り上げて残りのスタッフに後を任せたジェイドは、寮服のまま自室へ戻った。
時刻はおおよそ18時半。窓の外には海が広がっており、嵐が来ているなんて信じられないくらい静かにそして優雅に魚達は泳いでいる。それをぼーっと見つめながら寮服のタイやジャケット、ハットを脱ぎ、ハンガーにかけてクローゼットへしまう。几帳面なジェイドと違ってフロイドは脱いだ服をそのままにベットに放り投げる。皺になってしまいますよと注意して、いつも一緒にハンガーにかけてやるのに、今日はその散らかす張本人もいない。
いつもの気まぐれでまだどこかで遊んでいるのかもしれない。こんな天気の悪い日に一体何をして遊ぶのだろう。出来れば一緒に夕食をとって、明日の誕生日に向けて一番乗りでおめでとうと言いたかったのだが…少しだけ寂しさを覚え、左耳に付いているピアスを無意識に触った。
少しだけ残念に思いながらも手早く夕飯を済ませ、ジェイドは趣味のテラリウムを弄りだす。
テラリウムを弄りながら時々時計を確認してはまだ21時。寝るには早いともう一時間、もう二時間…
フロイドを待っている内に眠気に抗えず、つい寝てしまった。あぁ、これではフロイドに「おめでとう」の先を越されてしまうな、なんて。
夢でジェイドはフロイドと北の深海を泳いでいた。屋敷の周りで小魚を蹴散らして笑っていたかと思えば、場所は珊瑚の海の色とりどり豊かな景色に切り替わる。あぁここでアズールに出会ったのだった、と懐かしく思いながら今度はタコつぼを覗き込み、そのアズールに墨を吐きつけられ、フロイドにケラケラと笑われる。顔を真っ黒にして帰れば両親は驚きながらも、父は「たいした子だな!その子はっ」とわははと豪快に笑う。それから陸に初めてあがった時に、耳飾りにしようと提案されて作ったチョウザメの鱗のピアス。それでは味気ないでしょう、と守銭奴なアズールが陸にあがって初めての誕生日にくれたもの。海でも滅多にお目に掛かれない千年貝の小さな真珠を、それぞれに付けてくれた。フロイドもジェイドもそれに大層喜んだ。お揃いのピアスをつける事でいつでもアズールや相棒と一緒にいる気分になると、運動時以外はそれはそれはとても大事にしていた。
明日はどんなサプライズが待っているのだろう。
フロイドが欲しがっていた靴は用意したから、後は夜が明けたら渡すだけだ。
そんな幸せな思考は、早朝のけたたましくドアを叩く音で消えてしまった。
フロイドの喪失を告げるオクタヴィネル寮長と学園長の言葉と共に。
「今、なんと?」
一瞬何を言われたのかジェイドは理解が出来なかった。だってあの自由で、しかし警戒心の強いフロイドが、だ。
学園長に案内されたのは嵐の去った山の麓。
垂直に伸びる崖を見上げる事の出来る所にフロイドは横たわっていた。
足はありえない方向に曲がり、頭から流れ出たであろう血液は土に吸われ、雨水に混じっている。いつからそこにいたのだろう。全身は濡れそぼっており、目がうっすらと開いて、しかしもうジェイドをその目に映すことはない。
まさしく海の中で散々見てきた死体そのものであった。
「ここを通りかかった方が、彼の制服を見て学園に知らせてくださったんです。男の子が死んでいると」
アズールはその場に座り込んで声も出さずに泣いた。そのまま膝をずりずりと引きずり、フロイドに近寄る。フロイドの曲がってしまった足や、濡れそぼって顔に張り付いてしまった髪を除けて、目が良く見えるように払ってやる。
「こんな姿で…かわいそうに痛かったでしょう…」
そう動かないフロイドに問いかけ、段々声が揺れていく。今、アズールは何かを耐えているようだった。
そんなアズールに声をかけようとしたのに声がうまく出せない。視線を唯一の片割れから離すことが出来ない。体中の温度が失われてしまったかのようにからだの感覚が鈍い。
体を懸命に動かし、なんとかフロイドの元に行きしゃがみ込んだ。
「フロイド?」
ジェイドはソレに問いかける。
もしかして死んだフリをしているのでは。そう思いたくて指先をフロイドの頬に滑らせる。
ほらまだ弾力がある。顔は綺麗じゃないか。今にも目をぱっと開いて「いてー!!」と喋りだすのではないか。
そうやってジェイドはフロイドの生きているかもしれない、という痕跡を探って、そして理解するのだ。
そこには温もりなどはなく、ただの冷たい皮膚の感触がジェイドの指先をじわりと侵したのだった。
フロイドの葬式は陸で簡単に別れを済ませた後、海のリーチ家の屋敷で粛々と行われた。人魚が死ぬとその身は海に返さなければならない。
フロイドの遺体が深い海溝に沈んで行くのを見送りながら、ジェイドは物思いに耽る。
「フロイド…貴方もそうやって他の兄弟達のように淘汰されてしまうのですね」
かつて大勢いた兄弟。
ある事件をきっかけにウツボの稚魚はジェイドとフロイド二人だけになり、そして今、ジェイド独りとなった。
リーチ家の両親は大事な息子がひとり死んでしまったことにそれは嘆いていたが、ジェイドは不思議な程に心が凪いでいた。
悲しいという気持ちがなく、ひたすらに心臓に穴がぽっかりと開いたような感覚を味わう。
葬式が終わった後、幼馴染のアズールは暗い表情でどこか上の空だった。ラウンジ経営者としての責務は果たしていたが、ふとした瞬間に地面をじっと見つめたままぼーっとするようになった。
周りの生徒たちの反応もどこか暗い。比較的仲の良い生徒もいたが、そうでない生徒も自分の学校の生徒が自分が在学中に死んだ、という事実が重く心にのしかかっているようだった。現にアズールと契約を結んで、逆恨みから何かとジェイドやフロイドに突っかかっていた生徒達があれ以降全くと言って良いほど近寄って来ない。
ジェイドは内心、気を紛らわせるのに丁度良いとわざと人気の無い場所まで出向いてやったというのに…と、残念に思っていた。
そんな、唯一の兄弟が死んでしまったというのに不思議な程に様子の変わらないジェイドを逆に心配したのかアズールも同じクラスのリドルもあまりフロイドの事を話題に出すことはしなかった。
数日経ち、一ヶ月経ち、数ヶ月。
突然襲った生徒の死の悲しみというものは時間と共に薄れていき、いつもの普段の活気と生徒同士のいざこざが学園中に溢れかえっていた。
そしてジェイドは人知れず屋上にいた。
「フロイド、貴方が居なくなって不思議と悲しい気持ちが湧いて来なかったんです。薄情でしょうか…」
果てしなく続く青を見つめながら、感情の宿らない顔で、ここにはいない片割れに向けて問いかける。
「でも段々この世界の色が褪せてきてしまって、貴方が居ない世界がこんなにもツマラナイなんて思いもしなかったんです。貴方は今どこに居るんですか?僕もフロイドのいる所へいけますか?」
そしたら、また二人で…
ジェイドは手すりから身を乗り出した。今は手すりを背に風を感じながら立っている。一歩踏み出せばそこには足場が無い。しかしなんの迷いも無かった。
アズールには置き手紙を残した。それから両親にも渡してほしいと。自分が死んだ後はこうしてほしいああしてほしい。それから請け負ってた仕事は全部済ませ、後任も用意した。最後までアズールの行く先を見ていたかったが、フロイドが一緒でなければ意味がないのだ。
遺書をまさか幼馴染に託すとは夢にも思わなかった。アズールは何を勝手な!とどれだけ怒り狂うだろうかと想像する。
もし次に逢った時にフロイドと一緒にお詫びのコインでも用意しておきましょうか。
久しぶりに心からの笑みを浮かべたジェイドは軽々と、ステップを踏むかのように一歩を踏み出す。
そしてそのまま屋上から飛び降りた。
ピピピ…ピピピ…
目覚ましの鳴る音が聞こえた。
ついいつもの習慣で手際よくその音を止めようとしたが、ジェイドは頭の隅で違和感を覚えた。
「(僕は屋上から飛び降りて死んだ筈…)」
確かに風の感覚をリアルに覚えている。
地面にたたきつけられた痛みも誰かが遠くで叫んでいた声も…
そう考え事をしながら目覚ましを止める手を疎かにしていると、右隣に置いてあるベットから聞き覚えのある不満そうな声が聞こえた。
「ん〜…ジェイドそれ早く止めろよ、うっさい…」
布団を一度バサっとめくり、また包まるように布団を被るその姿。
「フロイド?」
あのときと同じ問いかけ。
そう、死んだはずの唯一の片割れ。
これはまさか死ぬ直前に見るという走馬灯のたぐいだろうか。しかしなぜ自分の意思で動くことが出来るのか…
ジェイドは言われた通りに目覚ましのアラームを止めるとベットをそろりと降り、もう一つのベットの主に近づく。相変わらず布団を顔まで被る姿は記憶そのままで、ジェイドはバサっと思い切り布団を剥がした。不機嫌に目を細めたその顔を両手で鷲掴むと目尻や頬を捏ねくり回すように温度や感触を確かめる。
この感触は紛れもなく現実で生きている証だ。
ジェイドが必死の形相で顔中を弄りまわすものだから、耐えられずフロイドは声をあげて批難した。
「やめろよ!朝からなにしてんの!?」
フロイドが顔中を弄っていたジェイドの両手を捕まえると、ジェイドはまるで迷子の幼子のような頼りない表情をする。
「フロイドが生きているのか、確かめたくて…」
「はぁ?オレなんか死ぬような事したっけぇ?」
心底意味が分からないとでも言いたげなフロイドに、きっと今まで見てきたのはとてもリアルな悪夢だったのだろうと自分を納得させる。だってこうしてフロイドは自分と同じ温度で生きているのだから。
「なんでもないんです。ちょっと嫌な夢を見ただけなので…」
「ふーん…じゃあジェイドここおいで?稚魚ん時よくこうしてたじゃん」
フロイドはジェイドが入れる程のスペースを開けるとベッドマットをポンポンと叩いた。珍しく憔悴したようなジェイドに庇護欲が湧いたのかもしれない。少しだけ気恥ずかしく思ったが、心の冷えきった今のジェイドはフロイドのその優しさが有り難かった。
人肌に温まった布団に包まれてジェイドもフロイドもまたうとうととしだす。
そうして二度寝をし、二人揃って遅刻をした。
「フロイドはともかく、ジェイドまで何をしてるんですか?」
1限目の授業が終わった後の休み時間。移動教室で廊下ですれ違いざま、アズールは二人が遅刻した事に呆れたと言い顔に手をあてた。
「ジェイドが嫌な夢見たっていうからさぁ…」
「二人揃って二度寝をしたと?」
「申し開きもできません」
はぁ、と一息。アズールはため息をつく
「明日はお前たちの誕生日でしょう?明日に備えて今日は問題を起こさないようにして下さいよ?」
「え?」
明日は誕生日だったのか、と今更ながらに気付いたジェイドは楽しみな反面、朧気な夢の内容も確か誕生日前日の出来事だった気がする、と思い出す。起きたばかりの時はあんなに鮮明に覚えていたのに、夢とは時間が経つと忘れてしまう。しかし嫌な気分だけは忘れないもので、よりよって祝うべき前日になんて不吉な夢を見たのだろうとジェイドもため息をついた。
それを横目で見ていたフロイドは、冗談混じりに「今日は1日一緒にいてやろうかぁ稚魚ちゃん?」とニマニマ笑いながらジェイドをからかった。
そんなやりとりはあったものの、いつものようにそれぞれの教室へ向かい授業を受ける。いつもの風景、いつものやかましいクラスメイト。別段変わった事など何もない日常。次第にジェイドの気持ちは解れていく。また休み時間の度に教室へ来てはジェイドを見つけると「アカイカせんせぇに怒られた〜」だの「イシダイせんせぇに褒められた〜」だの「ロブスターせんせぇがうるせぇの」だのと報告し、近くにいたリドルをからかって去っていく。いつもながら、からかわれてうぎぃぃぃ!と真っ赤な金魚のようになって怒りだすリドルに、相変わらず変で面白い人だな、なんて思いながら時間は過ぎていった。
午後、ソレは突然やってきた。
賢者の島全体を覆った雨雲は嵐を呼び、生憎の荒れ模様となった。
教室から外を眺めていたジェイドは授業内容を話半分に聞きつつ「今日は山へは行けませんね」などとひとり呟いた。ジェイドだけに限らず、きっと屋外活動をする部は今日は活動出来ないだろう。頭の隅で、午後の飛行術の授業がなくなったのをこれ幸いと思いながら、活動が出来ないのならラウンジへ顔を出そうか、という考えに至った。
それからフロイドに危険だからパルクールはしないよう注意をしておかなければ、と稚魚でもないのに漠然とそう思った。
最後の授業が終わり、ジェイドはラウンジへ向かう。その前にフロイドの教室へ寄り一言声をかけようとしたが、その姿を見かけなかった。
ジェイドは近くにいた生徒に声をかける。
「すみません。フロイドを見ませんでしたか?」
声をかけられた生徒は、時々教室でフロイドと一緒に喋っている生徒だった。といってもフロイドは名前を憶えていなくて、また海の生き物の名前で呼んでいたようだが…
「フロイドなら午後から授業サボってるよ。どこに行ったかは分からないなぁ」
それを聞いたジェイドは焦りを覚える。フロイドがいなくなるなんていつものことなのに。でも今日この日だけは見失ってはいけない気がした。
それからジェイドは片っ端から今日関わったであろう生徒に声をかけていき、若干怖がられながらも有益な情報を耳にした。
「フロイドなら、お前の後を追わなきゃってあっちの山の方に行ったみたいだけど…」
嵐、山。そして崖下に横たわっていたフロイド。
それを聞いた瞬間ジェイドは夢の内容を全て思い出す。
誕生日前日の夜。夜中になっても帰って来ないフロイド。次の日にフロイドが死んだと告げられ、向かった場所は…
「(あの山…!)」
地面に横たわったフロイドの映像がフラッシュバックする。
教えてくれた生徒に早口で感謝を述べると、ジェイドは傘も差さずに嵐の中、外へ飛び出した。
その生徒はそんな珍しくなりふり構わずなジェイドを物珍しそうな顔で「おう…」と小さく返事をしたのだが、その時はジェイドの姿は小さくなっていた。
「(僕を追って行ったとはどういう事だっ!?ずっと学園内にいたのに…フロイドは一体何を追って…)」
全身濡れそぼって動きが鈍くなる。普段は乾いた土は水分を含んで滑りやすくなり、ジェイドの革靴は泥が跳ね靴の中に水が入り込み、実に最悪な状況であった。状況が状況でなければ足の気持ち悪さに耐えられなかったかもしれない。前髪から垂れた水滴が視界を遮ってよく見えず、邪魔な前髪をかき上げ、フロイドの痕跡を探すようにキョロキョロと周りを見渡しながら、それでもジェイドはよく行く山の道のりを記憶を頼りに突き進む。
お願いだからあの子を奪わないでくれと祈りながら。
フロイドを見つけたのは山の中腹だった。崖の間際に立ちぼーっとしている。間に合ったのだ。ジェイドはほっと息をついた。張り詰めていた緊張感は解かれ、どっと疲労感が押し寄せる。フロイドは何故か傘を2つ持っており、声をかけるとこちらを振り返りびっくりとした表情をする。
「ジェイド!何こんな嵐の時に山登りしてんの?!いつも山をなめんなって言うくせに自分が一番危険な事してんじゃん!」
ジェイドは確かにフロイドにいつもそう言っていた。だから今日も山になんて行ってないし、フロイドがここに行かなければそもそも来る予定も無かったのだ。だというのに自分とフロイドの話が噛み合わなくて困惑する。
「僕は今、フロイドを追って来たんですよ?」
「は?でも、だって…」
フロイドは崖の下を覗き込む。
「オレ、ジェイドが山に行ったの見て、何バカな事してんだろって思って必死で後追いかけたんだよ…」
よくわかんねーけど、え?お化けってやつ?
フロイドは嫌そうな顔をしながら崖から離れようとした。
「そういえば何故そのような場所に?落ちたら危険ですよ」
「さぁ、なんでかジェイドがあそこにいたような気がして…」
名残惜し気にちらと崖の向こうを見ると、フロイドは踵を返しジェイドのいる方へ歩み寄ろうとする。
フロイドが動くとその居た場所に残るように、黒いもやが現れた。
あれはなんだ。
雨で視界が最悪な中、ジェイドはそれをよく見ようと目を凝らせる。
緊張が走った。
数秒そこに留まっていたそのもやは、静かに静かに、フロイドの首にそのもやを巻きつかせた。
しかしフロイドはまるで気づいていない。あれは危険だとそう本能的に感じたジェイドは咄嗟にフロイドに手を伸ばし袖を掴もうとする。空を切るジェイドの手。それと同時に、フロイドは何か後ろに引かれた感覚がしたのだろう、驚いたように顔を後ろに向けて踏ん張ろうとするも、足を滑らせ後方に倒れ込んだ。
後ろは崖。
そうしたらどうなるか、なんて考える間もなくジェイドはフロイドに一気に駆け寄る。
ぬかるんだ土に片足が取られ、煩わしいとばかりに片方の革靴を脱ぎ捨てた。踏みしめた靴下からはぐじゅっと音がし、泥の感触と小石の感触がした。あと一歩という所でフロイドは崖から身を放り出していて、その後を追うようにジェイドも崖から身を乗り出した。
耳元で風の切る音が聞こえる。内臓が浮くようなゾッとする感覚もする。ジェイドはそんな中でも青褪めるフロイドに手を伸ばす。自分だって高所は嫌いだし、本来ならこんな事にならないで、今頃三人で明日の誕生日に向けて色々と準備をしていたはずだ。
高所から落ちたあと、自分がどうなるのか、痛みも何もかも覚えていた。正直二度とこんな経験はしたくないと思った。
それでもフロイドをひとりであの冷たい地面に横たわらせたくなかった。
唯一の片割れ。一緒に生きようと手を取り合った暗い暗い洞窟での誓い。
もう二度とあんな気持ちになるのは御免だった。
地面にぶつかる衝撃。ジェイドもフロイドも体を動かす事が出来ない。こんなところで人魚の丈夫さが祟り、すんなりと意識を刈り取ってはくれないようだ。
ジェイドは目だけを動かしフロイドの姿を見つけると、放り出された手を強く握る。
よかった。まだ暖かい。
フロイドの手も弱弱しくジェイドの手を握りかえす。
「———…」
肺も潰れて呼吸ができず、声にならない声をなんとか絞りだす。
次、もし会えたらまた……
目から涙がポロリと一粒。
そこで意識は途切れた。
ピピピ…ピピピ…
アラームの音が鳴る。
それと同時に目を開けたジェイドは、やっと息が出来たとでもいうように飛び起きた。
呼吸は荒く、落ち着かせるように胸元に手を置く。急いで隣を見るとやはりそこには一緒に死んだはずの相棒が呑気に寝ていて、ジェイドはスマホのトップ画面を開き日付を確認する。
11月4日、誕生日前日だ。
流石のジェイドもこれは夢ではないのだと分かった。
フロイドはこのままではまた山へ行って、崖から落ちてしまう。
そして繰り返すのだろう。11月4日を。フロイドの死を。
そう思ったら震えが止まらなかった。
恐怖はジェイドの思考を澱ませる。
「絶対にフロイドをここから出してはいけない…」
普段なら。フロイドの事をよく分かっているジェイドならまずしない選択をいとも簡単に選んでしまう。
きっとフロイドなら事情を離せば分かってくれる。
ジェイドはそう思い込んで、部屋中のありとあらゆる扉や窓に防御魔法と施錠魔法をかけた。
そして自分のベットに座り、じっとフロイドを見張る。
いつもならジェイドが起こして初めて目が醒めるフロイドなので、何もしなければ下手をすれば昼間まで寝ている。それならそれで良い。
じぇいどはスマホを取り出すとアズールへ連絡を入れる。
『僕もフロイドも今日は体調が優れないので、学校を休みます』
メールを送ると1分もしない内に返事がくる。
『体は動かせますか?もし動かせるなら医務室に行って、きちんと診てもらいなさい。無理なら今からそちらへ行きます』
自己責任といえど、こうやってアズールは二人を心配してくれている。それに罪悪感を抱きながらも、身体は動かせるので自分で行けます、と返事をしておいた。
そうしてこの部屋から出ないで済む状況を作り、ひたすら時間が過ぎるのを陰鬱な顔で過ごしていた。
ジェイドが多少空腹を感じたあたりでフロイドは身じろぎをする。海の中といえど、明らかに明るい室内に目を眩しそうに細めた。
「…んぁ…今何時…」
目を醒ましたフロイドは枕元にあったスマホの時間を見て諦めたような表情をする。
そしてジェイドが未だに部屋着のままベットに座っているのを見て疑問符を浮かべた。
「今日はなに?起こしてくれる気分じゃねぇの?もうすぐ昼じゃん」
「まぁそんな所です」
「えぇー…遅刻じゃん…腹も減ったし、食堂行って飯…」
「いえ、フロイドはここに居て下さい。僕が何か見繕ってきますので」
ジェイドはニコリとしながらフロイドにそう告げた。暗に外に出るな、と言葉の端に滲ませる。
いつものジェイドらしからぬその様子に何か言いたげにしながらも「そう」、と頷いた。フロイドとしては別にどうしても行きたい訳ではないし、ジェイドがご飯を持って来てくれる、というならそれでも良いか、という程度である。ただそれでも。
「ねぇジェイド。何かあった?」
あくまでなんか気になっただけ。そういった風にフロイドはジェイドに問いかけた。
ジェイドはそれに目を見開いて口をつぐんでしまう。
「それは…」
言っても良いのだろうか。このままでは貴方は死んでしまうのだと。だから今日一日が過ぎ去るまではこの部屋にいてほしいのだと。
人に束縛される事を嫌うフロイドが、そんな不確かな予言めいた話を真剣に受け取って、じっとしててくれるだろうか…
それでも一縷の望みをかけてジェイドは意を決して説明した。
今までジェイドが経験した、フロイドの二度の死。
どちらも崖から足を滑らせての転落死だが、何かの陰謀でフロイドは命を狙われていたのではないかと。
真剣で必死なジェイドの表情に、フロイドもこれは揶揄するべき話ではないと悟る。ただの夢の話なんじゃないの?と自分の死というものを実感は出来ないが、少なくともその案件がジェイドの心をずっと曇らせているのだ。別段体調が優れない訳でもないのに部屋に一日中籠もってろと言われて正直嫌だったが、それでジェイドの気が晴れるなら…
フロイドは自由に振る舞う一方でやはり身内に甘く、自分の気分よりそちらを優先させる事にはちっとも迷いがなかった。
「って事はジェイドも一緒に部屋で過ごすんでしょ?どうせアズールに休むって連絡でもしたんだろうし」
「そうですね。出来れば貴方から目を離したくないので…」
「じゃあゲームしようよ。オレこの前ホタルイカ先輩からゲーム借りたんだぁ」
フロイドはどこだっけ…とベットの足元の床に置かれた自分のスクールバッグの中をあさる。キャンディの包み紙、ぐしゃぐしゃになった何かの紙切れ、よく分からないガラス玉、フロイドは適当にそれらをポイポイっとベッドの上に放り投げる。自分のベッドに座りそれを見ていたジェイドが、相変わらず整理整頓が苦手なんだなぁと苦笑いを浮かべていると名あての物が見つかったのか「あったぁ!」とそれをジェイドに掲げて見せた。
ジェイドがどこかから取り出した軽食やお菓子、ジュースをつまみながら二人はレースゲームをしていた。
最後のコーナーでジェイドは思い通りに動かない車体に舌打ちをした。
「やった!ジェイドお先~」
ニヤニヤしながらジェイドの車体を軽々と追い越していくフロイド。堂々一位に君臨するフロイドとそれに続くように次々とゴールしているNPC。負けず嫌いという訳ではないが、これほどまでに己の下手くそさを見せつけられ多少悔しさを覚えながら、車体を壁から剥がすべく右に体を傾ける。傾けたって別に車体が一緒に傾くわけではない。
先にゴールして一時の暇を持て余したフロイドが、ジェイドの悪戦苦闘している姿を見て「ジェイドこういうの下手だよね」いつもはなんでもこなすのに、と笑いながら見ている。
「こういう技術を必要とするゲームは苦手です。頭を使ったりじっくり考えられるゲームの方が好きですね」
「アズールと同じ事言ってる」
アハアハとフロイドは笑った。
フロイドから30秒ほど遅れてなんとか壁沿いにゴールしたジェイドはコントローラーを膝に置き、ふうと一息ついた。瞬き少なく真剣に画面を見つめていたからか、ひどく目が疲れたように感じる。
フロイドはとてもご機嫌だった。
合間にポテトチップスをつまみ、お行儀悪く部屋着の裾で油をぬぐい取る。
それからフロイドは持っているゲームを片っ端から入れてはジェイドと一緒に遊ぶ。
対戦ゲームもあれば、協力してコースをクリアするタイプのゲームも。広大な世界を冒険するいわゆるアドベンチャーゲームというものも。
実はジェイドは、フロイドと一緒にゲームをしたことがなかった。
いつもフロイドがゲームをしていると、「何をされているのですか?」と覗き込むが、説明をされるとそうですか、と素っ気なく自分の好きな作業に意識を戻すから。対他者であれば多少は興味の姿勢を見せるが、身内であればそこら辺は結構ドライだ。ジェイドとはそういう男だ。フロイドもジェイドのする事に自分に被害(主にキノコによる)がなければ特段なにも言ってこなかった。
だから今回二人が長時間一緒にいる時間を持った事で、フロイドと一緒に遊ぶ、という事になったのだが、そういった操作が苦手ではあるがジェイドは楽しかった。
稚魚の時はたくさん一緒に遊んだ。それこそ一心同体のように、ジェイドが、フロイドが行くところには必ずもう一方もいる、というように。
それが陸にあがり、それぞれが自分の趣味を持つようになると、年頃なのも相まって自分の時間というものを持つようになる。それぞれが相手の時間を尊重し、邪魔をしないようにと何も言わない。そして夜になって部屋で再開した時に「今日は楽しかった?」と聞くのだ。
思えば二人とも、きっと寂しかったのだ。
今日はフロイドの遊びに付き合った。次の休みの日は自分の好きに付き合って貰おう。
そう決意するとジェイドの心は信じられないほど軽くなる。
「フロイド、次の休みの日は僕の好きな事に付き合って下さいね」
そしたら「今日は楽しかった?」ではなく「今日は楽しかったね」。
そう言えるのだ。
「まぁ、きのこ食わされるんじゃなければ、たまには良いよ。山も一緒に行ったげる」
フロイドの機嫌は最高に良い。言質を取ったとニコニコしながらジェイドは時計を見る。
「もうすぐ放課後になりますね。アズールが来て、この光景をみたら怒りそうなのでそろそろ終わりにしましょうか」
「あはっ、アズールに変な嘘つくからじゃん!」
フロイドは笑った。
もう外は幾分暗い。
フロイドは窓に顔を押し付けた。
「部屋ン中いたから気づかなったけどさ、外、嵐だったんだね」
水中深くにあるこの寮は上空の様子は反映されない、しかし水面をみると渦巻くような波の揺れが見え、それで外の様子を見る事が出来た。
ジェイドも同じく窓に近寄る。嵐だというのに水中の中はいたって穏やかだった。
不意にアズ―ルが言った言葉を思い出す。
『嵐は全てのものを破壊していく』
それから海では良くないモノも運んでくる。
そしてジェイドは何故いまフロイドと部屋にいたのかを思い出す。
いやここは僕らのテリトリー。安全なはず…じわじわと襲い来る不快感にもしかして間違えた選択をしているのではと不安になる。
「フロイド、この部屋を出て談話室へ行きましょう」
「は?なんで?」
「ここは海に近すぎる」
もしあの何か良くないモノが海に侵入してきたら…
人目があれば、きっとあの訳の分からないモノもそう簡単に手を出して来ないかもしれない。
あいにく部屋着のままだが、そんなことも気にしてられないし、言い訳なんてあとでいくらでも用意できる。
ジェイドはフロイドの左手を引き、窓から離れるよう促す。
施錠魔法と防御魔法も解いていざ部屋を出ようとドアに向かった。
マジカルペンをみると本来は透明に輝いていたであろう石は、持続的な防御魔法の使用によって微かに濁っていた。
訳が分からないままフロイドは言われたとおりに窓から離れようとした。その時、
バリンッという音が部屋の中を反響すると共に
「え…」
フロイドの間抜けな声が聞こえた。
それと同時に掴んでいた筈の左手の感覚がひどく軽くなる。
何事かと振り返るよりも早く、暴れ狂う水流に押し流される。元人魚であろうと今は人間の体。流れに逆らう事も出来ず、ジェイドは壁に強かに体を打ち付けられた。視界の隅でフロイドの左手のみが同じように壁にぶつかり、水中でジェイドはうそだ…と何度もつぶやいた。
窓が割れていた。それから大きな黒い影が遠ざかっていった。その大きな影の口元から流れ出た血がその跡を辿るように海中を揺蕩い、やがて霞んで姿が見えなくなっていった。
あの大きな黒い影はなんなのか、とかどうして窓が割れたのか、とかそんなものを考える気力はとうに果てていた。
今から追いかけたらフロイドは助かるのか…しかしジェイドはもう分かってしまっていた。
フロイドはどう足掻いたって、ジェイドがどんな策を講じたって、彼は誕生日を迎える前に死んでしまう運命なのだ。
もう良い。
フロイドが死んでしまう運命なら、僕もいっそ一緒に楽にしてください。
薄れゆく意識の中で初めて、ジェイドはいるのかいないのか分からないこの世界の神とやらに縋った。
次に目覚めた時、ジェイドは白い空間にいた。
周りを見るが何もない。ひどく感覚がフワフワとしていて、ここが噂に聞く死後の世界なのかと思った。
「おい、ジェイド・リーチって言ったな」
突然声をかけれられる。
緩慢とした動作でその声のする方を振り返る。
「ははっ何て締まりのない顔だ!これじゃ生きてるのか死んでるのかも分からないなぁ~せっかくいい話をしてやろうと思ったのに」
「貴方は誰なんですか?」
「そうだな、お前たちの言うところの神とでも言っておこうか。お前はどうしてあいつが死んでしまったのか知ってるか?」
それを聞いた瞬間、ジェイドは目をギラギラとさせてその神と名乗る生き物を射殺さんばかりに睨んだ。
「貴方が殺したのですか!?何度も何度も!」
「恨むなよ。あいつはそういう運命だったんだ。だってあいつはガキの頃にそういう契約をしてしまったのだから」
契約ってのは海の生き物が大事にする概念なんだろう?もっともあいつ自身は契約した事なんてこれっぽっちも認識してなかったみたいだがな。
そう言ってソレは笑った。
ジェイドはその生き物に流されないよう努めて冷静に向き合った。
「フロイドがした契約とはなんです?それをどうして僕に教えるのですか?運命だったから諦めろと、そう言いたいのですか?」
このいきものが何を自分に言いたいのか必死に考える。
こういった言葉遊びをするモノはたちが悪く、総じて自分のペースに他を巻き込み翻弄しようとするのだ。
その手口にはとても馴染みがあった。
「残念だが、あいつがした契約については教えられないなぁ」
顔はないはずなのにソレがいやらしく笑っているのがすぐに想像できた。
「あぁそうだな。いつもならこんな事しない。けど、思った以上にあいつの生は観察してて面白かったんだよ。お前ら知能のある生き物たちが言う、いわゆる『可愛がってたペットが死んでしまった』ような喪失感に似ている。お前なら分かるだろう。ジェイド・リーチ」
「僕はちがっ…」
お前だってそういう目で見てたんだ。俺は知ってるぞ。
そう言われ、ジェイドは口を噤んでしまった。自由なフロイドが好きだ。しかし否定しきれなかった。
いつも計算高いジェイドは、人の観察をし、自分の手でその行動や思考を操る事に長けていた。
そんな計算に狂いを生じさせたのがフロイドだった。最初はイライラとした。どうして自分の思い通りに動かないのかと。しかし、自由な彼が見せるその世界を観察するのが好きだった。結局はそういう事だった。ジェイドの瓶の中にフロイド、という生き物を入れたらどうなるのかを観察している。
ソレの言う、ペットと変わりなかった。
「オレとお前は同じだよ。だからお前に提案しようと思ってここに連れてきたんだよ」
ソレはくつくつと笑いながらスッとジェイドに近づく。思わずのけ反るジェイドに顔のない顔を近づけた。
「なぁジェイド・リーチ。ゲームをしないか?お前は今からまたあの世界で目が覚める。それから10日後にあの兄弟はまた死ぬ。何もしなければまたそういう運命をたどるんだ。しかし俺ならその運命を変えてやる事だってできるんだ」
それは形のはっきりしない指を一本立てると、ジェイドから離れたかと思うと、瞬きをすると同時に音もなく3メートルほど先にいた。
「ゲームのルールは簡単。この世界の生き物からお前に関する記憶を全て抜く。お前が目覚めると同時にジェイド・リーチという存在は無くなるんだ。わかるか?愉快だなぁ?さてお前の勝利条件は、例の日のとある時刻までにお前の兄弟にジェイド・リーチである事を思い出させる事。そうすればお前の兄弟は無事死なずに生き延びられるってわけだ」
「もし…思い出させることが出来なかったら?」
「それは…—— 」
ジェイドは藁にもすがる気持ちで条件を呑んだ。どんなに怪しくても自分に残された道はそれしかない。
ここにはいないアズールが聞いたらきっと呆れるだろうと思うがそれしかないのだ。
「契約成立だな」
ソレが言い切ると同時に意識が霞んでいく。
結局あの空間はなんだったのだろうと思い先に不安を感じながらも、完全に視界が暗転した。
次にジェイドの意識が浮上すると、見知らぬ部屋で横になっていた。朝であろう、窓から差す光は柔らかい。
隣のベットには知ってるような知らないような、少なくともそれほど交流をしたことのないであろう人物が寝そべっていた。ただの同じ寮生。
ここはリーチ兄弟の部屋ではない。置いてある私物もまるで見覚えのないものだらけだった。
「あぁ、おはよう。ジェーダ」
その寮生は、ジェイドの事をそう呼んだ。
ジェーダ。それがこの世界でのジェイドの名前のようだ。
「おはようございます…」
ジェイドは相手の名前が分からず、曖昧に返事をした。
日付を確認する。今日は10月の26日。アレの言ったとおり、約10日間の猶予が与えられたようだ。
ジェイドは手早く身支度を済ませ、名も知らない寮生に別れを言うと早速寮の談話室に行く。
アズールとフロイドはいるだろうか。一目で良いからまずは会いたい。
談話室には多くの生徒が集まり、それから目的の人物を見つけた。アズールとフロイドだ。
二人ともソファーの一角に座っていた。朝食も既に済ませてあるのだろう、後は時間まで談笑し過ごす。いつもの日課だった。
いつもの変わらない光景にどこかほっとしたジェイドは、これまたいつものように二人に近づいた。
二人は人の気配に気づいて顔をあげた。こちらを見たのだと思い、ここがアレの用意した世界である事など忘れてつい手をあげて、いつものようにお待たせしました。そう言おうとした。
「お待たせしました。アズール、フロイド」
ジェイドの隣を風が横切る。その風の正体を探ろうと通り過ぎたものを見やると、颯爽と歩いていく背の高い後姿を見た。きちんと着こなされた制服。黒い皮手袋、右腕にはオクタヴィネルの腕章が堂々と飾られていて、姿勢も声も凛としていた。ジェイドは信じられない事にそれと自分の姿を重ねてしまった。しかし決定的に違うもの。それはフロイドとお揃いの海のような髪は、まるで墨でも塗りたくられたかのように黒かった。
しかしアズールもフロイドも、その人物がそこにいるのが当たり前であるかのように実に気軽に「じゃあ行こうか」と返事をする。
そして三人は談話室を出て行こうとし、アズールはその男に「今日の予定なんですが…」と話しかける。
ソコは僕の場所のはずだ…
拳を握りしめ、じっとそれを見つめるジェイド。
ふとその男はジェイドの視線に気づいたのか振り返った。そいつはジェイドを見ると、二人に見えないようにジェイドに向けてにやぁっとアメジストの目を細め、笑う。
その男は当たり前のようにアズールの右に立ち、フロイドのシャツの襟を仕方ないですね、と言った風に直していった。二人もそれが当たり前の事であるかのように受け入れている。
これがあの生き物の用意したステージだというのか、と理解する。しかし心は付いていかない。
例えるならば切り取られた人物の写真に、別の人物が張り付けられている感覚。
自分はそれが間違っているものだと分かっているのに、周りはそれの違和感に気づかず、それが真理だと疑っていない。そんな光景だった。
「ちょっと待って下さい…僕が―———だ…!そこにいるべきはその男じゃない!」
ねぇフロイド。唯一の片割れをそう呼んで、咄嗟にフロイドの腕を掴んでしまった。
しかし、自分の名前を言おうとして違和感を感じる。うまく発音できないのだ。
フロイドは一瞬驚いた顔をし、目を宙にさまよわせたあと
「あぁ?…お前だれだよ」
そして冒頭に至る。
あの後あの黒髪の男にフロイドの腕を掴んでいた腕を逆に掴まれた。
「どんな目的かは知りませんが、あまり面白くない冗談はやめていただけませんか?」
とそれはそれは丁寧に手を剝がされた。
衝動でその男の襟をつかんで殴り飛ばしてやりたくなったが、これでもジェイドは賢い男だ。おそらくあの男にそんな事をしたら、自分の立場が悪くなり、初手スタートから印象もなにもかもマイナスになっていただろう。
しかしフロイドにあんな目を向けられる日が来るとは思いもしなかった10数年。
喧嘩をした時だってあんな顔を向けられた事はない。
思ったより難しいのではないかと落ち込んだ。なによりあんな顔であんな事を言われた事の方にへこんだ。
ジェイドは何か作戦を考えなければと廊下を歩いている。考えごとをしながらの歩行は危険だと海の訓練校で教わってきたが、歩行になれた今はそんな事を気にしていられなった。猶予は10日しかないのだ。
それまでに何か一歩踏み出さなくては…
考えごとしていると足元に何かがぶつかる衝撃がした。元より大きな体のジェイドはそれほどでは揺るがないが、相手方はひっくり返ったのか「おい、あぶねーだろ!オレさまの事がみえねぇのか!これだから図体だけのd」「わぁぁ!自分からぶつかっておいてグリム失礼だろ!」と咄嗟にその魔獣の口を塞いだ。
すみませんすみませんお願いだからもうイソギンチャクはご勘弁を!ほらグリムもちゃんと謝って!と土下座する勢いで謝ってきた。
記憶に新しい彼らはオンボロ寮の…
「イソギンチャク…あぁあの時の…」
確か魔獣であるグリムくんも契約を結んで、頭にイソギンチャクを生やしてましたね…
この学園ではほんとにどんな生き物にも学習のチャンスを与えるのだなと思った記憶がある。
そしてしっかり10秒。ジェイドは思考を止めた。
「えっと…あなた達は僕の事を知っているのですか?」
もしやと思って問いかける。
「あ、オマエ…?アレ、だれだっけか?」
「あぁ何もかも失礼すぎるよグリム!…えっと…なんでそんな質問を?あ、いえ答えますって!おれが知ってる―——先輩は…あ、すみませんお名前を忘れてしまって…なんでだ?フロイド先輩とは双子のご兄弟で、オクタヴィネル寮の副寮長をしていて、人魚なのに山が大好きで……怖い……」
最後は尻つぼみになりながら言い切った。
「何言ってんだゾ、子分?フロイドってあれだろ?オクタヴィネルのそっくり兄弟の…でもあれ?あいつ別にそっくりでもねぇな。なんでだ?」
グリムが何か言っていたが、ジェイドはもう話半分であった。
自分の周囲の生き物からジェイド・リーチに関しての記憶がなくなるのだとアレは言っていた。
しかしそこで気づく。
監督生は『この世界』の人間ではない。
ジェイドの中でいつもの悪だくみの表情が顔をだす。あちらの契約ミスだ。ならば存分にその「穴」を利用させてもらおうじゃないか。
ジェイドの沈んでいた心が嘘のように跳ね上がり、目の前のグリムをぐんと持ちあげた。
突然2メートル近く持ち上げられ、目下にはあの困ったように八の字に眉を下げたにも関わらず、鋭利な鋭い歯をむき出しにニタリと笑ういつものジェイドがいる。
いつもの威勢はなんとやら、グリムは抱えられながらしっぽをくるりと腹側に丸めた。
なんか取り上げた子供ライオンを掲げるヒヒの映画があったな、なんて遠い目をしながら、その様子をみていた監督生はグリムに心の中で合掌し、グリムは「ひぃぃ何か企んでるんだゾこいつ!」と涙目になりながらぎゃーぎゃーと喚いた。