【剣衛】キスの日の話 衛、と。少し離れた位置にいた恋人の名前を呼ぶと、彼は即座に反応して剣介の近くに寄って来る。
「今日はキスの日なんだってさ」
剣介のすぐ横に腰を下ろした衛に、剣介がスマートフォンの画面を見せながらそう話すと、ばちばちと音がしそうな大きい瞬きの後。えっ、とへっが混ざったような声が返ってきた。
「そ……そうなんだ?」
衛からきちんとした相槌が返ってくる頃には、その頬はほんのりと赤く染まっていて、正直なやつだなぁ、と。しみじみとした感想が浮かぶ。ただ、そうらしいよ、と返事をする剣介の顔にもじわじわと熱が集まり始めていたので、衛のことは何も言えない。あんまりにもあからさまに照れる衛の様子につられた、というのも嘘ではない、けれど。衛に見せたスマートフォンの画面にうつる、今日が何の日であるかを教えてくれるウェブサイトを開いた時には、剣介の胸中は気恥ずかしさでいっぱいだった。だから、衛が見せる反応も何となく理解できる。
(だって、意識しちゃうだろ、こういうのは)
剣介がその苦しい言い訳は外に出さず、顔が赤くなっているのも止めず。ただじっと衛を見つめている間に、スマートフォンの画面は真っ暗になった。それでも、何もうつしていない画面と剣介の顔をおろおろと交互に見る衛の体温は、剣介のすぐ近くにある。顔は完全に赤くなっているだけで、嫌がる色は見当たらない。剣介は衛のそれらの様子に安心しながら、赤褐色の瞳を見つめて、声を絞り出す。
「……待ってる、から」
衛は、自分から身体的な接触をはたらきかけることが、あまりない。他人からの接触はあっさり、ともすれば嬉しそうに受け止めるので見逃しがちだが、衛からの接触は本当に稀なのだ。そうしてそれは、剣介と衛がこうした関係性になっても変わらない。もちろん、恋人になってしばらく経つのに、いまだに初々しい反応を見せ合ってしまうのとも別の問題だ。
衛からの接触が少なくても、衛が剣介に対してどういった気持ちを持っているのかは、しっかりと伝わってくる。剣介の中に不満はなく、それで十分だとは思っている、けれど。それでも、たまに、欲張りたくなる時もあるのだ。
(せっかく、口実ができたんだから)
今日中じゃなくてもいいし、と。口の中に何も入っていないのにもぐもぐと動かし続ける衛に、助け船を出すつもりで言葉を重ねる。これから日付が変わるまでと、無期限になるのと、衛にとってどちらが厳しいのか。剣介にはそこまではわからないけれど。とにかく動揺が落ち着くようにと剣介が向けた言葉に対して、衛は、い、いえ、と。予想外の返事を口にする。
「こ……これから、善処していきます……」
それは、その日限りの対応ではなく、継続して変えていこうという姿勢だ。衛は人の気持ちに鈍くない、むしろ聡い性質をしているのだ。剣介が日頃抱く気持ちも把握していたのだろう。しかし、だからと言って、ちょっとした要求にここまでの姿勢を見せてくれるなんて、という。申し訳なさと、はじめとは別の気恥ずかしさがうまれたけれど。それ以上にもっと強い、嬉しい、いとおしい感情が剣介の胸に押し寄せてくる。
「っ……よろしくお願いしまーす!」
弾んだ気持ちに動かされるみたいに、スマートフォンを片手に握ったまま。体の向きを変えて、そのまま衛に抱き着いた。がんばります、と、腕の中から気負いすぎではないかという声色の返事が聞こえてきて、さすがに苦笑する。指摘は後にしよう、と。ひとまず剣介は衛の体の感触と一緒に、満足の気持ちを噛みしめた。
『Rare request』