【剣衛】一緒に寝るとあたたかいという話 その朝、剣介が目を覚まして一番に見たのは、すぐ近くで眠る衛の顔だ。
「うっ――」
寒さに弱い剣介は、冬の朝がとにかく苦手だ。寝台から掛け布団、それから寝間着。寝具一式をしっかり整えれば安眠はできるが、問題はその後だ。眠りから覚めると、剣介を包む布団の外は強い冷気で満ちている。その、朝の寒さを頭が認識する瞬間が、剣介は嫌だった。指先をほんの少し外に出すのだって躊躇われるようになってしまう。
対処として、起床時間の少し前に暖房が起動するようセットするのは、時々やってはいる。いるが、スケジュールによって起床時間が変わることもよくあり、しっかりした習慣にはなっていない。そのために、大体の朝は寒さとの闘いだ。
しかし、この朝に関してはそうではなかった。
もちろん、朝日の差し込む部屋が冬の冷気でいっぱいになっているのは変わらない。これは、あくまでも寝台の中の話ではあるけれど。剣介の周囲が、常日頃よりもずっとあたたかいのだ。
これなら寒さの中へと飛び出してもいいかもしれない、いや、これはこれで起き上がるのがもったいない、とか。剣介は意識がはっきりする前に、ひどく贅沢な悩みを抱いていた。
その数秒後の今、自分以外に体温を持ついきものが、ほとんどくっつくように眠っているからだ、という。瞼を持ち上げて暖かさの理由を知ったこの状態から見ると、ずいぶん呑気だった、と呆れてしまう。寝起きだから仕方ないと言えば、そうかもしれないけれど。
(わー……いや、思い出したぞ……)
うわ、という驚きの声は、一音目以降は口から心の声に変えた。もう朝なのだ、起こしても問題ないだろう、と。わかってはいるものの、気持ち良さそうに眠る顔を見ていると、声は勝手に体の内側へと潜んでしまう。
そうした咄嗟の判断はできても、どきどきと高鳴る心臓が落ち着く兆しは見えない。ふたり分の体温とは別のところからうまれた熱が、剣介の頬にじわじわ集まるのも止められない。
とはいえ、昨晩の記憶が少しずつ引っ張り出されている今。剣介は、どうしてこんなことに、なんてことは言えないのだ。
――だったら、一緒に寝るか、と。そう言ったのは、剣介だ。
それは数時間前、夜が深くなったばかりの頃だ。返し忘れたものがあった、と、衛は剣介の部屋を訪ねて来た。
剣介にとって、その返却物は急いで手元に戻してもらう必要のない漫画本だったけれど。慌てて剣介の部屋にやって来た衛の気持ちを否定する理由にはならない。何より、こんな夜中に衛の顔を見られるのは嬉しい、と。密かに抱いた感情が強かったので、そのまま来訪者ごと受け入れた。
そこから流れるように始まった雑談をしばらく挟んだ後。衛は、廊下も冷えるよね、と。苦笑したのだ。戻る時のことを考えたのだろう。その時衛も、それから剣介も就寝準備が整っていたので、寝間着のジャージ姿だった。
寮の断熱性は極端に低くはないが、季節をしっかりと感じられるくらいの作りではある。剣介はそれを丁度良いと受け入れてはいるが、寒い時は寒いし、それに耐えられるということでもない。昨日も、夕食後に自室に戻るため歩いた時から、しっかりと気温が下がって冷えていた。ベッドに入ることを想定しての服装で、冬の廊下を歩く。想像だけでも剣介の体を縮こまらせるものだ。
剣介がそこで上着を引っ張り出していたならば、いつもの朝を迎えていたに違いない。しかし、経緯から日常的なものではなかったからだろうか。浮かれた気持ちによって、口も勝手に動いてしまったのか。振り返っても断定できる理由は見つけられない。
とにかく、とんでもない提案をしたのは、他でもない剣介だということだけは、よくわかっている。口にした直後から、どうしてこんなことを、と。剣介の中に後悔や恥ずかしさはしっかりと広がった、けれど。そこから先、ストップだとか、なしだなんて言える瞬間は訪れなかった。
剣介の問題発言に、衛が瞳を輝かせたのだ。
えっ、いいの、と。問いに問いをぶつけてきた時点で、衛の声には驚きよりも喜びが多く含まれているようだった。その嬉しさが溢れた顔を目の前にして、冗談だった、と撤回することは、剣介にはできない。
剣介の胸中では恥じらいとか、照れに近いような、そわそわと落ち着かない感覚がとんでもない、と。止めるように訴えかけていたが、そもそも、一緒に寝ること自体は嫌でも、不快でもない。……やるしかないのだ、と。剣介はそこで状況を飲み込んだ。
その後の記憶は曖昧だが、呆然とした感覚を表に出さないよう、必死だったこと。それから、ふたりともあとは寝るだけなんだし、とか。剣介が衛の問いを肯定する言葉を返すと、衛が子どもみたいに喜んでいたこと。そのくらいは覚えている。
もともと、剣介も衛も眠る直前に顔を合わせたのだ。寝るための支度はそこから恐ろしいほどあっさりと完了し、男ふたりが並んでもまだ余裕のあるベッドに入り――そして朝に至った。
すごい夜を過ごしてしまった。そんなぼんやりした感想を抱きながら、壁掛け時計の方に目を向けると、枕元に置いたスマートフォンのアラームが鳴るまで、もう少しといったところだった。
ちなみに、衛は剣介のすぐ近くで、今もあどけない寝顔を見せている。だから、動揺しているのは、ひっそりと衛に対して特別な感情を抱く剣介ひとりきりだ。未だに剣介の内に響く心臓の音は、横で眠る衛の寝息よりも騒がしく、二度寝はできそうにない。
(……って言っても、俺もばっちり眠れたんだよなぁ〜)
できないのは、二度寝だけだ。昨晩から今までの間、剣介はしっかり熟睡している。それこそ、こうして目を覚ますまで、衛と一緒のベッドで寝ていたことを忘れるくらいには。それはつまり、にこにこと嬉しそうな顔をしたまま、すぐさま寝ついていた衛と大差ない、ということだ。まだ朝が始まったばかりなのに、何度目かわからない呆れが剣介の胸の内に溢れる。
それでも、すぐ近くに想い人がいるのだ。消灯して間もなくは今この時と同じか、それ以上に緊張か興奮をしていた、はずなのだけれど。
「はー……」
いったん見えないところに呆れの感情を片付ける。ゆっくりと瞼を閉じ、開く。カーテンの隙間から差し込む朝の気配を感じながら、剣介はもう一度この朝を確かめる。
自分以外の体温が近くにあるのは、ただ単にあたたかいだけではなくて、やけに安心する。瞼を開いてすぐに見えるのが親しい人の顔なのは、嬉しい感情で胸がこそばゆくなる。昨晩も、そうしたぬくもりに剣介の緊張はすぐにほぐされて、眠りに落ちたのだろう。
おそらく、隣にいるのがある程度親しい人ならば、誰であっても似たような感覚になったに違いない。けれど、それでも。剣介は改めて、自分にぬくもりを与えた人物を見つめる。
(衛だから、もっと嬉しいんだよな)
普段よりも子どもっぽい表情を見て、いとおしい気持ちが湧き上がる相手は、今のところは衛だけなのだから。
まだ、ひっそりと手を触れ合わせるのも躊躇われる、剣介の気持ちしか始まっていない関係性だ。いつかもっと、甘ったるい夜や寝起きに辿り着きたいという望みは、もちろん存在している。ただ、この朝はこれでいい。これだけでも、ずいぶんと良いものだった。
外に広がる冷気を忘れさせるほどに、暖かく、心地の良い朝である。
(これから毎日こうしよう、とか言ったら、どうなるんだろうな?)
困るか、それとも昨晩みたいに喜ぶのか。実際に口にすることはしないが、想像を始めると楽しくなって、剣介の口元は自然と緩む。
良い冬の朝を迎えられた。ひとつの答えに落ち着いたところで、さて、と。剣介は気持ちを完全に切り替える。この声で衛を起こしたいと、口を開く。くしゃりと髪を混ぜるように頭に触れようと、布団の中で手を動かす。
できれば、この特別な人にもより良い朝を迎えてもらいたいのだ。
「衛! 朝だぞ――」
『一緒に良い朝を』