オリジンの涼衛涼 まもる、と。遠くから、名前を呼ぶ声が聞こえる。
「……衛。起きて」
その、覚えのある声に引っ張られるみたいに、衛が瞼を開けると、ざわり、と。鮮やかな緑の葉の揺れるさまが目にうつった。――そうか、あの樹の近くでひとやすみをしていたんだっけ、と。衛は横になったまま、ぼんやりとした意識の中で、現状を認識しようとしたけれど。湿った土と、その土から伸びているのだろう草の匂いの濃さが、ひとつの判断を遠ざけていく。これは、オリジンにはないものだ。衛たちを生み出した世界樹の周りにも、もちろん自然は存在している。だが、それらはもう少しよそよそしくて、ここまで強い命のかおりは感じ取れないものだ。
(じゃあ、ここはどこだっけ……?)
オリジンでは、ない。ならば、ここはどこか。それに、一体いつから、こうして横になっていたのだったか。この覚えのない状況に疑問を浮かべたが、衛の頭の動きはまだのんびりとしたままだ。帰って来るのは木の葉がざわざわと不規則に揺れる音だけである。
「まーもーるー?」
いや、そうだった。耳に届いたのは自然の音だけではなかった。先ほどよりもしっかりと強い口調でもう一度名前を呼ばれて、衛はようやく覚醒した。今度の声には衛の体全体を引っ張るほどの力があって、上体ががばりと勢いよく持ち上がる。
「はいっ! はいはい! 起きました、今、起きましたよー!」
体の動きと同じ勢いで慌てて口を動かしたものの、起き上がった先に、思い描いた声の主の姿は見つけられない。あれっ、もしかして夢だったのかなぁ、と、衛は首を傾げる。
「……リョウくん?」
それでも、あの声は周りに広がっているこの自然みたいな、確かなものに感じられたのだけど、と。衛が少しばかり戸惑いながら声の主の名前を呼んでみると、そうした不安が伝わったのか。衛を導くような、はっきりとした言葉が返ってくる。衛の名を呼んだ声は、思っていたよりもずっと近くて、それから下の方から響いていたらしい。
「ここだよ」
ふわふわとして愛らしい、小さな獣と視線がぶつかる。四本の肢で草むらに立つその獣は、衛の見知ったいつもの姿とはずいぶん異なっているが、声ははっきりと涼太のものだ。それに、全身を覆う毛の銀灰や、くるくる丸い瞳の赤と、普段の涼太を連想させるいくつかの色を持っている。これは、涼太がこの世界でとっている仮の姿なのだろう。
「ええと、リョウくんがいるってことは……」
ここがどこであるのかを、衛は未だにわかっていない。ただ、今がどんな状況であるかは、じわりじわりと理解しはじめていた。オリジンではないどこかの世界で目を覚まし、オリジンではとらない姿になった涼太と対面するのは、これが初めてではない。それどころか、これまでに何度も経験していた。
「もしかして俺、またやっちゃった……?」
「その通りだよ、衛。ちゃんとわかっているじゃない」
おそるおそる、ゆっくりと口にした衛の確認に、柔らかくも、たっぷりと含みのある声が返ってくる。人間ほど表情豊かないきものではないのだろう。衛を見上げる獣に表情はない。しかし、いつもの姿と同じ色の瞳を見ながら、普段と変わらない声を聞いたからだろうか。衛には、獣の背後あたりに、涼太のにっこりとした微笑みが見えるような気がした。人形のように美しくて、だけどなぜか背筋がひんやりしてくる、あの笑顔だ。
「わかっているならどうして、いつもいつも、世界から帰って来れずに迷子になって、コウに心配かけてるのかなぁ」
そう、今の衛は迷子だった。
衛の降り立った世界が消滅して、その後オリジンにも戻れず、どこか他の世界に迷い込んでしまう。様々な世界を渡り歩く中で起きてしまう、事故のようなものだ。
すべてが終わって、消滅するよりも前に世界を離れたら、きちんとオリジンに帰れるだろう。衛の身を案じた他の遣いからそうした助言をもらったことがあるし、衛も、それが可能なのはわかっている。しかし、その世界の最後の瞬間まで、しっかりと見届けたい、という。ひとつの気持ちが前に出るために、どうしても確実な行動を取れずにいた。……その結果が、涼太のちくちくと刺さる言葉に冷や汗を積み上げていく、現在の状況に繋がるのだけれど。
それでも、今この時のように。世界の消滅とともに行くあてをなくし、ついでに意識も手放して眠ってしまう衛を起こすのは、きまって涼太の声だった。
消えた世界の後、その次にどこに流れ着くのか。それは、たくさんの回数を重ねても、法則性を見出せていない。似たような要素を持っているとか、そういうのもなく、とにかく今存在している世界ならば、どこにだって飛ばされる可能性はあった。だから、涼太は春とともにオリジンについて調べていて、いくらかの情報を持っているようだけれど、そうした知識は活用できないはずだ。無数にある世界の中からただひとつを見つけ、広い大地のどこかに落ちた衛を探し当てる。それは、容易とは程遠いことだろう。
しかし、涼太はこうやって、必ず。衛を迎えに来てくれている。
そして、衛の迷い込んだ世界に合わせた姿をしているのは、衛をオリジンに連れ戻すための対応だった。今回みたいに、衛が遣いという概念のまま眠っていたならば、涼太もそのままの姿で一緒に帰れる。だが、世界の住民として暮らしていた場合、存在が異なるために、接触もできないのだ。仮ではあっても、その世界のいきものとして入り込めば、衛がどういった状況であっても声を掛けられる。以前、涼太本人からそう教えてもらっていた。
「ご、ごめんね……リョウくんにも、心配かけちゃったよね」
そうやって、少なくない時間と、たくさんの手間がかかっても、涼太は衛のところに駆けつけて、オリジンに連れ戻す。彼がこの状況に辿り着くまでの道のりを改めて考えると、ありがたい、と。衛の胸に感謝の気持ちが浮かぶ。そして、感謝よりずっと鮮明な申し訳なさが、謝罪の言葉を喉の上まで持ち上げた。
衛のその感情を向けられた小さな獣はといえば、ぷいと顔を背けるだけだった。
「……そんなことより。曲、あるんでしょ」
「えっ?」
横を向いたままの涼太から出た、ひとりごとみたいな声がよく聞こえず、きょとんとする。衛が何と言ったか考えようとする前に、あかい瞳がちらりとだけ動いた。
「新しい曲、作ったんだよね?」
「……うん! それはもちろん」
続けて口にした問いかけで、彼が何を求めているのかわかった。衛は顔と声を明るくして、すぐに答えを返す。
ひとつ前にいた――今はもう存在しない世界で、衛は物語を集めていた。それを、オリジンに戻ったら音楽という形にして、紡ぐのだ。
衛にとって、世界は音楽の源だ。これまで訪れたどの世界にも、無数の物語があって、音楽があった。いつか終わりの来る世界も、もうすでになくなってしまった世界も。音楽として歌い継がれていく限りは、そこでの物語は失われない。何もかもが、完全に消えてなくなったことにならない。そう考えているから、衛は消滅が近い世界に立ち、最後のその時まで残って、ひとつでも多くの物語を集めているのだ。
ただ、はじめの頃は意識して音楽を作っていなかった。
(リョウくんが、教えてくれたことだ)
かつての衛は、消滅する世界を看取った後、言葉にできない重苦しい感情を持て余すだけだった。遣いとして長く生きている中の、それなりに長い期間。胸中のずっしりと重い感触にひたすら困ったり、悲しんだりしていたのだけれど。ある時、衛のそうした姿をたまたま目にした涼太が提案してくれたのだ。
――歌を。音楽を、作ればいいじゃない、と。
もともと、衛は訪ねた世界で得られた物語から、ぼんやりと頭に浮かんだ曲を口ずさんではいた。だけれど、そういえば。消滅した世界を前にした場合はそれができずに、ただ胸中にある感情を見つめているだけだった、と。涼太の言葉を聞いてはっとしたのをよく覚えている。
そうして、そのとき以来。衛は消滅が近い世界はもちろん、安定した世界を訪ねた時にも、積極的に物語を集め、音楽を作るようになったのだ。
「また、俺の音楽、聞いてもらってもいいかな?」
「もちろん」
提案したのは涼太だったから、その責任を感じているのだろうか。涼太は、迷子になった衛を迎えに来るのと一緒に、オリジンで衛の作る音楽を聴いてくれている。そんな彼に対して、衛は恐縮と感謝を一緒に抱いていたが、それもはじめの頃だけだ。……今は、力強い返事があるのに、ほっとした心地になってしまう。聞いてほしいと思いながら、その存在のことを頭に浮かべながら。音楽を作るようになっていた。
「それなら、なおさら早く帰ろう、衛。コウも、ケンも待ってるし」
「はーい」
そわそわと落ち着きがなくなり始めた獣に返事をしながら、衛はそのふわふわした体を抱き上げ、立ち上がる。体格の問題がなくても、普段の姿なら絶対にできないことだけれど。このときは小さな生き物だからなのか、涼太は抵抗する様子をかけらも見せずに、衛の腕の中に収まった。
「せめて、衛に対羽が見つかれば、迷子になっても探しやすいんだろうけど」
涼太が柔らかな体を丸めながら、あーあ、と。困ったような溜め息を吐く。
「できれば、迷子にならないように善処したいねぇ……」
うーん、と曖昧な言葉を返す衛の胸中は、涼太が口にしたひとつの単語で、ざわざわと騒いでいる。
――対羽。運命を共にする相手のことだ。
この先、衛の対羽となる存在が現れるかは、誰にもわからない。けれどいつか、衛が誰かの対羽となった時。その相手が涼太でなかったとしたら、その場合は、この先は、一体どうなるのだろう。
(リョウくんが教えてくれたこと、なんだけど……)
道を知っている涼太と一緒にいるというのに、迷子のような暗い不安に包まれてしまう。もしもの、ひとつの想像をすると、言葉や、もちろん曲にだってできない、強い寂しさが降って来る。
善処できてないじゃない、という。涼太の指摘に何も言えなくなりながら、これ以上考えるのは止めよう、と。衛は頭上で響く葉擦れの音の中に、浮かんだ疑問をそっと隠した。
『まよいごのうた』