謳いビト(仮題)・2 目を失って目を得たのは、三年前のことだった。
中央の国には騎士団と歌人団、それから兵団が存在する。騎士団には騎士が、歌人団には謳いビトが、それ以外の人々が兵団に所属する。騎士たちは歌人団の謳いビトと仮契約を結び、戦場で力を発揮させていた。
三年前、カインは最年少で騎士団長に抜擢されたばかりだった。北の国との小競り合いのために、北の国境付近で指揮を執っていた時、その謳いビトは現れた。
戦場に似つかわしくない線の細い小綺麗な男だった。当初、それは北の国の謳いビトかと思われたが、彼の伴った騎士は彼の指示の下誰彼構わず攻撃してきた。その騎士と直接剣を交えたが、とても正気とは思えなかった。目の焦点は合っておらず、生気もない。謳いビトの操り人形のようだった。そんなことができるのかと、寒気がした。
騎士と謳いビトの関係を主従になぞらえると、騎士が主で謳いビトが従だ。謳いビトが自主的に騎士に力を捧げることができても、騎士を操ることはできない。それがカインにとって、否、中央の国では常識だった。
膠着状態だった戦線は乱入者の登場によって一気に乱れた。どちらも後退を余儀なくされ、カインもまた撤退と負傷者の回収を優先させた。
『つまんないの』
謳いビトがぽつりとつぶやいたかと思うと、詩を口にした。
『乱れ、乱れよ。此れは宴。血を啜り、肉を喰らい、主を冒涜する狂宴。聖者に穢れを。愚者に誉れを。大地を燃やし、血の雨を降らせ、悉くを蹂躙せよ。汝らの正義は屍の上にこそある』
『な、んだ……頭が……!?』
その声はきっとすべての騎士の内側に響いた。後に聞いた話だが、この時、歌人団は騎士たちとの仮契約が切れた、または妨害されたと証言している。即ち、彼の謳いビトの詩は一帯の騎士を狂わせる力を有していたのだ。
謳いビトに近い騎士から順に狂い始めた。味方を斬りつけたり、謳いビトに跪いたり、天を仰いで奇声を発したり。症状は様々だった。辛うじて抗えたものでも立っていることができず倒れこんだり、吐血したりと戦闘不能状態になった。
カインは剣で己を切りつけ、痛みで正気を保っていた。歌人団に癒やしの詩を命じ、兵団には戦闘不能の騎士の回収及び、詩の影響を受けたものたちの対処を命じた。
北の国の軍が同じように壊滅していく中、カインは標的を謳いビトただひとりに絞った。
腕から血を流しながら、剣を構え謳いビトと相対する。
『へぇ。まだ正気でいられるんだ』
『おまえは何者だ!? 何が目的でこんなことを』
謳いビトの血のように赤い両目がカインを見据えた。彼はとびきり残虐な笑みを浮かべると、ねっとりと言葉を紡いだ。
『煩かったから。折角近くの森で休んでいたのに、おまえたちが戦い始めるから迷惑していたんだ。僕も、精霊たちもね』
謳いビトの詩は周囲の精霊に呼びかけ、奇跡を具現化させるのだと聞いたことがある。戦場では多くの力のやり取りが行われ命が散っていく。それ故に場が乱れ、精霊たちにも悪影響を及ぼすそうだ。
『だが、おまえの行いこそが場を乱しているじゃないか!』
奇声が、悲鳴が聞こえる。無事なものの方が減っていく。理不尽に命が散っていく。この状況を精霊が喜ぶとはとても思えない。つまりこの男の言葉は信じるに値しない。
『すぐに終わるよ。おまえたちが抵抗しなければね』
男は肩を竦めた。まるで退屈な劇を見ているかのように。早い幕引きを望んでいるかのように。
全身から血を流した男の騎士が、片足を引きずりながら男の元へ戻ってきた。助けを乞うように足元に蹲る騎士を、男は一瞥することなく、まるで虫でも払うかのように足を振った。騎士が剥がされる。地面に倒れ込んで、二度と動くことはなかった。
この男は紛れもなく自分の敵であると、カインは確信した。戯れに命を弄ぶ外道であると。
剣を構え直し、歌人団に援護を要請する。一人、二人がそれに応えた。仮契約さえ結んでいない状態でも、謳いビトの詩は作用する。それがかすかなものであったとしても、目の前の謳いビトを倒すための助力にはなる。
『その様子だと、おまえはジョブも騎士なんだね。なら、こんな詩はどうかな』
謳いビトが詩を紡ぎ始める。その一瞬の隙を狙って、カインは斬り込んだ。勿論、相手もそうなると分かっていただろう。それなのに男は身動きひとつせず、まっすぐカインの目を見据えた。
『助けてと子供は言った。優しい騎士様。強い棋士様。どうか僕の命をお護りください』
詩が旋律に乗って頭の中に響く。目の前の憎らしい男の姿が、あどけない少年に見えた。カインに向かって助けを求める、弱い存在に見えた。剣を握る手から力が抜けそうになる。
『優しき愚者は地に堕ちる」
カインの隙にぬるりと詩が入り込んできた。両手両足に見えない枷をかけられる。カインは剣を取り落として、その場に崩れ落ちた。見上げる。そこには弱々しい少年などいなかった。冷酷な赤い目が愉悦に滲んでいた。
『嗚呼、まだ諦めないんだ。可哀そう』
何が面白いのか男は笑った。そうしてカインの目に手を伸ばした。
『折角だし、これもらっていくよ』
『あ、!!』
左目に焼けるような痛みがあった。まるでそこに炎が灯ったかのように、熱くて、痛くて、気がおかしくなりそうだ。
『これが騎士の力か』
男のつぶやきが聞こえた頃には、痛みは収まってきていたがじくじくと酷く疼いた。左目を手で押さえながら再び男を見上げると、先程までは血の色だった彼の左目が、黄金色に変わっていた。カインの目と同じ色だ。取り替えられたのだと気付いたのは、もう少し後のことだった。そのような一大事を忘れるほどの衝撃が襲った。
愉しそうだった男が突然顔色を変え振り返ったかと思えば、その肩に矢のようなものが突き刺さった。矢が飛来した方へ視線を向けると、夜を具現化したような男が立っていた。
『オズ』
憎々しげに男がその名をつぶやいた。
オズ。聞いたことがある。この世界で最強の騎士。かつて世界の半分を手中に収めた魔王とも呼ばれる存在だ。
ゆらりと揺らめくその男の傍らに、別の男が現れる。穏やかな笑みを湛えているのに目は少しも笑っていない。伝承が本当ならば、それはオズの番の謳いビトであるフィガロだ。
『随分と好き勝手やったみたいだね、オーエン』
やわらかい口調なのにその声は寒気がするほど冷たい。オーエンと呼ばれた謳いビトである男は、肩の矢を抜きながらオズとフィガロを睨みつけていた。
『邪魔をするなよ。ここはあなたたちの縄張りでもないだろう』
『まあね。でもやりすぎなのは事実だ。場の乱れが酷い』
『そんなの十年もすれば元に戻るよ。あなたたちの出る幕じゃない』
『オーエン。分からないのか? 止めろと言ってるんだ』
フィガロが一歩踏み出すと、オーエンは堪らないとばかりに後退する。先程までの余裕がまったく感じられない。あれ程の力を持つ謳いビトでさえも、世界最強の騎士を恐れるのだ。
『それはあなたの都合なんじゃないの? フィガロ。本当にオズの望むところ?』
様子を伺いながらもオーエンは皮肉を止めない。わざと相手を憤らせようとしているのかもしれない。そうして隙ができたところを叩こうとしているのか、或いは、逃げようとしているのか。
しかし、オズもフィガロも動じる様子はなかった。そればかりか、オズは杖を構え、フィガロが半歩下がる。伝承ではオズは魔法使いだという。フィガロの詩の加護を受ければあらゆる奇跡を起こすことができるのだと。一夜で国をひとつ滅ぼし、一撃で山を崩した。オーエンの詩に翻弄されている人々を癒すこともできれば、オーエンやカインの命を奪うことさえ容易いに違いない。
突如、舌打ちひとつ残して、オーエンの姿がかき消えた。周囲の空気が緩和する。オズは杖を下ろし、詩に狂わされたものたちは皆糸が切れたようにぱたりと倒れ込んだ。
『逃げたか。流石に数百年独りで生きているだけあって引き際を弁えているね』
どことなくつまらなさそうにフィガロがこぼしたが、オズは全く反応を返さなかった。そればかりか何事もなかったかのように踵を返す。
『ま、待ってくれ!』
伝承でしか知らなかったその背に、思わず声を投げた。オズはこちらに一瞥も投げなかったが、僅かの間動きを止めた。
『助かった。ありがとう』
彼らにしてみれば、カインたちを助けたつもりはないだろう。彼らの目的はオーエンを止めることで、自分たちが救われたのは副次効果にすぎない。それでも声をかけずにはいられなかった。
オズは答えなかった。足音もなく歩き始めたかと思えば、その姿はすっと消えてしまう。残されたフィガロがこちらを振り返り、カインの方を見て『嫌なものをもらったね』と苦笑する。その意味を知るのはもう少し先のことだった。
『まぁ精々がんばりなよ。乗っ取られないようにね』
そう言い残し、フィガロもまたオズと同じように消えてしまった。
それ以来、彼らには会っていない。
その後は大変だった。オーエンの離脱により詩の影響からは解放されたが、当然ながらそれ以上の戦闘は不可能になった。双方暗黙の了解で停戦となり全軍撤退。負傷者は病院送りとなったが心身共に怪我の程度は様々で、部隊の再編を余儀なくされた。
謎の謳いビト、オーエンの名は歌人団の長の知るところであったため、その瞳を宿したカインは騎士団長の座を辞する他なかった。片目と職を失ったカインだったが、寮の自室を片付けていた時、王宮から遣いが来た。求められるまま登城すると、王や王子その他のお歴々がずらりと並んでいてまた何やら叱責されるのだろうかと身構えていると衝撃的な事実を告げられた。
民の憧れ、麗しの王子殿下がカインの前に立った。
『カイン・ナイトレイ。おまえは私の番らしい』
その日からカインは王子の騎士になった。
彼は言った。かつて謳いビトは騎士に対して花姫と呼ばれていたのだと。騎士と姫。主従ではなく共に相手を護るものだったと。それが何千年もの時の中で変質し、呼び名まで変わってしまった。それが悔しく哀しいと。彼が憂うのは自分の立場ではなく、未だに下僕のように扱われることのあるすべての謳いビトのことだった。だからカインは真の意味で騎士として彼に忠誠を誓ったのだ。