暗渠 龍葉村魚髪川源流。
地面に刺した木の棒に字を彫っただけの道標を走って通り過ぎる。多くは夜だが、たまに昼間のこともあった。しかし、終わり際になると夜に切り替わる。靴も履かないで渓流を登っていくため、いつも足は傷だらけになった。
行き止まりには滝があった。高さがないぶん幅があり、水のカーテンに月明かりが照っていた。滝のちょうど中心あたりに丸い岩が出っ張って、その上に人が腰掛けていた。
その人は裸だった。隆々とした上半身に、逆三角形のしなやかな下半身がくっついていた。腰のあたりから肌が徐々に鱗に覆われ、下半身を隙間なく埋め尽くし、足の代わりに魚の尾ヒレがあった。肘から先も鱗で覆われ、髪は黒くて短い。
川のせせらぎを聴いてこちらに背を向ける、その人がいる月夜の滝は、陳腐な言い方になるが神秘的で、幻想的だった。一言も喋らずに見入っていたが、美しいその人の体から幾筋も血が流れ出ているのを見て、ボクは何か叫んで走った。
その人は振り返った。
顔は墨で塗り込められたように見えなかった。かろうじて見えた口元は、笑っていたように思う。けれど、口角はすぐに下がってしまう。
後ろからたくさんの足音が聴こえ、大人の腕で羽交い締めにされた。岩の上のその人がボクの名前を叫んで、ボクのいるほうに手を伸ばした。めいっぱい開かれた指の叉には、水掻きのような膜が張っていた。
耳に心地よく響く低音が掠れるのを聞いて、喉を痛めてしまいそうだとボクは思った。
月を浴びてチラチラ光る硬そうな指先から、何か小さいものが射出された。とても速く飛ぶそれはボクを避けるようにして、ボクを羽交い締めにする人に当たった。べちゃりとした音を聞いたので、たぶん水のようなものだろう。それがなんなのか確かめる間もなく、その人は倒れた。息をしていなかった。
「人魚に殺された!」
誰かが言ったのを皮切りにたくさんの大人が出てきた。懐中電灯を持ったのと逆の手には、鍬やら猟銃やら竹槍やら、武器になるものを持っていた。美しい景色にざぶざぶ飛び込むと、大人たちは顔の見えない美しい人を取り押さえた。
あの人のもとにこの人たちを案内したのはボクだ。そのつもりはなかった。でも、ボクのせいであの人はしんでしまうのだ。
あの人は泣いていた。赤黒い涙だった。
「ボクはキミにされたことを決して忘れない! 人魚は川の中からずっと、ずっと、いつまでもキミのことを見つめている……小松くんもボクのことを忘れないで」
憎しみの言葉だと思った。
火薬の爆ぜる音がして意識が飛んだ。
地元を出て一人暮らしを始め、最初に住んでいたアパートが老朽化により取り壊されることになり、半年前に引っ越してから、ボクは毎晩同じ夢を見る。
🐟🐟🐟
ボクは自分で思うより繊細な人間ではなかったらしい。
布団や冷蔵庫や机といった大きい荷物をあらかじめ運んでおいた新居に、手に馴染んだ包丁やら着替やらを詰め込んだ鞄を三つも四つも持って入ったその日。廃線寸前の電車に乗り込んだボクを途中まで追いかけてくれた、友達や初恋のあの子の顔を忘れる日は来ないだろう。
涙ながらに手を振り返したその日、ボクは自分でも信じられないほど熟睡できた。
知っている顔がひとつもない調理師学校でもすぐに気の合う友達ができたし、バイト先の人間関係だって労せず馴染めた。
片やお手伝いさん、片やバラバラな年齢の子供たち。誰かがいるのが当たり前だった場所から自分ひとりしかいない部屋へ、変わった環境に馴染むまで友達二人は苦心していたらしく、毎日ぐっすり眠ってすっきり目覚められるボクをたいそう不思議がっていた。風呂トイレ別でオートロック付きマンションに住む友達は毎日お湯をためて入浴することで、風呂無しアパートに住む友達はそう遠くない銭湯まで遠回りのジョギングして、閉店間際の浴槽を独り占めすることでそれぞれ解決した。二人とも、肩までしっかり湯船に浸かる習慣をつけたのだ。
銭湯通いのボクはというと、徒歩五分のところへのんびり五分以上かけて歩いて行って、シャワーでさっさと体を洗うだけに済ますとまたのんびり帰っている。
ボクには昔から、ちゃぷちゃぷした水の音を聞くと、なんだか変なイメージが思い浮かぶ癖のようなものがあって、小っ恥ずかしくなるのでここ十数年湯船に浸かっていない。色気のない平ぺったい唇に厚い唇が重なる……母親が好きで夕食後流していたドラマかなにかで見たキスシーンから切り取った一部分なのだろうか、明滅する黄色い光が二つの唇の持ち主の全貌を照らし出してくれた試しはない。
友達曰く、「小松っちゃんは、裏があるんじゃないかと警戒して気を張って体力使った分だけなんか損した気持ちになる」そうだ。
「小松っちゃんは親しみやすいんだよ」
もう一人の友達が、件の発言をした友達をひっぱたいてそう言い直した。
バイト先の店長や先輩方からの評価も同じだ。思えば、ボクは人から敵意を向けられたことがあまりなかった。
疲れた時や体調が優れない時なんかは、たまに変な夢を見た気もするが、それでも朝すっきり目覚めることが当たり前だった。
🐟🐟🐟
新生活が二年目に入った年始のことだ。
実家がお金持ちで、三人の中でいちばん広い部屋を借りている友達の家に集まって、お金を出し合い食材を買い込み、ささやかながら正月のごちそうを作って、三人で慣れないお酒を飲み明かした。娯楽の少ない田舎で育ったおかげで二人に比べ気持ちよく酔え、上機嫌で帰ったボクを待っていたのは、ごちそうの味も忘れさせる急降下の報せだった。
「ここ来月には取り壊すから。そこんとこヨロシク」
お金渡すからちょっとジュース買ってきて、くらい軽く宣言する大家は、あろうことかハナクソをほじくりながら高い缶ビールを傾けていた。
新生活開始から約一年、始めてストレスを感じた瞬間だった。
ボクは一足先にお正月気分を脱して不動産屋を駆けずり回ったが、肝心の不動産屋がお正月休みの真っ只中。お正月が早く過ぎ去れと願うなんて、これから後にも先にも無いだろう。
一番最初に門松が仕舞われた不動産屋に転がり込み、かくして越してきたのが約半年間眠れない夜を過ごしたこの部屋だった。
アパートを出てすぐのところにグレーチングが一直線に敷かれており、結構な深さがあるため、底は見えない。足三歩ほどの幅があるそれらはしっかり固定されているが、設置されて時間が経っているらしく、固定具がいくつか失くなっている。踏むと気持ちガタつくものの、かなり重いため動かすことは容易でない。
たぶん雨が降った時のための排水路だろう。大家さんはそう言っていた。喫煙者の住人は皆、灰皿代わりに利用している。
ボクはここに部屋の鍵を落として大家さんに留守電で泣きついたことがあったが、翌朝になると郵便受けに入っていた。合鍵を入れておいてくれたのだろう。
構造も築年数も家賃もそんなに変わらない。曰くも無い。鍵を取り出すとき毎回ヒヤヒヤするグレーチングと、銭湯までの距離が徒歩一分ぶん遠くなったこと、上の階の住人が気難しそうな人であることを除けば、住環境は大して変わっていない。
いつも怒ったような顔で頭のてっぺんが禿げかけた、白髪交じりのおじいさん手前のおじさん、といった印象だ。真上の部屋に住む彼はなにかと文句を言っていないといられない性格らしく、ボクだけでなく他の住人にもひんぱんに唾を飛ばす。
しかし、その悩みはつい最近発覚したものだ。熟睡できなくなったのは、そんな問題があると知る由も無かった引っ越し初日からだった。
なんたって引っ越し初日は手続きやら荷物の搬入やらにかかりっきりで、他の住人への挨拶ができるような状態になったのは夜中だった。夜遅くまでうるさくしていたのが、件の彼に目をつけられるきっかけになったのかもしれない。
やっと生活できる部屋になった新居に入ろうとしたとき、誰かに見られているような気がして周囲を見た。
グレーチングのずっと下に水の音を聞いた気がしただけだった。
🐟🐟🐟
「小松っちゃん、どうしたんだい。最近、授業中ぼんやりしてるようだけど」
学生御用達の安い、多い、そこそこ美味い食堂のテーブル席で、向かい合って座った竹ちゃんは腕を枕にして下から覗き込むようにして言った。
「竹ちゃん、お行儀悪いよ」
お冷のグラスで頭を小突くと、竹ちゃんは「冷てぇ」と姿勢を正した。
「やっぱり、竹ちゃんも気になってた?」
メニュー表とにらめっこしていた梅ちゃんが視線を斜め前に向けた。
「そりゃあな。無遅刻無欠席の人一倍料理バカな小松っちゃんが、まな板の前でうとうとしてんだぜ?」
水滴のついたグラスを回してカラカラ鳴らし、水を一口含んでから竹ちゃんは言った。
「何かあったって誰でも思うさ」
言い方が素直じゃないけど心配してくれているのは、料理以外からっきしなボクでも分かる。梅ちゃんもそれが分かっているから、竹ちゃんに対して何も言わない。
ボクは本当に良い友達を持ったと思う。
出来るだけ多く席を回したい店員さんの視線が痛かったため、話は注文してからということになった。
半年前に引っ越したこと、その日から変な夢を見てよく眠れないこと、上の階の困った住人のこと。夢の内容まで細かく話していると、頼んだ料理が運ばれてきた。
「ふーん……住人トラブルってやつか。大家に相談したらどうだ?」
竹ちゃんは割り箸を割って、ラーメンに沈めた。
「どっちかっていうと夢のせいな気がするけどな」
梅ちゃんはうまく割れなかった割り箸で、種類豊富な小鉢がお盆から溢れんばかりに乗ったお刺し身定食を。どれから手を付けようか迷っているようだった。
「そうなんだよ。ボクも夢が原因だと思うんだ」
ボクはじゃがいもの入っていない具だくさんカレーを一口掬って食べた。たぶん、市販のカレールウをブレンドしている。昔実家で食べたお馴染みの味が見え隠れしており、いろんなメーカーの甘口と中辛と、恐らく辛口を少々まぜこぜにしているらしいカレーは、複雑怪奇になるかと思いきや意外と食べやすい。
「そういうのって、どこに相談したらいいんだろうな。精神科?」
竹ちゃんは麺にふうふうと息を吹きかけ、ずるるっと啜った。
「それを言うなら心療内科じゃない?」
梅ちゃんが乱暴な言い方を咎めた。
「たまに昼間のことがあるって言ってたよね。時間帯によって夢の内容って変わったりするの?」
やっと一口目を決めた梅ちゃんがお新香をかじるのをぼんやり眺め、夢を思い出す。昼間の夢は夜の滝と違って、平和的で明るく、ノスタルジックな気持ちになるものだった。
「顔が見えないのは同じなんだけど、昼間の夢では、ボクと人魚はすごく仲良さそうにしてるんだ。
下手っぴなお弁当食べられて味が濃いだの薄いだの焦げてるだの言われたり、釣り針にきれいな木の実やかわいいお花ひっかけられたり、友達とケンカした話なんかもした。初恋の女の子にフラれた話したときは背中をさすって慰めてくれたよ。
背中と言えば、背中に乗せてもらってライン下り遊びなんかもしてた。物凄いスピードで泳ぐから、ボクは吹っ飛ばされないよう必死でしがみついて、喉が枯れるくらい叫ぶんだ。でも、人魚は意地悪じゃなくて、遊んだ後は喉にいい薬草を煎じたお茶を飲ませてくれるんだ。朝起きたときに枯れてる喉はどうにもしてくれないけどね。
あと、魚の捌き方教えてもらうっていうのもあったよ。川魚を使ったレシピ教えてもらったりもしてたっけ。自分用の包丁を買ってもらえた話をしたら、よかったね小松くん、これで一層料理に気合が入るね! って自分のことのように喜んでた。顔は見えないけど」
竹ちゃんも梅ちゃんも最初は真剣な顔して聞いていたが、途中から口をポカンと開いて魂が抜け出たような顔をした。
「なあ小松っちゃん、ひとつ確認なんだけど」
竹ちゃんはコーンを摘んで口に放り込んだ。
「その人魚ってさあ、女だったりしない?」
味噌汁を飲んでいた梅ちゃんが噎せた。
ボクはカレーにらっきょうを乗せながら考えた。顔は見えなかったけど、手も体もボクよりずっと大きかったあの人はどう見たって。
「男……だと思うよ」
聞いていて心地の良い声も男のもので間違いなかった。
「女だったら良い夢だったのにな」
「竹ちゃん、小松っちゃんは悩んでるんだよ?」
「フラれたの慰めてもらうとか、お花のプレゼントとか、魚の捌き方教えてもらうとか、歳上のお姉さんマーメイドにやってもらってるのかと思ったら、なんかムカつくじゃん」
ちゅるるん、汁を跳ね上げながらラーメンが吸い込まれていく。梅ちゃんに失敗した割り箸でげしげし突かれ、竹ちゃんは「分かってるってば」と慌てた顔をした後、大げさに咳払いした。
「ま、結局のところ夢とか、精神的な話はオレらの専門外だしな。素直にカウンセリングとか受けた方がいいんじゃないか?」
ボクは曖昧に頷いておいた。
近所のクリニックに受診して何も解決せず行かなくなったのは秘密にしておく。
お腹がいっぱいになって帰宅した頃には、外は真っ暗になっていた。梅雨前線が猛威を振るう湿気の中に人と車の往来はそれなりにある。
傘の下で背中を丸めて歩いていくうちにアパートについた。
敷き詰められたグレーチングは雨や冬場など濡れているとよく滑って危険だ。ボクは特によく尻もちついてしまうので、足元をよく見て慎重に歩いた。
鉄格子の暗がりに黄色い光を二つ見た気がした。
地元では今ぐらいの時期になるとホタルが飛び始める。夜中、懐中電灯片手にこっそり家を抜け出して、川に足を浸して見たホタルはとても綺麗だった。
暗闇に尾を引いて飛ぶ金色のアラザンみたいな光の美しさ、せせらぎの冷たさ、お尻に敷いた岩の硬さやなんかを思い出して懐かしくなり、しゃがみこんでグレーチングの下に目を凝らす。雨で水位が増しているのだろう、はっきりと流水音が聞き取れる。
よくよく考えてもみてみれば、きれいな水に住むはずのホタルがタバコを落とされるような水場にいるわけがなかった。
🐟🐟🐟
バイトに新しく人が入るので歓迎会をすると知らされたのは、朝起きてすぐのことだった。店員も客も男ばかりの居酒屋に、若い女の子が入ってくれるとのことで、電話口の声は鼻歌でも聴こえてきそうなほど上機嫌だった。
学校が終わってすぐ、歓迎会の会場となる店へ行った。新しい仲間になるその人は、ボクが来てから三〇分後にやって来た。
空になったジョッキが三つ四つ机に並んでいるのを見て、彼女は低頭した。あまりにも勢いよくそうしたものだから、姿勢を戻した際に茶色の前髪が少しだけ乱れた。ちょうど眉毛にかかる長さでふわっとしている。間隔にこだわりでもあったのか、彼女は指先で前髪を丹念に弄くりながら席についた。
「最近地元を出てきたばっかりで、お店の場所探してたら迷っちゃいました。ごめんなさい!」
髪色も違う、化粧もしている。しかし、彼女の顔を見たことがある気がした。
彼女の方もボクの顔に既視感があったのだと思う。斜向いに座るボクを見て、アーモンド形の目が見開いたが、それからすぐ乾杯の音頭が入って歓迎会が始まった。何度か目が合うことはあっても、互いに触れることなく時間が過ぎた。
🐟🐟🐟
ボクより少し背の高い彼女はよく働いた。最初こそ注文の取り違えや酔って気の大きくなった客からの嫌がらせに悩まされていたが、一ヶ月も経つと顔に余裕が出てきた。二ヶ月経つと毎日寝不足状態のボクよりよっぽどミスが無くなって、三ヶ月するとどちらが先輩か分からなくなった。
このままではいけないと銭湯で十数年ぶりに湯船に浸かってみたが、やはり顔の見えない人の唇と唇が重なり合うキスシーンを彷彿としてしまって、一分も浸かっていられなかった。
🐟🐟🐟
「あなた、小松君……よね?」
うとうとしていて何もないところで躓いてしまい、ビールを仕事終わりのサラリーマンの顔面に盛大にぶっかけてしまった日の帰り道。猫背で歩いていたら後ろからそう話しかけられた。
振り返って頷くと、石でできた仮面みたいだった顔が、血色のいい人の顔になった。
「やっぱりそうなのね。なんとなく、話しかけるタイミングを逃してしまって」
華奢な手で赤くなる頬を隠す笑い方に、やはり見覚えがあった。小学校時代の切ない思い出──初恋のあの子だった。
「今日は災難だったわね」
「うん、本当に……許してもらえてよかった」
「ね、本当に。小松君の作るおつまみのファンだって、ふふ。昔から料理上手だったものね」
彼女は口元に手をやり、おしとやかに笑う。思い出の中の彼女はもっと元気いっぱいな子だった気がするが、高校から別になってしまったので、ボクの知らない間に性格が変わったのだろう。
「魚を捌くのも、小学校でいちばん上手だった。調理実習のときはヒーローに見えるって、みんな言ってたのよ」
喋り方も大人っぽくなったが、目の下にできる笑窪は変わらない。
「上手かは分からないけど、美味しいって言ってもらいたいからたくさん練習するんだ」
いつだったか、家にあった料理本とにらめっこしながら弁当を作ったことがあった。包丁を持たない方は猫の手もおぼつかない、火加減だって強火しか知らない、料理デビューしたての小学四年生なりに頑張って作ったお弁当を、ボクは自分で食べた覚えがない。下手っぴでも宝物に思えて食べられなかったのか、誰かにあげたのか、弁当の行方についての記憶が曖昧になっている。
つい最近、その謎が解けた気がする。
その手がかりをくれたのは、寝不足の原因になっている夢だった。
ん……ちょっと味が薄いね。あとこれ表面が焦げてる。
夢の中でそんなことを言われた。宝物みたいに輝いて見えたそれを、あっけらかんと否定されたのがとても悔しかった。
この人に美味しいと言わせたい、反抗心みたいなものがボクの原動力になる。同時に、夢と現実の記憶が混濁して、地面がぐにゃりと陥没するような感覚に襲われる。
調理実習を待ちきれなくて、学校の授業でやる一年前から、料理を練習し始めたのは確かだ。しかし、ボクは本当に弁当なんか作ったのだろうか?
今立っているアスファルトが本当にそこにあるのか急に自信がなくなって、後ろ手にお尻の下あたりを抓った。
「たくさん練習したから、美味しかったんだ」
彼女はなにか納得したようだった。
「覚えてる? 遠足に行ったときのこと。ほら、バスに乗って動物園に行ったでしょ」
ボクは頷いた。その日のことはよく覚えている。
「きみはお弁当ひっくり返しちゃって泣いていたっけ」
「大げさね。泣いてなんかいないわ、ちょっと涙目になっただけよ」
彼女はふくれっ面してそう言うが、実際のところわんわん泣いていたはずだ。あんまり泣くものだから可哀想になって、ボクは彼女におかずを分けてあげたのだ。
お母さんが作ったのより美味しいと言って泣き止んでくれて、ボクが作ったと知ると、「すごい、すごい」と大はしゃぎで他のおかずをねだってきた。初恋の女の子に美味しいと言ってもらえたのが嬉しかったボクは、おねだりされるままおかずを分け与え、気がついたら弁当箱の中は白米だけになっていた。
それがきっかけで、ボクは彼女と仲良くなれた。
「小松君に分けてもらったお弁当、本当に美味しかった」
「覚えてくれていたんだ。嬉しいな」
「おかず、全部食べちゃってごめんなさいね。だってすごく美味しかったんだもの。ええ。私、きっと忘れないわ」
彼女は遠くに顔を向ける。なんとなく真似をしてみると、山を越えた先にある故郷が見えてくる気がした。
「思い出したら小松君の料理食べたくなっちゃった。ねぇ、今度お家に遊びに行ってもいいかしら?」
誰かに見られている気がして彼女を見た。ちょっと赤い気がする彼女の横顔は未だ、山を越えた場所を見ようとしている。
あいだに金属製のグレーチングをいくつか挟んで、穴の空いた蓋が横断するように敷き詰められた道路の上に、ボクと彼女以外に人の姿は見当たらない。
ボクは二つ返事で了承した。
🐟🐟🐟
連絡先を交換したは良いが、女の子と何を話したらいいのか分からず、朝と夜の挨拶をするだけだった。料理を食べに来る話についても触れてこないので、深い意味もなく言ってみただけだったのかもしれない。しかし、あれからボクの部屋は、いつ人が来ても恥ずかしくないよう掃除した状態を保っている。
どんな料理を振る舞おうか考えて毎日スーパーに通って、毎日試作していた。毎日換気扇を回した。
🐟🐟🐟
高くて手を出せなかった牛肉を思いきって買ってしまった。煮ようと思ってペットボトルの赤ワインが入っているのもあって、いつも以上に重たく感じる買い物袋を手に帰ってきたら、家の前に待ち構える人がいた。
上の階の人だった。
ボクは軽く会釈して通り過ぎた。
鍵をドアノブに挿し込んだところで買い物袋を引っ張られ、半額シールが貼られた牛肉のパックやワインや、一緒に煮込むつもりで買った野菜が地面に落ちた。
「毎日毎日いい加減にしてくれ! 換気扇と、なんじゃジャージャーうるさいのと臭いが上がってきて寝られん!」
歯抜けの口から唾が降ってくる。もう真っ暗なのに構わず大声を出すものだから、アパートの角部屋で赤ちゃんが泣き出した。グレーチングにぶちまけられた食材たちを見ていると、ボクも泣きたくなった。
ボクが言い返さないので気を良くしたのか、声量も頭に降ってくる唾の量もどんどん増えていった。何を言っているのか分からなかったが、途中から全く関係ない話になっている気がした。
しばらくして気が済んだらしく、上の階の人はボクから背を向けるとワインを拾った。
「ちゃんと片付けとけよ、近所迷惑になるから」
上の階の人は牛肉のパックと野菜を足蹴にして帰っていった。
ボクはドアの前で膝を抱えて泣いた。
グレーチングの下で何か大きなものが跳ねるような音を聞いた。
夕食も食べずに寝たせいか、朝起きるととてもお腹が空いていた。あまり記憶が無いが、食材はちゃんと冷蔵庫にしまっていたらしい。
消費期限を六時間くらい過ぎた牛肉を焼いて豪快な朝食をとった。習慣で換気扇を回してしまったので、上の階の人は怒り心頭に違いない。
階段を上がるのは引っ越しの挨拶以来だった。錆びており、強く踏みつけたり飛び跳ねたりしたら、ばきんと派手な音を鳴らして落ちてしまいそうだ。深呼吸してインターホンを押した。
待てどもドアは開く様子がない。
もう一度インターホンを押してドアに耳を押し当てたが、近付いてくる足音すら聞こえなかった。
🐟🐟🐟
学校が終わって帰ってくると、上の階のドアは開け放たれていた。黄色い規制線が張られたそこからお巡りさんが出たり入ったりして慌しい。
若いお巡りさんがボクに気が付いたらしく、階段を降りてきた。
「今、お帰りですか」
「はい。下の階に住んでいる者です」
上の階で何があったのか。目線だけ規制線に向けると、ボクの意図を読み取ったようで、お巡りさんは帽子のつばを少しだけ下げた。
「あそこの住人の方ね、ご遺体で発見されたんですよ。水を出しっぱなしにした浴槽に頭突っ込んで動かなくなってるのを、お隣さんが発見したそうです」
「溺れ死んだ……んですか……?」
「溺死かと思われたんですけどねぇ、どうやら水に頭突っ込んだのは死後っぽいんですよ。直接の死因は正体不明の毒死だそうです」
🐟🐟🐟
警察は彼が住人トラブルを抱えていたことをすぐに掴んだらしかった。家族はおらず交友関係も無し、容疑者はアパートの住人全員。ボクも話を聞かれたが、全員身の潔白を証明された。
原因不明の死を遂げた独居老人の事件はニュースにもなったが、一切の進展がないまま、日々進み続ける世界から揉み消されるように忘れ去られていった。
🐟🐟🐟
報道記者が来なくなった頃には年の暮れになっていた。
「どうよ、事件の方は」
梅ちゃんの家のキッチンで黒豆を煮ながら、竹ちゃんは鍋から目を離さずに言った。
「落ち着いたけど、手がかりは何もないみたい」
「犯人はまだ野放しってことか。小松っちゃんも気をつけろよな」
「うん……でも、どう気をつけたらいいんだろう」
「家で死んでいたんなら、インターホン押されて出る前にしっかり確認する……とか?」
はんぺんと卵を混ぜ終わった梅ちゃんが言った。
「そうだ、鍵だけじゃなくてチェーンもかけときなよ」
「うちのアパート、チェーンついてないんだ……」
ボクは水で戻した昆布を巻いて肩を落とした。提案した梅ちゃんは気まずそうに黙った。
「なあ小松っちゃん」
竹ちゃんは黒豆を一粒つまんで鍋を火から下ろす。
「住人トラブルは解決したわけじゃん? ……不謹慎だけどさ。寝不足の方は、ちょっとは改善してないのか?」
ボクは黙って首を横に振った。改善の兆しがないことは、竹ちゃんも梅ちゃんも知っているはずだ。
「まだあの夢を見るの?」
「うん。そろそろ一年になっちゃうよ」
「小松っちゃん、もう引っ越した方がいいんじゃないの?」
「引っ越せないから住み続けてるのさ。お坊っちゃまの梅ちゃんには分かんないだろうけどな」
唇を尖らせた竹ちゃんが口を挟んだ。
竹ちゃんの言ったことは乱暴だが、間違ってはいない。再会した初恋のあの子に食べさせる料理を考えるために使いすぎて、引越し業者に頼むお金が無くなったのだ。
もちろんそれだけじゃない。
暇な時など不動産屋さんに行ってみるが、良い物件が見つからないというのもあった。橋を渡って川向こうに行けば今のアパートと間取りも家賃も似たようなのがあるらしいけれど、そこまで引越し業者を頼まず移動するのは大変だし、学校から離れるのが嫌だったので断った。
「ま、今年一年悪いことばっかりでもなかったろ?」
竹ちゃんは昆布巻を入れた鍋に醤油や砂糖やお出汁を混ぜて火にかけた。なんのことか分からなくて聞いてみると、むっとした顔つきになる。
「とぼけるなよ小松っちゃん。オレらを差し置いて彼女作っときながらさぁ」
「竹ちゃん、小松っちゃんは初恋の子に再会したとしか言ってないよ」
「呑気だなぁ梅ちゃん、それをわざわざ話すってことはそういうことに決まってんだろ」
ボクは平静を装ってかまぼこを三人分に切り分けた。この二人と集まると、何をしていても楽しいので好きだ。
「ほらほら、手を止めない! もたもたしてたら年明けちゃうよ!」
手を叩いて発破をかけると、おしゃべりしていた二人は口をつぐんで料理人の顔になった。
🐟🐟🐟
三が日を過ぎて居酒屋にはたくさんのお客さんが押しかけた。いつぞやビールをぶっかけてしまった人も来ていて、あけましておめでとうの挨拶にボクは内心ビクつきながら、唐揚げをこっそり増量して提供した。
一月も後半になると、だんだんとお正月気分が抜けて客入りが通常に戻った。
🐟🐟🐟
「約束、覚えてる?」
彼女からそう持ちかけられたのは、三月になって少しずつ寒さが緩みだした頃だった。連絡先を交換してから気恥ずかしくなって、なかなか言い出せないでいたら事件が起きて、そうして機会を逃し続けていたのだと彼女は言った。
「このままだと、ずっと言い出せないと思ったの。よく言うでしょ? 思い立ったが吉日って」
彼女はピンク色の唇からちろりと舌先を覗かせていたずらっぽく笑った。
立ち話をした翌日が彼女の休みだと知ったボクは、その場で店長に電話を入れた。
「思い立ったが吉日だとは言ったけれど」
面食らった様子の彼女に、彼女の言葉を引用して返すと、膨らませて結ぶ前に手放してしまった風船のように吹き出して破顔した。
「小松くんって昔から意外と行動力あるのよね」
足元で一列に並ぶコンクリート製の蓋の下ではどこかから雪解け水でも流れこんでいるのか、大量の水が動く振動が伝わってきた。
🐟🐟🐟
朝と昼の中間あたりに待ち合わせて、スーパーで材料を買おうと話が決まった。あれこれ試作を重ねてきたけれど、やはり食べる側が食べたい物を作るべきだと思い至ったのである。
他意はなかった。
「きみは何を食べたい?」
お昼を喫茶店で済ませて、一緒に生鮮食品コーナーを歩く彼女に話しかけた。
「んー、そうね。何が良いかしら」
カートを押すボクの隣にいる彼女は、スーパーで買い物するにはちょっと気合が入りすぎたおめかしをしている。おかしいと言いたいわけじゃない。ふんわりと裾が広がるスカートも、花柄の刺繍がついた薄い黄色のブラウスも、よく似合っていた。
「シェフのおまかせは頼めるかしら?」
「できたら、きみが食べたいものを食べさせてあげたい」
「そうなの……だったら、これかな」
彼女が掴んだのは牛豚ミンチだ。
「あのときのお弁当に入ってたおかず。あれが食べたいわ」
🐟🐟🐟
「やっぱり、小松君って魚を捌くのが上手ね」
焼き鯖にする鯖を三枚におろす作業を覗き込んで、彼女は感心した物言いをする。
あの日お弁当に入れていたのは、ハンバーグと焼き鯖、だし巻き卵、ほうれん草といんげんの胡麻和え、きんぴらごぼう。
どうしても自分で捌いた魚を入れたかったので、誰より早く起きてお弁当を作り始めた朝の、清涼な空気が肺に染みついている。
「人から教えてもらったんだ」
ボクは言いながら、身をきれいに剥がした骨を三角コーナーに入れる。夢の中での話を、さも懐かしい思い出みたいに言ってしまったことに、遅れて肺に穴が空いた心地になった。
「こんなに手際がいいのに、バイトではドジばっかり。昔からそそっかしいところはあったけれど」
「ちょっと、寝不足で」
「そうだったの。よく知りもしないで、笑ってしまってごめんなさい」
にこにこと笑っていた顔がボクを心配するものに変わった。そういえば彼女は、勉強も運動もできて元気いっぱいだったけど、先生に怒られたら素直に謝る子だった。
「いつから眠れていないの?」
「うーん……一年くらいかな」
「一年……えっ、一年も!?」
彼女のアーモンド形の目が大きく開いた。
「ホームシック? それとも住人トラブル?」
「どっちでもないよ。毎日変な夢を見るんだ」
「変な夢……どんな内容なの?」
隠すことでもないので、男の人魚が出てくる夢のことを話した。よく見る月夜の滝での夢や、昼間の平和な夢をできる限り詳細に話した。(初恋の女の子に関する夢は伏せた)
「……そう、なの。ずいぶんとファンシーな夢ね。人魚とおしゃべりするなんて……しかも料理をするなんて、小松君らしい」
視線が合わない彼女の表情が、どこか余所余所しく思えた。
「それにしても、これ、結構なお値段したわね。橋を渡った川向こうのスーパーならもっと安く買えたのに」
「ああ、あそこ……たまにチラシが届くけど、タイムセールとか魅力的だよね」
「小松君、知ってたんだ。それならどうして行かなかったの?」
「うーん、川を渡ると荷物を持つ時間が増えちゃうから、かな」
「料理好きでも、そういうところは面倒がるんだ。ちょっと意外ね」
喋りながらでも野菜の処理はできる。ほうれん草といんげんを茹でている間に、ごぼうをささがきにして水に晒した。ハンバーグは焼き立てで食べたいので、ごぼうのアク抜きの最中にタネを作って寝かせておく。
付け合わせを作り終えたら、主役の登場だ。
🐟🐟🐟
「美味しかったわ、すごく」
彼女は泡を洗い流した食器をボクに差し出した。満足げな顔だ。
「喜んでもらえてよかった」
ボクは濡れた食器を受け取って水気を拭き、棚にしまう。ご飯のお礼に洗い物をしたいと彼女が買って出たのだ。同じ一人暮らしなのともともと器用なのもあって手際が良い。小学校時代、彼女が調理実習のとき班の垣根を越えて頼られていたことを思い出す。
その流れで、地元が同じ人間に確認したいことがあったのも思い出した。
「夢の中でさ、龍葉村魚髪川源流って看板……棒? が出てくるんだけどさ」
「りゅうばむら、うおがみがわ……ええ、地元の地名と川の名前くらい覚えているわよ。でも私達が生まれる前に市町村合併しているから、正しくはりゅうばちょうね。それがどうかしたの?」
「その字なんだけど……りゅう、ドラゴンの龍に葉っぱでりゅうば、魚と髪の毛でうおがみだったっけ?」
ボクの質問に彼女は首を傾げた。
「いいえ、違うわ。柳の葉っぱでりゅうば、卯の花の卯に糸偏に者の緖に上でうおがみよ」
「そうだよね。うん、そうだったよね」
ボクは彼女に同調した。ボクが覚えている地元の地名は彼女が言ったものだった。人魚の夢はなぜだかノスタルジックな気持ちになって、初めて作った弁当や、自分用に買ってもらった包丁や、料理がきっかけでお近付きになれた淡い初恋や、現実にある記憶と違和感なく混ざってしまうが、しょせん夢は夢だったのだ。
安心したボクとは裏腹に、彼女は何か引っ掛かる部分があるのか、りゅうば、うおがみ、と反芻した。
「もしかしたら、小松君が言ったそれは昔の名前かもしれないわ。あそこは昔から水害が多い土地で、その原因は川の源流に龍がいるからだとか、食べると不老不死になる肉を目当てに狩り尽くされそうになって逃げ延びた人魚がいるからだとか、そういう話があったし」
彼女の口から人魚という言葉が出るのに胸がざわついた。
「おとぎ話よ。水が増えたときの川に子供を近付けないようにするためのね」
そうに決まっているわ、ぼそりと囁いた彼女から最後の皿を渡される。食器の片付けが終わると、部屋が静かに感じられた。
「小松くんとは友達でいたいなって、あのときはそう言ったけど」
静寂を破ったのは彼女の方からだった。
「今、あのときと同じ言葉をかけられたら……私、きっと違う答えを返していると思う」
華奢な手がボクの腕を触った。水仕事をしているのにあかぎれが無いのは、肌のケアを欠かさないからだと言っていた。
そういう雰囲気なんだな、と思った。
彼女の反対側の手を握ってみると、ついさっき洗い物をしていたので冷たい。
「小松君はキスするの初めて?」
「うん。したことない」
「私も同じよ」
彼女は目を瞑って、顔をやや下に向けた。ボクより彼女の方が背が高いので、自然とそうなる。
首を伸ばすだけではあとちょっと足りなくて、ボクは爪先立ちをした。
違う。違った。
柔らかくて、なにか塗っているのか脂っこいピンク色の唇に口を合わせた時思い出した。
ボクはキスをするのが初めてではなかった。
彼女よりもっと大きな人とキスをしたことがある。今みたいにボクからしたのではない、初恋の女の子にフラれた話をした時にキスされたのだ。
男同士で、相手はボクよりきっとずっと大人で、そもそも人間ではない。そんなひとにボクのファーストキスは奪われたのだ。
一度だけではない。もっと、たくさんの回数だ。その頃のボクは、皮膚の薄いところ同士をくっつけ合うそれがキスなのだとは知っていた。お父さんとお母さんみたいな関係の大人がやることで、子供はやっちゃいけないことだという認識だったが。食後にドラマでキスシーンが流れたときなど、そのドラマを楽しみにしていたはずの母親が突然早口で喋りだしてボクの意識をテレビ画面から逸すようなことをしていたから。
子供は見ちゃダメなことをする背徳感が頭のどこか中心部にあたるところを麻痺させていたのかもしれない。でも顔がよく見える昼間は恥ずかしいからと、ホタルを見に来たという名目で夜中抜け出しては何度もキスをねだったのだったっけ。
頬を包む硬くて冷たい鱗や、川の水の生臭さ、重ねられると息ができなくなって、食べられている気持ちになる厚い唇の感触が思い出される。
湯船に浸かったときなんかの音でいつも連想していたキスシーンが、唇と唇が重なり合うだけの抽象的なものから、目だけが無色の人魚が艶やかに微笑む映像に差し替わる。思えばキスするとき、あのひとはいつも尾ヒレでゆっくりと川面を叩いていた気がする。苦しいという合図なのかと思って離れようとしたが、背中に回された腕の拘束が緩むことはなかった。
『そうやってしなだれかかってくるくせに、のぼせた顔を見ることは許してくれないんだね。キミを見つめるボクの目を見ないと言うなら、代わりに耳を澄ませて。目を瞑っていたっていいから、ボクが鳴らす音をよく聞くように。それで許してあげよう』たった今、背後から囁きかけられたかのように、鼓膜をくすぐった言葉が記憶の蓋から飛び出してくる。
内腿で触った、しなやかに見えてしっかりとした下半身を覆う濡れた鱗の質感、ねだっておきながら恥ずかしがるボクを逃すまいと背中で交差する腕の太さを、どうして忘れていられたのだろう。
まっすぐ視線を結び合わせたら腰の骨を溶かされてしまいそうだった、細められた目はどんな色をしていただろう。
ゆっくり明滅する金色のアラザンが、痛みをこらえるような人魚の顔近くを飛んできた瞬間を思い出そうとしていると、不意に、ドアの方から視線を感じた。
彼女も同じものを感じ取ったのか、ボクを突き放してドアに駆け寄り、スコープに近付いてへたり込んだ。
「小松君、鍵を閉めて。お願い早く」
尻もちをついたまま、ずるずると後退する彼女の顔は、唇だけがピンクで、他は真っ白だった。誰かいたのだろうか。鍵をかけてからボクもスコープを覗いたが、人の姿らしきものはない。いつもと同じ、グレーチングが一直線に敷き詰められた地面が映っているだけだった。
誰かの落とし物でも引っかかっているのか、暗がりに黄色く光るものがあった。
何もおかしいところは無かったと伝えると、彼女は真っ白い顔を手で覆った。
「小松君は見てないのね、見てないの。だから平気でいられるんだわ。見ている、見ているのよ、ずっとこっちを……あの時と同じ目が、どこへ行ってもついてくる……でも、目の下にひどいくまが……あのままにしていたら小松君は、きっと……私はどうしたらよかったの……」
顔を覆ったまま小さな声で言うので聞き取りづらかったが、彼女はそんなことを言った。
「小松君、お願い。今日は泊まらせて……床で寝るから、朝までここにいさせて……」
そういう雰囲気では、ない。
何かに怯えて尋常じゃない様子の彼女を放ってはおけず、ボクはまた二つ返事で了承した。
床で良いとは言われたが、女の子を床で寝させるのは気が引けたのでベッドを譲った。彼女が眠るまで見守ってから電気を消した。
翌朝になるとベッドの上に彼女の姿は無かった。靴も無くなっている。帰ったのだろうと思いドアノブを捻ると、鍵がかかったままだった。
彼女の靴が無くなった玄関が濡れている。昨日はとても良い天気だったはずなのに。この生臭さは雨水や水道水では起こり得ない。きっと川の水だろうと思った。口の中、喉の奥、肺いっぱいに流れ込んだ臭いを間違えるはずがなかった。
ボクは、あの人に謝りに行かなくてはならない。どんな目の色をしていたか未だ思い出せないあの人に。
思い立ったが吉日という言葉だってあるのだ。
貯金箱の中身を全部財布に移して駅に走った。戻ってくるお金は、実家の両親におねだりすることになりそうだった。
🐟🐟🐟
初恋の女の子とのキスがきっかけで色々と思い出したことがある。
初めて作った弁当の行方。
その日の前日は大雨降りだった。翌日は雲ひとつない晴れで、水が増えた渓流は絶好の釣り日和だった。大人が誰もいなかったのは、危険だったからだということは今になって分かったことだ。昔から伝わるおとぎ話の意図も知らなかった小学生のボクは、邪魔者がいないと大喜びで釣り糸を垂らした。
それはもう入れ食い状態で、餌をつけて投げれば五分も待たずに食うわ釣れるわで完全に調子に乗っていた。大きいのが釣れて引き寄せようとして、周りが見えなくなっていたボクは竿を振り回しすぎて糸を枝に引っ掛けてしまった。なんとか取ろうと身を乗り出し、足を滑らせて川に落ちた。
普段なら「冷たい! 痛い!」で済んでいたはずだったが、水が増えた激流に飲まれてしまった。泳ぎが得意な人でもどうにもならなそうな急流にもみくちゃにされて、息を吸おうとすると水を大量に飲むことになった。人が居なかったことは喜ぶべきでなかった。
誰にも気付かれず流されて、もうだめかと思ったとき、誰かの腕がボクを捕まえてくれた。がっしりした腕だった。
引き上げられて水を吐かされ、激しく噎せこみ、その間にも助けてくれた人は近くにいてくれる気配がしていた。落ち着いたところでお礼を言おうとそちらを向くとまず服を着ていない上半身が見え、下腹からだんだん硬そうな鱗に覆われ、足があるべき場所に魚のヒレがある。腕もだ。肘から先は鱗に覆われ鋭い爪が伸びている。
人魚だった。最後に顔を見た。ボク含めなんだか野暮ったいのが多い村の中では少なくとも見たことない、鼻筋が高くすっと通って、彫りの深い物憂げで聡明そうな整った顔立ちをしていた。
びっくりして逃げようとしたその時、地響きに似た音が鳴った。人魚の腹から。
お腹が空いてるのかと聞いたら、人魚はおずおずと頷いた。ちょっと待っててと言い残して上流の岩場に置いてきた荷物を持って戻ると、人魚はまだそこに居た。
「お弁当、ボクが作ったんです。食べていいですよ」
この時だ。家庭科の教科書とにらめっこしながら作った弁当を、ボクは言われるまでもなく人魚に押し付けようとしたのだ。
人魚の困惑したような顔を見て、箸の使い方が分からないのかもしれないと思ったボクはおかずをひとつ箸で摘んで人魚の口元へ近づけた。
人魚は口を開けて仕方なさそうに食べてくれた。
安全だと分かると人魚は弁当を受け取り、手掴みで食べ始めた。ぼろぼろ涙を流して食べるものだから、美味しいかと聞いてみた。
「ん……ちょっと味が薄いね。あとこれ表面が焦げてる」
人魚はそう言って輝かしい宝物を空箱にした。
ボクが生まれて初めて作ったお弁当を平らげた人魚は、名前をココと名乗った。
お弁当をあげる代わりに魚の捌き方や調理法を教えてもらうとは、思い出してみると、ちょっと変わった友達関係だと感じる。大人の顔つき体つきで優しい話し方をするココさんから色んなことを教えてもらうと、お兄さんができたみたいで、ひとりっ子のボクは飽きることなく川に通っていた。
内緒の友達の存在がバレてしまったのは、きっと初恋の彼女の仕業だったのだろう。ホタルの飛ぶ時期、目の下にくまができていると彼女に指摘されたことがあった。人魚にキスしてもらうために夜中家を抜け出しているんだとは言えるわけもなく、なんだったか下手な嘘を答えてしまったような気がする。おかげで余計に心配した彼女は休みの日に出かけていくボクの後をこっそりつけていたのだと思われる。
ある日家に帰るとお寺に連れて行かれ、知らないお婆さんから「もう川へ行くな」と言われた。ココさんに会えなくなるなんてイヤだと言ったら、離れの小屋に閉じ込められた。窓やふすまに隙間なく御札が貼られていて、外の様子は見えなかった。
「人魚はいたか」
「見つからない」
「捕まえたけど逃げられた」
「目をやられた」
「ひとりころされた」
壁が薄かったので、大人たちの不穏な会話はうっすら聞こえていた。寝るように言いつけられていて、塩をぶっかけたジャリジャリする布団が敷かれていたけど、とてもそんな気にはなれなかった。
夜になって声がしなくなると、小屋をこっそり抜け出して、後は夢で見た通り。
ボクはココさんに「逃げて」と伝えるつもりで、ココさんを捕まえようとする大人たちを案内してしまったのだ。
酷い裏切りだ。ココさんもそう思ったに違いなかった。
裏切り者のボクがその事実すら忘れて、一度は破れた初恋が十数年越しに実りそうな雰囲気に浮かれていたものだから、怒ったあの人が彼女を連れて行ってしまったのだろう。
きっと、そうに違いない。
🐟🐟🐟
料理を食べた人みんなに旨いと言わせる夢を叶えるまでは帰らない、なんて言っていた故郷についたのは真夜中。寝静まった田舎の道路は街灯がぽつぽつ立っているが、ひとたび山道に入ると、人工の明かりは存在しない。
どこまでも続く闇がそよいでボクに帰るよう囁く。
帰るわけにはいかなかった。
携帯電話のライトを頼りに川沿いを登っていく。まだ雪が残っているのを踏み、滑って転びながら、寄り道せず前へ上へ進む。
龍葉村魚髪川源流。
地面に木の棒が刺さっているのを照らすと、そう彫られていた。
行き止まりには滝があった。高さがないぶん幅があり、水のカーテンに月明かりが照っていた。滝のちょうど中心あたりに丸い岩が出っ張って、その上に人が腰掛けていた。
ライトで照らしてみたが、行方知れずとなった彼女ではなかった。裸の背中は広く、髪は短くて黒い。なにより目を引くのは下半身が──
川のせせらぎを聴いてこちらに背を向ける、その人がいる月夜の滝は、陳腐な言い方になるが神秘的で、幻想的だった。夢と違ってどこからも血が流れ出ていない美しいその人を見て、ボクは叫んだ。
「ココさん!」
その人は、ココさんは振り返った。
「小松くん」
最後に会ってから十年は経過しているのに、振り返った顔はシワひとつ増えていない。
低くて柔らかい声質に名前を呼ばれ、ボクは反射的に一歩踏み出した。
実物を見てようやく思い出したが、ココさんは樹液が固まって出来た宝石みたいに黄色い目をしていた。
「ココさん、ごめんなさい! あのときボクは、あなたに逃げてと言いに来たんです!」
美しい景色にざぶざぶ飛び込んだ。胸元まで浸かる水の冷たさに心臓がびっくりしたが、お構いなしにココさんに近付いた。
「裏切りだって思われても仕方ありません。でも、人がついてきていたなんて、ボク本当に知らなかったんです! ココさんと会えなくなるのが嫌で……ずっとここで待っていてくれたんですよね? 謝りに来るのが遅れてすみません」
硬くて冷たい鱗のついた人差し指がボクの口を押さえた。
怒っているものと決めつけていたココさんの顔は、予想に反して、綿菓子の夢を見る目つきをしていた。
「小松くん……ボクはキミのことを怒っていないよ」
ココさんの表情と連動して、ボクの中で張り詰めていたものが緩んだのを感じた。
「キミのことを待ってもいない」
ココさんは柔らかく息を吹くように笑った。
「だってずっと見ていたからね」
硬くて冷たい、川の水の臭いの手がボクの頬をそっと触った。
「新しい土地で、気の合う親友が二人もできてよかったね」
自分用の包丁を買ってもらったことを報告した時と同じように、ココさんは弾けんばかりの笑顔で言った。
「小松くんの料理の匂いの恩恵に預かれたというのに、キミにひどいことをしたあの男には、悪いことをしたと思ってる。あの時はちょっとだけ、虫の居所が悪かったものだから。それにしてもあの男、お腹が空いてしまうような良い香りを鼻腔いっぱい吸い込んで、それをおかずに白飯をかきこんでいたら良かったのにね。どうせろくな食生活じゃなかったんだし」
琥珀色の目が眇められ笑顔が陰る。親指と人差し指で空気をつまむ動作を交え、大げさな抑揚をつけた茶化した言いっぷりに悪びれる様子はない。ココさんは心から悪いことをしたとは思っていないのだとボクは想像した。
「ボクと小松くんの愛おしい時間を邪魔したあの子供、ずいぶんと綺麗に育っていたね。憐れみの施しを我が物顔であさましくも貪り尽くし、剰えキミの好意をお友達でいたいとか踏み躙ったくせに、手の平返してキミを誑かしてさ……とんだ女狐だ」
最初からそんなもの無かったように笑顔が消え失せ、ココさんは低い声で吐き捨てるように言った。
ココさんが何か喋るにつれて、ボクの顔の温度は下がっていった。耳の付け根で鳴る心臓が狂ったように警鐘を叩く。
「どうして知っているんですか」
ココさんは不思議そうに首を傾げた。ボクは変なことを言ったのだろうか。
「どうしてって、言ったじゃないか。川の中からずっと、ずっと、いつまでもキミのことを見つめている……とね。夢にまで見てくれたそうなのに、忘れたのかい?」
「ボクは川に近付いていません」
「そうだね。人魚の記憶を封印してから、小松くんは川に近付くことを本能的に避けるようになった」
ココさんは月の光を反射してきらめくせせらぎに流し目を落とした。可哀想だと思ったが、不思議と手を差し伸べる気にはならなかった。
「でもね、キミは知らず知らずの間に近付いていたんだ。この一年、毎日川の上を歩いていた」
柔和に笑うココさんは視線をボクに戻した。この黄色い二つの光を、ボクはグレーチングの下に見た覚えがあった。
「キミが家の鍵を落とした金属の網の下ね……あそこは地下に川が流れているんだよ。あそこだけじゃない。小松くんは何度も川の上に立っていたさ」
引っ越し初日や、ふとした瞬間に感じた視線に合点がいった。
水で体が冷えているのに、ボクの背中と脇は滝のような汗をかいている。
「分かったろ? ボクはキミを怒ってもいないし、待ってもいなかった。それでもごめんなさいと言うんだったら、お望み通りに、ありもしない罪を償わせてあげよう」
ココさんは妖しく笑うと、鋭い爪をもつ手を高々と掲げた。
ころされるのだと思った。
ボクは反射的に目を閉じた。
くつくつと笑う声がする。フーッとココさんが荒く息を吐き切るのを聞いて目を開けた。
目を開けなければよかった。
ココさんは手を自らの胸の中心からやや左側にめりこませて、歪んだ顔に狂気じみた笑顔を貼り付けていた。
手首が捻られ、腕が引き抜かれる。暖かいものがボクの顔にかかった。ココさんの手には何か、どくどくと蠢くものが握られていた。
それがなんなのか、携帯電話のライトで照らして確かめようなんて思わなければよかった。どぷん、と携帯電話が川底に沈んで、ぼんやりとした光がボクの後ろへゆっくり流れていった。
「不老不死の呪いを宿した毒の血を飲んで。キミを想うとキミの小さな手で握りつぶされそうになる心臓を食べて……ボクと同じになってよ小松くん。そうしたら、許してあげる」
びゅっびゅっと拍動一回ごとに血を噴き出すそれを、ココさんは林檎でも丸かじりするように、かぶりつく。厚い唇の内側からごりゅごりゅと硬い肉を咀嚼する音が聞こえる。風穴の空いた胸は、傷口が盛り上がって今にも塞がろうとしていた。
ココさんは大きい背を曲げて、下から覗き込むようにボクを見た。
足に根っこが張ってしまったように動けない。
見せつけるようにゆっくり伸びてきた血なまぐさい鱗の手に後頭部を掴まれた。
不意に、ココさんは尾ヒレで川面を叩いた。まるでそんな雰囲気じゃないのに、皮膚の内側から放熱するように顔がかっかとする。トドメとばかりに蜂蜜を煮詰めたような目に絡め取られ、立っていられなくなり、意図せずココさんにもたれかかってしまう。口いっぱいにモノを入れているココさんは何も喋らず、目元だけで嬉しそうに笑った。
ボクを抱いたままココさんが入水したために、ボクの顔も冷たい水に沈む。びっくりして開いた口を肉厚の唇で塞がれ、噎せ返る血の臭いと弾力のある肉片が流し込まれた。