すべての食材には旬というものが存在する。
もっとも栄養を蓄えた食べ頃はもちろんのこと、深海や雲の上、深い穴の底といった普段の生息域から、産卵などの理由で一時的に人間の手が届くところへ来てくれること(とはいえ全員が全員たどり着けるわけではないが)を指す場合もある。
根を張って動かない植物にも収穫時期というものはある。それが1年のうちのたった1日しか来ないうえにその土地でしか育たない、いわゆる市場に流通しない激レア食材は数えだすと限りがない。
「おはよう、小松くん」
肩を揺さぶられた小松は薄ら目を開く。
2月とは思えぬ湿り気のある暖かな空気。
暗闇の中、寝そべっているのは自宅のベッドではない。クッション性のあるシートの上に敷いた寝袋にすっぽりと収まって就寝したのだ。
「ココさん……おはようございます……」
フニャフニャ寝ぼけた返事をすると、突然視界が明るくなった。
「あと5分で2月14日だよ」
懐中電灯の白い灯がテント内部を隅々まで照らし出す。小松が持つと重量を感じる大型のライトだが、2mの長身の手にかかれば子供用の玩具かと錯覚を引き起こした。ココには本来不要な物だ。
「あと、5分で……」
「10分前には起こしたよ。2月14日にしか採れないカカオが実をつける瞬間を見たいんじゃなかったっけ?」
低く囁きかける声によって眠気は霧散した。
珍しいカカオがあるとココから聞いたのは、メディアがバレンタイン商戦に染まり始めた頃のこと。
聞いた話によれば、未熟な実はおろか花すら確認できない木が、2月14日午前0時ちょうどに突如として熟成した実をつけ、2月14日が1秒でも過ぎた瞬間に腐って落ちてしまうのだそうだ。時間経過にしたがって樹上で発酵、乾燥が進み、このとき実の内部で焙煎に似た現象も起こり、良いタイミングを見計らって収穫することで調理工程の短縮ができるが、早すぎれば通常のカカオの倍以上の時間がかかる焙煎をしなければならず、遅すぎれば使いものにならなくなってしまう。
そして、そのカカオは生息場所と特性、調理方法の情報はあるのに、名前と味についての情報は調べても不明とのこと。
実が生る瞬間をこの目で見たい。
生態以外一切不明だという食材の味を知りたい。
ハントしして小松が調理した食材は、当然のことながら実食の際はココの口にも入る。つまり──手作りチョコを合法的に贈ることができる。
料理人としての飽くなき探究心に下心を隠して、ココの持ちかけた誘いに飛びついたのである。
小松はテントを這い出たココを慌てて追いかけた。
湿気を含むのは空気だけでないようで、若干緩い地面を踏みしめればヌチャリとぬかるんだ音がする。
「こんな時間まで寝てるつもりなかったのに……」
「ボクがギリギリまで寝かせていたからね。小松くんお疲れのようだったから」
起き抜けでやや舌足らずの小松に対して、ココの優しい声色は一言一句がはっきりと発される。
「お気遣いありがとうございます。ところでココさんはいつ起きたんですか?」
「どうしてそんなことを聞くのかな小松くん」
「いえ……なんとなく気になって」
ずっと前に起きていたとして、だから何だというのか。
「珍しいことでもないけど」平たい抑揚が答える。
「寝込みを襲われる……様々な美食屋の死因の中でも発生確率が非常に高いんだ。睡眠時間が短くても万全のコンディションで戦えるのはもちろんのこと、起きてすぐに活動できる体にしておくのは美食屋として当たり前のことさ」
「そうなんですか……確かにトリコさんの寝ぼけてるところ、あんまり見たことなかったかも」
「そういうものだよ。同行者がいるならなおさら、見張りをしておく必要もあるしね」
ココの説明は小松を反論の余地なく納得させた。
「お気遣いありがとうございました。すみません、変なこと聞いてしまって」
「いいんだよ。……しかし当たり前のこと過ぎて、こんなこと聞かれるなんて考えもしなかったな」
訝しげに言葉が続く。
「もしかして小松くん、先に起きたボクに何かされたかったの?」
半笑いひとつも浮かべないせいで分かりづらくとも、その表情から冗談としか思えない一言が放たれる瞬間を目撃したことがなかったわけでもあるまい。
そうであるにもかかわらず、小松は。
揶揄するように浮ついた調子で瞬時に否定するべきところで、ヒュッと息を詰まらせ「そんなことない」「あり得ない」「ないないない」思いつく簡単な言葉ばかりを並び立てて否定した。己が作り出してしまった不自然な間を取り繕うように。
ぬかるんだ地面に視線を突き刺していると、「ふふ」と控えめな笑みが小松の頭に降った。
「見張りの一環で同行者の寝顔が見えてしまうのは不可抗力というものさ。……でもまあ、包丁握ってる時以外で静かにしてる小松くんってボクにとっては珍しいからね。有意義な時間だったよ」
「人の寝姿を、まるで希少動物の生態観察みたいに言わないでくださいよ……」
「たくさんいる人間の中で、小松くんは一人しかいないじゃない」
空気を含んだ柔らかい声音。
関節が一本棒になったように首を上げられないままだったが、ココが許す友人同士の会話における正解の返答ができたらしい。
肩と首の緊張が解れ、照らし出された景色を見る余裕が戻ると、小松は自分の足がなんのために泥濘んだ土に立っているのかを思い出した。
「ココさん、木はどこにあるんです?」
「カカオの木なら、もう見える場所にあるよ」ココは言いながらライトでぐるりと周囲を照らす。「群生地にテントを張ったからね」
「えぇっ!? これ全部ですか」
日が沈む少し前に到着するやテントが張られ、危険な猛獣もいなそうだし寝て待とうと寝袋に押し込められてしまったのだ。小松は自分の現在地について、ジャングルに来たぞ! 以外に何の情報も得られていなかった。
「5……4……2月14日が来るよ、小松くん」
新しい日の始まりを告げられた直後。
ごん、ごん、軋むような、嘴が叩きつけられるような音が木々から一斉に鳴った。
「根から水を吸い上げているんだ」
木々に反射された光で照らし出された地面はカサカサにひび割れている。先程まで靴底が沈み込むほどだった土に触れてみると、すり合わせた指の上で細かく崩れてしまうほどに乾ききっていた。
潤ったかに思われた樹皮が瞬く間に乾燥していく。葉が茂っているだけで花も咲いていなかった枝からラグビーボール状の実が、まるでボンベに繋がれた風船のように膨れ上がる。
小松は手のシワに入り込んだ土を落とすのも忘れて見入った。
木が小松の身長と同じくらいなのに対して、尻が地面に届きそうなほどまで育ったところで実の膨張は止まった。
「それが成熟した状態のようだね。どうだった?」
「貴重な瞬間に立ち会えて感動しました! 早速収穫しましょう!」
「収穫はまだ待って」
剪定ハサミを手に駆け出す前に肩を掴んで止められる。
「見てて」
おあずけを食らった小松はもどかしさを覚えつつも、肩にココの手を感じるまま待つ。
ごん、ごん、ふたたび幹が軋む。
オレンジ色のつやつやしていた実がくすみ、風船から自然と空気が抜けていくよう緩やかに萎んでいく。それに比例するかのように枯れた土が潤う。
「実をつけるためにカラカラになった土地は、実につまった水分を吸うことで元に戻ろうとする。このときに乾燥と発酵が行われるようだね」
「待ちすぎるとダメになってしまうんでしたね」
「うん。収獲のタイミングは……小松くんに任せようかな」
「ええっ! そんな責任重大な、電磁波でわからないんですか?」
「ボクの目だってそこまで万能ではないよ。なに、小松くんなら大丈夫さ」
表情こそ朗らかであるものの、声に乗せられた言葉は重い。いち料理人として認め、その腕に信頼を置かれていることに他ならない。
「どうする?」
「……ハイ、やります」
萎みゆくカカオの実にそっと触れる。硬い表面はわずかに熱を持って、今にも作業工程が進んでいることを小松に知らせる。
寄り添い、食材に耳を傾ける。
「今です! これから1分以内のスピード勝負になります!」
「……うん、完璧だ。会わないうちにどんどん先に行ってる」
「もしかして、本当は……」
「さあ、どうだろう。そんなことより急がなきゃいけないんだろ?」
恐らく1秒でも過ぎたら味が変わってしまう。確信めいた予感が緊張と焦りを生み出し、とにかく時間の許す限りに収獲しようと小松は木から木へと駆け回った。
1分後、他にも食材があればと多めに持ち込んだグルメケースはすべてカカオで埋まり、予定よりずっと早い帰還が決まった。
🍫🍫🍫🍫🍫
殻を剥いたあとの工程はシンプル。湯煎しながらすり鉢でひたすらすり潰すのみ。
キッスが雛鳥だった頃に餌を作るのに使っていた大きめのすり鉢とすりこぎ棒があるからとの申し出により、作業場所はココ宅のキッチンとなった。
調理工程の簡易化が得意な小松といえどこればかりは短縮のしようがなく、地道な作業が続く。
「良い香りがしてきたね」
ココの声を小松はつむじで聞く。
水が混入しないよう、湯を沸かした鍋に浸けたすり鉢を支える必要があった。そこでココが手伝いを買って出たのだが、規格外の体格が横から支えると作業の妨げになってしまい、小松の背後が最適な立ち位置として落ち着いた。すり鉢ごと抱きしめられているかのような絵面だが、友情からくる厚意による結果である。
ココの顔を見るために、小松は体をひねりながら上を向かなくてはならない。
「そうですね、チョコの匂いはします。でも、なんだろう……」
確かにチョコの香りは漂っている。しかし、実力ある美食屋の、それも四天王と呼ばれるような人間をして「良い香り」と認めるほどのものではないのではないか。小松はそのように感じたのだ。
まだすり潰し足りないのだろう。
料理人としての実力や経験もきっと足りていない。
粒感のあったペーストがなめらかな液状になっても、小松の違和感を払拭するほどの芳醇さは生み出されない。
「あとは味を整えて冷やすだけだね。必要な調味料があれば持ってくるよ」
「そうですね……変に手を加えたくないので、ひとまず砂糖だけで」
「ボクもそれがいいと思う。これだけ良い香りがしているんだもの、これを損ねるのはもったいない」
人間らしい温もりをもつ隆々が離れたあとの後頭部と背中はひどく冷たかった。
「まだ固まりませんね」
表面は固まりかけているが、少し押せば破れ目から溶けたままのチョコが滲み出る。
「1分前にも同じセリフを聞いたよ小松くん」
大きな手でひょい、と取り上げられ、冷蔵庫が閉まれば小松はテーブルに押し戻された。
真正面にココが座り、ティーカップを静かに持ち上げる。
「落ち着かない?」
「ええと、はい。ココさんのご自宅でこんなゆっくりすることって、珍しいので」
嘘ではない。が、考え事の比率としては冷蔵庫の中身のことが過半数を占める。
特殊調理、あるいは特殊賞味食材である可能性があるカカオ。その真価をココだけが嗅ぎ取ることができて、小松には手がかりすら掴めていない。型に流し込む直前にこっそり味見をしたときでさえ、なんの変哲もない平凡なチョコであるようにしか感じられなった。
手作りチョコを合法で渡せるという邪な心でハントに臨んだせいで食材から嫌われたのだろうか。
「ふふ、言われてみればそうだね。でもね、あんなに開け閉めしてたら固まるものも固まらないよ」
「……ボク、そんなに冷蔵庫の方見てました?」
「自分で気付いてなかったの小松くん」
小松は意識を正面へ向けようとするが、30秒ともたずに冷蔵庫が気になってしまう。
「このまま固まらなくて泊まり込むことになってもボクは一向に構わないけど、キミ明日仕事じゃなかったっけ? 何もしてないと落ち着かないなら、ちょっと手伝ってよ」
「待ってて」とココが退席している間に小松は冷蔵庫を開けた。チョコは固まっていない。
「いま冷蔵庫開けてたでしょ」
「いいえ、開けてません」
「そう。それより机を空けてもらえるかな」
小松がカップとポットを載せたお盆を机の上からどかすと、そこに種類分けされたハーブの山が並ぶ。それと束の麻紐とハサミが2つ。
「乾燥ハーブにするんですか」
「うん。ちょっとずつやってはいたんだけど、一人じゃ間に合わなくてね。小松くんも少しは気が紛れるだろ?」
ココは言うやいなや作業を始めた。
1年に1度、たった1日のうちに実をつけて枯れてしまうカカオから作ったのに平凡な味だったとしたら。今日中に固まらなければ、完成品がココの口に入るのは自分がいない間になってしまう。しかし、居合わせていれば如何様にもリカバリーのしようがあるだろう。
「はい、お手伝いさせていただきます」
小松は急かされるようにハーブを手に取った。
手を動かして一旦集中しだせば冷蔵庫は視界から外れる。作業開始から20分ほどで要領を掴んだ小松の手は止まることを知らずハーブの束を量産していく。
葉のこすれる音、麻紐を切る音、たまにカップの底がソーサーを鳴らし、風が窓を叩く。
「休憩しながらでいいよ小松くん。紅茶が冷めてしまう」
「はい、いただきます。なんだか楽しくなっちゃって」
ココに促されて喉を潤すと同時に、長時間屈めていた背中が痛みを訴えだす。取りかかっていたものだけ束ね終えると小松はグッと体を反らして筋を伸ばした。
「こっちも今日中に終われるんじゃないかな。二人でやると進み具合が段違いだよ。小松くんがいつもいてくれたらいいのに」
「一人暮らしだとこういうの人に頼れませんもんね。ココさんにもそういう感覚あるんだなってちょっと今感動してます」
「なにそれ、小松くんってボクのことどういうふうに思ってるの?」
反射的に手が止まる。
小松と目線の高さを合わせようとしているのか、ココは頬杖ついて背中を丸めている。
窮屈そうな真正面の優男からそっと視線を外し、故意的だったと見せかけるために家の中を見回す。
「そうですね……人混みが苦手そうな人、だと思います」
「こんな家に住んでるから?」
「自覚はあるんですね」
どう思っているか。これ以上なく都合の悪い話題を打ち切りたいが逸ったが故に愛想の無い返事をして、小松は作業に戻った。
かくして、1年に1度、1日のうちに実って枯れるカカオから作られたチョコは冷え固まった。
砂糖を入れただけとは思えない、何か果汁を混ぜたかのようなフルーティーさが鼻に抜ける。口溶けも良く、濃厚な味わいでありながら喉に張り付く感覚が一切ないため、飲み物がなくても次から次へ食べる手が止まらなくなる──とはココの談。
小松もココの感想に合わせて頷き、同意の言葉を口にしたが、そのような味わいも香りも全く感じられなかった。それどころか、味見の段階では一般家庭で食べられる市販品レベルだった味が、食べ進めるにつれて格段に劣化していくようにさえ思われた。
にもかかわらずココは小松の作ったチョコを絶賛し、チョコはリカバリーを図る間もなく完食された。
🍫🍫🍫🍫🍫
バレンタインデーから数日、小松は細かなミスを連発した。上の空の原因は言わずもがなあのチョコである。
誰が作ったとしても不味ければ不味いとハッキリ言うのが、小松の思うココという人間である。
だが、本当は美味しくなんかなかったのに、友人が作った手前無理して美味しいと言ってくれたのではないのか。寝る前に無理くり吹っ切った疑念は朝目覚めれば元通り、小松の胸にどっしり居座っているのだ。
ハントから一ヶ月経ち、ミスこそなくなったが、美食屋四天王が絶賛するとはとても思えない平々凡々なチョコの苦味を、舌の根っこが明瞭に覚えている。
そのような折だ、従業員通用口にて夜暗に溶けんばかりに黒ずくめの巨軀に出待ちされていたのは。
「納品の帰りですか?」
「違うよ」
瞬時に否定される。
通用口から漏れる明かりがココのにこやかに微笑む貌を照らし出す。
「じゃあヒント。最期に会ったのはいつだった?」
「一ヶ月前です」
「何月何日でいうと?」
「2月14日です」
そこに一ヶ月足してホワイトデー。答えにたどり着いた小松はしどろもどろになってしまう。
「いえっ、あれはハントに同行しただけで!」
「それじゃあ、これはホワイトデーとか関係なく、ボクが勝手に用意しただけってことで」
ココの手の内で透明な袋の口を結ぶリボンが解かれる。静かに片膝をついたかと思えば、ひと粒取り出された袋の中身が小松の口元へ差し出された。
今この場で食べろ、ということらしい。
甘い香りが仕事終わりの体を惹きつける。
小松は腹をくくって食いついた。固形物。チョコレートだ。
なにか果汁を混ぜ込んでいるのか、フルーティーな香りが鼻を抜ける。口溶けも良く、濃厚な味わいでありながら喉に張り付く感覚が一切ないため、飲み物でリセットしなくても次が食べたくなる。
文句の付け所もなく。
「こっ、ココさん! このチョコすっごく美味しいですよ!」
「本当に? あまり味見しないで作ったんだけど……」
「そんなぁ、嘘なんか言ってどうするんですか。まだあるならもっと食べたいです! なんの果汁を混ぜて……あっ、答え言わないでください。当てたいので」
薄明かりのもとで目線の高さが合わさって、それからチョコを食べて気がついたことだが、小松でも手を伸ばせば触れる位置に降りた美貌は緊張した面持ちであった。
小松の言葉に嘘はないと電磁波で見抜いたか、小松が嘘をつけるほど器用な人間ではないと認識していたか、なんにせよ小松には測りかねるところでココは安堵したらしい。吐息と共に長い睫毛の先が上下で交わり、再び開かれた目には何か意を決めた力強さがこもる。
「これね、小松くんと取りに行ったカカオから作ったんだ。ほら、大急ぎで収獲したから余ってたでしょ?」
「そうだったんですね」
小松には一ヶ月経っても分からずじまいだった特殊調理食材の本当の味を、ココは見事に引き出してみせた。そのことを小松は「やっぱりココさんはすごい人です」素直に称賛する。
「ボクは本当の味を見つけてあげられなかったのに」「そのことだけど」
小松が言い終わるか否かといったところ。ココは食い気味に言葉を被せた。
「チョコを食べたボクと小松くんの反応がどうも噛み合っていない気がして、改めてあのカカオについて調べてみたんだ。そしたら興味深い文献を見つけてね」
規格外の指につままれて、チョコがひと粒差し出される。
小松はありがたく受け取り口へ。変わらない美味しさに舌鼓を打つ。
「あの地方の民俗誌に、ちょっと変わったカカオのことが書いてあったんだ。年中葉が茂っているだけで未熟な実はおろか花すら確認できない木が、1年に1度突如として完熟した実をつけ、その日のうちに腐って落ちてしまう。
でも真の特異性は味の方……チョコの作成者からどう思われているかによって変わるそうだ。特別な感情がなければ平々凡々に、嫌っていれば食べる者の想像の限りを尽くして不味く、といったように。
……カカオの本当の味を知ることができるのは、チョコ作成者が恋愛感情を抱いている相手だけ。
この特性を利用して妻の不貞を暴くのに使われていたらしい」
半分も溶けていないチョコが喉に落ちる。小松は心臓がヒヤリと跳ね上がる心地だったが、幸い喉に詰まることはなかった。
ちょうど今食べているチョコの味は小松が想像する不味いチョコとはかけ離れており、作成者から嫌われてはいないのだと内心ほっと息をつく。
そこでひとつ納得することがあった。
「味についてはっきりとした伝聞がなかったのは……」
「そう、不貞を疑われているなんて知れたら大変なことだ。その民俗誌以外では、1年のうち1日だけ実をつける植物としての特性しか取り上げられていなかったよ」
「そうだったんですか……それじゃあ、本当の味は分からずじまいですね」
濃厚な味わいの奥に潜むフルーティーさの正体を掴むべく、手のひらを夜空に開いてチョコを要求する。
「ふふ、お気に召したようでなにより。推理に水を差すようだけど……実は砂糖しか入れてないよ」
「砂糖だけですか?! そうは──」
思えない。
砂糖を入れただけとは思えない、何か果汁を混ぜたかのようなフルーティーさが鼻に抜ける。口溶けも良く、濃厚な味わいでありながら喉に張り付く感覚が一切ないため、飲み物がなくても次から次へ食べる手が止まらなくなる──
一ヶ月前にも同じことを聞いた覚えがあった。
『カカオの本当の味を知ることができるのは、チョコ作成者が恋愛感情を抱いている相手だけ』
一ヶ月前にも同じことを言った男は、ついさっきそう話した。
その彼が一ヶ月と同じカカオから作ったというチョコを食べた自分は、何と言った?
小松は己の顔があわや発火せんと赤熱するのを自覚する。「おかわりをどうぞ」と差し出されるものはもはや一種の毒と変わりない。
対して、嫣然と唇を曲げる顔には勝ち誇ったような晴れやかさ。
「お味はいかがかな、小松くん?」