願いをひとつ、溶かしたなら「お、おはよう!」
ああ、まただ。
折角練習したのに、どうにもその顔を見た瞬間に、上手く笑えなくなる。
「おはようございます」
対する相手は、見る者全ての目を奪ってしまうほどの笑みを、作ったものではなく、自然に浮かべるものだから。自分がアイドルであることに、少し自信を無くしそうになってしまうというのに。
「はあ……」
プロデューサーに、もっと笑顔で挨拶を、と言われてからというものの、毎日こんな調子だ。
無意識の内に出てしまった溜め息を残して、会議室へと向かう。今日の予定は、FRAMEでのミーティングと、レッスン。朝の挨拶というのは重要だが、それ故、上手く出来なければ、一日のやる気も下がってしまうというもの。明日はちゃんと笑わねばと心に決め、気持ちを改める。
「英雄さん」
「……プロデューサー」
「あの……私が以前言ったことを気にされてるん……ですよね?」
「いや、そんな訳じゃ……」
ぎこちなく振り返って、頬を掻く。
心配させたくはなかったのだが、これで仕事に支障をきたす訳にも行かない。
「英雄さんは、自然な笑顔が一番素敵なので言ってしまったんですけど……余計なこと言っちゃいましたかね…………」
「その自然な笑顔が難しいんだよな……」
笑おうとすればするほど、怖がられてしまうと、わかってはいる。だが、わかっているのと、実践出来るかどうかは、また別だ。
「なあ、プロデューサー。笑って、くれないか?」
「……こう、ですか?」
「っ」
恥ずかしそうにはにかみながら、こちらを見上げて来るプロデューサーを見て、変なお願いをしてしまったものだと、今更ながら気付いた。この人の笑顔なら参考になるかも知れないと思ったのだが、何だかいけない気持ちになって、恥ずかしさが伝染する。
「あの…………英雄さん?」
耐えられなくなったのか、プロデューサーが俺の名を呼ぶ。だが、今、それは駄目だ。そんな顔で名前を呼ばれたら、誰だって、勘違いをしてしまうから。
「……悪い、なんでもない」
急速に頬が熱を帯びて行くのを感じる。見られないようにと背を向けて、今度こそ会議室のドアを開けた。幸い、中にはまだ誰も居ない。
「あんな、顔……誰にでも見せてる訳じゃないよな…………!?」
いや、プロデューサーのことだ。無自覚にやっているのだろう。そうでなければ困る。そうでなければ、プロデューサーにとって、俺は『特別』になってしまう。もし、そうだったら、なんてのは、妄想の中だけで良い。
「叶わない恋、か……」
ドアに凭れかかって、鼓動をはやめる心臓を押さえつつ、深い呼吸を繰り返す。口にした言葉は空気に溶けて、何事も無かったかのように、空調の効いていない室内を包んで行った。