変わる世界「退屈だ」
無機質な天井をぼんやり見つめながら、薫は思わず独り言を漏らした。
愛抱夢との念願のビーフは呆気なく、思いもよらない形で幕を閉じ、鈍い痛みだけが身体に残っていた。
視界に入るのはギプスで固められた腕と脚。
退屈だ、と再度口にしかけた最中、聞き慣れた声と共に、勢いよく戸が開いた。
「ノックくらいしたらどうだ」
「声かけたじゃねえか」
「入室許可は出してないぞ。もし着替え中だったらどうしてくれるんだ?」
「…今日はツイてるぜと思うだろうな」
「怪我さえなければ蹴り飛ばしてるんだがな。いや、このギプスも武器になるか」
「待て待て、冗談だっ。お前の着替えなんて興味ねぇよ!」
お前の着替えなんて、だと?いちいち癪に触ることしか言わないゴリラだ。
言い返してやろうと息を大きく吸ったところで、ズキ、と頭に痛みを感じ留まった。
「痛むのか?」
さっきまで憎まれ口を叩いていた虎次郎が心配そうにこちらを見ている。
なんだ、その顔は。柄でもない。
-愛抱夢とのビーフで倒れ、身体中に響く痛みと朦朧とする意識の中で、聞き慣れないトーンで呼びかける聞き慣れた声が、微かに耳に入った。
『…おる、かおるっ…!』
歪んで曇った視界の中、見慣れた筈の顔が、見慣れない表情でこちらを見ていた-
「おい、大丈夫か?」
虎次郎の呼びかけに、ハッと現実に呼び戻される。
また柄でもない、真剣な表情で虎次郎はこちらを見ていた。無駄に整った顔立ちだな、と感想を抱いてしまう自分に腹が立つ。
「…余計な心配は無用だ」
「ったく、可愛くねー奴」
どっしりと無駄にでかい図体を腰掛けながら、持参したであろう真っ赤なリンゴの皮を慣れた手付きで剥き始めた。
大きめのリンゴが小さく見えるほどの大きな掌からスルスルと均一の太さの皮が伸びていく。
こう言う場面を見る度に、ゴリラの癖に器用だな、と感心する。
図体はゴリラだが腐っても料理人なのだ、こいつは。
「これでも食って、機嫌直せよ」
「リンゴに釣られるほど安い人間に見えるのか?」
「はー、めんどくせぇー。美味えのに」
と言いながら虎次郎はパクリとリンゴを自らの口に入れやがった。
「お前、自分で食べるために持ってきたのかっ」
「お前が食べたくないって言うから俺が食べるしかないだろ」
「食べないとは言ってないだろう!」
そう言った瞬間、スッと一切れのリンゴが目の前に差し出された。
「ほら、口開けろって」
「は?」
「食べさせてやるよ♪」
「…不要だっ」
ニヤニヤと不快な笑みを浮かべる虎次郎からリンゴを奪い取って勢いよく口に運んだ。
モグモグとリンゴを咀嚼する薫を虎次郎はまだニヤニヤと見ている。
「まあ、元気そうで安心したぜ。見た目は相変わらずミイラみたいだがな」
入院生活は思ったより退屈で、初日から苦痛だった。思わず無断で病室から抜け出してしまったほどだ。
その際も満身創痍なこの姿をみて虎次郎はミイラだと揶揄した。
それから虎次郎は毎日の様に病室に顔を出しに来る。その度に口喧嘩の応酬になるのだが、良い暇つぶしになると思えば、悪くはないと思ってしまう。
「んじゃ、また来るから」
「…別に無理してこなくていいぞ」
「無理なんかしてねぇよ。ま、いい運動になるしな。それに可愛いナースの女の子もいるし」
「それが目的かっ。最低だな」
「うっせ」
虎次郎が去った後は、やけに静かな病室だけが残った。時間だけは膨大にあるので、溜まった事務処理を終わらせたかったが、体に受けたダメージが大きかった為か、まだ思うように体を動かせず、頭もどこかぼんやりしていて、考えがまとまらない。
自身の症状に抵抗する気力が湧かず、ベッドにそのまま横たわった。
翌日、その翌日も虎次郎は病室を訪ねてきた。
「ジョーの奴、マメだよな」
その様子に、同じ病院に入院することになったシャドウが感心したようにつぶやいた。
「チェリーが倒れた時も死ぬほど心配してたしな。…なぁ、もしかしてやっぱりジョーと付き合ってんのか?」
「やっぱりとはなんだ。付き合っているわけないだろう」
「恋人じゃない女のところに毎日律儀に見舞いに来るか?普通」
「誑しゴリラをなめるなよ」
「いや、でもよ。チェリーに対してはそんな態度じゃないだろ、いつも」
確かに、シャドウの言う通りで、周りの女には歯の抜けるような甘いセリフを平気で吐いたり、下心全開の態度を見せるにも関わらず、薫にだけはそういった素振りは全くみせない。
「…女としてではなく、ただ同情しているだけだろう。愛抱夢とのこともあるからな」
「…」
何か言いたそうなシャドウ、いや、今は比嘉広海か(病室のネームプレートで知った。意外とかわいい名前をしている。)がこちらを見ながら言葉を飲み込む様子が見えた。
再び静かな病室の中。
団体部屋ではない個室は快適だが、やはり殺風景だ。早く退院したいと切に思う。
「俺だ、入るぞ〜」
やっぱり、また来た。
「どこの俺さんだ」
「相変わらず、嫌味な奴だぜ」
ツン、とした態度とは裏腹に、虎次郎の姿を見る度、無意識にホッとしてしまう自分がいる。だいぶ疲れているなと感じた。
たわいのない会話あと、虎次郎がやけに真剣な瞳で薫の顔を凝視した。堀の深い、大きな瞳がしっかりとこちらを捉えて離さない。薫は少し動揺した。
「なんだ、よ」
「傷、まだ良くなんねーのな」
「そんなにすぐに治るわけないだろう」
何でそんなまっすぐな目でこっちを見るんだ。薫は思わず顔を少し背けた。
やけに真剣なトーンで虎次郎は続ける。
「…本当に、ボロボロじゃねーかよ。
女の顔に傷をつけるなんて。最低だぜ、愛抱夢の野郎はよ…」
「愛抱夢は、悪くない!」
ルール無用のSのビーフでは妨害行為は勿論のこと、どんな行為ですら黙認される。
それを承知の上でビーフに挑んだ結果がこのザマだ。
「油断したこちらにも非はある」
そう、思いたかった。
あのビーフで自分は愛抱夢にとって特別ではなかったという事実を突きつけられ、内心では胸が抉られるほどに深く傷付いているというのに。
今は精一杯の強がりと虚勢を張るしかなかった。
「お前は悪くねぇよ」
全てを見透かすような眼差しで虎次郎は言った。
「あんなやり方は、いくら何でも酷えだろ」
「…ふん、次はやり返してやる」
「お前は愛抱夢に甘いよな。昔から」
愛抱夢と出逢って、初めて恋心というものを知った。共に過ごした時間は短かったが、かけがえのない存在だった。ずっと側にいた虎次郎にはこの気持ちを見透かされていただろう。コイツがでかい図体の割に意外と些細な事に良く気がつく男という事は、長年の付き合いで良く知っている。ゴリラのくせに人の気持ちを察するのが得意なのだ。
「強がんのもいいけど、あんまり、無理すんなよ。」
虎次郎の手が、ぽん、と軽く頭に触れた。
無駄に大きな手だ。触れられただけなのに、温かさが伝わってきて、妙に気分が高揚した。黙って虎次郎を見つめると優しい眼差しで返され、心臓が早鐘の様に鳴る音が全身を駆け巡った。
何なんだ、ゴリラのクセに、その顔はっ。
「早く治して、また滑ろうぜ。
お前がいないと張り合いがないからな。お前が取り寄せたワインだって、早く飲みてえし」
優しい声に、言葉が返せない。
お前なんか、ただの腐れ縁の誑しゴリラのクセに…
「…薫?」
ふるふると、身体が震える。
目からポロポロと溢れたそれを拭き取ろうと眼鏡を取り、顔を背けた。
「…帰れ」
泣いているなんて、気づかれたくない。
「見るな。…帰れと言ってるだろ!」
声の震えを隠す様に、語気を荒げた。
その瞬間、視界が真っ暗になると同時に心地良い温もりに包み込まれ、薫は目を見開いた。
「こうすれば見えないだろ」
耳元での囁きかける虎次郎の声に、みぞおちの辺りがゾワゾワとする感覚と、不思議な安心感を感じた。息を吸えば、仄かにオリーブオイルの香りがする。
虎次郎に抱きしめられて泣くなんて。
恥ずかしくてみっともない筈なのに。
何でこんなに心地良いのだろう。
虎次郎のことを異性として意識したことなん
て、今までなかったのに。男らしくこつごつとした逞しさに縋りたいと思ってしまった。
昔から共に過ごして、お互いの成長を見てきた。喧嘩もたくさんして、スケボーに出会い、共に青春を駆け抜けた。側にいるのが当たり前で、気を張らずに過ごせて、外ヅラの自分を脱ぎ捨てて、ありのままの自分を曝け出せる唯一の相手。
ああ、そういえば、と薫は思いを巡らせた。
愛抱夢がアメリカに行ってしまった時も涙を堪えきれなくて、思わず泣いてしまったことがあったな。
揶揄われると思ったのに、その時も虎次郎は何も言わずに側に居て、黙って抱きしめてくれたことを思い出した。
薫は元々メンタルは頑丈な方だと自負していた。繊細だが打たれ強い性格で、負けず嫌い。どんな理不尽な目に遭っても決して泣いたりはしなかったのに。
あの頃は密かに抱いていた愛抱夢への恋心のやり場がなくなって、弱っていたのだろう。
初めて人に縋って泣いた。そして今回も。
愛抱夢への恋心なんて、もうとっくに過去のものだ。ただ、友として信じていたかっただけなのに。
また虎次郎の腕の中で、愛抱夢を思って涙することになるなんて。
溢れる涙が止められない。理性が働かない。何故だ。ただ悔しいだけならいくらでも経験しているのに。
「愛抱夢…」
震える声でぽつりと呟くと、頭に触れていた虎次郎の手に少し力が篭ったような気がした。
暫くしてようやく理性が働き出し、薫は少し落ち着きを取り戻した。
虎次郎はそんな様子を察したのか、抱擁を少し緩めた。密着していた虎次郎の身体から顔を少し引き離す。
大きくて、逞しい胸だな…。
ぼーっとした脳内でそんなことを思ってしまう。
「大丈夫か?」
「…あぁ。」
先程まで触れていた大きな掌を離しながら、落ち着いた声色で問う虎次郎がやけに大人びて見えた。
「…お前にこんなみっともない姿を見られるなんて」
「みっともなくねえし、泣きたい時は泣きゃいいんだよ」
薫はグスッと鼻を啜りながら、俯いた。
泣き腫らし、真っ赤になった顔を見られたくなかった。
「大体、今さら遠慮される間柄でもねえだろ。どんだけ長い付き合いだと思ってるんだよ」
「…単なる腐れ縁だがな」
「おーおー。そうかよ。そうやって言い返せるくらいなら大丈夫だな」
いつもならああ言えばこう言うの応酬になるのに。どこか余裕ぶってて、不愉快だ。
涙でぐしゃぐしゃになった薫の顔を、虎次郎は筋張った親指で拭った。同時に、自身のポケットから取り出したハンカチ(アイロンを当てていない為か、シワシワである。)を薫にそっと手渡す。
「なぁ、薫」
何か言いたそうにしているのに、虎次郎は言葉を続けない。
「…何だ?」
「いや、何でもねーよ。
…んじゃ、そろそろディナーの仕込の時間だし、帰るとするかな」
ゆっくりと立ち上がる虎次郎を見て、思わず裾を掴みそうになった。帰って欲しくない、と思ってしまったからだ。
「また、明日も来るからな」
「…来なくていい」
「へいへい。来てほしくなければ早く退院しろっての」
「…このハンカチ、いいのか」
「おー、別に返さなくていいからな。ちゃんと洗濯はしてるから安心しろ。んじゃあ、な。」
大きな図体の持ち主が病室から去ると、無機質で殺風景な部屋がやけに広く感じた。
その感覚が妙に切なくて、振り払おうと小棚から持参したノートパソコン(虎次郎に無理を言って持ってきてもらったのだが)をベッドに掛かるテーブルに置き、仕事に取り掛かろうとしたが、またもや思考が纏まらない。
まだ自身の状態が良くないせいか、それとも利き腕が動かせない不便さのせいだろうかと言い訳を考えるように、思い巡らせたが、原因は先ほどの出来事だったことは自分でも自覚していた。
抱きしめられて、心地良いと思ってしまった。それと同時に胸が締め付けられる様な感覚に襲われる。
物心ついた時から当たり前のように側に居て、一時は虎次郎がイタリアに旅立ち、根性の別れだろうと思った事もあったが、帰国後、ここ沖縄で店を構え、再び現在も共に過ごしている。
様々な場面で、虎次郎と付き合っているのかと問われたことも何度かあったが、女とみたら見境なく好意を寄せる虎次郎が、私には微塵もそんな素振りは見せないのが答えだろう。異性として意識するなんて、お互いにあり得ないことだ。
と、そんな事を考えていたら胸が軋んだ。別の事を考えようとしても、虎次郎への思考が脳内を埋め尽くす。
虎次郎の優しい声、眼差し、体温、男らしく逞しい身体。もっと側に居たい。触れられたい。もう一度抱きしめられたい。
『心拍の急激な上昇、及び体温の上昇・発汗が確認されました。』
カーラの声にハッと我に帰った。
「…カーラ、私は、どうしてしまったんだろうか」
頬を真っ赤に染め、藁にも縋るようにカーラに問いかける。
この感情に、薫は薄々気付いていた。
しかし、明確な答えが欲しかった。
この気持ちは…。
『マスター、貴女は---』
カーラの返答に、真っ赤な頬をさらに紅潮させながら、細く白い手でくしゃくしゃのハンカチをぎゅっと掴んだ。
(私は、虎次郎のことが…)
明日からどんな顔をして会えばいいのたろう。
この日を境に、薫の世界が一変した。