なんだか俺達は死を前借りしているみたいだ。
俺もお前も軍にいたから、死というのはいつもすぐそばにあった。しかし俺が明確に死というのを感じるのは、葬式の時であったり、石碑へ文字が刻まれた時であったり、つまり、死んだ後だった。
今はどうだろう。床に臥していると、生を感じるときと、死を感じるときとがある。
殊に、お前が朧気な視線で俺を見つめるときなどは、お前の悲しみの色が俺へまで移るようで、俺は死と肩を組んでいる気分になる。しかし、快活なお前と食卓を囲むときには、俺の食は細くとも、喉を下る食べ物に生を感じるのだ。発作の酷いときもまた、俺は痛みの中でお前の顔と自身の生の感触とを交互に、または同時に感じるような気さえする。
或は、お前が死の匂いに敏感なのかもしれない。
十五、六の時分のお前には、浮世を忘れ死をも恐れぬ神聖さがあった。しかし、それはきっと現への無頓着からくるものだったのだろう。
生を覚えた今のお前には、時折憂いの色が見える。
稚児は教えられずとも生を知っているが、物心とともにそれを忘れ、死を知るときにまた思い出すのだろう。お前は思い出すのが遅かったから、死を初めて知ったときの子供が抱く底なしの恐怖を、今、なぞっているのだろう。
何も、心配することはないのだ。お前もいつかは俺と同じように散るのだから。
前借りなどせずとも死は平等に訪れるというのに、俺達はまるでこれきりの生を諦めた気持ちになって、死ぬ前から死んでいるみたいだ。
俺は、死ぬことよりもお前の顔から微笑みが失せることの方がずっと恐ろしいように思うのだが。