きみがグラタンを食べたいと言っていたから、今日はグラタンを作った。
帰り道に今日あったことを脈絡もなく話すきみは、おれが腕を精一杯降ろしても届かないくらい小さくて。見失いそうだから、と抱っこを提案したが「じぶんであるく」ときみは断った。
きみの歩調に合わせると、世界はゆっくりだった。何かを見つけてすこし小走りになるきみは、止まったかと思うとまた小走りになる。時折おれを振り返っては、また先に進んでいく。風に木々が音を立てればそちらを向き、向かいからの足音が聞こえるとおれの脚にくっついた。
玄関を開けてやれば、きみは何を急いでいるのか、走って入っていく。器用に靴を脱ぐと、鞄を放って洗面所へかけていった。きみの足跡を辿るようにおれも中へ入る。小さな靴を揃え、鞄を拾い上げる。洗面所へ向かうと、きみは踏み台に乗って手を洗っていた。指で輪っかをつくったそこに石鹸で膜を張って息を吹けば、シャボン玉が飛び出た。
「パパならもっと大きいのをつくれる?」
「そうだらァな」
きみのグリーンの瞳がキラキラと輝く。やってみろ、ということなのだろう。おれも石鹸を泡立てて、親指と人差し指で輪をつくる。
「吹いてごらん」
きみは一生懸命吹いたが、輪が大きすぎたらしい。膜は少し凹むだけで、シャボン玉にはならなかった。おれがふっと息を吐くと今度は強かったらしく、膜は弾けてしまった。きみが「もう一回」とせがむから、おれはまた輪をつくった。慎重に息を吹き込むと、きみがつくるのよりはずっと大きいシャボン玉ができた。きみはそれをしばらく眺めていたが、やがてそのシャボン玉は鏡に当たって弾けてしまった。きみは何を言うでもなく、手の泡を流すとリビングへ歩いて行った。
おやつを断ったきみがソファで本を読み始めたのを確認して、おれは夕飯の支度を始めた。牛乳は今日か明日には使い切ってくださいと、きみの母親が言っていた。
オーブンを開けると、チーズの匂いが広がった。支度が済んできみを呼びに行けば、きみはソファから体が半分ずり落ちながらも、本は離さずにその目を閉じていた。きみを抱き上げると、まだ少し色素の薄いきみの赤い髪がおれの手をかすった。きみをそのままソファへ寝かせてやる。本を離してはくれなかった。
ブランケットを掛けてやって、おれは床に腰を下ろした。きみの寝息は時計の秒針の音みたいだった。いつもは全く気にならなくて、しかし一度それに気がつくと、きみはちゃんと生きていることがわかった。
きみがグラタンを食べたいと言っていたから、今日はグラタンを作った。
「冷めてしまうよ、マリー」