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    ぱしぇりー

    @paxueli

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    ぱしぇりー

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    おとなじゅにあちゃんと未亡人ティーユさんが仲直りするはなし。2021年7月

     この頃の彼女は至極穏やかだった。おれを射るように見つめたその深緑のひとみは柔らかに伏せられ、端々に棘のあった言葉も消えていた。穏やかではあったが仕事は忙しいらしく、夜遅くに帰る日もあれば帰らない日もあった。遅くに帰りおれに鉢合わせると何も言わぬまま通り過ぎていた彼女が、一昨日はただいまと微笑んだ。
     彼女の中で何が起こったのか、おれには到底理解できなかった。あれほどおれを嫌い散々避けていた彼女が、波風立てずにただ過ごしているのが不思議でならなかった。おれのその動揺が彼女にも伝わったらしかった。彼女はトーストにバターを塗りつけるその手を止めておれを見上げた。最近朝食も共にするようになった。
    「急にどうしたのかって、聞きたいんでしょう?」
     おれは返事もしなければ頷きもしなかった。
    「止めたのよ、パパに期待するのは」
     彼女はまた手を動かし始めた。おれはついに見放されたのだった。その事実は妙にしっくりとおれの胸に収まった。

     あれほど頑固な彼女が諦めてしまうほど、おれは彼女の理想とはかけ離れていたのだろう。彼女がおれにした期待というものが何なのか、分かるようで分からないのだった。その期待が、おれが彼女に期待するそれと合致しないことだけは確かだった。また、期待するのは止めたのだと言われた折に、はいそうですかと受け止めてしまったこと自体もきっと彼女の期待外れなのだ。デスクに向かい、集中が途切れるたびにそのことを思った。しかしおれは黙々と仕事を片付けていた。寧ろ捗っていた。

     すっかり日の暮れた玄関でおれはポケットから鍵を取り出し、そのまま手が止まる。微かな風が指先を掠める。間違いなく、家の中から人の気配がした。知らぬ気配ではないが心休まる気配でもない。まさかな、と音を立てぬように鍵を回し扉を少しだけ開く。足元に細い光の筋ができる。隙間から覗き込むとエナメルのパンプスの赤が反射した。彼女の方が先に帰っていたらしい。おれはどっと疲れたようで、乱暴に扉を開けると体を滑り込ませ、後ろ手に鍵を閉める。
     靴を脱ぎ捨て自室へ足を向ける。ぱたぱたと廊下を歩く、妙に耳に馴染む音におれは立ち止まる。屈託のない笑みを浮かべて彼女が奥から駆けてきた。石のように固まったおれの手から鞄と上着を流れるように奪う。
    「おかえりなさい。お風呂沸かしてありますよ」
     早く入ってしまってよ、とおれの背中を押す。その力がやけに強い。おれは押されるがままに風呂場へ向かう。

     全くどうしてしまったのかと、台所に立つ彼女を横目におれは髪の雫を拭う。風呂から上がるや否や、もうご飯の支度ができるからと椅子に座らされ、おれは手持ち無沙汰にテーブルに並べられた食器を眺めていた。
     最後の品が出来上がったらしい。おれのエプロンをつけた彼女が鼻歌混じりにそれをテーブルへ置き、いただきますと口を開ける。おれはそれをただ見ていた。やがておれの視線に気がついた彼女が顔を上げる。
    「召し上がらないんですか。今日はうまくできたんですよ」
     ゆるく口角を上げる彼女の面差しとその口調におれは記憶の深いところとを突かれたようで、反射的に目を瞑り、意識的に呼吸を深くする。逆立つ心を撫でつけるように、暫くそうしていた。ゆっくりと目を開け、香り立つコンソメのスープに手をつける。ちらりと伺った彼女の瞳は緑色だ。すべてはおれが見た幻覚なのだと、少し薄味のそれを喉に通す。

     翌朝になっても、彼女はその調子を貫いていた。おはようございますと笑ってみせ、先に家を出るおれを玄関で見送った。ただ背を向けるだけのおれに彼女は何も言わなかった。おれも何も言わないで外へ踏み出した。扉が閉まりかけたところで彼女は口を開いた。「いってらっしゃい、バスティーユさん」と。

     幻覚などではなかったのだ。彼女は故意に母親を模倣している。その完璧な記憶で完璧なまでに、亡き母の姿を自分自身に写している。子どもの遊びと言って片付けるには度が過ぎていた。しかしおれは怒る気にはならなかった。ただ胸を通り抜ける風のようなものを感じた。

     彼女をそんな馬鹿げた行動に駆り立てた原因は、紛れもなくおれにあった。彼女は、おれの発作にも似た悪い癖にとっくに気がついていた。
     彼女が待ち望んでいるのはおれの口から発せられる「きみと母親とは違う」という、その言葉なのだろう。彼女はその言葉が聞きたいがために母親を模倣している。母と自分は見かけこそ似ているが違う人間なのだと、模倣をもって証明してみせた。証明しなければ気が済まぬような状況にあった。

     そんな状況へ彼女を陥れたおれの不甲斐なさに、おれが今朝気がついたわけではない。
     いつまでもくよくよしてはいけないのだと頭では分かったつもりで、体も元通りに動くようになっていた。しかし、心の奥底でまだやり切れない想いが燻っているのも事実だった。突然目の前に現れた彼女が、それを思い起こさせたのだった。
     彼女は確かにその母親に似ていた。彼女の姿と母親の姿とが重なって、おれが胸を抉られるほどに。しかし彼女はどこまでいっても彼女で、そしておれとその母親の娘であった。これも彼女にとってはおれの言い訳にしか聞こえぬのだろうが。
     彼女が不満げにおれを見上げるたびに、おれはある種の申し訳なさを感じていた。おれの中身をすべて見透かしているのではないかと思えるほどの口ぶりと鋭い瞳が、おれをひどく疲弊させた。しかしそれを悟られまいと、おれは無言を貫くか何かしてやり過ごすのであった。
     その彼女がついに穏やかになった。
     死の匂いに慣れ切ったおれとは違って、彼女はごく普通の純真な少女であった。その彼女が母親を亡くし、そうして残ったたったひとりの父親がこうなのであるから、彼女がおれを憎むのも、失望するのも、おかしくはないのだ。ただ、おかしくはないからと、放っておくわけにもいかない。彼女は行動を起こしたのだから。不器用ながら、しかし考え抜いた彼女らしい方法で。
     彼女の良心が痛まなかったはずがない。きっと苦肉の策だった。おれは優しい彼女の心を傷つけて、小言こそあれ、彼女が素直でいられる家まで奪ってしまったのだ。

     扉を前にしておれは立ち止まる。昨日と同じ気配だ。門灯にたかる虫も無かった。彼女はいつ帰ったのか。いつもこれくらい早く帰ってくれればいいのだが。冷たいドアノブが、横へ逃げるおれの思考をこちらへ引き戻す。

    「おかえりなさい、バスティーユさん」
     扉を開ければ彼女が笑う。今日は早いんですねと昨日のように鞄を奪おうとする彼女を、おれは一歩後ろへさがって避ける。彼女の白い指が空を切る。おれは深く息を吸う。
    「もうよしてくれないか、マリー。苦しいよ。きみをどこへやったんだらァ」
     俯いた彼女の拳が震えている。
    「すまなかった」
     おれを見上げた彼女はその大きな瞳いっぱいに涙を溜めていた。おれが手をひろげるとわっと抱きついてくる。おれは少しよろめく。
    「ごめんなさい、パパ……みんなわたしが悪いの」
     彼女は小さな肩を震わせて、消え入るような声でそう言った。おれは彼女の背中を緩やかなリズムでトントンと叩く。彼女が幼子のときにおれがそうしたように。 
     彼女に非などなかった。彼女はただ自責の念に苛まれ、そしておれに赦しを求めているわけでもないと、その時はわかった。おれの胸に顔をうずめる彼女の赤い髪がぼやける。
     小さなときの彼女の、まだ色素の薄い髪を梳いては、いつかはおれと同じ色になるのだろうかと淡い希望を抱いたものだったが、彼女の髪色が濃くなりきる前におれはすっかり白髪混じりになって、ついにそれは叶わなかった。
     埋め合わせと言ったら彼女は嫌がるだろうが、彼女をこうして子どものように抱き込む資格はまだあるだろうか。まだ間に合うだろうか。
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