ケーキのご予約はお早めに 学校帰りに夏来と立ち寄った本屋で買った、新しいレシピ本。季節のおかし作りというタイトルの、夏のページを見るとはなしにめくっていく。水色やレモンイエローのさわやかな背景に、生菓子や氷菓が並んでいる。秋のページほどでないにしろ、果物がふんだんに使われているスイーツが多い。ムースやゼリーなど、ゼラチンを使ったレシピが多いのも特徴か。
ショートケーキのつもりでいたが、最近の天候を考慮すると確かに、もったりとしたクリームやふかふかのスポンジケーキよりは、つるりと飲み込めるムースや果汁がたっぷりのゼリーの方がいいかもしれない。
肝心の夏来の好みが、さっぱりわからないのが問題だ。
「う~ん……」
冬のページにある二段のクリスマスケーキと、夏のページにある桃のゼリーを見比べながら唸っていて、ふと、旬は手を止めた。さくらんぼのミルフィーユ、ブルーベリーのチーズケーキ、マンゴーソースのかかったムース―。
「……あ」
本日のCafe Paradeは、店長とシェフが本業のアイドル活動に出向しているため、閉店である。そういうわけで、旬が通されたのは清潔なバックヤードだ。店長が淹れていった水出しの和紅茶と、試作品だという緑のマシュマロが、飾り気のない作業台の上に供される。
「色薄かったやろか」
「メロンですか?」
尋ねる巻緒に、荘一郎はゆったりと首を振り、球形の菓子を両手でつまんで左右に引っ張った。むちっと割れた中は、外の緑と反して真っ赤であった。
「スイカです」
「スイカのマシュマロ」
「斬新ですね!」
さすがに青臭いのではないだろうかと、おそるおそるかじってみるが、危惧したような風味は残っていなかった。さわやかな甘みの中にほのかな塩味があり、冷たい和紅茶とよく合っている。
「さて、本日は……という無粋な質問は飛ばしましょう。いよいよ本番、ですね?」
芝居がかった荘一郎につられて神妙にうなずき、持参したレシピ本を作業台の上に並べた。挑戦済みのレシピにはピンクの付箋、目星をつけているページには黄色の付箋。先日買ったばかりの一冊には、黄色の付箋だけが挟まっている。
「あの……、ですね。この本を見ていて、気付いたんですが」
どことも定めずページをめくったが、開き癖のついている本はすぐにも夏のスイーツの項目を作業台の上に広げた。
「今の時季って、イチゴは出回ってないですよね……?」
「ああ、なるほど」
得心かどうか、目元からは判断しかねるが、荘一郎の納得したらしい言葉を受けて、旬は細くため息を吐く。五か月前にプロパティシエから譲り受けたレシピは、イチゴのショートケーキをつくるためのものだ。調理場を担当する使用人に尋ねたところ、買って買えないことはないが、どうしても味は落ちますよ、とのこと。
「失念していましたね、すいません、冬美さん」
「いえ、僕が不勉強でした。せっかく大事なレシピを教えてくれたのに、申し訳ありません」
視線を作業台のレシピ本へ落としてから、頭を下げると、荘一郎と巻緒の声にならない音が重なった。どちらが先を譲るか、無言が交わされたようだが、改めて荘一郎が口を開く。巻緒は立ち上がり、身をひるがえして店内へと駆けて行った。
「秘伝というほどのものでもないので、そんなに恐縮せんといてください。そうですね……、冬美さんはイチゴのショートケーキにこだわりがあるんやろか」
「え……、いえ、そこまでは。チーズケーキなら、何度か作ってみたし、それでもいいのかなとは思うんですが。誕生日ケーキ……、何となく、イメージですけど」
「言わんとすることはわかりますよ」
うなずきながら、荘一郎はバックヤードの入り口を振り向いた。ちょうど巻緒が、店のメニューと分厚いファイルを持って舞い戻ったところである。
「俺は、誕生日といえばロールケーキのイメージだよ」
「人それぞれでしょうね」
ファイルは荘一郎へ手渡し、メニューを旬の前に置いて、巻緒がゆったりと元の席へ腰を落ち着けた。
「今月のデザートメニューです」
慣れた仕草で、メニューの一番はじめを指し示す。透明なゼリーに覆われた黄色の果肉を乗せて、ほんのりピンクに色づくクリームをまとったワンピースのケーキの写真。横には、桃のショートケーキという文字が付されている。
「上に乗っているのは、やわらかく酸味の強いスモモをさわやかな甘みのシロップで味着けたコンポートです。クリームには果汁をぜいたくに使っております。お好みでシトラスを絞ってお召し上がりください」
「残念、本日は完売です」
開いたファイルを旬の前に押し出しながら、荘一郎が冗談めかす。彼が見せてきたのは、昨年の夏から秋に供されたデザートメニューのようだ。桃に、メロンに、アレキサンドリア。全てショートケーキと銘打たれている。
「ショートケーキに明確な定義はないんですよ。イチゴの部分を他のフルーツに変えたとしても、スポンジで挟んでクリームで覆うという基本的な工程が確保されていればショートケーキですね。もちろん、単にショートケーキと言うとみなさんイチゴのショートケーキを連想しますので、頭にフルーツの名前は付しますが」
「今の時季なら、他にはさくらんぼ、ブルーベリー、アプリコットなんかもいいんじゃないかな? もちろん、全部乗せ、なんて贅沢もありだと思うよ。何せ、誕生日ケーキなんだから」
「そ、れは……、またの機会に」
うっとりと歌うような巻緒に気圧されながら、旬は改めてメニューを見下ろした。スモモのショートケーキの下には、ブルーベリーのチーズケーキ、さくらんぼのタルト、チョコムースのアプリコットソース添えと並んでいる。
「ショートケーキ以外に、何か気になるメニューがあったらレシピをお教えしますよ」
「……ありがとうございます」
さすが、どれも美味しそうなスイーツだ。調理のベースであるタルトやムースは、一応作ってみてはいるので、無謀な挑戦でもあるまい。勧められるままファイルの方も確認し、ためつすがめつ、贈る相手の顔を思い浮かべる。
ショートケーキを食べたときも、チーズケーキを食べたときも、タルト、ムース、パイ、ゼリー、何を食べても、彼の表情とコメントは同一であった。
すなわち、満面の笑みで、すごくおいしい、である。
「……参考にならない」
「夏来くん?」
「固まらなかったチーズケーキも、パサパサのタルトも、生焼けのパイも、何を食べてもニコニコしてるから、参考にならないんです」
「……もしかして、惚気られてる?」
「違います!」
全く持って心外だと、巻緒を振り向くと苦笑いが返された。
「味音痴なんやろか」
「いやぁ……」
荘一郎のつぶやきに曖昧な返事をしてから、巻緒は笑みを柔和なものに変える。今月のデザートメニュー、スモモのショートケーキの写真を撫でる指は、愛おし気だ。もとより穏やかな目元を更に緩めて、旬の顔を覗き込むように、首を傾けた。
「ケーキを作ってるとき、旬くんは何を考えてる?」
「え……、っと……」
「おいしく作ろう、おいしくなりますように、って思ってない?」
「それは、もちろん」
「でしょ。ケーキを作るときって、きっとみんな、おいしくなれって願いながら作ってると思うんだ。そういう思いが込められてるってだけでも嬉しいし、嬉しいって思いながら食べると、おいしいって感じる。そういうのって、あるんじゃないかな」
ケーキのように甘い声音で、とろけそうに甘い言葉。卯月巻緒ファンの女性たちが評する、スイーツの王子様とはこれのことかと納得しながら、旬は頭の片隅に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「限度がありませんか?」
少なくとも、生焼けのパイをおいしくするほどの思いを込められた自信は、旬にはない。
「そんなに?」
「料理は愛情、とは言いますが、製菓は科学でもありますからね」
感慨深げにうなずいてから、荘一郎は、再びファイルを手元へ引き寄せた。
「何を食べてもおいしいと言うなら、味よりも見た目にこだわってみては?」
パラパラとファイルがめくられていく、終盤まで行き過ぎて、戻って、提示されたのは一昨年の秋のメニュー。巨峰とマスカットのスイーツが並ぶ頁であった。
「この、網目状のデコレーション」
「……凝ってますね」
「と、思うでしょう?」
作業台に両肘をつき、両手の指を組んで、目を、光らせたかどうかはわからなかったが、荘一郎は挑戦的な笑みを口端に浮かべて見せた。
「理屈がわかれば、意外と簡単なんですよ。冬美さんなら、難なく理解できるかと」
ぐうの音も出ないほど、完璧な殺し文句である。
「ご指導よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、さっそく荘一郎は業務用の大きな冷蔵庫を開いた。実践に勝るものなしということで、巻緒が諸手を挙げて喜んだのは言うまでもない。
昼休みを屋上で過ごすには、そろそろ厳しい季節だ。雨が降れば元より出られない、雨が降らぬとあっても、湿度が髙いか気温が髙いか。とにかく快適にはほど遠い、六月初週の昼下がり。
それでも、隼人と春名は屋上にいた。旬が顔をのぞかせると、二人、額を突き合わせて見ていた雑誌をそそくさと閉じるのだから、挙動不審である。
表紙を改めようとしたが、目にも止まらぬ速さで、春名のバッグの中へと雑誌は消えていった。
「……何も言いませんけど、没収のち呼び出し、なんてことにはならないでくださいよ」
「ダイジョブダイジョブ」
およそ言葉通りに聞こえないが、追及していては昼休みの時間がなくなってしまう。
一息して切り替え、二人の傍に膝をつく。手に提げていた保冷バッグを開くと、先ほど一度開けたためか、冷気はだいぶ逃げていた。とは言え、時間にして数分前だ。よく火を通してあるし、食中毒になるようなことはあるまい。
密閉容器を開けて、昨晩焼いたカップケーキを二人に見せる。
「チョコ?」
「いえ、ブルーベリーです。忌憚ない意見をお願いします」
「キタンナイ」
どうやら春名には伝わっていないが、旬が求める感想に一番近いものをよこしてくれるのはおそらく春名だ。補足してやる必要もないと、さっそくカップを破いて剥がす隼人を注視する。春名も最後の一つをつまみ上げ、カップは剥がさずドーム状のてっぺんに噛みついた。
「ん~……、おいしいけど、ちょっとパサついてるかな?」
「それについては焼きすぎの自覚があります。すいません」
「色も濃いよな。焦げてるってほどじゃないけど」
「四季くんには、見た目がいまいち、いまに、と言われました」
「はは……、忌憚ない意見」
なんだかんだ、全て食べ終えた隼人は、スクールバッグの中からペットボトルを取り出した。炭酸飲料だが、もう半分ほどしか残っていないから、炭酸は抜けてしまっているだろう。
「味はいいんじゃね? ブルーベリーがジャムみたいでうまいよ」
「ありがとうございます。ただ、焼きすぎはともかく見た目の向上は難しいですね」
「上にクリームぬっちゃうとか?」
春名は右手に何かを握る仕草で、食べかけのカップケーキの上を撫でつけて見せる。ヘラか何かで塗ることを想定しているのだろう。
それよりは、絞り袋を使ってデコレーションをする方がよさそうだ。
「参考になります」
「そりゃよかった」
空になった容器を閉め、保冷バッグに入れてから足元へ。代わりに、先から膝に乗せていた紙袋を春名へ差し出す。
「こちらは四季くんのクラスの女子から、春名さんへ、だそうです」
「お?」
紙のカップを剥ぎ取ったケーキを、グイっと口の中へ押し込んでから、春名はうやうやしく紙袋を受け取る。その紙袋のロゴから、既に中身は見抜いているようだ。
「うおぉ! リング&リングの焼きドーナツ!」
開いたままであったスクールバッグの口を閉じ、紙袋の中からビニルでパッケージされたドーナツを取り出して、バッグの上に置き、おもむろにスマホで撮影。写真映えも何もあったものではないから、記録用なのだろう、か。
「いいな~……」
ドーナツそのものではなく、シチュエーションを羨んでいるのであろう隼人に、しかし旬は気付かぬふりで立ち上がる。
「それでは、また部活で。五時間目、遅れないようにしてくださいね」
教師のような小言を述べてしまったが、二人はすこぶる行儀よく、は~いと返事をしてきた。これでは高校教師というより、幼稚園教諭だ。
「何で若里先輩に直接渡してくれないの!」
安定感のある裏声で怒鳴ったのち、四季はショッキングピンクのクッションを抱えて長机に突っ伏した。
「って、怒られたっす~」
じたばたと、机の下では両足が暴れている。
「……何で、直接渡さなかったの……?」
ペグを回しながら、夏来が問いかけると、文字通りの地団太はぴたりと止まる。仲介役を押し付けた相手の顔色を上目づかいにうかがってくるが、長机の端からでは距離があるためか、それ以外に理由があるのか、視線は泳いでいた。
「え……っと~……、ちょっと職員室に用事があってぇ」
これ見よがしにため息をつくと、骨ばった肩が大きく跳ねる。
「違うんすよ! 今日は呼び出しじゃなくて、自主的に課題提出をしにいったんす!」
「その課題の締め切りはいつだったんですか?」
「……先週の金曜日っす」
本日が月曜日であることを考えると、まだマシか。
「焼きドーナツ、うまかったぜ。お礼言っといてくれよ」
「いいな~、後輩女子からの差し入れ」
手早くギターを調律しながら、隼人はまだぼやいている。
「んぇ~……、もうオレを挟まないでほしいっす~」
人当たりはいいはずの四季が、今回はうんざりを隠しもしない。確かに、件の女子生徒の言い分は理不尽だろう、仲介の仲介を押し付けられた旬も、いい気分ではなかった。
そういうわけで、課題提出の遅れは大目に見ることにして、スタンド型のキーボードの音量を調節した。
先までらしくない渋面を浮かべていたボーカルは、もういそいそと立ち上がる。
「そういえばさぁ」
マイクテストが行われている間、手遊びにドラムスティックを回しながら、春名。声の大きさから、ドラムセットから一番距離のある旬に話しかけているのだろうと定めて、顔を上げる。
「何ですか?」
「結局、誕生日ケーキは決まったのか?」
「ちょっと!」
キン―……、と、マイクを通した大音量が、軽音部室に木霊した。防音設備などないただの教室であるため、おそらく廊下や、窓の外にも響き渡っているだろう。
「……っ、あ~……、シキ!」
隼人に怒られ首をすくめるが、四季はだってとつぶやいて、春名を、その斜め前で両耳を抑える夏来を見やり、それから旬を振り向いた。
「別に、構わないですよ」
「え~……」
マイクスタンドを抱えるように、寄りかかるように傾けて、四季は不満げに口をとがらせる。
薄い背中が丸く縮こまったため、その向こうに立つ幼馴染の顔がよく見えた。ようやく耳から手を外して、ニコリと満面の笑み。
「うわ、まぶしい」
などと呻いて後退る隼人は大げさだが、確かに夏来の笑顔はいかにも嬉しそうだ。
その笑顔から、斜め後ろでスティックをもてあそんでいる春名へ視線を移し、先ほど向けられた疑問を反芻する。
「まだ決まってないです」
「今日のカップケーキは?」
すっと、視界の端で夏来の笑みが消えた。
「ひえ」
隼人と四季が、同時に奇妙な声を上げる。
「試作です。四季くんからダメだしをもらったので、要検討ですね」
「俺も食べたい」
夏来にしては早口で、見れば拗ねた子どものような表情を浮かべている。
「もうないよ」
すると肩を落とし、次にはしおしおと背中を丸めていく。
「ナツキがちゃんと食レポしないからだろ」
「だって……、全部、おいしい……」
「もう当日までおあずけ」
そうは言っても、当日まで十日を切っているのだが、夏来はますます哀れっぽく頭を垂れた。見かねたのか、四季が手をのばし、ポンポンと肩を叩いている。
「ある意味、サプライズではあるのかな」
「オレの知ってるサプライズじゃないっす」
苦笑交じりの隼人に、四季はいやいやと首を振った。
「ナツキっち、かわいそうっす! オレたちがサプライズで盛り上げるっすからね!」
「それを言っちゃうのはもうサプライズじゃなくね?」
珍しく、春名が的を射ている。
「ジュンの手作りスイーツが確定してる時点で、何やってもインパクトに欠けるもんな~」
「そんなインパクトのあるものを作る予定はないですが」
隼人と、春名と、四季と、四季にされるがまま、振り回されていた夏来までも、じっとこちらの顔を見てきた。
特に夏来の視線を強く感じて、旬はたじろいだが、据え置き型のキーボードを支えに何とか踏みとどまる。咳払いして四人分のプレッシャーに抗し、夏来の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「まあ、……精一杯やるから、楽しみ、に、……してれば……?」
「うん……っ」
大きくうなずく夏来に続いて、隼人と春名、四季がバースデーソングを演奏し始めるものだから、まだ早いと一喝しておいた。