眠れぬ夜の秘密の二人ベッドの中でヒースクリフはゆっくりと目を開いた。ぱちぱちと瞬きをして、ヒースクリフは寝返りを打つ。
横向きの姿勢になったヒースクリフはじっと窓の辺りを凝視した。
部屋は真っ暗でカーテンに覆われている窓の外も明るくなってはいない。日の出まではずいぶん時間がありそうだった。
(……眠れない)
昼間の内にカナリアが洗濯して干してくれたシーツや掛け布からはお日様の匂いがする。たっぷりと陽光を吸い込んだ寝具は、ヒースクリフの体を繭のように包み込んでくれていた。
そのやわらかなぬくもりは、いつもならヒースクリフを穏やかな眠りに誘ってくれる。
けれど今日は少しも効果を発揮してくれない。
胸の奥がざわざわして、目は冴えるばかりで、ヒースクリフはちっとも眠れそうになかった。
理由はわかっている。とてつもない不安が胸に巣食っていて、目を閉じると良くない想像をしてしまう。だから眠れないのだ。
(北の吹雪はどれくらいすごいのかな……。賢者様やカインたちが危険な目に遭ってないといいけど……)
賢者は昨日から魔法舎を留守にしている。北の魔法使いたちが無事に祝祭を執り行えるよう、賢者と中央の魔法使いたちは目付け役として駆り出された。破天荒で規格外。気まぐれで横暴。尊大で攻撃的。そんな北の魔法使いたちを大人しくさせられるのはオズだけだ。
しかしオズは厄災の傷により日が暮れると魔法が使えなくなってしまう。
だから賢者たちは昨日の朝早くに魔法舎を出て行った。日没までには帰ると聞いていたのだが、彼らは夜になっても帰って来なかった。そしてとうとう日付けが変わってしまった。
きっと何かしらのハプニングがあって予定が大幅に狂ったのだ。たとえば北の魔法使いたちがなかなか言うことを聞いてくれなかった、だとか。強い魔物と戦って、誰かが怪我をしてしまった、だとか。その程度ならまだいい。許容範囲内だ。
(でも、もし、そうじゃなかったら……? もしオズに何かあったんだとしたら? 賢者様たちのことを守れる人がいなくなってしまう)
雪原に散らばる大量のマナ石が陽光を浴びてきらきらと輝く。虹色に光るマナ石に囲まれるようにして横たわる賢者。賢者の呼吸は止まっており、腹部から流れ出る血が真っ白な雪を赤く染めていく――。
そんな場面を想像してしまい、ヒースクリフはぶるっと身震いした。
「このまま部屋の中にいたら、頭がおかしくなりそう……」
長々とため息を吐き出してヒースクリフはベッドから起き上がった。靴を履いて立ち上がり、寝間着姿のまま部屋を出る。廊下を歩きながらヒースクリフはふっと苦笑した。
「こんな姿でうろうろするなんて、ちょっと前まではありえないと思ってたのになあ」
環境が変われば人は変わるというのは本当だった。ブランシェット城では寝間着姿のまま部屋の外に出るなど、許される振る舞いではなかった。ヒースクリフ自身もはしたないことだと思っていた。
けれど魔法舎に来て初めてヒースクリフは世の中には色々な人がいることを知った。
「カインなんて中庭でしょっちゅう半裸になってるし……ミスラは手掴みで物を食べるし……」
ヒースクリフの常識や当たり前は魔法舎ではまったく通じなかった。寝間着姿で外に出るならともかく、舎内を歩き回るのは恥ずかしいことでもなんでもないと知った。
たまにはだらしない恰好をして、ありのままの自分をさらけ出すのも大切だと教えてくれたのはカインだった。
「無事に帰ってこないと許さないからね、カイン……」
「え? カイン?」
「あ」
ぼんやりしながら談話室に足を踏み入れたヒースクリフは、自分の独り言に返答があったのに驚いて足を止めた。物思いにふけっていて気付かなかったが、談話室には先客がいたらしい。
こちらに顏を向けて目を丸くしているのはクロエだった。クロエは暖炉の前にあるソファに腰かけ、スケッチブックを膝の上に広げていた。
暖炉には火が灯され、パチパチと火の粉を飛ばしている。
「ご、ごめん。談話室に誰かがいるとは思わなくて、考え事が口から出ちゃってたみたいだ」
「あ、ううん、俺のほうこそ驚かせちゃってごめんね、ヒース。えっと……」
気まずい沈黙が二人の間に横たわる。ヒースクリフは逡巡した。クロエがここで作業をしているなら、自分は彼の邪魔にならないようにすぐさま立ち去るべきなのだろう。
(でもクロエはどうしてここにいるんだろう? 道具が揃っている自分の部屋で作業したほうが効率が良いはずなのに……)
クロエがこんな夜更けに一人で談話室にいる理由が気がかりで、ヒースクリフはなかなか動くことができなかった。踏み込むべきか、何も見なかった振りをして談話室をあとにするべきか。ヒースクリフが悩んでいると、クロエがそっと声をかけてきた。
「あ、あのね、俺、今夜はなんだか眠れなくって。なんかそわそわしちゃって、全然落ち着かなくて。ずっと部屋にいて考え事してたら、嫌なことばっかり思い出してさ。だから気分転換しにここに来たんだけど……もしかしてヒースもそうだったりする……?」
おそるおそるといった風にこちらの顔色を伺いながらクロエが問いかけてくる。ヒースクリフは唇を薄く開き、静かに吐息を漏らした。クロエの瞳は不安そうに揺れていて、顏は緊張で強張っている。それでわかった。
彼と自分がここにいる理由も、今感じていることも、きっと同じだ。
よく知らない他人と話すのは怖い。でも迷子のような顔をしている相手を放っておけない。相手のことを知りたい。話してみたい。仲良くなりたい。せっかく出会えた同年代の魔法使いと友達になりたい――。
今が好機だとお互いに悟っている。
「うん……。俺もクロエと同じだよ。部屋にいるのが嫌になって。暖炉の火に当たって温まろうかなと思って談話室に来たんだ」
「そうなんだ。なら遠慮しないで座ってよ」
クロエがおいでおいでとヒースクリフを手招く。その動作に背中を押されてヒースクリフはクロエの隣に腰を下ろした。
「さっきカインの名前を呼んでたよね。やっぱり……帰って来ないのが不安?」
菫色の瞳がヒースクリフの顏を覗き込む。ヒースクリフは苦笑しながら首肯した。クロエは確か自分より二つ年上だったはずだ。そんな彼にこんな風に心配されるのは少しくすぐったい。
もし自分に兄がいたらこんな感じだったのだろうか、とつい想像してしまう。
「うん……。北の国で祝祭をやるって決まったあとに、カインとちょっと話したんだ。北の魔法使いたちと一緒で本当に大丈夫なの? って聞いたら、カインは大丈夫さ! オズがいるんだからな! って言い切ってたけど……」
「昨日の内に帰って来られなかったってことは、大丈夫じゃなかったんだろうね……」
「やっぱりクロエもそう思うんだ」
「うん……。実はね、さっきシャイロックのバーでラスティカが飲みながら寝ちゃったみたいでさ。ムルが教えてくれて迎えに行ったんだけど……みんなが珍しく真面目に話してて」
「え? みんな? みんなって? バーには誰がいたの?」
「えーっ、と……。シャイロックと、ファウストと、ネロと……あとフィガロ! あの四人が明日の正午になっても帰って来なかったら迎えに行くって。他の魔法使いたちはどうなってもいいけど、アーサー様と賢者様だけは保護しないと外交問題に発展するとかなんとか」
「……そう、なんだ」
「ちょっとショックだった」
顏を見合わせて二人は同時にため息を漏らす。ヒースクリフは眉間にしわを寄せながら背もたれに寄りかかった。だらしなく足を投げ出して「あ~~~」と呻き声を漏らす。
「俺がブランシェット家の人間じゃなかったら、どうなってもいい発言した人を殴ってるかも」
「え? 嘘! ヒースって誰かを殴ったりするの!?」
「んー、ないけどこいつを本気で殴りたいって思ったことは何度もあるよ」
「あ、わかった。相手はシノでしょ。違う?」
「正解」
「やったー!」
クロエが両手をあげて万歳をする。無邪気な子供のように喜ぶクロエがおかしくて、愛らしくて、ヒースクリフはくすくすと笑みを漏らした。
「やっぱり地位とか立場があると色々大変なんだ?」
「うん。本当にやりたいことは別にあるのに、肩書きや身分に邪魔されることは結構あるよ。その度にもどかしくて、歯がゆくて……。こんな優柔不断な俺は武門の名家の子息として相応しくないいのにってたまに怖くなる。俺はみんなに期待されるような人間じゃないのに、どうして大切にしてくれるんだろうって」
「あ、それ、ちょっとわかるかも! 俺もそういう風に悩んでた時期があるよ!」
「え、クロエも?」
ヒースクリフは驚いてまじまじとクロエを見つめた。意外だった。いつもにこにこと屈託なく笑っていて、明るくて、天真爛漫を絵に描いたようなクロエが、ヒースクリフと似たような懊悩を抱えているなんて考えたこともなかった。
「俺は仕立て屋の家に生まれたんだけど、魔法使いだったから……。両親からも姉さんたちからも気味悪がられてた。魔法を使えば服を早く縫えるから、家に置いてもらえてただけなんだ。もし俺に裁縫のセンスがなかったら、とっくに捨てられてたと思う……」
「ご、ごめん! 俺、まったく知らなくてっ。さっき無神経なこと言ったよね!」
少なくともヒースクリフは魔法使いとして生まれて虐げられたことはなかった。優しい両親のもとで、何不自由なく育った。自分が裕福な家の生まれであることをほのめかすのは、時として誰かを傷付ける。シノに出会って痛いくらいに思い知ったはずのことを、ヒースクリフはすぐに忘れてしまう。
「ううん、気にしなくていいよ。だって俺とヒースは違うんだもん。何もかも違ってて、でも……理解したいから俺たちこうやって話してるんでしょ?」
クロエが茶目っ気たっぷりに片目をつむる。ヒースクリフは少しだけ泣きそうになった。クロエの優しさが、寛大さが、言葉が、ヒースクリフが抱える後ろめたさを少しずつ溶かしていく。まるで魔法みたいに。
「えっと、どこまで話したっけ? ああ、そうだ。それでうちの店に来たラスティカに攫われたときにお願いしたんだ。俺を一緒に連れて行ってくださいって。もう家には戻りたくないって。ラスティカはお願いを聞いてくれて、俺を弟子にしてくれた……。何も知らなかった俺にたくさんのことを教えてくれた。でもたまに……思うんだ」
「…………」
「ラスティカはどうしてこんなに俺に良くしてくれるんだろう? って。俺は何もできない穀潰しで金食い虫で役立たずなのにって」
「クロエ……」
それは実際にクロエが浴びてきた罵声の数々なのだろう。穀潰し、金食い虫、役立たず。そんな心にもない言葉を、石のようにぶつけられてきたのだろう。それでも、それでも。
「クロエは服を作ってくれるじゃないか」
「……え?」
「クロエは俺たちに服を作ってくれる。俺たちはクロエの服を着ると誇らしくなる。自分が立派になったような気がして。クロエが俺たちに似合うデザインを考えて、素材を選んで、寝る間も惜しんで服を作ってくれる。俺たちのために時間を割いてくれる。それが嬉しいんだ」
「……ちょ、ちょっと待って」
「待たない」
「ええ~!」
「俺たちが喜ぶとクロエは幸せそうに笑うんだ。本当に嬉しそうで、楽しそうで、その笑顔を見ると、こっちも幸せになる。服を作っていなくても、クロエは俺たちのことを気にかけてくれる。俺たちの話に耳を傾けて、優しい言葉をくれるじゃないか。だからラスティカはクロエのことが大好きなんだと思う。クロエといると幸せな気持ちになれるから……」
「ア、ウ、ウン、アリガト、アリガトネ、ヒース……」
ヒースクリフの褒め殺しはいささか威力が強すぎたらしく、クロエの顏は真っ赤に染まっていた。頭からシュウシュウと湯気が出ているのが見える。
全力で恥ずかしがるクロエを見ていたら、ヒースクリフまでもが恥ずかしくなってきてしまい、頬が熱を持つ。体がかっかと火照る。明け透けな本音をぶちまけてしまったのが、恥ずかしくって仕方がない。
「あの、ごめん、今の忘れてくれる……? なんかちょっと我を忘れちゃって!」
「わかってる、わかってる! 大丈夫! もしヒースさえ良ければさ、今夜のことは二人だけの秘密にしようよ」
未だ照れ臭そうにしながらクロエが笑う。唇に人差し指を近付けて、しぃーとささやくクロエは、遊び慣れた大人の男の人みたいで、ヒースクリフは少しだけドキッとしてしまった。やっぱり彼は若くても立派な西の魔法使いなのだと実感する。
「俺としてはそうしてくれると助かるかな。俺がこんな風に弱気になってたこと、クロエ以外には知られたくないからさ」
「でも約束はしないよ?」
「もちろん。約束はしない代わりに握手なんてどう?」
ヒースクリフが差し出した手をクロエがやわらかく握る。相手の顏を見たらもう駄目で、二人は盛大に噴き出し、腹を抱えて笑い転げるのだった。
■
夢中になって語らうクロエとヒースは、談話室にひっそりと紛れ込んでいる小さな紙人形の存在にまったく気付いていない。紙人形は猫の形をしており、ラスティカの魔力をまとっていた。
紙人形が聞いた音声は、どれだけ距離が離れていようとも魔力の持ち主のもとへ届く。これはそういう魔法だ。
夢うつつをさまよいながら、クロエに手を引かれて歩いている間、彼がずっと暗い顔つきをしていたのにラスティカはひそかに心を痛めていた。
自室で目を覚ましたあとラスティカはクロエには黙ってシャイロックのバーに舞い戻り、ずっとクロエの様子を観察していたのである。
ちなみに紙人形が媒介となって届けてくれる音声は、ラスティカの周囲にいる人物にも聞こえるようになっていた。
「ああ、クロエは本当に愛らしい子ですねえ。イケナイことをたっぷりと教えてあげたくなります」
「シャイロック。僕のクロエを誘惑するときは、必ず僕に伺いを立ててくれないと困るよ」
「あれ? ラスティカいたんだ! おはよー! おかえり!」
「ヒースの奴がバカ笑いしてるのも珍しいな……。先生は見たことあんの? あいつがあんな感じになってるとこ」
「…………うるさい」
「痛いところを突かれたからって不貞腐れるのは大人として良くないとフィガロ先生は思うけどなあ」
「年若い魔法使いたちを見捨てるべきと主張した方はどうぞお黙りになって」
「僕たちが力を合わせれば、全員を助けることも難しくはないでしょう」
「なんだか空気がバチバチしてる! 花火あげたほうがいい? エアニュー・ランブ、」
「おーい、ムル。ここにお前の好きなカップケーキがあるぞー。食え。フィガロ、あんたには明日から消し炭食わせてやるからな」
「え、嘘でしょ、みんな怒ってるの……?」
「当たり前だバカめ」