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    やんごとなき理由により女装したら公子に見つかるタル空

    #タル空
    taruSky

    秋波横ざまに流れんと欲す「な、なあ。オイラたち本当にここに入っていいのか?」
    「多分ここで合ってると思う……けど」

    璃月港は夜でも灯りを絶やさず眠ることのない不夜城である。毎日どこかに夜市が立ち、大通りには人々の笑い声がさざめく。
    璃月に来てから空とパイモンは夜な夜な町に繰り出す楽しみを覚えた。
    屋台が並ぶ区画を練り歩き、涼しい夜風に当たりながら食べる料理は格別に美味しい。
    しかし今夜は食べ歩きをするために宿を出てきたのではない。二人はこれから今まで訪れたことがない場所に足を踏み入れようとしている。

    「ここに来るまでお金を持ってそうな人しかいなかったんだぞ。オイラたち場違いじゃないか?」
    「とにかく中に入って鈴麗(りんれい)さんに会わせてもらおう」
    「そ、そうだな」

    目の前にある煌びやかな建物は妓楼と呼ばれる場所だ。妓楼「奏甘楼(そうかんろう)」。それこそが空とパイモンの目的地であった。
    先程二人の会話に出てきた鈴麗とは奏甘楼で春をひさいでいる妓女の名だ。
    璃月では性風俗店の営業は立派な商売として認められている。空もパイモンも風俗に対して偏見はない。
    どこの世界にも食うに詰めて体を売る人はいた。珍しくもなんともないというのが空の持論であり、人間だろうがなんだろうが雄と雌が交尾をするのは自然の摂理である、というのがパイモンの持論である。
    二人とも頭のネジが何本か外れているのだが、不幸にもそれを指摘してくれる常識人は彼らのそばにはいなかった。
    妓女を買うには空は幼すぎるし、パイモンは正当な客として扱われるのかすら怪しい。
    そんな彼らがなぜ奏甘楼に足を運んだのかといえば、ひとへに鈴麗から招かれたからである。

    「にしても鈴麗ってずいぶん気前がいい奴だよな! ちょっと助けてやっただけなのに、オイラたちを食事に呼んでくれるなんて」
    「別にいいって言ったんだけどね。鈴麗さんにも仕事があるだろうし」

    先日のことである。町中に暴れ馬が出て、一人の女性が逃げ遅れ、屈強な前足に蹴り飛ばされようとしていた。
    暴れ馬の勢いは凄まじく、助けに入ったところで間に合わない。誰もが固唾を呑み女性の凄惨な末路を想像した。
    しかしそのとき咄嗟に女性の前に立ちはだかり、勢いよく振り下ろされた前足を剣で受け止めた若者がいた。
    若者は造作もなく暴れ馬の前足を払いのけると鼻面から垂れていた手綱を鷲掴みにした。手綱を回転の軸にして地面を蹴った若者は、暴れ馬の鞍にひらりと飛び乗り、手綱を巧みに操った。
    かくして暴れ馬はいくらもしない内に大人しくなり、事態は無事に収束した。
    この暴れ馬を鎮めた若者が空であり、間一髪のところで助けられた女性が鈴麗である。

    ――ありがとう、旅人さん。あなたは私の命の恩人だわ!

    鈴麗は自分を助けてくれた空にきちんとお礼がしたいと言った。自分が働いている奏甘楼に来てくれれば、ご馳走と舞と美しい音楽で最大限のもてなしをすると。
    妓楼とは性欲を発散するための場所であり、食事を目当てにして行くのはいかがなものか。
    鈴麗の申し出を空は丁寧に断ったが、彼女は引き下がらなかった。
    このまま何もせず空と別れてしまったら自分が楼主に叱られてしまうとまで言われてしまえば、誘いをむげに断ることもできず。
    空は近い内に奏甘楼を訪ねると鈴麗に約束をした。
    そして今――空とパイモンは鈴麗との約束を果たすため、奏甘楼の正面に立っている。

    「オイラもうお腹がぺこぺこだ。どんな料理が出てくるのか楽しみで仕方がないぜ!」
    「中に入ったらあんまり騒がないでね、パイモン。俺たちめちゃくちゃ悪目立ちしてるから……」

    はしゃいだ声をあげるパイモンに空は苦笑しながら釘を刺す。彼らは先程からずっと奏甘楼に吸い込まれていく人々から怪訝そうな眼差しを向けられていた。どの人の顏にも「子供がどうしてここに?」とあからさまに書いてある。

    「オイラたちはれっきとした招待客なんだから、萎縮する必要はないと思うぞ。ほら、さっさと行こうぜ、空!」
    「はいはい」

    パイモンに急かされて空はようやく石段に足をかけた。石段を上りきり朱塗りの表門をくぐる。と塀に囲まれた長方形の空間に出た。地面には白い砂利が敷き詰められ、月光を浴びて淡い光を放っている。
    向かって左手の塀にもう一つ質素な扉があり、その先へ進むと小さな庭のような場所に出た。
    奏甘楼の建物は四合院造りと呼ばれる設計になっている。
    空たちが立っている庭の奥には垂花門と呼ばれる屋根付きの扉があり、それが外院と内院とを隔てている。
    璃月独特の装飾が施された垂花門を通り抜けると空の視界が一気に開けた。
    目の前に青々とした芝生が広がり、その真ん中を石畳の通路が貫く。塀に沿って植えられている木々は色とりどりの花を咲かせ、道行く者の目を楽しませていた。
    通路の奥に母屋と思しき二階建ての建物があり、客たちはみな母屋を目指して歩いていく。

    「あそこに鈴麗がいるのか?」
    「多分そうだと思う」
    「ここ広すぎて迷いそうなんだぞ」
    「俺からはぐれないでね、パイモン」

    もしもこの広い敷地内でパイモンが迷子になったら見つけられる自信がない。

    「首輪を持ってくるべきだったか」
    「オイラをなんだと思ってるんだ!?」

    空が顎に手を当てて呟くとすかさず切れの良い突っ込みが飛んでくる。空は「あはは!」と笑いながら、母屋へと足を踏み入れた。
    帳場に立っていた厳めしい面構えの大男が空とパイモンを見て眼差しを鋭くする。

    「おい、そこのガキ。止まれ」

    空は大人しく足を止めた。帳場に歩み寄り男を見上げる。

    「俺が何か?」
    「どこの家の使いだ? なんの用事があってここに来た?」
    「むむ! オイラたちは誰かに雇われてここに来たんじゃないぞ!」

    男の居丈高な物言いが気に入らなかったのか、パイモンが不満そうにしながら答える。パイモンの返事を聞いて男は「?」と凄んだ。

    「ここはガキの遊び場じゃねえ! とっとと帰れ!」
    「ちょ、ちょっと待って。俺たちは、」

    このままでは問答無用でつまみ出されてしまう。空は慌てて口を開いた。

    「鈴麗さんに呼ばれて来たんだ。取り次ぎをお願いできる?」
    「あん? 鈴麗さんの客だあ? ……ん? 待てよ。その顏……お前まさか旅人か!?」
    「うん、そうだよ」
    「こいつは鈴麗の命の恩人だぞ!」

    空が問いかけに肯定し、パイモンがえっへんと胸を張る。と、険しかった男の表情が一気に和らいだ。満面の笑みを浮かべて男が帳場から身を乗り出してくる。

    「話は聞いてるぜ! 鈴麗さんを暴れ馬から助けてくれたってな!」
    「じゃあ中に入っても構わない?」
    「あたぼうよ! おい! 鈴麗さんの客だ! 誰か春燕を呼んでこい!」

    男が母屋の奥に向かって声を張り上げる。どこからか「はーい!」と複数の甲高い声が聞こえ、待つこと数分。パタパタと軽やかな足音を立てて帳場にやって来たのは、空たちと同じ年頃の少女だった。

    「お待たせしてすみません、旅人さん、パイモンさん。私は春燕と申します。鈴麗姐さんの身の回りのお世話をしながら、芸妓を教わっています」
    「つまり見習い?」

    空が確認すると春燕は「はい」とにっこり笑って頷いた。妓女の卵なだけあって春燕の笑顔は可愛らしかった。余計な媚びがなく生き生きとしている。鈴麗がひそやかに楚々として咲く瑠璃百合だとしたら、春燕は野に咲く霓裳花だ。

    「鈴麗姐さんは二階のお部屋でお待ちです。ご案内します」
    「ありがとう」

    春燕がしずしずと歩き出す。空とパイモンはゆっくりと彼女の背中を追った。

    「おい、見ろ。あれ……旅人じゃないか」「こんなところで大英雄に会えるなんてな」「隣のちっこいのは……なんだ?」「旅人さんをとりこにした妓女が奏甘楼にいるのか?」

    廊下ですれ違う客たちが空を見てひそひそとささやき声を交わす。彼らの反応にパイモンはなぜか得意げだった。

    「んっふっふ。ここでもおまえは有名人みたいだぞ。良かったな、空!」
    「有名になって嬉しいのは俺じゃなくてパイモンだよね」
    「ああ嬉しいぞ! なんてったってオイラの相棒はこのテイワット一の冒険者だからな!」
    「あ、着いたみたい」
    「オイラの話を聞けよ!」

    パイモンがキーッと歯をむき出しにして怒った振りをする。そんなパイモンを「はいはい」とおざなりにあしらいながら、空は春燕の隣に並んだ。
    階段を上り、長い回廊を突き進んだ最奥に目的地はあった。
    正面には行く手を阻む格子戸があり、木の枠に摺り硝子が嵌め込まれている。その硝子の表面を這うように格子が幾何学的な模様を描いていた。

    「鈴麗姐さん、お客様をお連れしました」

    春燕が拱手をしながら格子戸の向こうに声をかける。わずかな沈黙ののち、「どうぞ、お入りになって」と聞き覚えのある声が返ってきた。
    春燕が格子戸を横に引く。と、ふわり、とほのかに甘い匂いが空の鼻孔をくすぐった。それが室内に炊きしめられた香の匂いであると、部屋に入室して気付く。
    部屋は広々としていて、天井は高く、最低限の調度品のみが置かれていた。しかしそのどれもが高級品であることが、細かな意匠から見て取れる。
    奥の北側には寝台があり、四方を天井から垂れ下がる紗が覆っている。ベッドの手前、部屋の中央に円形の卓子と椅子が三つあり、その内の一つに鈴麗はゆったりと腰かけていた。

    「いらっしゃい、旅人さん、パイモンさん! うちに来てくれて嬉しいわ! さあさ、椅子にかけてちょうだい!」

    鈴麗が空と目を合わせてぱっと花が咲いたように破顔する。空もつられて微笑みを返した。

    「今日は招待してくれてありがとう」
    「うおお! ご馳走がいっぱいだぞ! どれもすっごく美味そうだ!」

    卓子の上には璃月の郷土料理がところ狭しと並べられている。きらきらと目を輝かせ、はしゃいだ声をあげるパイモンに鈴麗がくすくすと笑う。空はやれやれと肩をすくめた。

    「二人ともお腹が空いてるわよね? 話はあとにして早速お料理をいただきましょ。冷めたら味が落ちてしまうわ。二人ともお酒は……?」
    「大丈夫」
    「右に同じ!」
    「じゃあ、酒杯はいらないわね。春燕、これを厨房に返してくれるかしら?」
    「はい、鈴麗姐さん」
    「終わったらいつもの仕事に戻っていいわよ」
    「承知しました」

    卓子に乗っていた人数分の酒杯を春燕が手際よく盆に移して回収していく。春燕がいなくなると、「では」と鈴麗は背筋を正して正面を向いた。

    「好きなものを好きなだけ、たんと召し上がってくださいな」

    空とパイモンは顏を見合わせて頷く。二人は同時に箸を取り、銘々好きなものを小皿に取り分けていくのだった。



    会食が始まって一時間ばかり経過したが室内は沈黙とは程遠く笑い声が絶え間なく満ちていた。
    三人の会話は途切れることなく続いており、場が盛り下がることもなかった。
    といっても話すのは主に空とパイモンの役目で、鈴麗はもっぱら聞き役に回っている。
    鈴麗はあまり自由に外を出歩けないらしく、空が旅の途中で見聞きした珍事や難事を話して聞かせると、興奮に頬を赤らめ、子供のように喜んだ。
    特に彼女が気に入ったのは、やはり風魔龍トワリンや渦の魔神オセルと空が戦ったときの話だった。

    「あのとき仙人たちが群玉閣にいなかったら、俺たちみんな死んでたかも」
    「でも結果として旅人さんは死なずに生き残ったんでしょう! それって仙人と同じくらい旅人さんが強いってことよね。本当にすごいわ!」
    「ううーん、すごいのは俺じゃなくて凝光だと思う」

    心血注いで作り上げた群玉閣を凝光が放棄したからこそ、オセルを鎮めることができたのだ。真に称えられるべきは空ではなく、凝光の英断だろう。

    「さっきから気になってたのだけれど、旅人さんはずっと旅をしてるのよね? 野宿をするときだってあるわよね?」
    「もちろん」
    「ドラゴンスパインで野宿したことだってあるぞ!」

    パイモンが得意げに言うと、鈴麗は「あの雪山で!? すごいわ!」と歓声をあげた。しかし次の瞬間には彼女の顏から微笑みは消えていた。
    真剣な眼差しで空をじぃ……と凝視しながら鈴麗がつぶやく。

    「そんな過酷な生活をしてるのにどうして旅人さんのお肌はすべすべなのかしら……」
    「え?」

    突拍子もない鈴麗の発言に空はぱちぱちと瞬きをする。

    「髪だって枝毛もなくてさらさらで羨ましいくらい。どうしてそんなにきれいなの?」
    「どうしてって言われても……思い当たる節はないよ。特別なことは何もしてないし」

    空が首をひねりながら答えると鈴麗はくわっと目を見開いた。

    「嘘でしょう!? 信じられない!」
    「あ、でも、最近宿に泊まれそうにないときは洞天で寝起きしてるから……そのお陰かなあ?」

    洞天とは如何なるものか。空は説明しようとしたが、鈴麗はそんな些末事はどうでもよいとばかりに詰め寄ってきた。

    「とにかく旅人さんがその辺の女の子より可愛いのは間違いないわ。ねえ旅人さん。私から一つ提案があるのだけど」
    「な、何?」
    「ちょっと妓女の恰好をしてみない?」
    「なんで!?」

    女装をするのが嫌なわけではない。けれど自分には似合わないだろうと空は思う。女の子の服は女の子が着るから魅力を引き出せるのであって、空が着たらきっと道化にしかならない。
    空は胸の内を切々と訴えたが鈴麗は「そんなことないわ!」の一点張りで、まったく聞く耳を持たなかった。

    「あなた化粧映えしそうな顔してるもの! 私の服だって絶対に着こなせるわよ! ね、お願い! こんな楽しいこと滅多にないわ!」
    「空、こいつどうしてもおまえに女装してほしいみたいだぞ。お願い聞いてやってもいいんじゃないか?」
    「えー……」

    パイモンは鈴麗の熱心さに心を動かされたらしい。この場に空の味方はいなかった。それに……。

    (楽しいことが滅多にない、か……)

    上目遣いでこちらを見上げている鈴麗の姿を視界に入れつつ、空はうーんと考え込む。
    彼女は明るく溌剌としていて苦難や悲劇とは無縁に見える。けれどそれは無縁に見えるだけなのだろう。
    妓楼というのは行き場のない少女たちが身を寄せる場所だ。一度妓女になったなら、手足に見えない枷を嵌められて年季明けまであくせく働くしかない。
    籠の中の鳥に等しい彼女にとって、空との邂逅は退屈で変わり映えのない日々を輝かせる特別なものだったに違いない。

    (女の子のわがままを聞けるのが魅力的な男への近道、だっけ)

    いつか蛍が口にしていた異性にモテるための秘訣をふと思い出す。「お兄ちゃん」である空は女の子の悲しげな顔を目にするのがとても苦手だった。

    「わかった。鈴麗の好きなようにしていいよ」
    「! ありがとう旅人さん! そうと決まったら全部のお皿を急いで空にするわよ! 食事が終わったら必要なものを用意するわね!」

    鈴麗が行儀よく、しかしものすごい勢いで食事を平らげていく。空とパイモンは苦笑しつつ彼女に倣って箸を動かすのだった。
    食事が終わると鈴麗は春燕を呼んで衣装や髪飾りや化粧道具を持って来させた。空が四苦八苦しながら斉胸儒裙と呼ばれる女物の服に着替えると、鈴麗は満足げな顏をして親指を立てた。

    「やっぱり私の見立ては間違ってなかったわね。さ、ここに座って」
    「了解」

    淡い桃色の裙の裾を踏まないよう、空は細心の注意を払いながら鏡台の前に腰かける。息をすると胸をきつく締めている帯――これは鮮やかな緋色だ――に肺を圧迫されて苦しい。

    「終わるまで動かないで」
    「うん」

    白魚のようなほっそりした手が空の顏や髪に触れる。空は目と唇を閉じて物言わぬ人形と化した。それからどれだけの時間が経っただろうか。肌にぬるぬるした水を塗られ、粉をはたかれ、やわらかな筆で目元や頬をなぞられ、とにかく複数の工程と気が遠くなるような時間を経て空の女装は完成した。

    「目を開けていいわよ」
    「……う、わっ」

    鈴麗に言われて恐る恐るまぶたを上げた空は鏡に映った自分の姿に驚愕した。

    「わ、悪くない」
    「でしょう!?」
    「空! おまえすんっごい美人だ! 女の子にしか見えないんだぞ!」

    パイモンが空の頭上でぐるぐると八の字の軌道を描く。空は食い入るように鏡像を見つめた。
    結い上げられた髪は両耳の横で輪を作り、顏の輪郭をすっきりと見せている。首を動かす度にかんざしの飾りがぶつかり合ってシャラシャラと小気味よい音が鳴るのが面白い。
    目蓋と唇には朱が差され、本来の肌の白さを際立たせている。上半身を覆っている浅葱色の衣は、桃色の裙や緋色の帯と見事に調和している。

    「鈴麗って化粧が上手なんだね」

    女装なんて絶対に似合わないと思っていたのに、違和感がまるでない。この場に蛍がいたなら同性の双子だと十人中十人が勘違いするだろう。

    「元々の素材が良かったからよ。私は旅人さんの魅力を引き出すお手伝いをしただけ。でも、本当に可愛いわね……」
    「写真機、持ってくれば良かったな……。記念撮影したかったんだぞ」
    「俺もそー思う……」

    今の自分の姿は思い出として形に残しておくべきだろう。荷物をすべて宿に置いてきてしまったのが悔やまれる。醜態を晒す羽目になるどころか、こんなに美しくきれいに仕上がるとは。自分のポテンシャルの高さにびっくりである。
    空とパイモンが嘆いていると鈴麗はふふ、と笑みをこぼして言った。

    「二人に気に入ってもらえて嬉しい。もし旅人さんが嫌じゃなければ、そのまま宿に戻るのはどうかしら?」
    「え、でも、」
    「服と髪飾りは私からあなたへの贈り物ってことで。二人のお陰でとても楽しい時間が過ごせたわ。そのお礼だと思ってくれればいいから」
    「本当にいいのか? あとから返せって言われても返さないぞ!」

    パイモンの駄目押しに鈴麗は何も言わずはにかみながら首肯した。彼女の厚意を捨て置くのは失礼な行為に当たるだろう。
    空は「それじゃあ」と口を開いた。

    「今身に付けてるものはありがたくもらって行くね」
    「ええ、ぜひそうしてちょうだい!」
    「写真を現像したら渡しに来てもいい?」
    「嬉しい! 待ってるわ!」

    鈴麗が喜色満面の笑みを浮かべて言う。空は「よっこらせ」と立ち上がった。

    「今日は楽しかった。ありがとう」
    「鈴麗と話せて良かったぞ!」

    本当に楽しい夜だった。料理はどれも美味しかったし、食事の合間に美しい舞も見せてもらった。うっとりと聞き惚れる古琴の演奏も聞かせてもらった。素敵な思い出がまた一つ、旅の記録に刻まれた。

    「こちらこそ! 私の招待に応じてくれてありがとう、旅人さん、パイモンさん。春燕に外まで送らせるわね。ここの妓女だと思われてお客さんに絡まれたら大変だもの」

    鈴麗に呼ばれてやって来た春燕は空の恰好を見て目を丸くした。鈴麗が事の次第を説明すると、腑に落ちたと言わんばかりの表情を浮かべ、笑いを嚙み殺しながら拱手した。

    「鈴麗姐さんの余興を楽しんでいただけて何よりです。――お帰りはこちらになります、どうぞ」
    「おやすみ、鈴麗」
    「いい夢見ろよ!」
    「おやすみなさい、さようなら」

    鈴麗が透き通るような微笑みを浮かべて手を振る。その儚さに空は束の間目を奪われた。
    格子戸が締められ鈴麗の姿が見えなくなる。春燕のあとをついて歩きながら、空は奏甘楼という鳥籠の中で彼女が少しでも幸せに生きていけることを願った。

    「ん? 見かけねえ顏だな。新米か?」「春燕、後ろの小姐(しゃおじぇ)はいくらなんだ?」「俺のとこに寄越してくんな」

    鈴麗が口にした通り階段を下る途中、あるいは廊下を歩いている最中、空は何度か羽目を外している奏甘楼の客にタチの悪い絡まれ方をした。しかし「この方はお客人です」「奏甘楼の面目を潰すような真似はお控えください」と春燕が上手にあしらってくれたため事なきを得た。
    しかし――帳場まで来たところ、予想だにしない展開が空を待ち受けていた。

    「今夜はどの娘をご希望で?」
    「うーん、そうだなあ……」
    「えっ……?」

    なるべく目立たないよう下を向いて歩いていた空は、聞き覚えのある声を耳にして弾かれたように顏を上げた。
    すらりとした長身痩躯。紅茶色の髪。灰色の制服。見覚えのありすぎる後ろ姿に空はぎょっとして足を止める。
    あろうことか帳場に立って妓女の品定めをしていたのは、因縁の浅からぬ相手――ファデュイの「公子」タルタリヤであった。

    「な、なんであいつがここにいるんだよっ!」
    「と、とりあえず隠れて、パイモンっ!」

    動揺したパイモンが小声でささやく。空は咄嗟にパイモンを足元に隠した。裙の裾に覆われてパイモンの姿が見えなくなる。

    「? どうかなさいましたか? 旅人さん?」

    空の異変を感じ取った春燕が肩越しに振り返る。しかし空は無反応を貫いた。周囲から一切の物音が消え失せ、意識のすべてがタルタリヤのほうを向いている。吸い寄せられて、引きはがすことができない。

    「この子の見た目は俺の好みなんだけれど性格が少しね。それに今日は楽しく飲みたい気分なんだ」
    「でしたらこの娘はどうでしょう? 新米ですが二胡の腕前はなかなかのもんで」
    「二胡かあ。たまに街中で演奏してるのを見かけるけれど、美しい音色をしているよね。ところで……後ろのお嬢さんたちは俺に何か言いたいことでも?」

    空の視線に気付いたのか、胡散臭い笑みを浮かべたタルタリヤが唐突に振り向いた。真正面から目が合い、肩がぴくっと跳ねる。

    「あれ? 君……」

    タルタリヤがわずかに瞠目し、次いで意味深な笑みを口元に刷く。大股で歩み寄ってくるタルタリヤに本能的な恐怖を感じ空は無意識に後ずさった。

    「ずいぶんと可愛らしいお嬢さんだ。今夜のお相手はこの子にお願いしたいな」

    腰を折りながらタルタリヤが空の顏を覗き込んでくる。少しでも動けば唇と唇が触れ合ってしまいそうな距離に空は激しく動揺した。
    タルタリヤの声は水飴のように甘ったるくどろどろしていて、普段聞いているのとはまるで違う。女の子に対して彼がこんな優男ぶりを発揮するなど、空は少しも知らなかった。

    (公子は俺のことに気付いてな、い?)

    気付いているのであれば空を抱きたいなどとは思わないはずだ。自分に秋波を送ってくるタルタリヤは薄気味悪いが、女装に気付かれるのは絶対に嫌だ。

    (俺が女装しているなんて知られたら……っ!)

    そういう趣味を持っている人間だと思われるかもしれない。テイワットにいる限り永遠にからかわれる羽目になるだろう。タルタリヤに正体を知られるのは弱みを握られるのと同じだ。
    どうすればこの場を上手く切り抜けられるのか――!?
    背中を冷や汗が伝う。空が目まぐるしく頭を回転させていると、春燕が見兼ねて助け舟を出してくれた。

    「旦那様、横から失礼いたします。大変申し訳ありませんが、この方は鈴麗姐さんのお客人です。旦那様のお相手は出来かねます」
    「へえ、そうなの?」

    何を考えているのかわからない笑みを口元にかたどったまま、タルタリヤが背筋を伸ばす。彼の眼差しが頭皮にぐさぐさ突き刺さるのを感じながら、空はじっと口をつぐんでいた。

    「それは残念だ。こんなところでそんな恰好をしているから、てっきりその気があると思ったんだけど。俺の勘違いだったみたいだね――相棒」
    「っな!?」

    タルタリヤが空を呼ぶときの特別なあだ名を口にされて、空は反射的に声を漏らしてしまった。しまった、と口を塞ぐが時すでに遅く。タルタリヤが「あはっ!」と声をあげて笑う。

    「っ~~~~~~~!!!」

    腹を抱えて笑い転げるタルタリヤに耐えきれなくなり、空は脱兎のごとく駆け出した。外の風を含んで袖がふくらみ、帯の端が、桃色の裙が、軽やかにたなびく。その動きは軽やかに舞う燕を想起させた。
    駆けていく空の後ろ姿を見たタルタリヤが目を細めたことなど露知らず、ひたすらに足を動かす。

    「空ー! オイラを置いてくな! あっ春燕ここまで送ってくれてありがとうな!」

    背後でパイモンの叫ぶ声が響く。しかし空は走り続けた。全身が熱くてたまらない。恥ずかしい。それと同時に強い衝動が込み上げてくる。
    今すぐ剣を振り回したくてたまらない。

    (公子は奏甘楼の常連みたいだった。つまり……彼はあそこで何度も……)

    きれいな女の子たちを抱いているというわけだ。強い人間と戦うことしか興味がないとあれだけ豪語しておいて、妓楼遊びを楽しんでいるというわけだ。
    どうしようもなく気に入らない。むしゃくしゃしてたまらない。今すぐタルタリヤを叩きのめしてやりたい。

    (今度会ったら絶対にボコボコにしてやる……っ!)

    今夜俺をからかったことを絶対に後悔させてやる――! 闘志の炎を瞳に宿し、空は強く奥歯を噛みしめた。
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