こめかみを抜けた自由 どうしてまたこの地に来てしまったのか。自分でもわからなかった。
過去の精算? それとも弔い?
彼女を弔うならなおさら高専に行くべきだろう。
あれ以来高専の敷居をまたいだことはない。
あの場所からは逃げ続けている。
結局逃避なのだ。己の安っぽい感傷なのだ。
じりじりと焦がすような陽射しに肌を灼かれる。それでも湿度が低い分、暑さは本州よりかはマシに思えた。
太陽とアスファルトの熱射から逃れるように道路沿いの食堂へ入った。
渇いた喉を潤そうとラムネを注文した。間もなく運ばれてきたそれのビー玉をぐっと押し込めると、ぶしゅぶしゅと炭酸が溢れ出した。冷たい液体はせき止める間もなく手を濡らした。
今際の際に見た、血で染まった己の手を思い出した。今際の際と言うのは正しくない。私だけが生き残ってしまった。
せめてその血が敵に一矢報いた血であったなら。彼女をこの手で守って染まったのであれば自分を許せた。
最後に見た光景は、呪力も持たない人間に為すすべもなく転がされた地面。
手のひらから無力さが溢れ出す。
瓶の口から溢れるままのラムネをぼうっと見ていた。
食堂の年配の店員が心配そうに何やら言いながらおしぼりを持ってきたが、言葉は耳には入らず、私はただ「ええ」とか「すみません」などと繰り返して応えた。
しばらく休むと支払いを済ませ、観光をする気にも食事をする気にもなれずホテルへ帰った。
その晩夢を見た。
椎茸が刻んでも刻んでも終わらない、という荒唐無稽な場面から始まった。
私は夕飯の支度をしているようだ。献立はハンバーグ。挽き肉をこね、当たり前のように刻んだ椎茸を混ぜ込む。
一体何人分あるのか。こんなに用意しても食べ切れないだろうに。
何よりこんな量の椎茸を料理に混ぜたら、お嬢様に気付かれてしまうではないか。
切り落とした椎茸の軸が並んでこっちを見ている。そんな目で見ないでほしい。目もないのに。
そうこうしているうちに、もうすぐ理子様が帰ってきてしまう。夢の中で時間の感覚などないのにそれはわかった。
やむなく椎茸がたっぷり入ったハンバーグを焼いて食卓に並べた。出さなければいいのに、夢の中ではそれも思うようにならなかった。
いつの間にかテーブルについていた彼女はハンバーグをパクパクと口に入れていった。
「黒井の料理はいつも美味しい」
満面の笑みでそう言った。
そんなはずはない。
ナイフで切られたハンバーグの断面からは隠しきれていない椎茸がゴロゴロと覗いている。
彼女は自分に都合の良い幻だ。己の中の彼女の記憶が再生されているだけだ。
もう彼女は食べることもできない。
私では彼女を守るどころか身代わりにもなれなかった。
己の無力さに、目から勝手に涙があふれる。
「申し訳ありません……申し訳ありません……!」
私はひたすら謝罪を繰り返した。
何のことかと言うように首を傾げる理子様は笑顔のままだ。
すると、彼女のこめかみから血が滴り始めた。
私は最期の姿を見ていないはずなのに。最後までそばにいることは叶わなかったはずなのに。
「どうしたのじゃ黒井〜」
生前の彼女の明るい声音。
「しいたけはイヤ」
「明日はポトフが食べたい」
彼女の姿を直視することができず、許しを請うように頭を垂れる。
「黒井、いってきます」
どれも生前に何度も何度も聞いた言葉。
「おやすみ黒井」
彼女は壊れたレコードのようにいくつかのフレーズを繰り返している。
彼女から目を逸らしひたすら床を見ているのに、そこも滴る血で赤く染まっていく。パンプスの外周が赤くなっていく。
もし今この手の中に拳銃があったなら迷いなく自分の頭を撃ち抜いているだろう。銃などと贅沢は言わない。ナイフでもあれば喉を掻き切っているのに。
夢ならどうか早く醒めてくれないか。
終わらない悪夢に、万力でゆっくりと心臓を潰されるような心地がした。
そのときだった。彼女の声が、ふ、と途切れ、
「大好きだよ、黒井」
その声は水を打ったように凛と響いた。
思わず跳ねるような勢いで顔を上げた。
そこにいた彼女は血まみれの姿などではなかった。
「黒井。私ね──」
ホテルのベッドで目を覚ました。
私は全身にびっしょりと汗をかいていた。
いつの間にか目尻から伝った涙が、こめかみを濡らしていた。
なんて自分に都合の良い夢だろう。
頬まで濡らす涙を拭いながら苦笑した。
「…………私も大好きです。理子……様……」
誰に聞かせるでもなく発された言葉は、暗い室内のしんとした空気に溶け込んで消えた。