⑫国言己パロ =邂逅=「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申し上げる」
ゴミゴミとした汚い路地裏にはおよそ似合わない、鈴が震えるような声。神々しいまでにうつくしい長い金髪を持った人物は、伏せていた顔を上げた。手をついたまま、目の前に立つ男をじっと見上げる。
青白い顔に血のような赤い瞳がまるで熱を持っているように揺らいでいた。
────────────────────
───鬼龍紅郎。
と言えば地元では喧嘩で負け無し、札付きの不良だった。
傷害で訴えられれば前科の一つや二つではきかない。
そんな彼も昔はふつうの優しい少年だった。
一般的な家庭の息子として産まれたが、両親に似ていないことから母が不貞を疑われた事をきっかけに家庭崩壊の危機に陥る。それも両親に似た妹が産まれたことにより、家庭は持ち直した。紅郎の存在を切り捨てることによって。
紅郎なりに家族に溶け込もうと積極的に家事を手伝ったり、妹の面倒を見たりと奮闘したが全てが裏目に出た。
両親に疎んじられ、大きくなった妹も疎んじられている兄にどう接したらいいのかわからず、両親に倣った。
家族から孤立した紅郎を慰めたのは地元の不良グループで、元々体格が良く、顔も強面な彼は歓迎された。
なにをしても認められなかった紅郎にとってはじめて己を認められた場所だった。
家に帰ることもせず、仲間の元を渡り歩き、日雇いの仕事を転々とし、喧嘩にあけくれる日々。殴り合っている間は自分の存在を感じられる。しかし、それ以外の時間は彼に不安をもたらした。
どこに居ても所在の無さを感じ、それを誤魔化すために喧嘩を繰り返す。
そんな彼には敵も多く、今日も今日とて因縁をつけられ、単身それに乗った。多勢に無勢ではあったが、薄暗い夕暮れの路地裏で立っているのは紅郎一人。
───だった。
自分の血や返り血を乱暴に拭っているところに光が湧いて出た。文字通り、湧いて出た。
どこか懐かしい海の香りと共に。
日本では馴染みのない、ゆったりとした裾の長い中華風の衣装に身を包んだ、小柄な人物。豊かな光を蓄えたような豊かな金髪を揺らした人物は、血まみれの紅郎を見て、顔を蒼くした。蒼白い顔に赤い瞳がよく映える、などと紅郎は一瞬思った。
今までに紅郎が見た人間の中、否、生き物の中で一番美しい顔をしている。
どう見たって路地裏に似合う人物では無い。こんな所にいてはいけない、と追い返そうと紅郎が口を開こうとしたところ、この人物は汚い地面に膝を着いて紅郎に向かって額づいた。
いわゆる土下座。まさか初対面の、しかも喧嘩慣れしていないであろうシロウトにまで、出会い頭に土下座をされるだなんて。自分の顔はそんなに恐ろしいのだろうかと多少なりとも傷付く。が、紅郎はうずくまる人物に顔を上げるように促そうとした。
「ゴゼンヲハナレズ、ショウメイニソムカズ、チュウセイヲチカウト、セイヤクモウシアゲル」
立てた板に水を流すがごとく、震えた声が言葉を紡ぐ。紅郎の耳に馴染みの無い言葉だ。
「……は?」
日本語かどうかもよく分からない。
言っている意味が理解できず、思わず間の抜けた声が紅郎の口からこぼれた。
顔を上げたそれはじっと、熱の篭った赤い瞳で紅郎を見上げる。街灯の明かりも届かない路地裏なのに、その顔がはっきりと見えた。
光は震えながら血の気のない唇を開く。
「許す、と」
「ゆる、え?何をだ?」
「ひとこと、許すと」
話の内容が見えない問答をしている間に、顔色はさらに悪くなる。柳眉を寄せ、呼吸を詰めた。
体調が悪いのだろうことは見たらわかる。
「おい、大丈夫か」
思わずしゃがみ込み、支えようとすると何かに遮られた。
場違いな白い羽根が舞う。
「穢れた手で触れるな!粗忽者め!」
よく悲鳴を上げなかった、と紅郎は自分で自分を褒めたかった。声はひっくりかえったが及第点だろう。
「な、なん……なんだ、てめぇ」
突如現れ、具合の悪そうな謎の人物を手繰り寄せたのは人間では無かった。
人間の女性のような上半身。衣服がないことを除けば、それだけならば、こんなに驚いたりはしない。
背には白く大きな鳥のような翼、馬のような下半身に、蛇にしては立派な尾を持った異形がいた。
ぐったりした金髪の人物を抱きしめているのは、ほっそりとした美しい女性の腕なのに。
そこから視線をたどれば、見間違いようもなく、異形だ。
濃い藤のような瞳は遠慮なく紅郎を睨みつける。それを制するように、その異形に抱きかかえられていた金髪の人物は体を起こした。
「ジンキ、無理をしてはいけないよ」
「心配しすぎだ、イツキ」
ジンキ、と呼ばれた金髪の人物は苦笑して、紅郎をふたたび見つめる。さきほどよりも若干、顔色がいい気がした。気のせいかもしれないが。
「許すとひとこと、言って欲しいんだ」
「……一体なんのことだがわかんねぇのに」
許すだの、許さないだの。
許す内容が分からないのにそんなことは言えない。
そう返そうとしたのに、紅郎の口から出たのは短いひとことだった。
「許す」
ジンキはふわりと笑った。春の花がほころぶがごとく、柔らかな笑みだ。
「ああ、我が王よ。お待ち申し上げておりました」