⑫国言己パロ 3 =仁麒=「中日までご無事で」
何度口にしただろうか。
その言葉を受け、肩を落として退散する背中も数え切れないくらいに仁麒は見送った。
今回の昇山者の面会が済んだと、女仙が告げる。九年目ともなれば、以前よりも人数が明らかに少ない。それでも毎度、たくさんの人間が昇山してくる。すなわち、それだけ王を求めているのだ。
今回も感じなかった。仁麒は深く息を吐く。
王に会えばわかると言われている『王気』はどのようなものか。女仙に尋ねても、「麒麟にしか分からない」と言われ、蓬山を訪ねてきた麒麟に尋ねても答えはまちまちだった。
王を探しに自国を見に行く度に、国が荒廃の一途を辿っているのを目の当たりにする。その度に仁麒の胸は痛んだ。早く王を見つけなければと焦りばかりが募る。
我こそはと昇山してきた者や、従者として、護衛としてついてきた者、麒麟や王とお近付きになろうと昇ってきた者。その全てに会った。それでも王は見つからない。
「この世界にいないのかもしれない」
ぽつりと呟く。その言葉に、そばに控えていた女怪が眉間に皺を寄せた。
治世が三百年になるという桜雲国の王は胎果だと言う。桜麒が蓬莱に出向いて王を見つけたという話を聞いた。
全く有り得ない話では無いはずだ。桜雲国という前例があるのだから。
そして、仁麒も蓬莱で産まれ、十年ほど蓬莱で育った。
斎宮が渋い顔をするのは、仁麒を蓬莱で見つけた時に命の危険に脅かされていたからだった。交通事故で瀕死の重体だった所をギリギリのところで蓬山に連れて帰り、療養させ、元気になったのは八年前。連れて帰って二年以上が経った頃。寝台の中でこちらの世界のことや、麒麟としての役目などを女仙や斎宮から学んでいた。
仁麒は己の王に憧れを抱いた。
すぐに見つかるだろうという期待は、三度目の昇山者を見送った時に薄れてしまった。
王は自分に会いたいと思っていないのではないだろうか。だから、昇ってこないのではないだろうか。
王には王の自覚がないことは理解していても、仁麒はそう考えてはひとりで何度も袖を濡らした。
そうして思いいたった、一つの可能性。
この世界ではなく、別の世界にいるのかもしれない。別の世界にいるのなら、それは蓬莱な気がする。
仁麒はなんだか足元がソワソワした。今にも駆け出したくなったが、勝手に飛び出したら斎宮や女仙が心配する。肘掛けを握りしめ、己を戒めた。
「……きみがそう思うのなら、そうかも知れないね」
「蓬莱にいるかもって?」
「うむ。王気がわかるのは麒麟だけだからね。気になる場所があるのなら、そこにいるかもしれない」
蓬莱に赴くことに諸手を挙げて賛成はできないけれど、と斎宮の眉間の皺が語っている。
実は仁麒には蓬莱で暮らしていた記憶があまりない。瀕死に陥ったショックで記憶が抜けたのではないかと言ったのは、麒麟の専門医・黄医だった。
そしてその抜けた記憶が幸せなものであれ、辛いものであれ、蓬莱に赴くことで蘇るのではないかと斎宮は懸念しているのだ。
女怪は己の麒麟に対して過保護すぎる所がある。斎宮は特に、十年も己の麒麟を探していたからか、蓬山の女仙たちが苦笑してしまうほどに過保護だった。
自分を探していた苦労を滔々と語られた仁麒は、斎宮が嫌がるならと遠慮する場面が度々あった。迷惑をかけたくなかったからだ。
だが、今回は譲れそうにない。
居ても立ってもいられない。立派な椅子から飛び降り、仁麒は足早に外に飛び出した。その後ろから斎宮がついて行き、慣れた様子で仁麒を抱き上げる。斎宮は翼を広げて空に駆け上がった。女仙たちの声が追いかけてきたが、仁麒にはもう聞こえなかった。
蓬莱に辿り着いた時、夕刻だった。
なにかに導かれるままに見慣れない建物や人の間を縫って走る。生まれ故郷だという感慨も今はそんなこと、と一蹴してしまうほどに気が急いていた。
目的の場所に近付くと同時に嫌な匂いが仁麒の鼻をつく。血の匂いだ。
薄暗い路地裏で足をとめ、長い袖で鼻と口を覆う。
近寄ってはいけない、と麒麟の本能が警鐘を鳴らす。血の匂いで頭がクラクラした。指先が痺れた。影の中から斎宮が心配そうに伺っているのがわかる。
『仁麒、無理をしては……』
斎宮の言葉を無視し、力の抜けそうな足で歩みを進めた。
近寄ってはいけない。だが、近くにいる、という確信のようなものがあった。
この血の匂いの元に、求めている人物がいる。
壁に手をつき、縋るように足を進め、角を曲がった。
───灼かな炎が見えた。その炎の中に、ひとりの男がいた。
筋肉質なしっかりとした体躯の大柄な男は、己の顔に着いた血を拭っていた。
血のような、炎のような、赤い髪が揺れる。
(いた。会えた。やっと……!)
状況の飲み込めていない鋭い切れ長の瞳が、突如として現れた仁麒を認めた。
目が会った瞬間、雷に打たれたような心地だった。
頼りない足取りのまま、彼に近寄り膝を折る。麒麟は高貴な獣だから己の王以外に頭を下げられないと、仁麒は聞いていた。心当たりもあった。
両手を地面につき、叩頭した。そうすることが当然だと仁麒は感じた。
女仙に習い何度も練習してきた誓約の言葉を紡ぐために口を開けば、血の匂いが飛び込んできた。できるだけ息を吸わないように、声を押し出す。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申し上げる」
声は思った以上に震えた。ずっと言いたかった言葉が、やっと言えた感動に打ち震える。
しかし、『許す』と返ってこない。
頭をそろそろと上げると、ただ困惑した顔があった。
そうか。彼は蓬莱で育ったから、なにもわからないのだ。説明をしようにも、血の匂いが邪魔をする。
仁麒はじっと彼を見上げた。
許して欲しい。
そばに居ることを。
その思いを視線に込めて見つめる。
───王に逢えて嬉しくない麒麟がいるわけがない
理屈では説明がつかない。それが本能であり、自然の摂理なのだ。
「許す、と」
「ゆる、え?何をだ?」
「ひとこと、許すと」
口を開くだけで血の匂いが飛び込み、体が痺れた。それでも、それよりも、一言が欲しかった。
一瞬、意識が遠のく。遠い意識の外で斎宮が怒鳴っているのを聞いた。いけない。彼は己の王だ。
斎宮の匂いと温もりで意識を取り戻し、王に噛み付く女怪を制した。己を心配してくれているのはわかる。だが、心配には及ばない。血の穢れに参っているのは、その通りなのだけど。しかもこれは軽く怨嗟や憎悪が感じ取れて、状態は悪い。
心配そうに、困惑したように己を見ている王。怪我をしているようだが、それも「許す」と言ってくれれば立ち所に治るだろう。
「許すとひとこと、言って欲しいんだ」
「……一体なんのことだがわかんねぇのに」
参った、とでも言いたそうに赤い髪をかき乱した彼は、ふと仁麒を見て口を開いた。
「許す」
待ちかねていた一言を聞き、仁麒は思わず笑った。
うれしい。
よろこばしい。
そんな気持ちに際限がないことを初めて知った気がする。
「ああ、我が王よ。お待ち申し上げておりました」
安堵と、血の穢れにとうとう耐えきれなくなり、仁麒はそこで意識を手放した。