⑫国言己パロ 2 = 麒麟と王 =血を洗い流し、衣服を整える。ついでに簡易な傷の手当もした。普段なら放置するところだったが、口うるさく血を垂れ流すなと言われたから渋々だ。
安いボロアパートに不似合いな存在がいることに、紅郎はまったく落ち着かなかった。
突如として現れ、よく分からないことを言った、謎の人物。彼だか彼女だかはわからないが、その謎の人物はぱたりと路地裏に倒れてしまった。慌てて抱き起こそうとして、鳥だか馬だか蛇だかわからない異形に叱咤され、よく分からないままに、近くのアパートに追い立てられた。たまに泊まらせてもらっている仲間の部屋のひとつで、住人はしばらく留守にしている。さすがに誰かのいるところに連れて帰るのははばかられた。
血の穢れを洗い流せ、だの、清めた寝具を用意しろ、だのと口うるさいやつの声はどうやら紅郎以外の人間には聞こえていないようで、ひとまず安堵はしたが。
「あ~……っと?そんで、おまえらはなんなんだ?」
小さな、塗装の剥げたちゃぶ台を挟んで問いかける。
目を覚ました金髪の人物は物珍しそうに部屋を見回していたが、紅郎の問いかけに視線を合わせた。
異形はいま、何処にも見当たらない。汚い部屋だね、と憤慨していたからいた所で愚痴を垂れるのだろうけど。
「自己紹介が遅れたな。おれは『ジンナコク』の『キリン』だから、『ジンキ』と呼ばれている。おまえの『キリン』だ、おれの王よ」
「ストップ。キリン、ってのはなんだ?動物園にいるような首の長い、でけぇ動物しか思い浮かばねぇが……どう見たって……」
チビだし、という言葉を飲み込む。それ以前に目の前にいるのは人の形をしているのだし。しかも美形だ。そこらのアイドルだって顔負けなくらい美形だ。
「それによぉ、その、『王』ってのは何なんだよ。俺ぁ、ただのチンピラだぜ?」
「……そうか。そこから説明しないといけないのか」
大きな目を瞬かせたジンキは指先の出ない程に長い袖で頭をかいた。
「つぅか、体調は大丈夫なのか?顔色はだいぶ良くなったみてぇだが」
「ああ、うん。血に充てられただけだから、洗い流してもらったし今は平気だ」
「ふぅん?」
刃物で傷つけ合ったり、血を浴びたわけでもない。爪やアクセサリーで傷ついたり鼻血が出た程度で、出血多量だと言われるほど出血したわけでもないのに、変なやつだと紅郎は独りごちた。
「んっと、単刀直入に言うな?」
「おう」
「おまえはこの国の、いや、この世界の人間じゃないんだ」
きっぱりとした言葉に動揺するより先に、『やはり』と紅郎は納得した。
両親に似ていない自分。生まれた時に取り違えられたのでは、と本当の両親を探そうとしたこともあった。しかし、成長するにつれて育つ違和感に、本当の両親うんぬんの話は頭の片隅に押しやられてしまっていた。
「へぇ?」
「おれたちの世界で、ここは『ワノクニ』とか『ホウライ』とか呼ばれている」
「……ふぅん」
「『キョカイ』と言う海を挟んで向こう側にある世界が、おれたちの世界だ」
「ほぉ~」
「……聞いてるか?」
適当に相槌を打っていることに気が付いたのか、ジンキはじとりと赤い瞳で紅郎を睨めつける。
学校にろくに行かず、勉学に励むことをしなかった紅郎にとって、地理だか歴史だかの授業のような話はとても退屈だった。
「……あっちに行けば否が応でもわかるよ。簡単におまえとおれの関係の説明だけしておくな?」
「頼んだ」
「おれたちの世界では『麒麟』と呼ばれる聖獣が『王』を選ぶんだ。一国につきひとりの『王』と、一匹の『麒麟』がいる。その『麒麟』に選ばれた『王』がおまえだ」
『麒麟』と自分を指さし、『王』と紅郎を指さし、これで流石にわかっただろうと、ジンキは得意気に鼻を鳴らす。
指をさされた紅郎はしばらくそれを反芻したが、わからねぇと呟いた。
「なんでだよ!すごく簡潔な説明だろ!」
「俺なんかが『王』様なわけねぇよ。誰かと間違えてんだ」
「間違えるはずがない。これは天意だ」
きっぱりと自信を持ってジンキは言い切る。
でも、と食いさがろうとした紅郎の前にいざって来たジンキは座ったまま、紅郎の目を覗き込んだ。
「『麒麟』は己の『王』にしか頭を下げられない。蹲って許しを乞うのは己の『王』にだけだ」
「……許し、って。そういやあれはなんだったんだよ?ゴゼンヲ……とかなんとか」
「あれは誓約の言葉だ。『あなたのそばを離れず、あなたの命令を全て受けいれ、忠誠を誓うと約束します』。それを許して欲しい、と王に懇願している。おまえはそれを『許し』た。だから、おれはおまえのそばを離れない」
「あ"あ"?んなの、詐欺じゃねぇか。大した説明もしねぇで勝手によぉ」
思わず紅郎が凄めば、ジンキはびくりと身体を震わせた。怯えた表情に、紅郎の胸がザワつく。
たしかに紅郎は札付きの不良ではあるが、こんな、喧嘩とは縁遠そうな人間を───ましてや幼気な子どもを泣かせることは本意では無い。
「おい、泣くなよ。泣かれんのは苦手なんだ」
「……やっと会えた、って思って、気が急いてたんだ。それに血が」
「血?」
そう言えばあの異形もしきりに『血』がどうのと言っていたなと紅郎は思い至る。
『神獣である麒麟は血の穢れを厭うのだよ、愚か者め』
どこからか聞こえたおどろおどろしい声にあたりを見回すが姿は見えない。
しかしジンキは出どころのわからない声を聞いても落ち着いている。
『そんなことも知らないとは、嘆かわしいねッ』
「イツキ、主上は『ホウライ』で育ったんだから知らなくて当たり前だ。まだ少し黙っていてくれよ」
『……ふん』
滲んだ涙を袖に吸わせ、ジンキは軽く深呼吸した。
「なぁ、……アレはなんだ?見えねぇが何処にいるんだ?」
「イツキはおれの『シレイ』……えぇっと、部下みたいなものだ。元々は麒麟を守り育てるための『ニョカイ』……『乳母』だ。今は影に隠れてる」
できるだけ噛み砕いて説明しようと、ジンキは言葉を選んでいる。紅郎も理解しようとようやく耳を傾けた。ジンキの発する言葉に馴染みがないため、理解できているかは別として。
紅郎はチラシの裏とボールペンを準備して、もう一回説明してくれとジンキに頼んだ。
ジンキは表情をやわらげ、また説明を始めた。紅郎の質問にもジンキは根気強く答える。
黄昏時だった空はいつの間にやら、とっぷりと夜の帳を下ろしていた。
真っ白だったチラシの裏は文字や簡単な絵で埋まった。
「……本来はあっちの世界とやらで産まれるはずだったのが、『ショク』とか言うのでこの世界に流されたのが俺で?」
「そうだ」
「いや、なんだよ。流されるって。母親の腹にデキたのがなんで流されて別世界に行くんだよ」
「あちらの世界では人間も家畜も、生き物は木に成るんだ。『卵果』という、果実のようなものが、えぇっとこちらでは『嵐』って言うんだっけ。嵐にさらわれて『虚海』を超えて人間の胎に入る」
ジンキの説明にも紅郎の眉間の皺はますます深くなるばかりだ。その表情にジンキは苦笑を漏らす。
「実際に目にしないと理解できないよな」
「あまりにぶっ飛びすぎててよ……つぅことは、おまえも木の実……ランカ?から産まれたのか?」
なんとか理解を深めようと紅郎は唸りながら尋ねた。
ジンキはそれを否定するように首を振る。麒麟とかいう生き物は特別らしいから、また違う生態なのだろうかと紅郎は頭を痛めた。
「おれも実はこっちで産まれたんだ」
「は~……?」
「麒麟は特別なのか、という問いなら、同じように『卵果』から産まれるけど、人間とは違う木に成る。それは追々、機会があったら案内するよ」
紅郎は両手を後ろにつき、天を仰ぐ。
わかったような、わからないような。何しろ異世界の話だという。人類、否、生物の前提条件すら違うだなんて、そのような世界に行って馴染めるのかと不安になった。
(……ここにずっといるよか、マシか)
高校も出ていない。世にいう反社や、半グレだのにかすっているのだから、これから先の人生なんてたかが知れている。真っ当に生きるつもりは毛頭なかったが、だからといってやりたいことも特にない。
「なぁ」
「うん?」
天を仰いでいた視線をジンキにやれば、ジンキは小首を傾げた。
十代中頃、下手をすれば十代前半に見えるがいくつくらいなのだろうか。もしかしたら年齢の概念も違うのかもしれない、とその質問は飲み込む。いま説明されてもきっと理解できない。
「オウサマになったら何をしたらいいんだ?」
「主上の好きなように。王なんだから」
「好きなように?」
「───王のいない国は荒れる。仁和国は二十年以上、王が不在だ。もちろん、王が不在でも官吏が政務を執り行っているけど、それはただの気休めにもならない」
にわかに厳しい表情で、ジンキは窓の外を見つめた。
「妖魔が跋扈し、火山が異常に活性化して、旱魃が起こり、民は飢えている。土地が荒れれば人心も荒れる。中央の官吏の目が届かない所では汚職が蔓延り、重税に喘いでいるのは弱い民たちだ。土地を捨てて他国へ亡命する者もいると聞く」
赤い瞳が、伺うように紅郎の顔を見る。その表情からは哀れみや憐憫がうかがえた。
「……麒麟のおれとしては、民を救う政治をして欲しいけど、強要はできない。おれは、おまえの麒麟だから」
なにを言っているのか。すべてを理解できたとは言い難い。
しかしながら任されようとしている国が大変な状況であることだけは理解ができた紅郎は、『許す』と言ったことを大いに後悔した。
これまで学校にも真面目に行かず、政治系のニュースにはまったく食指が動かず、ただ喧嘩しかしてこなかった自分に大役がつとまる気がしなかったからだ。
「やっぱりよぉ……」
「一度だけ」
「あ?」
断ろうとしたのをジンキが遮る。
「今の国の状況を見てほしい。王が立つだけでも、少しは良くなるはずなんだ。主上が、おまえが必要なんだ!」
真剣な表情と、声音がまっすぐに紅郎を射抜いた。
紅郎の目の前でなにかがパチパチと弾けた気がした。
これまでこんなに真剣に自分を必要としてくれた存在がいただろうか。真剣に自分を見てくれた存在がいただろうか。
胸が熱くなる。今までにない感覚に体全体が落ち着かない。
ジンキを見れば興奮したように頬が紅潮して、大きな瞳が煌めいていた。
(キリンってより、なんっか……うさぎみてぇ)
ふは、と吹き出せば、目の前のジンキは戸惑った表情を隠さない。
「わかった。いいぜ。とりあえず見に行くか」
「う、うん!行こう」
身軽に立ち上がったジンキは紅郎の手を取った。