不退転 膝丸がこちらを見たまま動かなくなって、いったいどれくらいが経ったのだろう。髭切は、困ったなあと思いながら、残り少なくなった湯呑を弄んだ。膝丸が淹れてくれる緑茶はいつも熱くて、猫舌のきらいがある髭切はことさらゆっくり飲む。話題が転じたときにはまだ半分以上あったから、それなりに長いこと見つめられているという体感も気のせいではないだろう。
縁側に出て茶を飲み始めたときは、他愛もない話をしていたのだ。
外気がすっかり涼しくなって、日中はずいぶん過ごしやすくなった。
部屋から見える柿もまだらに染まり始めて、枝のしなりが強まってきている。
昼夜問わずに鳴く虫の名を挙げ連なったりしながら、秋霖の合間の晴れの日をささやかに楽しんでいた。
「とんぼもたくさんいるね」
二振りの視界をツーッと横切り、かと思うと空中停止して、とんぼは庭を飛び交っている。決して退かない勝虫として武将に好まれるその虫も風景の中ではのどかなものである。ぼんやり眺めながら、浮かんできた記憶のまま、髭切は半ば独り言のように言った。
「夏前にも飛んでたよね、赤いとんぼ」
「そうだったか」
「夏の間は、見なかったけれど。どこかに身を潜めていたのかな」
「違う種類かもしれんぞ」
答える膝丸もぼんやりしていたように髭切には思えた。それは別のことを考えていたためだったのだろう。次に言い出したことは髭切には思いもよらず、頭と胸を少し痛めるものだった。
「ところで兄者、その夏の赤とんぼの頃に約束をしたのだが覚えているか」
「……あー?」
「兄者から、俺に口づけてくださると」
言われて思い出せるのはまだ幸いである。しかし髭切からすれば、言葉でじゃれ合う中で軽く口にしただけのことで、約束まで取り付けた覚えはない。膝丸が良いように解釈したか、或いは髭切が忘れるのを見越して「約束までした」と捏造しようとしているのだろう。どちらにせよ、三月近く記憶してそれなりに楽しみにしていただろうと伺えて、髭切は決まりが悪かった。
いったい何だってそんな恥ずかしいことを口にしたのか、髭切は過去の自分を責めた。しかし過去の己はおそらく、未来の自分ならできると踏んだのだろう。とんだ楽観視である。
「いま?」
「また今度、では、忘れてしまうだろう。せっかく思い出したのだからいまして欲しいのだが、どうか」
せっかくも何も思い出させたのは膝丸の方だ。髭切は困って、日が暮れてからではだめか、せめて茶を飲み終わってからと交渉してみたものの、どれも却下され、ちょっとちゅっとやるだけだからと逆に慰められてしまった。
武士に二言はないなどと、髭切の頃は言わなかった。しかし一度言葉にしたことを覆すのも気持ちが悪いし、何より膝丸がこれほど執心するのが少し不憫で、とはいえどうにも気が進まない。時を置くほど実行するにも恥ずかしさが増してくる。俯いていると、「兄者」と一声発して、膝丸は体を髭切の方へ向けたきり動かなくなったのだった。
困ったことに、髭切は厠に行きたくなってきていた。しかし膝丸は許さないだろう。視線が頬の辺りに突き刺さっている。まるで指で直接押されているかのようにはっきりと感覚があって、髭切はそれを膝丸に伝えてみたいほどだった。
「どうしてもいま?」
空気を変えたくて尋ねてみる。けれど膝丸はもう答えなかった。
「……おまえずっとそうしてるつもり?」
「……」
「あんまり動かないから、とんぼが停まっているよ」
「……」
「見てごらんよ」
「……」
「………………あの、厠行きたいんだけど」
「立ち上がるついでにしてくれるか?」
ありがたい提案に、ようやくのことで、髭切は頷いて見せる。
とんぼが飛び立つのを見届けてから顔を上げると、膝丸は優しい微笑をたたえて髭切を見ていた。自分もよくこんな顔をして弟を見ているのだろうと思うと、早くその場を去りたくてたまらなくなる。膝丸には悪いが早く済ませてしまおうと、髭切は半ば腰を浮かせて、弟の肩に手を置いた。
「……目閉じてよ」
膝丸は、スーッと真横に目を逸らすだけだった。