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    okusen15

    まほ晶が好き

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    POIPOI 18

    okusen15

    ☆quiet follow

    🔸夢 魔神戦争時代のテイワットのモブ村人に憑依転生した夢主の話です。途中まで。別垢で掲載していたものになります。

    岩の上にも 決して慣れることはないだろうと思っていた。意識せずとも聞こえてきた日常の音や匂いは、私の中に棲みつき、決して消えることはないだろうと。けれど、その期待は鮮やかに裏切られつつあることを、時間が証明しようとしている。
     彼に名前を呼ばれて、鍋をかき混ぜるのを止めて、ふと顔をあげた。少し視線をずらせば、思ったよりも近くに彼がいたので、肩がぴくりと震えた。
    「すまない」
     と彼は謝って、ゆっくり手を伸ばしてくる。ひんやりとした黒い手は目元を擦り、額へと滑る。黙ってされるがままになっていると、彼はいつもフードの奥に隠されている瞳を細めて、「熱はなさそうだな……」と呟いた。
    「あの……」
     手がずっと触れたままなのが気になって声をかけると、彼はもう一度謝って手を離した。
    「冴えない表情をしているから、体調が優れないのかと思ってな」
    「心配してくれて、ありがとうございます。私は大丈夫です」
    「だが……」
     首を振っても、彼の顔に走る悩ましさと心配の色は消えていない。今、彼がしている顔の方が、よっぽど冴えない表情だと思いながら、少し重い口を開いた。
    「この世界に来て、もう、半年が経ったんだなと思って……」
     ある日目覚めたら、見知らぬ人になって混乱していた私を発見したのは彼だ。その時から今に至るまで、彼は面倒を見てくれた。教科書でしか見たことのない火付け石を実際に使うことも、焜炉で料理をすることも、彼が手本を見せて導いてくれなければ、なかなか実行に移せなかっただろう。
     生まれ育った環境どころか、世界が違う私に根気強く付き合ってくれた苦労は、推して知るべしだろう。彼は一切そんな様子は見せなかったけど、だからといって彼への感謝をないがしろにしていいわけがない。
    「いつも、ありがとうございます。おかげで、なんとか暮らしていけるようになりました」
    「生き抜いていく力は元々お前にあったものだ。俺は少し力を貸しただけにすぎない。そう畏まらずともいい」
     彼の言葉をそのままに受け取って生きていたら、私はとんだ自惚れ屋になってしまうだろう。今の生活は、彼の手助けによるものがほとんどだと私自身がよく分かっていた。彼の親切は半年もの間、途切れることがなかった。それがありがたくもあり、申し訳なかった。
    「その、お忙しかったら、もう無理に来てもらわなくても大丈夫なので……。こうして、料理も作れるようになりましたし……」
     いつか言わなければならない、と思っていたことを口に出すと、謎の喪失感が心の中に生まれた。それを埋めるように、再び鍋をかき混ぜることに集中する。定期的に様子を見にきてくれる彼との食事もこれが最後かと思うと、もっといいものを作ればよかったと後悔した。
    「俺は無理などしていない。むしろ無理をしているのはお前の方だろう」
    「そんなことは……」
    「クマができている。あまり眠れてないんだろう」
    「……」
     指で擦った時のように、彼の視線は私の目元を確かめていた。見下ろしてくる揺るがない眼光に、誤魔化せないと分かって閉口する。「明日、不眠によく効く茶を持ってくる。それを飲んで休めば改善するだろう」それが彼の答えだった。
     抵抗を早々に諦めた私は、ぼそぼそとお礼を言って皿を取り出し、料理をよそった。彼の意思を変えさせようとするのはとても難しい上に、成功率が極めて低いため、こうして意見が分かれた時は、大体私が折れる形になるのは、恒例のことだった。
     問題が保留になったことで謎の喪失感は埋め立てられ、いつか言わなければならないことは、依然として胸の奥底に重石のように居座っている。
     この話を再び彼に切り出さなければならない時を思うと気が重い。さっきの様子を見るに、彼はすんなり納得してくれないだろう。
     向かい合わせに座った彼は真珠翡翠白玉湯を口に運んで、「美味いな」と褒めてくれる。嬉しく感じる反面、さっきもそれくらい素直に頷いてくれたらいいのにと思うのも事実で。
     きっと今日も瞼を閉じながら、元の世界の音や匂いを一つずつ思い返すのだろう。聞き慣れていた音が聞こえてきやしないか、耳を澄ませながら。
     匙を持ち上げて、そっと目を伏せる。あたたかくて知らなかった名前の料理の味がした。


    2話

     朝、目覚めてほんの少しの期待を込めて、水面に映る顔を見ると、知らない顔の私がいる。彼女の服を着て、彼女が住んでいた家で生活する。
     使ったことがない道具、初めて耳にする風習、村の人との会話。彼女の記憶を頼りに、それらに対応するたび、元の世界の記憶が一つずつ剥がれ落ちる感覚に陥りながら、それでもまだ息をしている。


     馬尾で染めたばかりの布が全て干し終わった。水気を十分に含んだ風が、汗をかいている額を撫でる。村を二つに分断するように流れている川のそばでは、一仕事を終えた村の人たちがお茶を片手に談笑している。私も、ご苦労様と渡されたお茶を飲みながら、深く息を吸い込んだ。
    「やっぱり今年も、あんたが染めた布が一番綺麗だね」
    「……褒めすぎだと思いますけど……でも、ありがとうございます」
    「なに言ってんだい!去年もあんたが染めたやつは一番高く売れたんだ。きっと今年もそうだよ」
     私はそれに曖昧に微笑みながら、気づかれないように胸を撫で下ろした。
     村を流れる川は、村の人たちが草木染めをするための大事な場所だ。川にかかるいくつかの橋を渡っていけば璃月港という場所につき、布はそこで売り払われる。そこで得たお金ーーつまりモラが、村の大事な収入源だと知っているからこそ、私の不安もひとしおだった。
     この体の元の持ち主だった彼女の記憶があるとはいえ、『私』には経験がない。もしも、記憶を頼りに完成させたものが違っていたら、と。
    「あんたがいなくなっちまったら、わたしらみんな困っちまうよ。頼りにしてるよ」
     そう言って、肩を叩いてくれるこの人の後ろで、美しい紫色の布が何枚もはためいている。木造の家屋は布に隠れ、ほとんど見えない。きっと、私の後ろでも同じような光景が広がっているのだろう。
     私は複雑だった。何も知らない村の人たちから頼られ、大切にされると、彼女の人生を奪った盗人のように感じた。ここには私のものはなにもない。賞賛も服も家も記憶もこの肉体さえも、全て彼女のものだ。彼だけが、本当の私を知っている。
    「……はい、頑張りますね」
     逆光に目を細めながら、呟くように言った。笑みは作れていたのだろう。不審がられている気配はなく、会話は続く。
    「草木染めも終わったことだし、そろそろ村祭りの時期だ。せっかくだから、あんたも着飾っておいでよ。あの好い人を誘ってさ」
    「好い人……?」
    「ほら、長い髪を後ろで一つにまとめてる男の人さ!」
     ゴフッとお茶を吹き出した。私の周りでその条件に当てはまる人は一人しかいない。そんな勘違いをされるということは、家を出入りするところでも見られたのだろうか。
     「あんた大丈夫かい?」と背中をさすられて、徐々に咳が収まってきたタイミングで、急いで首を横に降った。小さな村だ。早いうちに否定しておかなければ、すぐに噂はまわってしまうだろう。
    「ち、違います……!あの人とはそんな関係じゃありません。ただちょっと……お世話になっているだけで……」
    「そうなのかい?それは残念だね。あんたは一年前に両親を亡くしたばかりだから、頼れる人ができたんなら、そりゃあいいって思ってたんだけどねえ……」
     残念そうなため息が話題の切れ目を覆ってくれる。何も言えずに茶器に視線を落とすと、底に溜まった茶葉のように、思考が沈んでいく。
     私が彼女の体を乗っ取ってしまったのは、私のせいではないのだと、彼から説明されて知っている。
     こうなってしまったのは、魔神の残滓によるせいで、お前に一切の責任はない。だから罪悪感も後ろめたさも感じる必要はない。真実を打ち明けられないせいで、村人を騙しているような気がするのなら、それは自分を責めすぎている合図だ。その優しさを、もっと自分を労わることに向けてやれ。
     以前、彼はそう言った。だから、彼の言う通り、自分を労ってみたこともある。他のことをして、気を紛らわせようとしたこともある。結果は、ただ、目を逸らしているだけだと感じて、余計に落ち込んだけだった。
     彼から楽になってほしいと思われていることを、うすうす感じている。そして、おそらくは、この世界で生きることを楽しんでほしいと、望まれているのだろう。他人からそんなふうに願われるのは、幸福なことだ。幸福なことだけれど、今の私には重すぎた。


    3話

    「そういえば、近々この村では祭りがあると聞いた。お前も行くのか?」
     まさか同じような内容の話を、一日に二度も聞くことになるとは。私は目を瞬いて、返答を待つ彼の顔を見返した。
    「えっと……行きません」
    「なぜだ?」
     もはや彼が家に来て、食事をして帰っていくことは、日常の光景の一つに数えられる。私は「なぜって……」と胸元に手を当てた。
    「お祭りに着ていけるような服がありませんし……。ああ、いえ、あるにはありますけど、それは私のものじゃなくて、この体の……彼女のものですから、お祭りとかそういった場に、我が物顔して着ていくのは気が咎めます」
     私は極力、彼女の物に触らないようにしていた。普段は仕方がないから、彼女の衣服や家を借りて生活しているけど、それでも元々あったものを動かしたり、物を減らしたり増やしたりはしていない。彼女の両親のものだろうなと思われるものには、手をつけてさえいない。
     矛盾だ、と自嘲する。そんなことを言い始めてしまえば、この体だって借り物にすぎない。それでもこの半年間、彼女の体で息をして、眠ったのは、まぎれもない私だ。
    「なにを今更って感じですよね……」
     いつかは、この現実を受け入れて順応するなり、なんなりと踏ん切りをつけなければいけない。でなければ私は中途半端なまま、一生を過ごすことになるだろう。分かっている。分かってはいるのだけど……。
    「お前が今感じている矛盾は、罪悪感からくるものだろう。難しいとは思うが、囚われすぎないことが肝要だ。どのような状況であれ、生きたいと思うことは罪ではないのだから。それと、そうなったのは、お前の責任ではないのだから、あまり抱え込みすぎるな。むしろ、俺の方にこそ責任がある。俺がもう少し、あの周辺に気を配っていれば……」
     口惜しさを滲ませる声に、落ち続ける思考の糸が断ち切られる。あなたのせいではない、とすぐに首を振った。
     彼の素性を詳しく知っているわけではないけど、多忙の身であることは、なんとなく察している。その証拠に、一言二言話してすぐに去っていったり、「急用を思い出した」と突然家を出ていったりする時もままある。冷静沈着な言動と強い責任感は、彼は十分にやってくれていたと確信させるに余りある。そんな彼を責める気になんて、なるはずもない。
     私に乗っ取られる前、彼女は村を流れる川に沿って、山の奥深くに向かったらしい。そこには昔、魔神が岩王帝君に討ち取られた場所があって、今もその残滓の影響が残っているそうだ。封じていたはずの残滓が、急に勢いを増したのを感じ取って、様子を見にきた彼が発見したのが私だった。
     彼女は何を思って、そんな場所に向かったのだろう?そのあたりの記憶だけが抜け落ちている私は、いつもその彼女の行動を疑問に感じていた。同時に、それ以外の記憶は問題なく思い出せるからこそ、明らかな空白は不気味でもあった。
     お互いに言葉を探し合う沈黙が落ちる。この雰囲気では、これ以上否定したところで嘘みたいに思われてしまいそうな気がして、何も言えなくなってしまう。焦る私の手のひらに、汗がじんわりと滲んだ。
    「……思えば、いつも俺が馳走になってばかりだな」
    「えっ?」
     戸惑って顔をあげると、意思を固めた琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を突き刺していた。
    「この返礼を、いつかしなければならないと前々から考えていた。だから、お前に服を贈らせてほしい」
    「……この半年間、あなたがしてくれたことを思えば、私がお礼をするのは当然のことです。だから、気を遣う必要は……」
    「なら、そうしてもらおう。俺が贈る服を着て、俺と一緒に祭りに行ってほしい。それがお前に要求する俺への“お礼”だ」
     言葉選びを間違えたと思っても、もう遅かった。そう言われてしまえば、私は要求を飲むしかない。
     分かりました、と渋々答えると、彼は満足そうに頷いて、「では、用意ができたらまた来る」と立ち上がる。そのまま外へ続く戸をあけ、一歩踏み出そうとして、立ち止まるので、私は「どうかしましたか?」と、彼へ声をかけた。
    「お前と祭りに行けるのを楽しみにしている」
     振り返り、私を見下ろした彼が微笑みを浮かべているのに、心臓が大きく跳ねる。私が今日あったことを話すのを聞いている時や、うまく料理が作れた時ほめてくれるような、慈愛に似たものではなくーーもっと彼の、個人的な喜びや期待が微笑みに含まれているような気がしてならなかった。
     ふだん、大きく揺らぐ彼の表情を見たことがなかったせいで、向けられた感情の処理がうまくできない。なんとか首を縦に振り、戸が閉まり、足音が聞こえなくなっても、私はその場に立ち尽くし、心臓が落ち着くのをじっと待っていた。

    4話

     熱が体中を駆け回っている。汗でしめった寝衣が、足にぐしゃぐしゃと巻きついているのが気持ち悪いけれど、整える気力もない。かろうじて水に濡らした布は、額の上ですっかりぬるくなっていて、顔を動かすと、べちゃりと落ちた。箪笥の上に置いてある木箱を眺めていると、彼から服を贈られた数日前のことが、ぼんやりと思い出された。


     その日の彼は、いやに上機嫌そうに私の前に現れた。両手で持った、細長い木箱に何が入っているのかは、すぐに分かった。単なる入れ物であるはずの木箱が放つ光沢と美しい木目に、冷や汗が垂れる。私にはもったいないくらい高級な服を、持ってきたのではないだろうかーー。果たしてその予感は当たることになる。
     彼から促されて、恐る恐る木箱のふたを開ける。中に入っていた薄水色の服は、間違いなく私が今まで見てきた服の中で、最も高級なものだった。
    「これは霓裳花で織られた生地だ。絹糸で蓮と金魚が刺繍してあるだろう?ほら、この辺りだ……。蓮と金魚はどちらも吉祥の意味を持ち、特に金魚は堅固活発で邪悪を退けると言われている。泥中の中で清廉に咲く蓮は、お前にぴったりだ」
     この服にどんな意味合いがこめられているのか、彼の解説は続く。けれど私の頭は、どうやってこの贈り物を固辞しようかという問題でいっぱいになっており、話に耳を傾ける余裕などなかった。
    「あ、あの、やっぱりもらえません……」
     彼の話がぴたりと止まった。俯いた頭に、彼からの視線を感じて、緊張で体が硬くなる。
     生地の滑らかさや、絹糸で施された刺繍の見事さからして、これはその辺で売っているようなものではない。大きな場所で店をかまえている所が、一部の上客にだけ、こっそりと販売しているような代物だ。これを手に入れるために、彼がどのくらいのモラを払ったのか想像もできないけど、私が時々彼に作る手料理代で収まるようなものではないだろう。絶対に。
    「俺が贈る服を着て、俺と一緒に祭りに行く。お前はこれに同意したはずだったが」
    「そうですけど、まさかこんな高そうなものを贈ってくれるとは思ってなくて……」
    「お前が気にしているのが、モラのことなのなら問題ない。服を一着こしらえたくらいで困窮するような生活はしていないし、蓄えも十分にある。なによりこれは友人に頼んで作ってもらったものだ」
    「友人に……?」
    「ああ、裁縫に長けた友人がいてな。色の選定や、合わせる糸まで、考え抜いて出来上がった作品だ。受け取ってくれなかった、と話したら友人は悲しむだろう」
    「う……」
     そんな説得の仕方はずるくないだろうか?じっとりと彼を見上げても、彼はしれっとした顔で私を見下ろしている。淡々と答えを迫る彼の圧に耐えかねて、私は今回も白旗をあげた。


     水滴が落ちる音に、ふと意識を取り戻す。いつの間にか眠っていたらしい。額に触れた冷たい感触に瞼を持ち上げると、いつもとは違う服を着ている彼が、安心したように微笑んだ。
    フードがない分、彼の表情がよく見える。山吹色に似た濃い黄色を引き締めるように、黒で複雑な文様が刺繍された服は、彼によく似合っていた。
    「起きたか。今、薬を煎じている。もう少しで出来上がるから、それまでの辛抱だ」
     ぱちぱちと燃える音。熱のせいで鈍くなった感覚でも嗅ぎ取れる薬草のような香り。力の入らない四肢。状況の把握に少し時間がかかり、ゆっくりと頷くと「いい子だ」と頭を撫でられた。
    「ごめんなさい……。お礼、できなくて……。せっかくあなたも着飾ってきてくれたのに……」
     あんなに素晴らしい服をもらったのに、お祭り当日に熱を出して、病人の世話までさせてしまったことが情けなく、申し訳なかった。彼が迎えに来る頃には、せめて起き上がった状態で、行けなくなったことを、ちゃんと謝りたかったのに。
    「疲れが出たんだろう、気にするな。今日は体をゆっくり休めろ」
     自分以外の誰かがいることに安心したのか、再び眠気が襲ってくる。彼の手をこれ以上煩わせるわけにはいかないと、なんとか目を開けていると、外から太鼓の音が聞こえてきた。
    「祭りが始まったようだな」
     どん、どん、と空気を振るわせる太鼓の音は、元の世界で聞いたものとよく似ていた。瞳を閉じて聞けば、どちらが元の世界のものなのか、判別できないだろう。
     熱で弱っていたせいもあり、あっという間に郷愁が限界点に達する。突然泣き出した私に驚いた彼が涙をぬぐい、どこか痛むのか?と尋ねるけど、答えられずに首を振る。喋れるくらいに落ち着くまで、彼は心配そうにずっと涙を拭ってくれた。
    「私の故郷でも、お祭りの時はこんな風に太鼓を鳴らしたんです。だから懐かしくて……」
     彼の指先は、私の涙で濡れていた。私を慰める指先に昔の思い出が、つい口からこぼれた。
    「小さい時、熱を出した時も、やっぱり誰かが、そばにいてくれた……」
     ここにはいない、私の家族。お母さんやお父さん。今、私のそばにいる彼の指先も、同じくらい優しく、暖かい。
    「ああ、お前のそばにいる」
     逡巡する様子もなく、彼は頷いた。証明するように頬に触れる手がくすぐったい。優しさにまた涙腺がゆるみそうになったのを、ぐっと堪えた。
     彼が「薬湯を持ってくる」と言って立ち上がったので、私も額を冷やしていた布をとって起き上がる。泣いたせいか、少し頭がスッキリしたような気がした。気だるさはまだまだ残っているけれど、この分なら明日の朝には治っていそうだった。
    「さあ、これを飲むといい。楽になるぞ」
     彼が器を手にして戻ってくる。器を受け取ると、薬草の匂いがつんと鼻についた。深緑色をした液体は見るからに苦そうで、恐る恐る口に含んでみると、「にがっ!」やっぱり苦かった。
    「飲めそうか?そうだ、りんごがあるぞ。全部飲めたら切ってやろう」
     私の背中をさすりながら、甘い物で励まそうとする様子が、またもや小さな頃の思い出と重なる。思わず「お父さんみたい……」と呟くと、彼が複雑そうに顔を歪めた。
    「お、お父さんか……」
    「す、すいません、そんな年齢じゃないですよね」
    「いや……、うん」
     失言だったと気づいて慌てて謝ったが、もう遅い。気まずい雰囲気も一緒に飲み込むように、器を持ち上げて、薬湯を一息に飲み干す。口の中いっぱいに広がった苦味は中々消えない。彼の何倍も顔を歪めて、味蕾を刺激する苦味に耐えていると、苦笑した彼がもう一度私の背中をさすった。
    「寝ていろ。りんごを持ってくるが、食べられそうか?」
    「はい」
     と言って横になると、再び頭がぼんやりし始める。太鼓の音はまだ続いていて、黙って天井を眺めていると、やがてそれが自分の鼓動のように感じられた。ほどなくして彼が戻ってきて、他にも薬をもってきたから、夜中に熱があがったり、吐き気がしたら飲むようにと諸注意を受ける。
     当たり前のように与えられる彼からの優しさと気遣いは、底がないのではないかと思わされる。以前は重く感じていたそれを享受している現状に、今の弱っている自分には必要なものだから、と言い聞かせる。どうしてそんな風に言い聞かせる必要があるのか、自分でも分からないまま。

    5話

     半年という時間は、長いとも短いとも言えず、それなり、と表現する他ない。それなりの時間、彼と私との間には交流があったにもかかわらず、彼のことをほとんど知らないと、ふと気づく。彼への無関心ゆえではなく、彼が自分を語らないことと、私に他人を気にする余裕がなかったことが、その原因だ。
     洗濯物の途中だというのに手を止めた私のそばを、黄金カニがのんびりと横切っていく。川辺にしゃがみこんで、黄金カニを目で追いながら、つらつらと名前も知らない彼について考える。
     いつも忙しそうで、色々なことに詳しくて、お金持ち。おそらく人ではない彼は、いつもどこから来て、どこに帰っているのだろう。彼はどういう種族なのだろう、毎日をどうやって過ごしているのだろう……。
     水のように溢れる疑問は、そのうち憶測に昇華され、頭の中を静かに荒らし回る。二週間前の祭りの日、彼に看病されたのを思うに、彼は医者なのかもしれない。
     ろくな日除けもない夏の日差しの下で、考え事をしていたせいか、頭頂部が焼けるように熱くなってきた。一度、思考を中断して、洗濯物を再開し、衣類の水気をしぼって、木桶に放り込む。あとは干すだけ、と顔をあげると、刷毛で塗ったような青空があった。
     途方もない広さの青空が、彼の底なしの優しさに似ているせいだろうか。頭の中の疑問に答えられる彼の存在が思い出され、
    「訊いたら教えてくれるのかな……」
     という一言がこぼれでた。私以外、誰もいない川辺だから、こんな呟きを拾い上げる人なんていないーーそう、思っていたのだけど。
    「ーー何がだ?」
    「きゃあ!!」
     不意に後ろから話しかけられたのに驚いて、足元がふらついた。バランスを取り損ねた体は、前のめりになり、視界の先で待つのは川だ。数瞬後の自分の惨状が、はっきりと脳裏に浮かんで、目をつむるけど、私を捉えたのは冷たい水ではなく、力強い腕だった。
    「大丈夫か?すまなかったな、急に話しかけて」
    「だ、大丈夫です。気にしないでください。私もちょっと考え事をしていて、不注意だったので……」
     彼はそのまま私を立ち上がらせ、木陰に連れて行った。「今日は日差しが強い。あまり日にあたっていると、倒れてしまう」そう言う彼は涼しげな顔をしていて、汗ひとつかいていないように見えた。
    「それで……何を考えていたんだ?」
     木陰に入ると、感じていた熱がぐんと下がる。それと同時に頭も冷えてきて、素直に答えるには、いささか抵抗があることを考えていたと気づき、逃げ道をさがすように言葉を濁す。
     「悩み事か?」とすかさず彼が問いかけてくる。私が悩んでいたり困っていると、彼は率先して解決に乗り出すため、慌てて首を振った。ええいままよ、と勢いに任せて素直に口を開く。
    「あなたのことを考えてました」
    「……俺のことを?」
     きょとんと目を見開いた彼は、どことなくあどけない。そんなことを言われるとは、みじんも考えていなかったと言いたげな顔に、なぜだか焦ってあれこれと言い募る。しどろもどろな私の声は、この世界にはない、わずらわしいほどの蝉の鳴き声の代わりになれただろう。
    「ーーつまり、俺のことをもっと知りたいということか?」
    「まあ、はい、そんな感じです……」
     要領の悪い説明を簡潔にまとめた彼が、顎に手をあてて軽く頷いた。
    「ふむ……。いいだろう。何が訊きたい?」
    「えっ!」
    「どうしてそう驚く?今まで俺は、お前の疑問にはなんでも答えてきたはずだが」
    「だ、だってこれまであなたは自分のことを話してくれなかったじゃないですか」
    「話さなかったのは、単に訊かれなかったからだ。それにお前も、俺の身の上話を聞く余裕はなかっただろう」
     もっともな理由を彼は滔々と語って、「で、何が訊きたいんだ?」と再度尋ねた。どこかわくわくしているような、嬉しそうな、そんな風に見えるのは気のせいだろうか。
    「……じゃあ、名前を教えてほしいです」
    「……そういえば、それは答えていなかったな」
     なんでもは間違いだったな、と彼は苦笑した。不快や困惑の感情が、見えないのにほっとする。
     まだこの世界に来て間もない頃、名前を尋ねたことがあった。その時は確か、それとなく話を逸らされ、話題は流れてしまったのだ。知られて何か不都合があるのかもしれないと、触れないようにしてきたけれど、今なら答えてくれそうだ。
    「俺の名前は……そうだな、鐘離と呼んでくれ」
    「鐘離さん」
     聞き慣れない響きの名前を確かめるように口にすると、彼はまなじりを柔らかく細めた。まるで、小鳥が囀っているのを耳にした時のように。
     妙にあたたかい居心地の悪さが、じわじわと胸元から迫ってくる。俯き、赤くなった頬が鐘離さんの視界に入っていませんように、と祈るけど多分無駄だろう。鐘離さんは何も気にしていないと分かりつつも、一方的に気まずさを感じて、落ち着かない。
    「俺には複数の名前があって、鐘離という名もその一つにすぎない。今はこれしか名乗れないことを許して欲しい」
    「……長生きだから、たくさん名前があるんですか?」
    「……知っていたのか」
    「いいえ、ただ……、鐘離さんが人間ではないんだろうなということは、なんとなく察していたので、そういう可能性もあるかもしれないな、と」
     黒い腕をちらりと見やる。それは彼が人ではないことを示す、一番の証拠だった。
     彼の見た目の年齢にそぐわない落ち着きをはらった言動も、長生きして得た経験や、培われた精神からきたものだったと考えると腑に落ちる。お父さんみたいと口を滑らせた時、妙な反応をしていたのも、彼が長生きだったからなのかもしれない……。
     名前をたくさん持つほど生きるとは、一体どんな気持ちになるのだろう。途中でむなしくなったり、おかしくなったりしないのだろうか。それとも、それらの感情は長命ゆえに生じる、一種の洗礼じみた、乗り越えなければならないものなのだろうか。黙り込み、悶々と考え込む私の頬を、汗が伝う。
    「怖いか?」
     璃月の夏は湿気がなくて過ごしやすいけど、からっとした日差しは容赦無く気温を上げ、体の水分を奪っていく。それは木陰が体の熱を冷ますよりずっと早かった。
     頭がぼーっとしているせいだろうか。うまく思考できないし、鐘離さんの声からは覇気が感じられないような気がした。
    「腕……」
    「腕?」
    「黒いから、日差しを集めて熱くなったりしないのかな、とかは思います」
     鐘離さんはまじまじと自分の腕を見た。手のひらを表にしたり、裏返したり。そうして彼は私に手を差し出す。「触ってみるか?」
    「……」
     握手をするように、鐘離さんの手を握る。
     ーー私を助けてくれた手だ。私をいつも気遣ってくれる手だ。私を見守っていてくれる手だ。そうしてやっぱり、汗ひとつかいてない、硬くて、骨張っている、大きな手だ。
    「ふふ……、あたたかい……」
     鐘離さんが壊れやすいものでも触るみたいに、私の手を握るものだから、くすぐったくて、つい笑ってしまう。彼と私の体温が繋いだところから共有されて、熱はどんどんあがっていく。なんだか視界もぼやけてきたし、鐘離さんが焦ったように何かを言ったのが聞こえた気がした。
     抱き止められた部分から、また彼の熱を感じる。やっぱり彼はあたたかい。何も考えずに目を閉じるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

    6話 モラクス視点

     雲が、帷のように月にかかる夜だった。その夜のことを、モラクスはよく覚えている。
     空気は冷たく、山は静かだった。常人であれば、恐怖で立ちすくんでしまいそうな暗闇の中を、モラクスは平然と歩いていく。璃月を脅かすものどもを打ち払い、自身の洞天へ帰る道中で、それは起こった。
     二百年前にモラクスが魔神を討ち取り、封印を施した地。その地に残る魔神の残滓の気配が、封印を破らんとするほどに濃くなったのを、感じ取ったのだ。先ほど戦闘を終えたばかりの身であったが、疲労は少しも感じていない。たとえ、感じていたとしても、モラクスは璃月を守る契約を交わした神だ。璃月を脅かすものを放っておくはずがない。
     モラクスは槍を取り出し、封印がある場所に向かって駆けた。彼の後に残された風が、葉を舞上げ、月に届かずに地に落ちる。
     モラクスがその場所に着いた時には、気配は封印を破ろうとした時以上には強くなっておらず、停滞していた。誰かがモラクスより先にこの地に立ち入ったのか、足跡が残っており、それは逃げるように横に伸びていた。常人の視覚ではとらえられない残滓も、それと共に細く長く続いている。
     ひとまず封印を施し直したモラクスは足跡を追った。この山にはふもとの村へ続く川が流れており、足跡はそこに向かっていた。気配を殺して追っていくと、女の声が聞こえてくる。「どうして」「なんで」「私じゃない」
     木々に身を隠して声の方を見やる。帷から露わになった月明かりが、声の持ち主を照らし出す。黒髪の女がいた。モラクスに背を向けて、ゆらめく川面に足首まで浸かった女は、衣服からして村に住む人間のように見えた。
     けれど、モラクスの目は魂までも見透かす力を持っている。だからはっきりと分かった。あの体に在るのは異世界の魂だと。体にまとわりついている残滓は、魂がそれによって引き寄せられた証だった。
     川面に映る自分の顔を、月明かりでますますはっきりと確認したせいだろう。女の呼吸が荒くなり、腰まで川につかりかけたところで、モラクスは女を制止した。槍をしまい、腕をつかんで、川岸まで引き上げる。女の涙に濡れた瞳が、モラクスを呆然と見上げていた。
    「だれ……」
     それはモラクスに向けられたものか、女自身に向けられたものか。モラクスは上着を脱いで、やけに薄着をしている女に着せた。女の体は冷え切っており、すぐに暖めなければ凍え死ぬことは明らかだった。
     大した抵抗もしないでーーできないと言う方が正確だろうーー女はモラクスに抱き上げられた。村に向かう最中、女はずっと泣いていた。そのたびにモラクスは背中をさすったが、嗚咽はひどくなるばかりだった。
     村に着くと、幸いなことに女の家はすぐに見つかった。女の家を訪ねた村人が、女がいないことに気づき、探そうとしているところに出くわしたのだ。
     モラクスの腕の中で震えるばかりの女を心配する村人を宥め、家を教えてもらったモラクスは、女を暖めるために厚手の服を着せ、布団に寝かせた。
    ようやく女が反応を示したのは、モラクスが温かな飲み物を差し出した時だった。
    「ここは、どこなんですか……」
     女は飲み物を一瞥して、無気力そうに問いかけた。女の体はいまだに震えていたが、それは寒さだけが原因ではなかった。見知らぬ世界に存在しているという現実に、ぎりぎりで耐えているからだった。
    「大陸名はテイワット。ここは、その肉体の持ち主が住んでいた村だ」
     女を支えている柱が折れてしまわないように、モラクスは慎重に答えた。その、と人差し指で女を指すと、女の呼吸がまた荒くなる。
    「私……、私に何が起きてるんですか?私はただ、寝て起きただけなのに……」
    「その肉体の持ち主が、魔神の残滓が封印されている場所に立入った。そして、その残滓によってお前の魂が引き寄せられたんだ」
    「魔神……?残滓……?わ、私……そんなの……」
     女が顔を覆う。
    「“私”は知らない……!」
     肉体の元の持ち主の記憶が、女の記憶と混ざり合う。モラクスの口から聞かされた単語は、女にとって馴染みのないものであるにもかかわらず、記憶が勝手に理解を助けてくれる。知らない間に、記憶を植え付けられていたような不気味さに吐き気を覚えて、女は背中を丸めた。
     家屋に閉じ込められた、か細い悲鳴を聞いたのはモラクスだけだった。気休めにもならないだろうがと背中をさすり、哀れだと目を細める。固く目を瞑る女の姿はまるで、これは悪い夢だと自分自身に言い聞かせているようだった。
     疲労が蓄積していたのだろう。やがて女は気絶するように眠りに落ちた。モラクスは女の枕元に座したまま、残滓を探る。残滓は時間の経過と共に、ほとんど感じ取れないほど薄まっていたが、まだ女の体にまとわりついていた。
     モラクスは目を閉じて考える。女のこれからと、女がもたらすかもしれない可能性について。
     戦闘能力は無く、一般的な人間に思えるが、璃月とそこに住まう民を害する可能性を、消し切れたわけではない。この世界の法則によらない力を秘めている可能性もある。残滓の方も、まだまだ観察する必要がある。となれば女をこの家に住まわせ、様子を見るのが最善だろう。ーーそして、もしも、女が璃月を脅かすようなことがあれば、槍を振るわねばならない。
     考えをまとめ終えたモラクスは静かに目を開けて、女の濡れたまつ毛をじっと見下ろした。女は哀れな被害者だが、モラクスは璃月を守る神だった。

    7話 

     女が受けた衝撃は深く、現状を理解させるには数日を要した。その間に残滓は消え失せたが、二つの記憶や現状に、女は困惑し消耗しているようだった。
     モラクスは、精神的に回復するまで外に出ないように言いつけて、たびたび様子を見にいった。女を心配する村人には、風邪にかかったと説明して、近づけさせないようにしたのはモラクスだ。今の女の精神状態では、村人と会話をすることなど出来ないだろうと判断したのだ。女も自ら外に出ようと思わなかったので、モラクスの言うことに大人しく従った。
     当初は女を警戒していたモラクスだったが、その必要はないと警戒を解いたのは、すぐのことだった。話をしているうちに、女が本当になんの力も持ち合わせていないと判明したことも、理由のひとつだったが、もっと決定的な出来事があった。
     外に出ないよう言いつけてから数日後、家を訪ねたモラクスは、女が焜炉の前でじっと佇んでいるのを見た。火付け石を握った女は、どこか戸惑っているようだった。
     どうかしたのか?とモラクスが問いかけると、女は少し迷ってからおずおずと口を開いた。
    「その……なにか作ろうと思ったんですけど、怖くて……」
    「怖い?何がだ?」
    「火をつけるのが怖くて……。これの使い方は分かるんですけど、私は、使ったことがないから……」
    「……貸してみろ」
     モラクスはそう言って、女から火付け石を受け取った。言葉でも説明してやりながら、かすかに残っていた警戒を解く。火付け石で火をつけることすら怖がるような人間が、璃月を害するような真似を行うはずがない、と。
     金魚草とハスの実、豆腐を使って、手早く真珠翡翠白湯を作る。真珠翡翠白湯を器に取り分けながら、少しずつ回復の兆しが見えてきたなとモラクスは思った。女が自発的に何かをしようとしたのは、これが初めてだった。
     おずおずと食べ進めていた女の手が、ふと止まる。モラクスが見やると、女は器に視線を落としたまま、弱々しい声で尋ねた。
    「あの……、やっぱり、元の世界に帰る方法は、ないんですよね……?」
    「前にも言った通り、昔からこの世界には異世界の人間が訪れることもある。そのままこの世界にとどまったものもいるし、また別の世界に旅立ったものもいる」
    「じゃあーー」
    「だが、お前のように魂だけでやってきたものを、俺は知らない。それに、おそらく……」
     モラクスは言い淀み、女を探るように見つめた。今から言うことが、彼女が抱いている、わずかな希望を叩き潰すことになると分かっていたから。
     絶望するかもしれない。泣き喚き、怒り、果てには狂ってしまうかもしれない。しかし、遅かれ早かれ、知ることは避けられず、かといって偽りを告げることは、責任の取れない幻を見せることと同じだった。その幻が霧のように失われた時の絶望は、今受け取る絶望よりも深く、取り返しのつかないものになるだろう。
    「お前の体は死んでいるだろう。魂が離れた肉体は、生命活動を維持できなくなる。たとえ帰る方法が見つかったとしても、魂をいれる容れ物がないのでは、魂の方も消滅を免れない」
     モラクスは女の反応をじっと待った。希望を叩き潰したのは己なのだから、女がどんなに怒り、喚こうとも受けとめるつもりだった。
     しかし女は俯き、長い間黙り込んだだけだった。
    「どうして私だったの……」
     絶望は怒りの炎を宿すことなく、ただ失意の底に女を突き落とした。
    「物事の因果関係をはっきりさせることは簡単ではない。特に当時の詳細が分かっていないなら、なおさらだ。何か覚えていることはないか?例えば、その肉体の持ち主が、なぜあんな場所にいたのか、とか」
    「……すみません、あの日のことはよく思い出せなくて……」
    「ふむ……。おそらく肉体に乗り移った衝撃で、直近の記憶が失われたのだろう。なら、それよりも前の日はどうだ?」
    「……私には、彼女は村でうまくやっていたように思えます。戦禍で故郷を失っても、両親を病で亡くしても、たくましく生きていたような、そんな女性です。わざわざあんな場所に行く理由なんて……」
     まるで思い当たらない、という風に女は首を振った。
    「たまたま迷いこんだという可能性はないんですか?」
    「あの場所については、この村に住む全ての人間が知っている。立ち入らないように、周辺の木々に印をつけているほどだから、その可能性は低いだろう」
     モラクスは目を細め、当時の様子を詳しく思い描いた。そしてあの時の彼女が外套すら羽織っていなかったことを思い出す。家に厚手の服があったことから、着るものがなかったわけでないだろう。となれば彼女は急いでいたか、衝動的にあの場所に向かったのか。
     一人、夜も深い山中に向かう理由など、そう多くはない。戦禍で故郷を失い、両親を亡くしているという背景を知れば、理由は絞れそうだが、うまくやっていたように思えるという女の発言が気にかかる。
     加えて、二百年前に討ち取った魔神は、生存本能がひときわ強かった。いや、生存するということに異様に執着していた。だからこそ残滓が長く残り、その影響を広げない為に封印を施した。
     強烈な思念は、時に共鳴し、思いも寄らない結果を生み出すこともある。しかしーー確信をもてない今、それを口にすることは出来なかった。
    「ひとまず今日はここまでにしよう。お前ももう休め。色々思い出して、疲れただろう」
     大人しく首を縦に振る女の姿は、いかにも無気力だった。女の身に起きたことを思えば当然だが、ずっと家にいることも原因のひとつだろう。近々、どこかに連れていってみるか、とモラクスは思案をめぐらせた。

    8話

     棚田状に広がる池が、牡丹のように広がっているのを見て、女は目を見開いた。
     池は日差しの角度によって青や緑に色を変える。飛んできた鶴が池のほとりで羽を休め、ハスの花の上で、まどろんでいたカエルが羽音に飛び上がり、水をかき分けて茂みに身を隠す。後ろにそびえる剛健な岩山は、さながら桃源郷を守る門番のようだ。
     外に出るのを渋っていた女の横顔が、感嘆と驚きに満ちていく。モラクスはつい誇らしくなり、漉華の池について語っていたのだが、女の顔にある驚きが、美しい景色を見たことへの、単なる驚きではないことに気づいて、問いかけた。
    「よく似た景色が、元の世界にもあったんです。外国だったから行ったこともないし、テレビや雑誌で紹介されているのを、見たことがあるだけなんですけど……」
     テレビや雑誌といった、聞き慣れない単語を尋ね返したりせずに、モラクスは女の話に、じっと耳を傾けた。元の世界を思い出させてしまったことで、女が不安定になりはしないかと、一抹の不安を抱えながら。
    「懐かしさとは違うし、似た景色なだけで、同じものではないんでしょうけど……、不思議と落ち着いて……」
     冬の風が、似つかわしくない柔らかさで女の髪をすくいとる。ほんのりと赤くなった頬は、雪のように白い肌に咲く花のようだった。
    「ずっと、これからどうしようって、そればかり考えていました。でも久しぶりに穏やかな気持ちになれました。璃月はきっと……良いところなんでしょうね」
     これまで暗い色ばかりが差していた女の顔に、あたたかな色がさす。漉華の池に連れて来たのは、単なる偶然だったのだが、女が穏やかさを取り戻したのは、モラクスにとって喜ばしいことだった。
    「ああ、璃月は多くの先人たちの開拓精神によって発展してきた。この景色もその一つだ。きっと、これからも長い時間をかけて、さらに発展していくことだろう。彼らの逞しさに期待を寄せずにはいられないし、誇りに思う」
     女は深呼吸をして、山深くから吹いてきた風を吸い込み、空を反射する水面を見渡して、土に混ざる石をぐっと踏みしめる。そうしてモラクスを見上げた女の瞳には、岩山を切り開き、田畑を耕してきた、先人たちと同じ、逞しさと生き抜こうとする意志の光があった。それは、モラクスが一等好ましく思うものだった。
    「あの……名前を聞いてもいいですか?こんなにお世話になっているのに、まだ聞いていませんでしたよね?」
    「……ああ、そうだな。ふむ……」
     女の瞳に魅入られていたモラクスは数瞬、反応が遅れた。らしくもない反応に自分でも内心戸惑いながら、さて、どうしようかと目を細めた。名乗っていなかったのには、それなりの理由があったからだ。
     名前を告げれば、モラクスが魔神であることは芋づる式に分かってしまう。女の境遇を思えば、女にとって魔神は良い印象のものではないだろう。
     そして、女の心が少し安らぎを得た今、正直に告げてまた精神に波紋を広げるのは、モラクスの本意ではなかった。
     鐘離と名乗ろうかという考えが、ちらっと頭をよぎらないでもなかったが、今の自分は魔神『モラクス』である。多くの人が彼をそう呼び、モラクスもまたそれを自認している。名乗らないことが正しいように思えた。
     「にしても……」と口火を切ると、女はきょとんとした顔でモラクスを見上げた。漉華の池までの道中、歩くことさえ苦戦していた様子から、相当平和な世界から来たらしいとしていた予想が、確信にかわる。
    「俺が言えたことではないが、名前も知らない相手には、もっと警戒心を持つべきだ。この世は善人ばかりではない。優しさや無知につけこんで、暴利を貪るものもいる」
    「それは……確かにそうですけど、あなたは違ったし……」
    「……」
    「いえ、そうですね。今度から気をつけます……」
     モラクスが黙って見やると、女は肩を縮こまらせてそう言った。女に自身の内面を見つめさせることで、話を逸らすことに成功したモラクスは、何食わぬ顔で「そろそろ戻るか。気分転換にもなったようだしな」と帰りを促した。
    「雪雲がでてきている。長く外にいたら、お前がまた風邪を引いてしまいそうだ」
     実際は、女は風邪などではなく、ただ外に出る気力がなかっただけなのだが。分かっていながら、冗談めかしてそう言ったモラクスに、女はこの世界に来て初めて微笑んだ。
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