少年は知る「うーん…」
洗面所の鏡に映る自分は、随分と難しい顔をしている。
別に、今日の髪のセットがいまいちだったという訳ではない。それどころか、ここ最近では一番上手くいったのではないかと思うぐらいだ。
一部の乱れもなくきっちりと撫で付け、整髪料で固めたリーゼントと、長い前髪を使ってボリュームを持たせたポンパドール。日によってはいまいち上手くできない時もあるのだから―それでも他者からすれば、どこがどう違うのか見当がつかないものなのだが―、それを踏まえると本当に今日は仗助にとってパーフェクトに近いほどのセットだった。
本当なら、それに気を良くしてもいいはずである。だというのに依然彼が難しい顔をしているのは、仗助の首筋に残った傷にあった。
「…薄くなってる」
呟いたと同時に、その声の暗さに自分でも驚いた。まるでひどく落胆しているように思えるのだ。
仗助の視線の先は、鏡に映っている自身の首だ。より正確に言えば、首の上部についている傷跡だった。先日承太郎と共に『狩り』を行った時、スタンド使いの鼠が飛ばした毒針を除去するため、承太郎が行った応急処置の名残りでもある。
仗助としては、承太郎に間抜けな姿を見せてしまった苦い記憶でしかなかったはずなのだが、こうして日に日に薄れていく傷跡を見ていると、ほんのちょっぴり寂しい気持ちになってしまう。
今では、瘡蓋も取れて皮膚の僅かな凸凹も目立たなくなっている。トニオが善意で、自然治癒力を上げてくれる焼き菓子を作ってくれたのもあり、思ったよりも早く傷は塞がった。あと少しでもすれば、僅かに残った跡も綺麗さっぱりなくなる事だろう。
だと言うのに、どうして今、自分はそれを寂しいと思っているのだろうか。
(別に怪我するなんて、今に始まった事じゃあねえのに)
むしろあの時よりも大きな怪我なら何度も負っている。高校に入学してからというもの、流血沙汰は最早日常茶飯事だ。更に言えば『狩り』の時は囮を買って出た承太郎の方が最後は酷い有様だったと思う。半身部分の衣服と肉がぐしゃぐしゃに混ざり合い、非常にグロテスクな様相を呈していた。
「…なあに考えてんだかなァ、おれ…」
そう言いながら傷跡をなぞるが、触れたところで痛みもなにも伝わってはこない。けれど確かに、「寂しい」という想いは胸の奥から浮かび上がっていた。
―何だろう。『寂しい』とは、何がだろうか。
別に、あれ以来承太郎と会っていないという訳でもない。それに彼はまだしばらくこの町に滞在する予定だ。そりゃあいつか―そう遠くない未来にアメリカへ帰る事は分かってはいるが、この消えかけた傷を指して寂しいとは、己が感情ながら意味が分からない。
「承太郎さんと一緒に戦った記憶がなくなりそうだから、とか…?」
自分で口にして、すぐ馬鹿らしいと切り捨てた。
たかが傷ひとつが消えたところで、承太郎と共にあの『狩り』を征した事実がなくなる訳ではないし、忘れる訳でもない。それは確実に断言できる。
ならばどうしてそんな事をと考えを巡らせると、不意に鼠を仕留めたすぐ後の事を思い出した。
どろどろに融解していた承太郎をすぐさま直し、身体のどこにも異常がない事を確認して胸を撫で下ろしていた時だ。太く無骨で、長い指先が承太郎の首筋へ伸びたのだ。
真新しかった首の傷に、その指がひたりと絆創膏越しに触れて―それから小さく笑いながら彼は言った。
『少し荒っぽくなっちまったな』
その瞬間が、その時の表情が、声が、触れてきた指先が。今でも鮮明に思い出せる。
その事と寂しいと思う気持ちは、ひょっとして何か関係があるものなのだろうか。
「……はあ~~~ッ…」
ひとりで考えても結論が出ないものの先は、いつも溜め息で終わってしまう。母親が起きる前の早朝の時間帯でよかった。もしこの場を彼女に見られていたら、「朝から辛気臭い顔してんじゃあないわよ!」と無遠慮にどやされていた事だろう。
もっとも、母のそんな遠慮のなさに助けられているところもあるため、別に文句を言うつもりはないのだが。
「承太郎さんに聞いてみよっかなあ」
傷を撫でながら、自然とそんな言葉が零れ落ちていた。同時に何故その結論に今まで至らなかったんだろうと、霧が晴れたような気分になる。
「…そっか。最初からそうすりゃあよかったんじゃあねえか」
自分一人でうだうだと悩むより、関係者でもある承太郎に相談してしまった方が早く解決するかもしれない。
彼には呆れられるかもしれないが、それでもこの正体不明な感情の行方を掴む糸口を見つけられる可能性はある。少なくとも、こうしてしょっちゅう洗面台の鏡でしかめっ面をしているよりはだ。
そう考えると、ずっと沈み気味だった気持ちが浮かび上がってきた。完璧にセットできた髪型への満足感も、これで素直に受け取る事ができる。
「よっし‼」
ぱんっ、と気合を入れるように両頬を叩いて、仗助は改めて鏡と向き合った。難しい顔をしていた自分の姿はそこにはもうない。
そこにいるのは、『あの人』と同じ世界一かっこいいと思うヘアスタイルをばっちりと決めた、普段通りの自分だった。
「ってなったら、善は急げってやつだよなァ~ッ!学校終わったらすぐに承太郎さんとこに行くか…!」
幸い、承太郎の仕事は今は立て込んでいる時期ではないと聞いている。アポなしで押しかけてしまったとしても、門前払いされるという事はないだろう。こういうのは思い立ったらすぐに行動するに越したことはない。
仗助にとっては悩み相談のようなものだから緊張はするが、悪い事にはならないだろうという不思議な確信もあった。
「っつうかおれ…なんでさっき顔赤くなってたんだろうな…」
そうして鼻歌交じりに洗面所を後にした仗助だが、その日の夕方、承太郎によって己の中にあった感情を引きずり出され、色々と大変な目に遭ってしまう事をまだ知る由もない。
End.