バイマイダーリン 『思い出した』のは、中学に上がる頃だった。
世間一般では不義の子とされる自分や、自分を産んで育てた母を親戚として迎え入れてくれた本家の娘にあたる女性に、ある時子供が生まれたのだ。
母には内緒でその子の顔を見に行って、名前を耳にした瞬間、知らない記憶が雪崩のように仗助の意識へ流れ込んできた。
顔が真っ青になりその場で倒れてしまいそうになるのをどうにか堪え、心配そうにこちらを気遣うホリィにひたすら「何でもない」と言い張り、ふらふらとした足取りで帰宅したのを覚えている。
それから丸一日部屋に閉じこもってようやく気持ちが落ち着いた頃、仗助の胸に浮かんでいたのは歓喜と絶望の感情だった。
以前の記憶というものは全てを思い出した訳ではなく、かつての自分がどんな風に最期を迎えたのかも分からないが、それでも分かった事がいくつかある。
自分がかつて、「『空条承太郎』という男に恋をしていた」事、「承太郎もまた、自分の気持ちを受け入れてくれていた」事、「先程目にした赤ん坊が『承太郎』である可能性が非常に高い」事、そして「『承太郎』に恋をしていた記憶だけでなく、感情までも思い出してしまった」事。それらを直感的に確信してしまった。
そんなもの考えすぎだ、気のせいだと何度己に言い聞かせようとしても、本能が違うのだと否定する。けれど少なくとも、思い出したと同時に胸に抱いたこの恋慕の情は、絶対に承太郎に知られてはいけないと思ったのは確かだった。
あまりにも不毛でどうしようもないこの気持ちを、『今』は自分よりもずっと年若い承太郎に悟られるわけにはいかない。承太郎を、またこんな気持ちに巻き込む事なんてしたくない。これを抱え続けるのは自分一人で十分だ。
散々泣いて泣いて泣き明かした後にそう決めて、それからは良き兄のような存在として承太郎に接していった。
かつて心から恋した相手だというのを差し引いても、純粋にこちらを慕ってくれる承太郎を仗助は大事に思っていたし、このまま普通の少年として成長し、大人になっていってほしいと願うばかりだった。
そう、願っていたのに。
「おれの、およめさんになってくださいっ」
まだ小学校にも上がっていない承太郎が、幼いながらも真剣な表情で告げた言葉に、頭の中が真っ白になった。
また繰り返してしまうのかと、身体の底からスッと血の気が引いていくような感覚がして、あの時取り乱さなかった自分を褒めてやりたいぐらいだ。
承太郎は当然、『前』の事は覚えていない。この告白だって、親愛の延長線上にあるものかもしれない。そう必死に自分自身に言い聞かせても、耳元で警告音のように鳴り響く鼓動が、しばらく意識にこびりついて離れなかった。
小さな頭を撫でて「大人になったらな」と当たり障りのない返答をした時、ちゃんと笑えていたかどうか今でもあまり自信がない。そして、承太郎が幼いなりに仗助の言葉に対し納得がいっていない事も分かっていた。
高校卒業後に一度は疎遠になり、警察官となってしばらく本署での勤務に勤めていた間、仗助は承太郎があの時の気持ちを忘れてくれている事を願うばかりだった。
大丈夫だ。昔の記憶を承太郎は持っていない。あんな子供の頃の告白、もしかしたら忘れているか、小さい頃の思い出として笑い話になっているかもしれない。そんな都合のいい可能性を必死に考えなければ、不安に潰されてしまいそうだった。
そして現在、生まれ育った町での交番勤務の任に仗助が就いてからずっと、承太郎は飽きる事なく交番に通い詰めている。
「仗助、今度こそちゃんとした返事聞かせてもらうぜ」
記憶にある承太郎よりもまだ随分雰囲気は若いけれど、顔つきも体格も声も、何もかもが仗助の知っている彼に近い。
その上昔の告白を本気だったと言ってきて、その続きだとばかりに諦める事なくアプローチを続けてくるのだ。自分の認識がいかに甘いものだったのか思い知らされたし、承太郎から熱のこもった視線を贈られる度、どんな感情でいればいいのか分からなかった。
「返事って…お前の四歳の頃の告白がまだ有効だったなんてありかよそんなの…」
「大人になったらって言ったのはてめえだぜ。おれはあと少しで十八だ。成人になりゃあ結婚だってできる」
「いやいやいや、それ以前に男同士じゃあ結婚できねえからな⁉」
未成年からの求愛を断ろうとする大人を、自分はきちんと演じ切れているのだろうか。昔よりはそういった取り繕いの類は上手くなったと思いたいが、仮に完璧だったとしても、それで承太郎が簡単に諦める性分ではないと分かっている。
分かっているけれど、それでも諦めて欲しい。そうしてくれれば、自分だってこの気持ちに完全に蹴りをつける事ができる。今の承太郎と以前の承太郎を同一視しそうになって、自分で自分が嫌になるような事だってなくなるし、何よりもう、承太郎を巻き込みたくなんてない。
本当の事を言ったところで信じてもらえるとは思っていないが、何も知らない承太郎からの言葉を耳にするたびに、そんな気持ちを洗いざらい吐き出してしまいたい衝動に何度駆られたか分からなかった。
それに自分の個人的な感情を抜きにしても、承太郎にはもっと相応しい相手がいるはずである。
それこそ、『以前』は彼に帰る場所があったように。承太郎に対して好意を向けている相手など大勢いるはずなのだ。前世の記憶と想いに半ば引きずられている自分よりも、普通の相手と一緒になって、幸せに生きて欲しい。
想いを押し殺す痛みよりも、かつて愛した人が今度こそちゃんとした幸せを選べた事への安堵感の方が、きっと仗助の心を満たす事だろう。
それでも承太郎は、「お前がいい」のだと何度も訴えるのだ。
「おれみてえな三十路の男なんかより、同年代の可愛い彼女作った方が楽しいと思うぜ」
「何度も言わせんな。おれはてめえ以外と付き合う気はねえ」
承太郎の仗助に対する気持ちが正真正銘の恋愛感情なのか、それとも覚えていないはずの前世の記憶に引っ張られているせいなのかは定かではない。そういう意味で言えば、仗助だって同じようなものだからだ。
「…ほんとに、おれを困らせんなよ。承太郎…」
本当に何もかも忘れてしまっていた方がずっと良かった。そうすれば、こんな思いをする事だってなかったかもしれない。
―性別や血縁や年齢差や、そういったしがらみが自分達の間にはあるのだと。承太郎はそれに気付いていない程馬鹿ではないはずだ。それでもそんなものは関係ないとばかりに仗助に変わらぬ気持ちをぶつけてくるのは、苦しくもあり眩しくもあり―それから、認める訳にはいかなくとも『嬉しい』と思ってしまうのも事実だった。
そうだ。嬉しいんだ。
嫌ではない。嫌なんかじゃあない。だから困っている。
仗助の言葉を受けて、鋭いけれどどこか涼しさもある目が、じっとこちらを見つめて来る。青みがかった緑色の目で見据えられると、こちらがひた隠しにしている本心すらいとも簡単に引きずり出してきそうで、仗助はそれが恐ろしかった。
「『困る』けど、『嫌』じゃあねえって事だよな」
「なんでそうなるんだよ…お前その自信どこから来るんだ?」
承太郎が絶対に諦めないのも、仗助のそんな感情に気付いているからだ。
真っ向から拒絶の意を示していれば、さすがに承太郎は諦めたかもしれない。けれど咄嗟にそれができなかった。その時点で仗助にとって、逃げ場のない選択肢を取ってしまっていた。それを知ってしまったところでとうに遅く、こうして悪あがきのような抵抗を続けている。
その抵抗が長引けば長引くほど苦しいだけなのだという事ぐらい、仗助自身が一番よく分かっているはずなのにだ。
「とにかく!これ以上おれに絡むなよォ、休みの日とかならいくらでも付き合ってやるからさァ」
「おれは毎日でも会いてえ」
恥ずかしげもなくそんな事を言ってのける承太郎が、いっそ腹立たしいぐらいだった。
「あ~、ほんっと分かんねえ…昔はあんなに可愛かったのに…」
思わず本音半分の独り言を零すと、承太郎はふんと鼻を鳴らして依然仗助へと視線を送る。飽きる事なく注がれ続けるそれについに耐え切れず、半ば自棄のように承太郎へと声をかけた。
「聞いてんのか、承太郎?」
「ああ。聞いてる」
「ならいいけどよォ~ッ。分かったんならこれ以上おれを揶揄うような真似は―」
自分の気持ちを誤魔化すようにわざと素っ気ない口調で返事を言い切るより先に、ドンッと派手な音を立てて太い腕が年季の入った机を叩いた。
「仗助」
承太郎が片腕をついたのかと状況を把握したのは、彼が至極静かな声で仗助の名を呼んだのと同時だった。しまった、逃げ道を塞がれたと思うも、お構いなしに顔を寄せる甥へ咄嗟の言葉すら出てこない。
「…っ」
彫りの深い、十代にしては随分と大人びたそれにあの日の承太郎が重なって、息が止まってしまいそうだと思う。
そんな仗助の心境をおそらく知らぬまま、承太郎は耳元へ唇を寄せて囁いた。
「てめーがその気なら、おれが大人になるまでに絶対落としてやるぜ。それまで腹括っておくんだな」
宣戦布告のように告げられた言葉に、瞬時に顔が赤くなった。顔だけでなく、耳も額も首も熱い。何事もなかったかのようにすっと離れて行った承太郎が、満足そうに目を細めている様が腹立たしかった。
(―駄目だ)
真っ赤な顔のまま、仗助は確信する。
いい加減認めるしかない。前世だとかそういうのはどうだってよくて、この世界の承太郎にも、自分は間違いなく惹かれてしまっているのだと認めるしかない。
触れて、触れられて、それから心から欲しがられたが最後、仗助は完全に落ちてしまうだろう。どれだけ仗助が拒んでも、抗っても、きっと逃れようがないものなのだ。
呪いみたいに運命的で、絶望的なほどに約束された繋がりに、仗助はどう向き合えばいいのかまだ分からない。けれど、そう遠くない未来に向き合わざるを得ないのだという事だけは馬鹿でも分かる。
逃げられないし、逃がそうとしない。
仗助が仗助として生まれ、承太郎が承太郎として生きている限り、きっと離れる事ができないのかもしれない。
どんなに見ない振りをしても、抵抗しても、結局はどうせ―。
「お、大人をからかうな!馬鹿ッ‼」
どうせまた、この人を愛してしまうんだ。
絶望にも似た気持ちに満たされながら、それでも確かに、仗助は己の中に湧きあがる幸福感を覚えていた。