臨界点到達間近 快晴のカンカン照りから来る暑さと、修行とは言え熱が入った闘いの余韻で、身体は湯気が出るのではと思う程に熱かった。
今日の修行場所として選んだ岩場から程近く、真夏でも冷たい水が絶えず流れている滝を前に、悟空は躊躇いもなく高所から滝壺へと飛び込んだ。
全身を包み込む水の感触に、身体に籠った熱と疲労が一気に霧散していくようで心地がいい。ふと見上げると、ゆらゆらと揺れる水面に陽射しが差し込んでいて、その向こうに『彼』がいると何となく気付いていた。
「…はーっ!きっもちー!」
ざぶんと顔だけを水面に出すと同時に叫ぶようにそう言うと、心底呆れたような表情を浮かべてこちらを見下ろしていたベジータと目が合う。
「いい歳してガキみてえにはしゃぐな」
「いいじゃん別に。おめえもこっち来いよ」
ざぶざぶと浅瀬へ上がり、ずぶ濡れになった道着を脱ぎながらそう言うと、ベジータは諦めたように溜め息をついた。やがてグローブとブーツをごつごつとした岸に置いて、そのまま無言で水の中へ入っていく。
「全く、洒落にならん暑さだな…」
ぶつぶつと呟きながら、グローブ越しではない剥き出しの手が水を掬い取り、そのままばしゃんと目を閉じたベジータの顔へとかけられた。
腰までの深さまで浸かったベジータは、悟空程ではないにしろここの水の冷たさが気に入ったらしく、疲れを解すように深く息を吐いている。
いつも張り詰めた雰囲気を纏うベジータが休息によって少しだけ緩む瞬間を見る事は、実は悟空の密かな楽しみだったりする。当然本人に知られれば何を言われるか分かったものではないので黙っているつもりだ。怒るか呆れるか引かれるか、あるいはその全部かもしれない。
それに、何より―。
無防備に背中をこちらへ向けてくるたびに、心臓をぎゅっと素手で掴まれたような感覚に陥る。悟空はそれが決して嫌ではなかった。
そうでなくたって、こんな時のベジータはいつも「たまらない」のだ。
自分より幾分か色の薄い肌は、修行の余韻によって上気し、いっそう目を引くものとなっている。
男としては小柄な体躯を覆う、しなやかで無駄のない筋肉だとか。鍛えている故に筋肉質な体格ではあるが、だからこそ目立つ細めのウエストだとか。
それから、ぎゅっと引き締まっているけれど、実際触ってみるとけっこう肉付きがよく触り心地が気に入っている尻だとか。蹴りを叩き込まれるとなかなかいいのを貰ってしまうが、ぱつんと張った太股も捨てがたいものだ。
(…うん。ベジータに知られたら絶対殴られるな)
鬼のような形相で怒るか、あるいはゴミを見るような目で睨まれるかのどちらかが容易に想像できる。けれどそんな不埒な事を考えてしまうぐらい、修行の後のベジータに引きつけられて仕方がないのだ。
今一度ちらりとベジータへ視線を寄越すと、剥き出しの項が目に入った。
シミひとつない、張りのある健康的な肌の色だ。けれど悟空と比べると少し色素が薄い。普段は外で修行をするか、畑仕事をしている悟空に対し、ベジータが一人でトレーニングをする時は専らCCの重力室だから、それが関係しているのだろうか。
とにかく、真っ黒な髪とのコントラストが、余計に白さを目立たせている気がした。
(ほんっと、無防備な奴…)
修行終わりに事に及んだ事だってもう何回もある。だと言うのに、懲りずと言うかなんと言うか、警戒心など何もなくこうして悟空に背中を見せて来るのだ。
それは言い換えれば、ベジータなりに悟空に気を許しているという証拠でもあるし、その事にちょっとした優越感を抱いたりもしている。
だが、それはそれとして何だか心配になってしまう。―余計なお世話だと、そんな事は分かり切ってはいるのだが。
―白い項に水滴が伝い、背中の方へと落ちていく。
それをじっと観察しているうちに、悟空は無意識にその手をベジータの方へと伸ばしていた。
指が伸びる。手が動く。身体を少し屈ませ、小さく息を吸った。水浴びをしたからか少し薄くなったベジータの匂いが鼻を掠めて、ごくんと思わず息を呑み込む。
ああ。やっぱりおかしいのかもしれない。
真夏の熱にやられているのか、あるいは組手の熱を思ったよりも引きずっているのかは分からないけれど、とにかくそう考えずにはいられなかった。
だって、そんな訳がないと思い込もうとしても、すぐに意識が上書きされてしまう。
目の前のベジータが、誰よりも何よりも、すごく、すごく。
(すげえ、美味そう…)
その時、自分がどんな顔をしていたのかを悟空は知る由もない。
ゆっくりと口が開き、普段はあまり見えない犬歯が覗く。そっと身体を傾けて、肉食獣が獲物を捕らえる時のように、項に牙を立てようとした―その時だった。
「ぐふッ⁉」
ドンッ、と鋭い衝撃が胸にぶち当たり、強制的に吐き出された酸素と共に間抜けな声が漏れる。そのまま決して遅くはない水の流れに足元を掬われ、岩肌に張り付いた苔で滑る感触を靴底越しに抱いたのも束の間、
「あ」
ばしゃんという音や水飛沫と共に、悟空はあえなく後ろに倒れ込んでしまった。
興奮で火照った身体に冷たい水は心地いいが、予想もしていなかったタイミングで浴びてしまうと少々冷たさが過ぎる。
ベジータに肘撃ちをされたのだとようやく気付いたのは、揺蕩う水面から顔を出して息を吸い込んだ瞬間だった。
「いってえなあ!何すんだよ!」
「碌でもねえ事をしようとしたからだろうが」
呆れ気味に鼻を鳴らしながらこちらを見下ろして来るベジータは、逆光のせいか常よりも迫力が数割増しだ。今更この程度で怯むような性格ではないが、下手なチンビラ程度ならこの睨みだけで裸足で逃げ出すぐらいだろう。
「貴様が何を考えてるかなんぞお見通しだ、馬鹿め」
ベジータに触れようとした直前に抱いていた心境を、彼がどれだけ見抜いていたかは分からない。けれど少なくとも、悟空が何かをしてこようとしていたというのはしっかり気付かれてしまっていたという事だ。
気付いていた上で敢えてあのような無防備な姿を見せていて、自分はまんまとそれに引っ掛かったという訳である。
―見上げる角度になった事で普段と違う見方ができるのも、これはこれでと思ってしまうのはさておいてだ。
「ちょっと触るぐらい良いじゃんか。別に減るもんでもねえんだしさあ」
「ちっとも懲りてないようだな貴様は…今度は滝壺に沈ませてやってもいいが?」
少し言い返すと物騒な言葉と共に反論される。ベジータの口が悪いのも、いちいち怖い事を言うのもいつもの事であるし、今更それに腹を立てる事もないが、それにしたってもう少しぐらい可愛げというものがあってもいいんじゃないだろうか。
ベジータから言わせれば『そんなものがオレにあってどうする』との事だし、確かに可愛げがないからこそベジータだとは思うのだが、『それはそれ、これはこれ』という話である。
そんな事を胸中で考えながら立ち上がると、様子を伺っていたらしいベジータがちらりとこちらを一瞥した。切れ長の黒い目は、逆光で暗く影がかかっていてもなお、悟空を惹きつける光を放っているように見える。
暗がりの中で輝くそれを何となくぼうっと見ていると、何故だか少し安心するような気さえした。ベジータ本人は安心や安寧とは程遠い気性の男だと言うのにおかしな話だ。これも彼が、この宇宙においてたったひとり残された同胞だからなのだろうか。
そんな事を柄にもなく考えていた最中、自分よりも少し小さな手が、すっと悟空の方へと伸びていった。
「ッ⁉」
突如髪を鷲掴みされ、そのまま勢いよく引き寄せられる。おそらく胸倉を掴もうにも道着の上部分を脱いでしまっていたためこんな事をしたのだろう。―いや、ベジータなら別に悟空が上を脱いでいなくても髪を引っ張るのは有り得るのだが。それはもう、十分に。
いきなり髪を強く引っ張られるのは当然痛いため、急になんなんだと抗議の声を上げようとした時、ちょうど自分と同じ真っ黒な瞳とぶつかった。
その瞳の中に、間抜けな顔を晒す自分が映っている。
悟空の表情をまじまじと眺めていたベジータの口元が、やがて愉快気に緩やかな弧を描く。闘いの最中、彼がよく見せる挑発的とも取れる笑みは、悟空が密かに気に入っているものでもあった。
そんな笑みを浮かべながら、耳元に薄い唇が寄せられる。
悟空が反応を示すよりも早く、水の音に掻き消されそうな―けれど悟空にだけは確かに拾えるぐらいの小さな声で、どこか満足そうにベジータは囁くのだ。
「―隙だらけだな、カカロット」
一言だけ告げると同時に、掴まれていた髪がぱっと解放される。
突然の事に呆然としている悟空を尻目に、ベジータは手早く岸に置いていたブーツとグローブを回収して身に着けた。
そうしていつも通りの格好に戻ると、相変わらず間抜けな顔を晒す悟空に可笑しそうに目を細めながら、雲一つない青空へと一気に上昇していく。
吹き上げられた水面から冷たい飛沫が上がり、透明な雫が太陽の光を反射してきらきらと光り輝き、ベジータのシルエットと重なった。時間にしてほんの一瞬でしかない光景は、しかし確かに悟空の目に鮮烈に焼き付いていく。
真っ青な世界へその姿が小さくなっていくのと、悟空がようやく我に返ったのはほぼ同時だった。何をされたのか気付いた瞬間、火を噴いたように己の顔が赤くなっていく。
「あ…あんにゃろう…!」
やっぱり可愛くない、という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。
ベジータがそういう性格なのは分かっているつもりだし、その可愛げのなさに腹が立つ事も今に始まった話でもないが―今回はそういったものとは違う。腹が立つと言うよりは、なんだかすごく悔しい。
ベジータに触って、あわよくば翻弄してやろうと芽生えていた欲求をあっさり見抜かれ罠を仕掛けられていた事もそうだが、それを宥めるように、あるいはいっそ聞き分けのない子供に言い聞かせるような雰囲気で、意趣返しのように隙だらけだと言い放った。
その癖、挑戦的で挑発的な態度を隠しもせずに、けれどその中に確かな甘さも含まれている。耳元で囁かれた言葉に僅かだけ滲ませた甘さは、少なくとも先述の「子供に言い聞かせる」ために使うものではない。
それが全部分かってしまって、その上でしっかり覿面に悟空へと効いているのだから悔しいのだ。
「あ~、ちっくしょう…ほんっと可愛くねえんだから」
けれど、熱を持った顔のまま苦々しく呟いた悟空は、その口調とは裏腹にどこか嬉しそうでもあった。
きっとあれは、ベジータからの挑戦状だ。自分を好きにしたいのなら、闘って膝をつかせてみせろと、そういう事なのだろう。
だとすれば上等じゃないか。やられっぱなしなど悟空の性に合わないし、水浴びだけでは解消しきれない欲を少しでも散らせるにはちょうどいい。
それに何より、闘う最中に見せる不敵な笑みを思い浮かべるだけで、心がどうしようもなく高揚していくのだ。そういうところが、もう手の施しようがないぐらいに―
「…たまんねえんだよなあ」
ぽつりと独り言つと、ベジータの後を追いかけるべく、脱いだ上の道着はそのままに上空へと勢いよく舞い上がっていく。
果たして、道着が渇くまでに彼らの『勝負』に片がついたかどうか―それは、二人だけが知る事だった。
End.