時をかける藍願 ①-㉒(こ、これは一体どういう事なんだ)
困惑のまま思追は目の前の争い合う二人の間に入っていった。
戸惑いつつも割って入った思追など二人は気にもとめないように、ただお互いを睨み合っていた。
「相変わらず俺のやることなすことが気に入らないらしいな含光君」
「そうは言っていない」
二人は思追の知っている大切な二人だった。
ただし、大きく違っていた。
「温氏なんて全て滅ぼせばいい」
そう吐き捨て睨み合う彼らは、まるで自分とほとんど変わらない歳の姿をしていた。
(一体ここはどこで、私はどうしてしまったのだ)
思追はただただ訳のわからない状況に頭を抱えた。
―――ここは射日の征戦。かつて起った過去の一端。
―――思追は今その歴史の真ん中に立っていた。
1.
それは、いつもと変わらない邪祟退治の依頼であった。
姑蘇のはずれの集落に住む男が、助けを求めに雲深不知処にやってきたのだ。
「村の者たちが目を覚まさないのです」
始めは赤子や幼子であった、と男は語った。
次に老人と女衆にまで及びついには男たちも眠りにつき残るものはほんの数名となったということだ。
藁にもすがる思いで雲深不知処の門を叩いた男は大層ガタイが良く、屈強そうないかにも肉体労働者たる体格をしていたが、それも肩を丸め肌の色も青白くしていれば、全く別物である。
これはどうやらただ事ではないのだろうと、思追と景儀は他の師弟を数名連れてその集落を訪れたのだった。
そして思追は見たのだ、あれを見た瞬間、彼の意識は遠くなり気が付けば見知らぬ森の中で横たわっていた。
ただ、記憶に残っているのは…
あの集落で掘り出した「されこうべ」が、黒い煙を上げ、ケタケタと声を出して笑っていた光景だけだった。
2.
「なるほど、それでお前が地面に寝っ転がっていると温氏がやってきて、お前を取り囲んだと、そこで俺がすかさず助っ人に現れた」
これ以上の争いを避けるべく、3人は少し森の奥に場所を移し、木陰の中で腰を落ち着けた。魏嬰と藍湛はお互いを警戒するようにかなりの距離を空けて座るの見て、思追はそのどちらの側にも座れず、2人の間の向かいにちょうどあった折れた大木の上に端座した。
「助けに来ていただき有難うございます。魏先…輩、ですよね?それにしてもどうして昔の姿なのですか、先輩もなにか邪祟の影響を受けているとか」
「はあ?」
調子よく話を聞いていた魏嬰はくるくると回していた陳情をぴたりと止めた。
「含光君もずいぶんとお姿が若く見えます。この状態はやはり3人とも何かの呪いにかかったのでしょうか」
「私が、呪い?」
藍湛は怪訝な声で思追に薄い色の瞳を向けた。
思追と言えばこの状況にかなり混乱していたのであろう。
普段なら感じ取れる違和感に気づかず、話を続けた。
「ところでお二人はここへ来るまでの間に、なにか遊びでも始めたのですか?」
まるでいつものように2人に笑いかけた。何時も思追がよく見ている彼らに話しかけるように、少し困ったように首をかしげて言った。
「いつものことですが、夫夫喧嘩ごっこも大概にしてくださいね」
眼前の2人は暫く呆然と、まるで未知の生物を眺めるように目の前の少年を見つめると。
「はあ!?」
盛大に魏嬰が声をあげた。
3.
「俺と、こいつが、夫夫!?」
魏嬰が藍湛と自分を交互に陳情で指し、思追に詰め寄った。
視界の端では端正な眉を顰め「ありえない」と小さくつぶやく藍湛の姿が見切れる。思追はついにそこで何かがおかしいと気が付いた。
「ちょっとお待ちください、ほんの少し考える時間をください」
詰め寄る魏嬰を制し、思追は頭を抱えながら持てるありったけの思考を回転させる。
(お二人は私の言っていることが全く分からないようだ、どうして…それに、彼らは私のことを一度でも『思追』呼んだだろうか、いやそもそも…)
突然、思追の頭にかかった靄が取れたように、抱えていた頭を勢いよく上げると、目の前の魏嬰の腕を捕まえた。
「温氏!先ほど温氏とおっしゃいましたか!?」
「うわ、何だ急に。痛い、痛い、藍氏はみんな馬鹿力ばかっかりか!」
思追は温氏という言葉があまりに聞きなじみが無く、先ほど魏嬰が発した言葉も流してしまったが、なぜ自分はそんな大事なことを聞き流してしまったのだと後悔した。
思追の知る限り温という姓はもう全く使われる事が無くなっている姓だった。
射日の征戦以降、温家は全滅したわけではないが、数少なく生き残った温家一族も姓を変え、身を潜め隠れ生き延びていると聞いたことがある。
かく言う己自身がまったくその通りの身分なのだから間違いない!
余程の形相だったのか、魏嬰が身をよじって思追の腕から逃れようともがいていると、やんわりと、しかし力強くその手を解かれた。
「落ち着きなさい」
いつの間にか思追の横に来ていた藍湛が彼の手を解いた。
ゆるんだ隙に魏嬰はその腕を抜くと、わざとらしく赤くなった手首にふーふーと息を吹き付けた。
思追は一瞬だけ呆けたように藍湛を見つめて、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づき、2人に向かって詫びるための礼を取った。
「も、申し訳ありません!含光君。私は含光君の道侶に手をあげるつもりは毛頭なく、ただ…」
「道侶」
ピクリと藍忘機の袖に隠れた指先がピクリと触れた。
その反応に、思追は自分の頬が引きつるのを感じた。
「ただ…、そう、ただこれだけ教えていただきたかったのです」
思追は拱手の姿勢から俯いたまま、藍忘機と魏無羨を改めて見つめる勇気が無かった。
「今、この玄門百家にて4大世家の名前を教えて欲しいのです」
神妙に尋ねる思追にの問いに、魏嬰が「4大世家?」と呟いた後、くすくすと妖しく笑った。
「ははははははっ、確かにな、4大世家!それなら俺が教えてやる。まずは雲夢江氏だ、それから姑蘇藍氏、清河聶氏に蘭陵金氏だ!これで間違いない!」
思追は自分の記憶通りの答えに、安堵のため息をついた。
やはり己の気のせいだと、拱手から顔を上げた。
「何故ならこれから俺たちが温家をぶっ潰して、温狗を全滅させるんだからな、5大世家なんて言葉はもう時期に無くなるさ」
思追がかつて一度も見たことがない憎しみを宿した顔で魏嬰が発するそれを、思追だけに分かる悲しみの表情で藍忘機が見つめている。
それが答えだった。
(ここは射日の征戦!)
ようやく思追は、相手が呪いで小さくなったのではないのだと気づいた。
2人は小さくなったのではない、己が彼らの少年時代にいるのだと!
一瞬にして思追の中で蘭室で学んだ座学が思い出された。
射日の征戦で温家は確かに滅亡したのだ。
だが、ここでは温家は存在し、魏嬰がそれを潰すという。
つまりここは射日の征戦の真っ只中であるということだ。
(ではこの魏先輩と含光君は17年前のお二人!)
拱手からあげた思追の表情は真っ青を通り越して真っ白だ。
「なあ、もう『少し』は待ったし、質問にも答えたぞ。さっきの『夫夫』の説明を聞かせてくれ」
「道侶とは一体…」
2人に問い詰められ、じっと見つめられる。
思追は今の今までの己のうかつな言動を、思いきり心の中で罵った。
4.
(過去、過去とはどういうことだ)
目が覚めて、大人数の大人に襲われかけ、昔の姿の魏嬰に助けられ、すでにかなりの混乱状態だった思追の頭はもう破裂寸前だった。
その上、目の前には普段なら誰よりも頼りにしている二人が自分と変わらぬ年恰好の姿で雁首をそろえこちらに首を傾げている。
これで顔を引き攣らずにいられるわけがない。
(何か、何か言わなければ、でも何から、どうすれば)
素直に未来から来ました。その未来ではお二人は道侶で私はそのお二人の義理の息子です。と素直に言えばいいのか。
(い、言えない!というか言ったら殺されかねない!)
直前、襲ってきた温家を2人でいがみながら討伐する姿を思い出すと、出すべき言葉は全て飲み込まれてしまった。
「わ、私は…」
そこから、何を言っていいのか分からず、しばし黙りこくると、藍忘機が軽く息を吐いた。
「そもそも、君は何者だ」
「あ、もう言っちゃった」
横で魏嬰がつまらないという風に藍忘機を睨みつけた。
「茶番は好きではない」
魏嬰の文句を藍忘機は切って捨てた。
「あーはいはい、つまんねー奴」と肩をすくめて魏嬰は陳情で己の肩を叩いた。
「藍家の公子殿、あんたがさっき説明した、その、邪祟退治?そいつはかなり説明に無理があるんだよ」
「無理?」
邪祟退治のなにがいけなかったのか、思追は目を丸くした。
「一つは雲深不知処は最近温家から奪取したばかりで、今藍啓仁先生が再興の最中、到底邪祟退治なんて引き受けられる状態じゃない」
「あ」
ここが射日の征戦中と気づかず話していたので、思追は考えてもいなかった。
「二つ、あんたの話ではここは姑蘇の外れということだが、生憎ここは江陵だ」
「江陵!江陵ですって!?」
全くもって予想外の場所に、思追は開いた口が塞がらなかった。江陵は姑蘇から千里も遠い。
「三つ目」
「まだあるのですか」
もう何もかも違っているのだ、思追は諦めた気分で魏嬰を促した。
「三つ目、こちらの藍二公子様は数名の藍氏門弟を連れてこの江陵に助太刀に来て下さっている、俺は別に一人でも出来るけどな」
「……」
最後のは藍忘機に対する嫌味だろう。ギスギスするのを止めてくださいと言うのを堪えながら、思追は魏嬰の言葉を聞いていた。
「その藍二公子があんたに『誰だ』と問うている、さあ次の質問だ。あんたはどうやってその藍家の校服を手に入れた?」
ひゅっ、と己が息を吸うのが分かった。
魏嬰のこちらに向ける目の色が一瞬にして変わった。
「殺して奪ったか」
ブンブンと首を思い切り振った。
「温狗か」
「わ、私は」
温氏ではない藍氏です、そう言おうとして言葉に詰まる。
(私は、私は、温氏だ)
けれど藍氏だ。
どちらがではなく、どちらも自分なのだ。
温家の優しくしてくれたおばあさんたちや、一緒に旅してくれた温寧を捨てられない、藍家で育った仲間たちや含光君を捨てることだって出来やしない。
だが、そのどちらを選んでも今この場では魏嬰に殺されるだけだろう。
そう思うと思追の頬に涙が伝ってきた。
「わ、私はユエンです。あなたに生かされ、含光君に育てられた、ユエンと言います」
突然幾粒も涙を落とし、魏嬰に訴える思追に彼の方が戸惑った。
「なんだって?」
「魏先輩、含光君、私を助けてください。お二人以外に私を救ってくださる方は他にいないのです」
そうして泣き崩れる思追を見つめた後、魏嬰は我知らず藍湛に視線を向けると藍忘機もこちらを見つめていた、二人は戸惑いを隠せず、ただ思追が泣き止むまでそこで呆然とするしか無かった。
5.
「未来、未来な、つまりあんたは未来人だと」
思追が「自分は十数年後の未来からきた人間なんです」と告白したそれを聞くと、魏嬰は己の顎をさすり肩をすくめてみせた。
「未来人」という名づけには少々違和感があったが、魏嬰の名づけ方については今さら言ってもしょうがない。
「信じられないのは尤もです。かく言う私もいまだに信じられません。ここが…射日の征戦だなんて」
目端がいまだ赤い思追に藍忘機が乾坤袖から手拭いを差し出す。
思追は礼を言ってそれを受け取ると、ぎゅっと握りしめた。
「にわかには信じられない」
藍忘機の表情は思追の話を聞いてもさほど変化がなかったが、こころなしか眉尻が上がっていた。
「そうだな、まだ温家の間諜と言われたほうが説得力がある」
「違います!ですから先ほど言った通り射日の征戦は成功します。これを断言出来るのは、未来を知っているほか無いでしょう」
「証拠がない、今はまだ私たちは戦っている最中で、それを証明する手立てはない」
「それは…、そうです」
射日の征戦が勝利となるのはあと数年先である。思追としてもそこまで待てとは言えるわけもない。
さりとて、この戦いをそれほど詳しくを知っている訳でもない、例えばこの江陵で何が起こるのか、そこまで知っているわけではないのだ。
(もっと…、もっと勉強しておけばよかった!)
思追は本当に心のそこから己の不勉強を悔いながら、他には何かないかを考える。
「あ、ではこれはどうでしょう。昔魏先輩から春宮図の上手な隠し方教えてもらったことがあります」
「俺、それ誰にでも教えるからなあ。藍湛にも教えようか」
ついでに藍忘機を揶揄いに近寄る魏嬰だが「結構だ」と藍忘機にすげなくされ、「相変わらずつれない」と首を振った。
それを見て、思追が「あっ」と叫ぶ。
「では、含光君の好きな…」
そこまで言って――
氷雪よりなお冴えた視線の藍忘機と目が合った。
「ひっ」
「藍湛の好きな?」
魏嬰が先を促してくる。
「はっ!す、好きな…えっとその」
もはや殺気に近いその視線に生唾を飲み込んだ。
「含光君はウサギが好きで…、沢山飼っています」
脅迫的な視線に思追は敗北した。
「ウサギ?含光君ウサギなんて飼っているのか」
「…うん」
珍しく、やや間をあけて返事を返す含光君に、これも不味かったのだろうかと首を傾げる思追。
「俺がウサギをつかまえてあげた時はあんなに嫌がったのに、何だよやっぱり好きだったんじゃないか!」
「……」
(不味かった!)
あれは魏嬰があげたものだったのか。思追も知りえない事実を今更言われても遅かった。
魏嬰は藍忘機の肩に手でも置きそうなくらい上機嫌で「雲深不知処が焼けたとき、ウサギどうしたんだ?食べたのか?」「…山に放った」「そーか、それなら今度また捕まえてやるよ!」、のべつ幕なし藍忘機に話しかける魏嬰だが、しばらくしてはたとこちらを見てきた。
「ウサギが雲深不知処にいるだけじゃ、未来人の証明じゃないな」
(そうですよね!)
思追はようやくこちらを見てくれた魏嬰に大いにうなずいた。
「ふーむ、しかしこれは難しい問題だぞ」
「そうだな」
「なにがです?」
二人が思案していることが良く分からなかった。
「あんたが未来人という証明さ。あんたは未来を知っていてそれを語る、だけど証明は出来ない。とすると答えのすり合わせが出来ない。分かるか?」
「はい」と思追は頷いた。
「そして、例えあんたがこの先の俺たちの行く先を知っていたとして、俺たちにそれを告げても、今は分からないし、あんたが言った為にその未来は来ないかもしれない。だから難しい、そういうわけだよ」
「私の知っている未来が来ない…」
魏嬰の何気ない言葉であったが、思追は鉛を飲み込んだように重くのしかかった。
「俺たちが『今』知っていて、あんたが知っている、この先必ず起こる出来事。それが無ければ今この場で、俺はあんたを殺すしかなくなる」
何かが気にかかっていた思追だったが魏嬰の「殺す」で一気に吹き飛んだ。
「そんな!」
「なんでここに俺と藍湛二人しかいないと思う。偵察と、隙を見て奇襲を仕掛けるつもりだからだよ。それなのに、お前が温家の間諜だったとしたら、…どうするか分かるよな」
(殺す、殺される?私が魏先輩に)
まるで現実味の無い話だった。彼が自分を傷つけるなど、今まで考えたことがないのだから。
しかし、その言葉に藍忘機すら静止をかけることは無い。ここは本当に戦場なのだと痛感した。
(考えろ思追。魏先輩に私を殺させないためにも、考えるんだ)
自分が知っていて、彼らも知る、この先必ず起こる出来事。そんなものどうすれば。
「あ」
一つだけあるかもしれない。
こぼした言葉に魏嬰が「どうした」と問いかけた。
(思いつける限りはこれだけ、それもとんでもない賭けだ)
しかし他に思いつけるものもない、思追は意を決すると藍忘機の方を見た。
「私は」
藍忘機に拱手し、頭の中では座学の授業を出来る限り思い出そうとする。
(出来る、大丈夫、多分…)
思追は己を奮い立たせてこう言った。
「私は4019条の家規を唱えることができます」
藍忘機は思追のその言葉にぴくりと眉根を寄せた。
「4019条?藍家の家規は3000条だろ」
そう言って魏嬰は藍湛に同意を求めるように見ると、彼はは神妙にその言葉に耳を傾けた。
「4000条、言えるのか」
「藍湛?」
置いてけぼりをくったように、口をとがらせて魏嬰は彼の肩をゆすった。
藍忘機はそれをやんわり避けると、自分の口元に手を当てた。
「雲深不知処が焼ける前、叔父上と兄上で4000条の家規の草案を作ったことがある。私たち以外誰も知らない」
「ほ、本気で4000条作ってたのか」
顔を引きつらせて魏嬰が言った。
「二度と雲深不知処渕には近寄れない」とぼやく魏嬰をちらりと見て、藍忘機は思追に向き直った。
「言えるか」
思追はその言葉を真正面に受け止めて、答えた。
「今からでも」
4019条を唱えるために、思追は息を吸った。
6.
「わかった!わかったもういいって」
うんざりした声で真っ先に根を上げたのは魏嬰だった。
「まだ3743条です」「まだ3743条だ」
訴えた魏嬰に二人は声を揃えた。
「お前たちは兄弟か!言うことやることそっくりじゃないか、何時から藍氏双璧にはもう一人いることになったんだ。ああ分かったよ、あんたは間違いなく姑蘇藍氏だ」
言わせるだけ魏嬰に言わせて、二人は残りの300条近くを続けるために再び向き合った、さすがに我慢が出来ずに今度は強引に二人の間に割り入った。
「もういいって言ってんだ!よく見ろ周りを、もう夜が明けるだろ、これじゃあ奇襲も偵察も無理だ」
魏嬰は白みかけた空を指さし、わざとらしい盛大な溜息をついた。
「藍湛、それで今のところ間違いはあったのか」
視線を少し魏嬰に向け、そして再び思追に戻すと藍忘機は軽く首を振った。
「ない、少しの違いはあるが、私の知っているものを少し改訂しているという程度だ」
「なるほどなるほど、まあお前がそういうならそうなんだろうな!」
よほど切り上げたかったのだろう、分かり易いほど大仰に頷いて、くるりと背を向けた。
「とにかく、作戦はいったん中止だ、帰るぞ」
そういって一人勝手に森の中へ中へと進む魏嬰に慌てて思追は声をかけた。
「あ、あの、私は」
「あんたはしばらく俺たちと一緒に来てもらう。まだ温氏かどうかは分からないし、未来への返し方なんてもっと分からないからな!おっと逃げようなんて考えるなよ、逃げたらたちまちあんたの足首をキョウシが捕まえることになる」
自分の足にキョウシが絡みつく様子を想像してぞっとする「逃げません!」そう答えるのが精いっぱいだった。
藍忘機と言えばその二人のやり取りを黙って見て、動き出せばそれに黙ってついて来て、殿を歩いた。
3人はしばらく黙々と歩いたが、黙って歩くのにも飽きた魏嬰が思追にいろいろ質問をしてきた。
内容としては他愛無いもので、「未来ではどんな素敵な女の子がいるのか」「食べ物のはやりはあるのか」「世家公子の風格容貌格づけは変動したか」だのどれも些細なことばかりだった。
けして「未来の自分はどうなっているのか」と聞いては来なかった。
ただし、最後に歩きを止め、くるりと思追を振り返り首をかしげて
「なあ、結局。夫婦喧嘩と道侶ってどういうことだったんだ?」
何時か聞かれるだろうと考えていた思追はこう答えた。
「ふ、夫婦のように仲のいい、ど、同僚ということです!」
めちゃくちゃだと思追も思っていたが、魏嬰は事のほか嬉しそうに笑った。
「そうか、俺たちは未来で仲良しか!」
その笑いは、思追が知っている魏嬰の笑い方より少し寂しそうであった。
藍忘機はただそれを静かに見ているのだった。
7.
「や、やっと着いた?」
森を掻き分けて歩いた先に明かりがぼんやりと見えてきて思追はほっと息をつく。
実際、森を歩いたのは半刻程度だったのでそれほどの道のりではなかったのだが、道中が問題だった。
初めのうちは大人しく3人で森を歩いていたのだが、程なくして魏嬰が不意に方向を変えたのだ。
「ちょっと野暮用が出来たから先行っててくれ」
そう言ってふらりと横道に入っていこうとする彼の腕を捕まえたのは藍忘機だった。
「どこへ行く」
厳しい声と目つきで藍忘機は捕まえた魏嬰に尋ねた。
それをはぐらかす様に、おどけた口調で魏嬰は肩をすくめる。
「野暮用は、野暮用だよ。お堅い藍氏どの、そのくらい察してくれないか」
「また墓を暴きに行くのか」
魏嬰の揶揄いにも応じず、藍忘機はその捕まえた腕を強く握る。
「いてて、はあ藍湛。お前はどうしていつもそうなんだ」
そう言って大きなため息を吐くと、魏嬰はすばやく懐から取り出した陳情で藍忘機の左目に振りかぶった。藍忘機は寸でで魏嬰の手を放し、距離をとるとお互いに睨み合った。
「俺が、誰の、墓を暴こうがお前に関係があるか」
「死者は丁重に弔われるものだ。その行いは死者にも君にもいい影響を与えない」
「今は!そんなことを言ってられる状況じゃないことが分からないですかね、上品な公子様は正道だけで戦に勝てるとお思いか」
今にも一触即発の空気に側にいた思追が鳥肌を立てた。
こんなにも昔の彼らは仲が悪かったのか。だって、彼らは、思追が見ていた二人は、何時だってお互いが大事で、周りがあきれる程、仲のいい夫夫で……。
「知っているぞ藍忘機。お前が俺の邪魔をしたくて付いて来たことはな!」
「もう止めてください!」
2人は余りにもお互いに熱中しすぎたせいか、側にいた思追が横から乗り込んで素早く魏嬰の陳情を奪ったのを呆気に見た。
「あ、お前!」
「こんなところで大声で争って、それこそ敵に見つかったらどうするんですか」
そこでようやく2人は気まずそうに意気を下げた。
「いいですか、これ以上喧嘩をするようなら私はこれを」
思追自身も気が動転していたのか、とにかくこの喧嘩を収めなければと必死だったのだ。
思追は奪いとった陳情を掲げると魏嬰を脅迫した。
「私はこれを、涎でべとべとにしてしまいますよ!」
「……」
「……」
静寂が、
夜明けの森の中ではぴったりの静寂が久しぶりに訪れた。
「えぇ…、それはちょっと、嫌だな」
魏嬰は小さくそれを零すと、静かに彼らは拠点に進むことを決めたのだった。
思追の多大なる精神的犠牲を支払って――
明りの灯った建物を見つけ、この道中の苦労を思えば少しくらい感動の涙を流しても罰は当たらないだろう。
目元を拭う思追に魏嬰が小首を傾げたが「ああ、そうだ」と顎をさすった。
「未来人なんて周りにはややこしいから、お前は暫く藍湛と一緒に応援に来た姑蘇藍氏の門弟ってことにするぞ、つってもまだ全部信じたわけじゃないから当分俺か藍湛が見張るけどな」
「それは、はい。ありがとうございます」
確かに、藍氏の校服を着たまま他に説明は出来ないだろう。
無言で頷く藍忘機にも思追は礼を示した。
「まあ、幸いなことにお前は藍家の直系じゃないからバレないだろう。巻雲紋なんてしていたら、流石に江澄や他の藍家門弟にバレかねない」
「え?」
思追は思わず自らの額に手を当てた。
巻雲紋が無い――?
「魏先輩、今なんと…」
思追が呆然と魏嬰に声を掛けようとした時だった。
「阿羨」
カサリと、草木をかき分けて、鈴が鳴るような軽やかな声が響いた。
魏嬰は何よりも素早くそちらに振り向くと、急に両頬の筋肉が無くなったかのように緩んだ顔をして、その相手に両手を掲げた。
「師姉、ただいま!」
三人を迎えたその人は。
とてもやさし気に微笑む、紫の衣をまとった女性だった。
8.
「阿羨無事だった?怪我は無い?」
屈託なく飛びついた魏嬰を優しく受け止め、魏嬰の肩にそっと手を置くと、気づかわし気に少女がそう言った。
「なんてことなかったよ!というか途中で問題があって引き返してきたんだ」
「問題?」
そこで、ようやく魏嬰が藍忘機と思追に視線を向けて、少女はゆっくりとお辞儀をした。
「不調法失礼いたしました。藍の二の若様と、そちらの方は」
思追は慌てて拱手をし、名乗りを上げた。
「わ、私は藍思追といいます」
「藍湛の家の門弟だ、こっちに来る予定だったのに途中で迷子になっていたみたいでさ。拾って事情聴いていたら時間が無くなって帰ってきたんだ」
何と言おうか惑っている思追に魏嬰が助け舟を出した。
ちらりと魏嬰が藍湛を見ると、藍忘機も肯定を示すように一つ頷いた。
少女は魏嬰と藍忘機のやり取りをじっと見つめてから、改めて思追に顔を向けると拱手をする。
「はじめまして、藍思追殿。私は江家長姉、江厭離と申します。この度は江陵での戦いに助太刀いただき感謝申し上げます」
その仕草は少し控えめではあったが、名士の出である気品がうかがえる。
なるほど流石は江家の…と思追はなるほどと頷いてしばし、ようやく気が付いた。
「ジャ…!」
思わず漏れ出た叫びを自らの両手で口を塞ぐことで難を逃れた。
(江厭離殿!)
その名前を知らない訳がない。
それは、魏嬰と江宗主の姉であり、金凌の母である女性の名前だ!
しばし呆けたように思追は江厭離を見つめていた。
「あの、私の顔に何か?」
あまりにじっと見つめられていたため江厭離は戸惑いを隠すように微笑むと、思追は我に返った。
「あ、いえその、すみませんつい」
つい、の続きは言えるわけもなく思追は心の中で呟いた。
(想像と違ったので驚いてしまった)
魏嬰とは血がつながっていないが、血のつながりのある江宗主や金凌を見ているとどうしても彼らの血縁である女性も素直じゃなく、怒りっぽい性格なのだろうかと想像していたのだ。
(すみませんすみませんすみません!)
実際はそんなことはまるで無く、穏やかで礼儀正しく、朗らかに笑う優し気な少女であった。
そして、ずきりと胸が痛んだ。
彼女は、自分のいた時代にはすでにいないこと。
その理由は自分の一族が深く関わっていることを思い出せば、思追の心はひどく沈んでいくのが分かった。
(もしも…)
今ここで、これから起こる未来を伝えれば、彼女は救われるのだろか。
魏嬰が以前言ったように、自分がなにか行動を起こせば『知っている未来』は来ないのだろうか。
(けれど、それは…)
そっと、思追は無意識に額の抹額を撫でた。
(藍思追は未来にいるのだろうか…)
あまりに思考に没頭していたからだろう。
思追は目の前で『パンッ』と叩かれる音に目が覚める思いで驚いた。
「な、なに」
「何じゃない、やっぱり聞いてなかったな」
呆れたように言う魏嬰を見るといつの間にか江厭離と自分の間に魏嬰が立ちふさがり、手のひらをこちらに振っていた。
「起きてるか?寝ぼけてるか?大丈夫か?言っとくが、師姉に一目ぼれしたとか言うなよ、言ったら俺と江澄が黙ってないからな」
「そ、そんなまさか!」
慌てて首を振った。
この時代で魏嬰と江宗主を敵に回して生き残れる気が一切しなかった。
「じゃあ、俺の話は聞いてたか?」
「ええと、それは…」
思追の反応に大げさにやれやれと肩をすくめると、魏嬰は思追の肩をがしっと掴んだ。
「聞いてなかったならもう一回言うぞ?俺たちとっても仲良くなったから、しばらくは俺の部屋でお前は泊まるって言ったんだよ」
「え?」
言われてすぐには飲みこめず「え?」ともう一度言ってしまった。
だれが、誰の部屋に泊まると言ったのだろうか。
「だから、お前が俺の部屋に来る。分かったか」
分かったのは。
背後でとんでもなく無言の圧力をかけてくる藍忘機の存在だけだった。
9.
「な、いいだろ、師姉」
ニコニコと話す魏嬰の手はがっちりと思追の肩を捕まえて、逃げたくても逃げられない。
思追は江厭離がなんとかうまく断ってくれないかと一縷の望みをかけて見つめると、やはり彼女は少しだけ困ったように微笑み「それは構わないけれど」とあっさりと思追の希望を打ち砕いた。
「だけど阿羨、まず先に断らなければならない方がいるのではないかしら」
「江澄か?あいつは俺の部屋に誰が泊まろうが気にもしないだろ」
肩をすくめて見せた魏嬰に彼女は首を振ると、魏嬰と思追の背後にいる藍忘機に目を向けた。
「藍家の仙師なのならば、まずは藍家に伺わないと」
藍忘機は今までずっと話を聞いているのか聞いていないのか分からないような無関心を装っていたが、江厭離の声にフイと反応し彼女を見た。彼女もまた藍忘機の視線を受けてにこりと微笑む。
「分かった!藍湛には俺から聞いておくよ、それから江澄にもな」
魏嬰は突然大きな声を出すと、藍忘機と江厭離の視界を遮るように素早く彼らの間に入る。
「わ、わっ」
そのために、肩をつかまれていた思追も引っ張られることになってしまった。
「ん?どうした、急に慌てて」
「……いえ」
とぼけた魏嬰には何を言っても無駄なことを知っている思追は反論をすることなく、引きずられるまま引きずられた。
「だから先に戻っていて師姉。後で義姉さんの骨付き肉の汁物を飲みに行くから」
そう言って魏嬰は思追から手を話すと、腕をいっぱいに広げて大きな椀を表した。
そんな魏嬰に堪えられないという風にくすくすと江厭離は笑う。
「もう、ここは蓮花塢ではないのよ、そんなに沢山作れないわ、でも用意しているから支度が出来たらいらっしゃい」
「うん」
「藍の二の若様もよろしければ是非。阿羨が言っていたほどには作っておりませんが、藍家の皆様にふるまう分は十分にありますから」
「あいつにはいいよ!」
すぐさま返した魏嬰の言葉に江厭離はもちろんのこと、藍忘機も大変珍しいことに少し驚いた風に魏嬰を見つめた。
二人の視線にばつの悪い顔をしながら魏嬰は左手で自分の顎を撫でると「えーと、その」などともごつくと。
「そう!師姉には言ってなかったよな、藍家は肉を食べないんだってさ。だからこいつらを招いても義姉さんの汁物は食べられないんだ」
そう言いながら魏嬰はちらりと藍忘機を覗くと、藍忘機は何時もの無表情で何も読み取れはしなかったが、ただ彼も視線を一度だけ魏嬰に向けると直ぐに江厭離に戻し頷いた。
「魏嬰の言う通りです」
江厭離もそのやり取りをじっと見つめてから、藍忘機に微笑む。
「そうでしたか、それは失礼いたしました。それでは明日はお肉の無いものをご用意しておきますね」
そう言って拱手をすると、魏嬰に「あとでね」と声を掛け、彼女は背を向けて炊事場があるのだろう家宅に向かって行った。
彼女が小さくなった頃、魏嬰は「はあ」と盛大に大きなため息を吐くと、思追の腕を引っ張った。
「ほら、俺が貸してもらってる家宅に行くぞ、何度も言ってるが逃げたらどうなるか分かってるな」
「は、はい!」
半ば強引に連れていかれそうになり躓きかける、彼の歩幅で足早に歩かれれば、もはや思追はにとっては小走りである。
慌ててついていくために態勢を変えようとした彼に藍忘機が手を伸ばした。
「待ちなさい」
伸ばされた手は決して思追に触れるわけでは無かったが、引き留めようとしたのは分かった。
「本当に彼を君の家で預かる気か」
彼の表情は無表情に近いが僅かに眉根が寄せられている。
魏嬰もそれを察したのか、振り返り思追を後ろに下がらせると藍忘機に人差し指を突き出した。
「それしかないだろう?藍家の門弟たちと寝食をすればさすがにバレるだろうし、こいつは今のところ放り出せない。まさか藍湛、お前が他人を部屋に泊めれるわけがないだろう。お前が誰かと同じ部屋で寝泊りするなんて想像出来ないしな!」
(…私は凄く想像できますけど)
2人には聞こえない小さな声で、思追は恥知らず夫夫を思い出しながら呟いた。
「それとも何か、俺が信用できないってことか?それなら藍湛、お前も俺の部屋で俺とこいつを見張るか?」
何時もの揶揄いのつもりで魏嬰はにやにやと藍湛に向けた人差し指で彼の胸をトンと突いた。どうせムキになって「ない!」と言うだろう、と。
しかし、藍忘機は俯きその人差し指を見つめると、無造作につかみ上げた。
「お、おい藍湛!冗談冗談だよ、まさか折る気か!?」
「分かった、そうしよう」
掴んだ指を離さないまま藍忘機はそう言った。
「なんだって?」
魏嬰は彼の言葉の意味が分からず聞き返す。
すると藍忘機は、彼に聞こえるよう一音一音はっきりと言った。
「君の家宅に行こう」
10.
どうしてこうなった。
思追はもう何度目かも分からない自問自答を狭い室内で繰り返した。
一人で住む為にと与えられた魏嬰の家宅は、確かに一人なら十分な広さであったが、成人男性2人と少年が一人入ればそれはもう圧迫感が尋常ではなかった。
藍忘機と思追は木机の椅子に端座し、魏嬰は牀の縁にもたれ掛かり、すでに一杯酒を注いでいた。気持ちよく酒を煽った先に含光君の姿を捉え、思わず眉を歪める。
「お前、本当に今日ここで泊まるつもりか、わざわざ藍二公子様に用意した部屋があるのに、ここよりずっとに広い場所を割振られていただろ」
「泊まる」
「まったく物好きな公子様だ」
にべもなく即答する藍忘機に魏嬰はため息をついた。
そんな魏嬰をちらりとみると藍忘機は「君こそ」と呟いた。
「何だって」
まるで独り言に聞こえた声に、魏嬰は思わず聞き返した。
聞き返してきた魏嬰を、薄い瞳の色が見返す。
「君こそ、本当に今日ここで寝泊りをするつもりだったのか」
「どういうことですか」
藍忘機の言葉に反応したのは思追の方だった。
藍忘機は思追を見ると、再び牀でいつのまにか寝そべっている魏嬰を見た。
「私が君と泊まると言っても、魏嬰は決して私に任せようとはしなかった」
「そう言えば」そうだと思追は呟いた。思追を藍忘機が見張るというのであれば魏嬰が何も一緒にいる必要はないのだ。見張りはどちらかだけでいいといったのは魏嬰本人だ。
「はあ、まったくお前ときたら。そう言う勘だけはやたらと鋭い」
魏嬰は牀から身を起こすと、クルクルと懐から出した陳情を回しだした。
「仲良くお泊り会をするのも悪くはないが。まずはこいつの問題を何とかしてやないとな」
そう言うと、陳情をぴたりと思追の顔に指した。
「私の…?」
問題は確かに山積みだ。しかし魏嬰にそれをどうにか出来るというのだろうか。
困惑する思追の意を汲んでか、魏嬰は深くうなずいた。
「そのとおり、あんたに起こった出来事は到底俺達には信じられないくらい突拍子も無いことだ。だがそれを信じるとするなら一つだけ確かなことがある」
射竦めるような視線で思追を見る魏嬰に思わずごくりと生唾を飲んだ。
「確かなこと」
「『されこうべ』だ」
間髪入れずに、魏嬰は断言した。
「そいつが事の元凶だというのは、間違いない」
『されこうべ』、それは思追が意識を失う直前に見たあの黒い煙を噴き出す骸骨のことだ。
「確かにそうです。ですが、私が目が覚めた時にはすでに手元には無くなって」
「何故、あんたが姑蘇から江陵にたどり着いたか」
ゆっくりと、
何かを見透かすかのように、赤い瞳がまるで予言のように思追に告げてくる。
「いるからだよ、ここに、江陵に。『されこうべ』の持ち主が」
きっぱりと断言する魏嬰に、思追が唖然とする。
「いる、とは、どういう。魏先輩はそれが誰かご存じなのですか」
「いいや」
期待に膨らんだ思追の胸は、あっという間に萎んだ。
「けど、何であんたがここに呼ばれたか理由はわかる。ここであんたにさせたいことがあるからだ。心残りというやつだ。『されこうべ』はこの場所で悔いを残して死んで、未練の残滓をあんたに託した」
「ま、待って下さい。死んで、ということは」
悔いがあり、その悔いを果たせず死んだ『されこうべ』、それはつまり。
「そうだ、あんたが未来から来てここが過去だというなら『されこうべ』の主は今ここで生きているはずだ。そいつをまずは見つけ出すぞ」
宝探しでもするかのように、声を弾ませた魏嬰に愕然とする思追。
その隣で、含光君はじっと思追を見つめるのだった。
十一.
その前に少しだけ寝かせてくれ。そう言って魏嬰は酒瓶を抱えたままうつらうつらと牀の縁にもたれかかった身体を傾けると、同じくして瞼がゆっくりと閉ざされた。
余程疲れていたのか、暫くすれば魏嬰の首はゆらゆらと船をこぎはじめた。
よくよく考えてみれば、二人は夜通し森の中を歩き自分を見つけて帰ってきたのだ。殆ど寝ていないに違いない。
慌てて思追は含光君に向き合うと拱手をとる。
「気が回らず失礼いたしました。どうか含光君もお休みください」
「私はいい、君も休みたければ休みなさい」
藍忘機はそう言うと端座した椅子から立ち上がり、魏嬰の抱えている酒を取り上げると、ぎりぎり牀の縁にひっかかっている彼を起こさない様に抱きかかえ、きちんと牀の上に寝かしつけた。
「………」
その彼の抱え方も、乱れた髪を撫でつける仕草も、彼を慈しむ視線も、何もかも思追の知る藍忘機と重なって見える。
ほんの数時辰前には自分にとって当たり前にあったその光景に、思追はなぜか泣きたくなった。
「含光君」「君は」
藍忘機は思追の言葉を遮るように振り返り、冴え冴えとした瞳が思追を捉えた。
「本当に未来から来たのか」
言葉に詰まった。
藍忘機のそれが、疑いからくる問いかけではなく、確認のための問いだと感じたからだ。
「そ、そうなのだと思っています。今ここが射日の征戦なのでしたら、私はその先の未来かから来たのだと」
思追だとて確信などない。あるのは唯の状況でだけで、自分自身まだ半信半疑と言う有様なのだ。
藍忘機は思追の戸惑いを見透かすように見ると、長いまつげを震わせ目を伏せた。彼の手は気遣うように魏嬰の手を取り、霊気を送っている。
「ならば、未来では魏嬰は無事なのだろうか」
はく、と思追は息を飲むしかなかった。
「鬼道を扱い続けても、彼は健やかでいられるのだろうか」
何を、何と言えばいい。
「私の杞憂であれば、それでいい」
未来の出来事を素直に伝えるべきなのか、沈黙を保つべきなのか思追には分からなかった。
事実を伝えてしまえば、藍忘機は何をおいても魏嬰を連れ帰り、今度こそ隠してしまうかもしれない。
そうしてしまえば、魏嬰は無事に生を全うできるのか、彼の姉とその夫も生き残れるのか、そして彼に救われた温家と自分はどうなるのか、思追には何もかもがどうすればいいのか分からなかった。
「すまない」
思考を遮った藍忘機の声に思追ははっと藍忘機を見る。
彼は先ほどの惑うような視線とは違い、まっすぐにこちらを見つめていた。
「どうかしていた、忘れてくれ」
そう言って彼は魏嬰から離れると、元の椅子に端座するのだった。
十二.
「さ、今のうちに師姉の汁物を飲みに行くぞ!」
半時辰後、魏嬰は伸びをして目を覚ますと、自分がきちんと寝床に寝ていたことに少し首をかしげたが、深くは考えずぴょんと立ち上がった。
魏嬰の目が覚めたことを確認すると、藍忘機は頷いて「一度藍家の者に報告に行く」と言って、家宅の戸をくぐって外へと出て行った。
確かに言われてみれば、ここに戻ってきたことも、今晩魏嬰の家宅で泊まるということも何も伝えていないということに思追も思い至り、魏嬰も思追もその背中を見送った、その直後である。
まるで藍忘機がいないのを見計らったかのように、義姉のところにいくと魏嬰は思追の手を引いたのだった。
「あの、魏先輩は、その、江殿と含光君を会わせたくないのですか」
手を引かれるままに、つっかえながら思追は声を発した。
思い返せば、藍忘機と江厭離の会話に割り入ったり、藍忘機が誘われた食事を勝手に断るなど、魏嬰がいくら無作法とはいえ、過ぎた行動と思えた。
「当然だろ、あいつがもし間違って師姉のことを好きになったら困るじゃないか!」
「困る、のですか?魏先輩が?」
「決まってる!」
当然という風に魏嬰は胸を張って歩を進める。
「いいか、師姉の相手は完璧な男じゃなきゃだめだ、クジャク男なんて論外だし、藍湛なんてありえない」
魏嬰は苦虫を嚙み潰したように吐き捨てた。
「では魏先輩にとってどんな方が、江殿の理想的なお相手なのでしょう」
クジャク男というのが、いったい誰のことなのか思追には分からなかったが、魏嬰が抱く江厭離の理想の相手はとんでもなく敷居が高そうだ。
思追は単純に興味本位で魏嬰に尋ねてみた。
すると、魏嬰は目を輝かせて思追の肩をバシバシと叩いた。
「いいか、よく聞け!師姉の相手の条件はな、まずは俺より強いこと!当然それに見合った修為も高くないとな、そして何より顔が良くなきゃだめだ、ついでに心根は優しく、思いやりがあり、品性高く風雅であるべきだし、仙門の手本となるような立派な公子でなきゃ俺は認めない!」
滔々と語る魏嬰の言葉を飲み込み、思追は一つ一つそれを形作った、そして出来上がったものを口にする。
「それって、それって…、含光君ではないですか?」
魏嬰は一瞬足を止め、口を閉ざし、そして怖いくらい思追を睨んだ。
「絶対に、あいつじゃない」
「そ、そうですよね!」
あまりの圧に思追も即座に否定した。
「いいか!とにかくあいつは駄目だ!あいつは絶対師姉を好きになったら駄目なんだ」
どこか必死にまくしたてる魏嬰は、思追のことを忘れて足早に歩を進める。
慌てて思追も追いかける。不思議とその足取りはどこか軽かった。
(なんだ、そうか、そうだったんだ)
今まであった生前の魏嬰と藍忘機のやり取りは、思追にとって衝撃的で悲しいものだった。
藍忘機に関しては確かに魏嬰への思いを感じてはいたが、魏嬰にそれを今まで感じられなかった。
確かに昔、蘇ったあとの魏嬰にも「あの頃の俺は、藍湛に対してそんな風に考えたことがなかった!」などと冗談めかして言われたこともあったので、そうなのかと事実をこの目で見てすこし寂しかったである。
(けど、これって…、魏先輩も含光君のことを)
藍忘機と義姉を極力合わせないようにしたり、あえて藍忘機の悪口を言ってみたり、少々子供っぽい気もするが、何せあの魏嬰である。思考の幼さはあるものの、つまるところは藍忘機をとられたくないと思っての妨害行動なのだろう。
そう考えると、少しだけ、ほんの少しであるが、思追はこの場所に来て初めて口元を綻ばせることが出来た。
そして、魏嬰の後を追いかけながら一つの決心をする。
(言おう、やっぱり魏先輩には幸せになってほしいです。それで僕がどうなっても)
決めてしまえば、思追の心は思ったより落ち着いていた。