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    ピアノとモブと三郎

    #ヒプノシスマイク
    hypnosisMike
    #山田三郎
    yamadaSaburo

    鋼鉄の箱庭にて それは別れの曲だった。
     僕が初めてその旋律を耳にしたのは放課後。来年の春には取り壊される予定の、旧校舎二階の音楽室に「彼」はいた。もうずっと調律もされていないであろうグランドピアノの鍵盤を、まるで数学の問題を解くような正確さで彼は奏でていた。
     無感情に、あたりまえに。
     ちらちらと踊る埃が夕陽に照らされる音楽室の真ん中に彼は座っていた。フレデリック・ショパンによる練習曲作品十第三番。その日、その瞬間、彼はそれを弾いていた。僕と同じく天才と呼ばれる山田三郎が、あの日、あの瞬間、あの音楽室にいたのだ。






     水曜日だった。
     連れ立って運動場や体育館へ向かう放課後の生徒の波に逆らって、僕は旧校舎へと向かっていた。数年前に耐震工事が施された新校舎が完成してからは、古びた長机や錆びついたキャビネットなんかが積まれるだけの、ほとんど物置同然と化している場所。その校舎の二階、いちばん奥にあるのが音楽室だった。名だたる音楽家たちの肖像画も、所々破れて中身が見えている椅子も、がたついた譜面立ても全て新校舎の音楽室へと運ばれたが、グランドピアノだけが取り残されたらしい。僕はいつしか、誰もいない校舎の誰もいない教室にひっそりと佇むピアノに会いに行くのが習慣になっていた。そして、その日もそうしていた。
     旧校舎の正面玄関は鍵がかけられているため、裏庭に面した通用口から出入りする。裏庭には一本ドンと大きい樹が立っていて、最近僕はその樹が桜だと知った。ほんの二週間前までは淡い花びらを舞わせていた樹は今ではすっかり緑の葉を楽しげに揺らしている。
     靴のまま二階へ続く階段に脚を掛けた瞬間、微かにピアノの音が聴こえ、僕はゆっくりと顔を上げた。目を閉じて耳に意識を集中させる。空耳ではなかった。そうだと分かった瞬間に、どくんとひとつ心臓が鳴るのが分かった。もうずっとここのピアノを勝手に弾いている僕が言えたことではないかもしれないが、"もう使われていない旧校舎の音楽室から聞こえるピアノの音"が、こんなにも本能的な恐怖に結びつくなんて今の今まで知らなかったのだ。
     それでも僕は引き返さなかった。あまりにもその旋律が正確だったからだ。恐怖より好奇心が勝った瞬間だった。いったい誰がこのショパンを奏でているのかが知りたい。その一心で僕は階段を駆け上がって廊下を突き進み、音楽室の扉に手をかけた。
     僕が勢い余った力で扉を開いても、そこにいた男子生徒──山田三郎は手を止めることなくピアノを弾き続けていた。途中ちらりと目線をこちらに向けただけで、それもすぐに鍵盤へと戻された。
     カーテンが取り払われた窓の向こうは橙色で、暗い音楽室もそっくり同じ色に染まっていた。練習曲作品十第三番ホ長調──別れの曲。物悲しげな序盤から、感情を揺さぶるような中盤へと向かうすぐ手前でやっと山田三郎は手を止めた。僕は何も言わなかった。言えなかった。山田三郎が息を吐く微かな音がやけに鮮明に耳に届いた。
    「この先の音がよく分からないんだ」
    「⋯⋯すごい、山田くん。ピアノも弾けるんだ」
    「君、誰?僕のこと知ってるの」
     その時、山田三郎が初めてこちらを見た。左右色違いの独特な瞳は怪訝さを隠そうともしない。この学校始まって以来の天才であり、ディビジョン・ラップバトル出場常連の山田三郎を知らない人間なんてこの学校のどこにもいないはずだ。そして、僕のことを知らない人間もいないと思っていたが、目の前の男子生徒はそうではなかったらしい。僕は音楽室へと一歩踏み入る。
    「失礼」
     声を掛けると山田三郎は椅子から降りてピアノの脇へ寄った。僕は一つ呼吸をして、先程彼が手を止めた続きの旋律を奏でた。隣で山田三郎が小さく息をのむ音が聞こえた。
     最後まで弾き切ってしまうと、一瞬の間を置いて隣から手を叩く音が聞こえた。恐る恐る山田三郎を見上げると、先ほどまで鋭かった山田三郎の瞳は嘘のように柔められていた。
    「ああ、君のこと思い出したよ。僕、君のこと知ってるよ。この間のウィーンのピアノコンクールで一位だったんだっけ。五組の天才ピアニストだ」
    「ありがとう。でも天才なんかじゃないよ。山田くんこそ、勉強やラップだけじゃなくってピアノまでできるんだね。驚いたよ」
    「別に⋯⋯できるってわけじゃない。昨日テレビで耳にした曲が良かったから弾いてみたいなと思っただけ」
     山田三郎はつとめて冷静な口調で僕にそう告げた。遜ってなんかいない。真実を述べているだけだった。弾いてみたいと思ったそれだけで、譜面も見ず。
     僕が口を開けないでいると、山田三郎がじっと顔を覗き込んできた。
    「君はどうしてここに来たの?」
    「僕、は⋯⋯いつも水曜日にここに来てピアノを弾いているんだ。二年のときからずっと。水曜日だけはレッスンが休みだから息抜きに」
    「へえ。でもこのピアノ調律されてないみたいだけどそれでもいいの?」
     山田三郎はひとつの白鍵を指でゆっくりと押した。家や教室のピアノとは僅かに低くずれた音が響く。僕は鍵盤に置かれた山田三郎の指の先に視線を落とす。
    「本当はあんまり良くないんだ。母さんの耳に入ったら禁止されてしまうだろうから、ここに来ていることは誰にも秘密にしてたんだ」
     山田三郎はふうん、と相槌を打った。興味や関心はカケラもない音がした。
    「そっか、それじゃ邪魔して悪かったよ。ここと君のことは誰にも喋らないから安心して」
     山田三郎が踵を返すとスニーカーが床を滑り低く鳴いた。彼がドアを開ける音とほとんど同時に僕は山田三郎を呼び止めた。彼は振り向かず「何?」とだけ言った。
    「山田くん、その、またここに来る?」
     僕の問いに間髪入れず彼は一言「さあ」と返したきり、後ろ手にドアを閉めて音楽室を去った。スニーカーの足音は程なくして聞こえなくなり、僕は小さく息を吐く。
     音楽室も窓の外も夕方から夜の色へと変わろうとしていた。


     どうして僕はあの時山田三郎を引きとめようとしたのだろう。ふとした瞬間に同じ「どうして」を繰り返すのだけれど、いつまでも僕はその答えに辿り着けないでいる。



     
     次に山田三郎が音楽室へとやって来たのは夏休みを過ぎた頃のことだった。
     僕は相変わらず誰にも秘密にして旧校舎の音楽室へと足を運んでいたし、八月に行われた国内ピアノコンクールでは一位を取った。全校生徒の前で校長先生から表彰状を受け取りバラバラと気のない拍手の音を聴きながら、生徒の波の中のどこかで山田三郎が僕を見ているのだろうか、なんてことをぼんやり考えていた。
     その日の放課後、山田三郎が音楽室へとあらわれたのだ。まるでいつもそうしてきたかのようにガラリと扉を開け、驚いている僕の姿を認めると無言で僕の元へと近づき、一言「おめでとう」とだけ彼は言った。
    「あ、ありがとう、山田くん」
    「水曜日だし、いるかと思ったんだ。前に君とここで会った時、僕が弾いていた曲があるだろう。あれを弾いてくれない」
     言われるがままに僕はショパンを弾いた。その間、山田三郎の視線は終始僕の指に注がれていた。こめかみから汗が伝い首元を流れ落ちるのが分かった。窓も扉も閉め切った音楽室で、のぼせるような心地で僕はピアノを弾いた。最後の四音を奏で終え鍵盤から指を離したその瞬間、山田三郎の視線がようやく僕の指から離れたのがわかった。汗で張り付いたシャツの胸元を扇ぎながら、音楽室の窓を開ける。緩やかな風が吹きこみ思わず目を閉じる。背後から拍手の音がした。山田三郎は何も言わなかった。
    「山田くん」
    「なに」
    「ピアノを弾く時は窓、閉めてね。先生たちにバレたらマズイと思うからさ」
    「うん」
    「僕は行くよ」
     山田三郎はもう僕を見ていなかった。布張りの椅子に腰を下ろし、何かを確かめるように鍵盤に指を寄せていた。


     その日から、水曜日には必ず山田三郎がやって来るようになった。毎回彼は僕に別れの曲を弾くように告げ、僕はそれに従った。一度、山田三郎に同じ曲を弾いてみせてよと頼んだがすげなく断られた。
     その代わり(かどうかは分からないが)、別れの曲以外であれば山田三郎はなんだって弾いた。僕が数回弾いて見せれば古典派から現代、ベートーヴェンからドビュッシーまで模倣してみせた。音が外れるくらいのミスをするものの、山田三郎は僕と同世代のピアニストと引けを取らないくらいに巧かった。ピアノの経験があるのかと問えば「別に」という答えが返って来た。そして、「別に」と答えた声とそっくり同じ温度の声で彼は言った。
    「音楽は数学と同じだから」
    「そう?」
    「例えば、初めて音律を体系的に定めたのはピタゴラスだろう?万物の根源は数であると論じた彼は、和音の響きも数で支配されていると考えたんだ」
     山田三郎はそう言って三つの白鍵に指を置いた。
    「同時に鳴る音の周波数の比が単純であればあるほど和音は協和する。オクターブに次いで協和する和音は?」
    「⋯⋯完全五度」
    「その考えもピタゴラスによってのものだ。その音程に周波数比二:三の関係を割り当てた。協和音程のオクターブの比率が一:二だからその次に単純な周波数比の⋯⋯」
     そこまで滔々と述べていた山田三郎は、黙ったまま呆けた顔をしている僕を見てふいに口を噤み、恥じるように小さく咳払いをした。
    「山田くんってやっぱりすごいね。僕、そんなこと考えてピアノを弾いたことなんてないよ」
    「別にすごくなんてない」
     ピアノを弾けること以外平凡な僕にはよく分からない感覚だったが、初めて彼をこの教室で見た時のことを思い返して少しだけ納得したような気持ちになった。


     秋を超え冬になっても僕と山田三郎は旧校舎に通った。僕たちは廊下や合同授業で顔を合わせても声を掛け合うなんてことはしなかった。誰一人として、僕と彼がが水曜日の放課後にしていることを知らなかった。




     イケブクロ・ディビジョンの代表チームがテリトリーバトルに勝利したとネットに載った日は雪だった。
     山田三郎の在籍するクラスには朝から人だかりができていた。自分のクラスへ向かう途中、教室の中に視線を向けるとクラスメイトに囲まれる山田三郎が見えた。一瞬目があったような気がしたが彼の前に数人の女生徒が立ち塞がり、すぐに見えなくなった。
     
     その日の放課後、暖房器具なんてない教室で、凍えてうまく動かない指にたびたび息を吹きかけながらいつものようにピアノを弾き終えた。
    「山田くんてさあ、どこの高校受けるの?」
     ひととおり戯れたのち、何の気無しに僕は訊いた。山田三郎は椅子に腰掛ける僕の脇に立ち、一度だけゆっくりと瞬いた。
    「──高の予定だけど」
     彼はイケブクロ内にある公立校の名前を挙げた。てっきり有名な私立高校へと進学するものとばかり思っていた僕はひどく面食らった。そんな僕の顔を見て山田三郎は眉根を寄せた。彼にとってはあまり気持ちの良い話題ではないらしい。
    「ああ、そうそうテリトリーバトルの映像、配信で見たよ。他のメンバー二人は山田くんのお兄ちゃんなんでしょ?カッコいいね」
     咄嗟に話題を変えると、山田三郎は身を乗り出して「そうだろ!?」と弾んだ声を上げた。普段のすまし顔がこんなに綻ぶものなんだ、と再び僕は面食らうこととなったが山田三郎はまったく気づいていない。
    「二郎⋯⋯次男も長男もすごいんだ。二、三番手を相手取ったときのあのリリック聴いた?もう本当に⋯⋯」
     興奮気味に語る色違いの瞳はきらきらと熱を帯びている。
    「僕の家、萬屋やっててさ。長男が経営してるんだ。僕も次男も時々手伝ってるんだけど、高校卒業したら僕、本格的に一兄の手伝いをしたいんだ」
    「それって、いい夢だね」
     僕の返事を聞いた山田三郎は口元だけで小さく笑った。
    「君はやっぱり音楽の学校へ進むの?」
    「僕、は⋯⋯」
     僕はパリに行くんだ。
     そう答えるとややあって山田三郎は小さく「すごい」と呟いた。
    「パリって、あのパリ?」
    「パリはパリだよ。それ以外ないでしょ」
     山田三郎らしくない言葉に思わず笑うと、山田三郎もつられたように吹き出した。それから彼と僕はぽつぽつと互いのことを教え合った。好きな食べ物、好きなゲーム、好きな本。
    「君はどうしてピアノを始めたの?」
    「僕が始めたかったわけじゃないよ。幼稚園の頃からのただのお稽古ごとだったんだよ。たまたまここまで弾けるようになったけどさ」
     僕は白鍵を一つずつ人差し指で押していく。
    「ピアノ、好き?」
     山田三郎はじっと僕を見て問いかける。
    「好きだよ。どの楽器よりも弾いていてしっくりくる。ピアノってすごいんだ。すごく昔からより良い音を出すためにいろんな方法で改造されてきてさ。職人たちの発明のおかげで今のピアノがあって、数百年も昔の素晴らしい音楽家たちの曲を弾くことができる。いい音のために鉄製の弦がたくさん使われててね、その張力ったら20トンくらいもあるんだよ。だからそれを支えるフレームもかなり頑丈でさ、ヴァイオリンやオーボエと違ってコンクールなんかでは自分が慣れてるピアノを持ち込む⋯⋯なんてできないんだけどね」
     そこまで一気に話し、ついはしゃぎ過ぎたと自分を恥じたが、隣の山田三郎は興味深げに頷いていた。門限までに帰れるぎりぎりの時間まで話し込んだ僕は、ふと時計を見て慌てて立ち上がる。
    「それじゃあ僕は行くよ」
     山田三郎は何も言わず、暗くなる冬の外を見ていた。



     
     旧校舎の桜の枝にちいさな蕾が膨らみ始めた。
     その日、音楽室にやって来た僕を見て山田三郎は困惑し切った顔をした。
    「君、どうしたの。何その顔、制服⋯⋯も、何、なんで」
     山田三郎は僕に駆け寄りまじまじと顔を覗き込む。僕が答える前に彼は懐からマイクを取り出した。
    「誰にやられたの?上級生?どのクラスのやつ?」
     大丈夫、と返すと山田三郎は僕を睨みつけた。
    「大丈夫なわけないだろ!君がよくったって僕が許せない。言えよ、誰にやられたの」
    「絶対言わない。いいんだよ山田くん。だってほら見て」
     両手の指を開いて見せる。山田三郎は困ったように僕の手と顔に視線を向けた。
    「僕のことが目障りで困らせたいなら指を使えなくしたらいいのにそうしないんだ、あいつらは。結局弱いんだ。そんなやつら相手にするだけ無駄だよ」
    「⋯⋯なんで、いつも、力のあるやつが疎まれなきゃなんないんだ」
     山田三郎はぐっと眉根を寄せ、唇を結んでいる。自分のために怒ってくれる人がいる。それだけで十分だった。
    「それより山田くん。旧校舎、四月には取り壊されるんだってさ。今日先生たちが話してた」
    「そうらしいね。そしたらさ、このピアノはどうなるんだろう」
    「どこかの学校に寄付されるらしいよ」
    「そっか。よかったな」
     山田三郎は慈しむようにピアノの肌を撫でた。自分と同じようにこの鉄の箱の先を案じてくれる人間は、きっと山田三郎以外にはいないだろう、と瞬きながら思う。
    「山田くん」
     僕の呼びかけに色違いの瞳がこちらを向く。それに合わせて短い黒髪が揺れる。
    「いつかさぁ、パリに来る?」
     山田三郎はしばらく考え込むように黙った後、小さく笑った。
    「考えておくよ」


     きっともう僕が山田三郎と会うのはこれが最後だろう。水曜の放課後だけに会う同級生。彼と共に過ごした日を数えてみれば一ヶ月分にも満たないほんの僅かな時間だ。
     それでも、いつの日かパリの街を歩きながら、コンサートホールの舞台で観客の拍手と歓声を浴びながら、気ままに鍵盤に指を滑らせながら僕が思い出すのは、中学の頃のなんでもない同級生とのなんでもない放課後なんだろうという予感がする。


    「僕は行くよ」

     僕の言葉に山田三郎は瞳を一瞬だけこちらに向け、ほんのわずかに口角を上げてみせた。たった、それだけのことなのにどうしてだか僕はたまらない気持ちになって、慌てて彼に背を向けた。
     さよなら、元気で、ありがとう。
     ひとつも彼に向ける言葉を選べないままドアを開けて廊下に出る。後ろ手に扉を閉め、暫くその前で立ち尽くしていると、澄んだ旋律が扉の向こうから流れ始めた。

    「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」とショパンは語ったという。
     僕はこれから、この一年と同じくらいに忘れたくない時間を見つけることができるのだろうか。

     顔を上げて世界のどこよりも愛おしい場所に背を向けて歩き出す。天才との別れの調べが、放課後の学舎にいつまでも響き続ける。

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