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子供の泣く声が響いた。そこにいた人たちは一斉に泣き声のした方を振り向く。ふたりの子供がいた。一人は地面に座り込んでわんわんと泣いている。もうひとりは泣く子と対峙するように立ち、じっと見下ろしている。大人が駆け寄り、泣いている子の背中をあたたかな手で撫でた。大丈夫? と、声をかけるとさらに泣き出して、その泣き声はまるで獣が吠えているかのようだった。
「哥哥がぁ」
ぐしゃぐしゃになった泣き声の間にその子は言った。
哥哥が、沐沐のおもちゃを取った。僕の、沐沐の大切なおもちゃを壊した。
耳を凝らしてどうにかその声を拾う。あらあら可哀そうに、と背中を撫でていた大人が対峙している子供、その子の兄であろう子を見た。
「駄目じゃない、弟を泣かせたりしたら。お兄ちゃんなんだから」
その言葉に小さな手がぎゅっと握られる。
江澄はその様子を茶屋から眺めていた。泣いている弟にはわらわらと人が寄り添い、慰めの言葉をかける。対して兄である子供には、非難の言葉が止まらない。
誰も、その子が、兄が涙を浮かべて耐えているのに気がつかない。
「江澄? どうかしましたか?」
顔を上げるとそこに眩暈がしそうなほど美しい造形があった。その手には菓子や果物、反物や装飾品が抱えられている。
「随分買い込んだな」
「ええ、どれも姑蘇にはない珍しいものだったので、つい」
雲深不知処の者は無駄遣いをしないのでは、と問えば、弟への土産は無駄ではないでしょう? と微笑みを交えて返される。
「あそこに」
江澄は指さした。
「兄におもちゃを壊された子供が泣いている」
藍曦臣がその指先を辿ると、ふたりの子供が取っ組み合いの喧嘩をしていた。兄が弟の髪を掴み、頬を叩き、腹を蹴る。藍曦臣は途端に止めなくていいのですか⁉ と狼狽した。
「いい。あのままやらせておけ」
周りの大人は蹴られ叩かれ、止めどなく泣き続ける弟を心配する。そのうちに兄は、誰かに弟を叩く腕を掴まれ今度は自分が叩かれた。瞬間、弟の泣く声も、兄が弟を叩く音も、周りの大人が心配する声も途切れ、次のときには兄が声を上げ、弟以上に泣きはじめた。
江澄はため息をついた。
あの周りの大人たちは知らない。兄が、なぜ弟のおもちゃを奪ったのか。なぜ、壊したのか。
「あなたは兄弟喧嘩などしたことないのだろうな」
袖に藍忘機への土産をしまっている藍曦臣の表情は嬉々としている。江澄は落花生を割った。
「雲深不知処では争いごと自体が禁じられていますから」
「そうは言っても、弟に腹の立つことのひとつやふたつはあっただろう」
こちらは百も二百も千も万もあった。
「いえ、そのようなことは……、一度もないですね」
「一度も?」
「ええ、一度も」
忘機は私には出来すぎた弟ですから。
そう言う藍曦臣の表情は謙遜と言うより自慢気だ。
江澄はため息をひとつ吐き、剥いた落花生を口に放り投げた。誇らしい弟を持てて羨ましい限りだ、と口にすれば慰めの言葉が向けられるのはわかっている。代わりに奥歯で落花生を嚙み砕いた。
「そもそも、喧嘩とはどのようにして起こるのでしょうか?」
「きっかけなど些細なことだ」
例えば、買った饅頭が相手のほうがすこし大きいとか、通りすがりの女の子に片方だけ色目を向けられたとか、試験の点数が相手のほうが優秀だったとか、人を押しのけ日陰の道ばかり歩いているだとか、そんなことで喧嘩がはじまる。
「譲り合えば良いのでは?」
「そんな無様なことができるわけないだろう」
鼻で哂った江澄はもうひとつ落花生を割った。ぱき、と小気味よい音がする。
途端、ああとひらめいた。
「藍曦臣、俺と喧嘩しよう」
言いながら、江澄はいまにも込み上げてくる笑いを押さえるのに必死だった。
「貴方と喧嘩などする理由が――」
殻から取り出した落花生の実を指先でくるくると弄び、江澄は言った。
「俺は、あなたが俺を想う以上に、あなたが好きだ」
茶杯に伸びた藍曦臣の手が止まる。ゆっくりと向けられる視線に、江澄の背筋が下から上にと溶けるように痺れ上がる。
「……私のほうが貴方のことを好いている筈ですが」
「いや、俺のほうがあなたのことを想っている」
「先に恋慕していると告げたのは私です」
「口を吸ったのは俺からだろう」
「貴方が恋しいと泣いたのは私ですよ」
「あなたに会いたくて雲深不知処に乗り込んだのは俺だったな」
ガンッ、と茶杯が卓に叩きつけられた。
「私のほうが絶対に阿澄を愛しています! なんであなたは! いつも! 私の想いをわかってくれないんですか!」
こぼれた茶が卓を、藍曦臣の手を汚す。江澄はたまらず腹を抱えて笑い転げた。
「わかった。ああ、そうだな、あなたのほうが俺を好きだ。わかったから、落ち着いてくれ」
引きつる笑いをどうにか宥めて、江澄は椅子をひっくり返して立ち上がった藍曦臣を座らせた。茶屋の女主人があらあらと堪えきれない笑みを浮かべて、汚れた卓を拭いて行く。
「な、これでわかっただろ。譲り合えないこともあるってことが」
淹れ直された茶を飲みながら江澄は向かいに座る、真っ赤な人を見る。頬も、耳も、首も、目も、全部が羞恥で染まっていてまるで林檎のようだった。
江澄の言葉に藍曦臣は小さく頷き、その顔を両手で隠す。
「二度と、貴方と喧嘩などしたくありません……」
そう言う格好悪い藍曦臣の姿を、江澄は愛しく思った。やはり、自分のほうがあなたを強く想っている。とは、いとおしすぎて言えなかった。