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面白くない。
江澄は更新された動画を見ながら、アイスコーヒーに刺さったストローを噛んだ。
楽しみにしていた動画配信サービス限定のオリジナル作品が更新され、浮かれた気分で帰宅したら、思いがけない来客いた。
それはソファに腰掛けている人の膝の上にいる。
大人しく丸まって、大きな手で頭を、背中を、顎の下を撫でられている。
時折気持ちよさそうな声を出して、手が離れると「やめないで!」と言う。
その素直さが羨ましくないと言ったら嘘になる。
江澄は動画に集中しようと画面を睨む。
けれど、やっぱり面白くない。
「なんだ、それは?」
大学から帰宅した江澄は、抱えられたそれと藍曦臣を交互に見て言った。
「犬だよ」
「見ればわかる」
「ポメラニアン」
「それもわかる」
馬鹿にしてるのか? と藍曦臣を睨むと、掴んだポメラニアンの前脚を振りながら、「お帰りなさい、阿澄」と芝居がかった作り声を出す。
「この子は明玦兄の飼ってるポメラニアンだ。名前は天狼」
「天狼? これが?」
真っ白で毛玉のようにまん丸な姿のポメラニアンには不釣り合いな強い名前だ。小白や棉花と名付けたほうがぴったりだ。
「三歳の女の子だ」
「メスなのか⁉︎」
聶明玦のセンスの無さに驚きながら、江澄は靴を脱いだ。
「それで、なんで聶さんのペットがうちにいるんだ?」
洗面所に向かう江澄の後を、ひとりと一匹が着いてくる。
「明玦兄が急に出張になってしまって、三日ほど家を空けることになってしまったから、私が預かることにしたんだ」
「懐桑は? あいつが面倒を見ればいいだろ」
手洗いうがいを済ませた江澄は、汗をかいた上着を洗濯機に放り投げた。
「懐桑は天狼と相性が悪くて、言うことを聞いてくれないそうだ」
近づこうとすれば威嚇するように喉をグルルと鳴らされ、散歩に連れて行こうとすれば好き勝手ぐいぐいとリードを引っ張り、かと思えば一歩も歩こうとはせず座り込んだり、餌をあげればもっとよこせと噛み付かれる。完全に舐められた態度を取られ、とてもじゃないが三日も面倒を見ることができない。
「だから私が預かることにしたのだけれど、駄目だっただろうか?」
藍曦臣に抱えられたポメラニアンは、とても凶暴そうな態度を取る犬には見えなかった。
黒い豆のような鼻先に手を差し出すと、くんくんと数回江澄の匂いを嗅ぐ。小さなピンク色の舌が江澄の指を舐めた。そのまま鼻先で指を持ち上げられて、まるで頭を撫でろと催促するように動く。
江澄はそっと、真っ白でふわふわの、小さな頭を撫でた。
「……べつに、ダメではないが」
よかったと言う藍曦臣の表情と、江澄に頭を撫でられているポメラニアンの表情はそっくりだ。
勢いよく左右にぶんぶんと振られる尻尾と同じものが、藍曦臣の後ろにも見えた気がした。
聶明玦のペットのポメラニアン、天狼は、聶懐桑に見せるような態度を江澄に取りはしなかったが、比べものにならないほど藍曦臣に懐いていた。
藍曦臣が立ち上がればその後を着いて周り、腰掛ければすぐさま膝の上に飛び乗る。姿が見えなくなるとクウクウと鳴き、撫でられればすぐに腹を晒す。
どうしてそんなに懐かれているんだ? と聞けば、以前も何度か面倒を見たことがあるのだと言う。
「明玦兄が天狼を飼い始めたときから知っているから、慣れてくれているんだろう」
慣れている、と言うより、明らかに天狼は藍曦臣に好意を寄せている。散歩に出れば、ちらちらと藍曦臣を振り返り見て、名前を呼ばれれば揚々と尻尾を振る。すれ違う人に可愛いわんちゃんですね、と言われても、天狼は藍曦臣ばかり見ていた。
いつもとは違う散歩コースにはしゃぎすぎたのか、途中疲れて歩かなくなった天狼は、心をくすぐる声で鳴き、抱っこをせがんだ。その姿はあまりに可愛らしくて、江澄は思わず胸がきゅうと締め付けられた。
元々、江澄は犬が好きだった。小さい頃に何匹が飼っていたこともあり、扱いには慣れている。そのとき飼っていたのはどれも大型犬で、犬と言えば大型犬一択だろうと思っていたが、この小さなふわふわとした姿もまた、大型犬とは違う可愛らしさに溢れていた。
だけれどやはり面白くない。
そう感じてしまうのは、江澄が藍曦臣の恋人だからだ。
江澄は藍曦臣の膝の上を陣取り、撫でられている天狼を、頭からかけたタオルの隙間から覗き見た。相変わらず満足そうな顔で撫でられている。幸せそうで羨ましい。
本当ならその手は江澄に触れているはずだし、その膝の上は江澄がいる場所だ。
これが互いに家族として迎え入れたペットなら、こんな思いを抱くことはなかったのだろうが、今日ここにいるのは急な来客だ。他人(他犬?)に恋人の手を、膝の上を取られて、なにも思わずにいられるほど、江澄は大人ではない。
ガシガシと風呂上がりで濡れた髪を拭いて、江澄は乱暴に冷蔵庫を開けた。
「風呂、開いたから入れば?」
「そうだね」
そっと、藍曦臣の手が天狼を撫でる。大きな真っ黒い瞳はもう重たい瞼に閉じられている。鼻先から間抜けな音が聞こえた。
「寝たのか?」
ペットボトルの水を一気に半分ほど飲んだ江澄は、はっと大きく息を吐いた。
江澄が風呂に入る前までは元気に起きていた。夢でも見ているのだろうか。天狼の前脚が小さく大地を駆けている。
「ついさっきね」
抱き抱えられたまま、ファンシーなパステルカラーのペットベッドに運ばれる。それは聶明玦の家から持ってきたものだ。藍曦臣の腕から離れたら起きるのではないか、と思ったが、天狼はこってりと眠りに落ちたのか、瞼を震わせることもなかった。
「急に家ではないところに連れて来られたから、疲れたんだろう。よく寝ている」
最後、藍曦臣が天狼の頭を撫でた。
面白くない。
「阿澄」
洗ったばかりのパジャマを抱えた藍曦臣が、入れ違いに寝室に入ろうとする江澄の顎の下を撫でた。
「なっ、んだよ」
くすぐったいそれに、逃げるようにみじろぎをする。
すこしだけ屈んだ藍曦臣に顔を覗き込まれる。わずかに両目が細められた。
「あとで、たくさん構ってあげるよ」
手のひらが江澄の頭を撫でた。静かにドアが閉まる。程なくしてシャワーが浴室の床を叩く音が響いた。
江澄はぱったりとキングサイズのベッドに倒れ込んだ。
ゆるゆるとした動きでシーツをきつく掴む。
「……っ、くそ」
口から出た言葉とは裏腹に、その顔は緩んでいた。
尻尾があれば、恐らく左右に揺れていただろう。