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「チンチロで」と、江澄の口から出てきた言葉に藍曦臣は小首を傾げた。明るい色の髪の毛の店員は呪文のような掛け声を厨房に通す。
くたくたに茹でられたもやしとハムを和えたサラダを口にしながら、藍曦臣はメニューに視線を落とす。チンチロと名前のついたメニューは見つけられなかった。
「なにを注文したの?」
「ハイボールだが?」
江澄は顔にかかる髪を耳にかけながら、たっぷりとソースをまとったコロッケを口に運ぶ。すこしだけ上目遣いの顔を向けられて、その美しさにどきりと心臓が跳ねた。おかしい、一滴も酒を飲んでいないはずなのに。
「でもさっき、店員さんにはチンチロと」
江澄が眉間に眉を寄せる。駅ビルの地下にある大衆居酒屋は金曜の夜とあって賑やかだった。大きな声を出さなければ相手の耳に声は届かない。藍曦臣はもう一度、店員さんにはチンチロと言っていたね? と先ほどより大きな声を出した。
「あ? ああ、正式にはチンチロリンハイボールだな」
こつこつ、と短く爪を切り揃えられた指先がメニュー表を叩く。いくつかのハイボールの名前が並んだその横にチンチロリンという文字があった。
「お待たせっしたぁ、チンチロハイボールでーす!」
先ほどとは違う、でも威勢のよい店員が江澄の前にハイボールを置いた。
「奇数が出たら二杯目が無料になりゃーす!」
ずい、と差し出された碗のなかには賽子がふたつ入っていた。
「投げてみるか?」
賽子を取った江澄がその手を藍曦臣の前に出した。思わず、条件反射で手を伸ばしてしまう。手のひらの上にある賽子をなにか仕掛けでもあるんじゃないかと疑うような目で見てしまうが、一から六までの目がある白と黒と赤の至って普通の賽子だった。江澄の目が「振れ」と言っている。
賽子が碗のなかで転がる高い音がした。
次のときにはカンカンカンとつんざくようなベルの音が耳の側で鳴り、藍曦臣は、わっ! と声を上げた。
「おめっとーございゃーす! 奇数なんで、一杯サービスでーす!」
すぐにお持ちしますと言った横からハイボールがドンと音を立てて卓に置かれた。
「これがチンチロだ」
言って、江澄はハイボールを一気にグラスの半分にまで減らした。
へえ、と感心しながら江澄が差し出したコロッケに箸を伸ばす。脂がギトギトで健康に悪そうだ。
どこかの卓からベルの音が響く。
楽しいものだな、と思った。
江澄はメニュー表に書かれた、冷たいピーマンの肉詰めという文字に惹かれた。
ピーマンは夏のいまが旬だ。ピーマンの肉詰めに始まり、青椒肉絲、煮浸し、無限ピーマンまでメニューはさまざまだ。くたくたのトロトロになるまで煮込まれたピーマンの食感もいいし、サッと油を通すように火にかけたシャキシャキとした食感もいい。そしてあの独特の青臭い苦味が、ビールにぴったりだった。
だが、最近はピーマンの、そのピーマンらしさを感じることができていない。
なんせ金凌がピーマン嫌いだからだ。
すこしでもピーマンの苦味を感じればそこから食事は進まないし、料理にピーマンが入っているとわかれば、これももちろん食事は終了だ。最近は知恵をつけたのか、微塵切りにしても緑の欠片を見つけるとほじくり返して見つけ出すので、ブレンダーでピューレにして肉に混ぜている。
だからこんな風に外で飲むときは、つい家では食べられない料理に目が行ってしまう。
「藍渙、ピーマンは食べられるか?」
「ピーマン? 子供ではないのだから、食べられるよ」
烏龍茶しか飲んでいないとは思えない軽やかな口ぶりで藍曦臣は答える。江澄は右手を上げて店員を呼んだ。
「この、冷たいピーマンの肉詰めって言うのは?」
「生のピーマンの上に、甘辛の肉味噌が乗ってます」
じわ、と涎が口のなかに広がった。
「じゃあそれを一皿」
「あざーっす!」
江澄が注文する間、メニュー表を見ていた藍曦臣が微笑む。
「美味しそうだね、冷やしピーマンの肉詰め」
「ピーマンの肉詰めって言ったら、焼いたものだろう? 気になるメニューだな、と」
ゴク、とハイボールを煽る。
「こういう、素材の味がするものを最近は食べられていなくてな」
「阿凌に合わせているから?」
ああ、と江澄は頷いた。
「子供は苦味に敏感だからね」
「藍渙のところもか?」
「すごい顔をして思追は食べているよ」
ほら、と見せられたスマートフォンの画面には、人参と対峙する思追がいた。可愛い顔に似つかわしくない眉間のしわが刻まれている。
「お待たせしましたー! 冷やしピーマンの肉詰めっす!」
半分に切ったピーマンを皿にして、肉味噌が溢れるように乗っている。ひと口、齧るとピーマンのシャキッという食感と、甘辛の肉味噌の味が口いっぱいに広がった。これは酒だ。
江澄は喉を鳴らしながらハイボールを飲んだ。