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    8nagi87

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    曦澄ワンドロワンライ
    『手紙』

     ■ ■ ■


     姑蘇藍氏歴代宗主のなかで、一番筆忠実なのは藍曦臣だった。どんなに些細な、返事を要しない書簡にも時季の香を焚きつけた書簡箋で一筆返し、またその字も大変美しく、いつの間にか「藍曦臣から届いた書簡を懐に入れておくと文字が上達する」という迷信まで生まれていた。
     その迷信が仙門百家の間で広まると、藍曦臣の元にはさらに多くの書簡が届き、酷いときは三日も寒室にこもり、ひたすら返事を書き綴っていることもあった。見かねた藍啓仁が門弟を検閲の役につけ、返事が必要なものだけを藍曦臣に届けるようになったが、それでも雲深不知処には毎日多くの書簡が送られてきた。
     唯一、検閲されることなく藍曦臣の元に届けられる書簡は、共に四大世家と呼ばれる雲夢江氏、蘭陵金氏、清河聶氏の宗主たちから届くもので、だが、清河聶氏聶懐桑から届く書簡のほとんどは返事が必要のない、いわゆる愚痴と泣き言が綴られたものだった。しかし、返事をしなければ聶懐桑の情緒はますます不安定になるものだから、検閲を務める門弟は聶懐桑からの書簡が送られてくると急いで藍曦臣に届け、藍曦臣もまた、急いで返事を書き綴っていた。
     一度、「そんなに、返信の必要のないものにまで、お返事を出さなくてもよいのではありませんか?」と検閲を務める門弟が藍曦臣に献言すると、藍曦臣は怒ることなく門弟に言った。
    「どんなに返信の必要がない書簡でも、一筆でも返事が届けば、書簡を読んでくれたことがわかり、安心するだろう。なんの反応も頂けないことは、そうだな……、寂しいというものだ」
     そう言った藍曦臣の顔が、門弟の目には寂しげに映った。



     雲夢江氏江晚吟は筆不精で有名だった。そもそも雲夢の民にも苛烈と恐れられる江澄に書簡を送ろうとする仙門は極めて稀で、だがしかしそんな江澄に書簡を出すということは、それだけ切羽詰まっていることを表し、一日でも早く雲夢から連絡は来ないのかと、書簡を送った宗主は落ち着かない様子で返事を待っていた。だが待てど暮らせど江澄からの返事は来ず、雲夢に届ける間に紛失でもされたのかと不安に苛まれていると、書簡の代わりに雲夢江氏宗主江晚吟その人と門弟が現れ、あっと言う間に陳情を解決してしまった。
     なぜ、江宗主がここに? と驚きと畏怖で腰の引けた弱小仙門の宗主が酒を注ぐと、江澄は夜狩のときから変わらず吊り上がっている目をさらに吊り上げて、「私に書簡を出しただろう」と吐き捨てるかのように言った。
     江澄が言うに、書簡の返事を書く時間があるのなら、己の足で動いて解決したほうが早い、とのことだった。
     どうにも文机に向かってちまちまとした仕事をしているのは性に合わず、考えるよりも先に身体が動いてしまう。それに、早急に解決して欲しいと綴ったのはそちらではないか、と言われ書簡を出した弱小仙門の宗主は何度も頭を床につけて感謝を述べた。
     なので雲夢江氏江晚吟から書簡の返事をもらったことのある仙門百家はほとんどなく、唯一江澄が五通に一通ほどの割合で返事を書く聶懐桑への書簡には、可否のどちから一文字だけが書かれているだけだった。



     江澄は酷く重たい足取りで、毛足の長い絨毯の上を歩いていた。ふかふかとしたそれは、一歩進むごとにぞわぞわとふくらはぎまでくすぐってくるようだった。
     薄暗い室内にはオレンジ色の明かりがぽつぽつと点いていた。上から、下から、横からと照らされたショーケースを人びとが覗き込んでいる。時折、ショーケースを指差した人から驚嘆の声が上がるが、それはこの場に沿うように小さなもので、かろうじて江澄の機嫌を悪化させることはなかった。
    「阿澄、阿澄。こっちだ、あったよ」
     だが、天井に向かって柱のように伸びたショーケースの前に立った男が江澄を手招きすると、その機嫌はあっと言う間に振り切れてしまった。
    「いい。私は見ない」
    「なんで? せっかく良い状態で飾られているのに。ほら、文字もはっきりと読める」
    「見、な、い」
     はっきりと、一語一句を区切りながら強く言うと、男は美しい造形の顔にある、これもまた美しい形をした眉の尻を下げ、嘆くような声を上げてショーケースに向き直った。
     ショーケースのなかには一枚の紙が入っていた。淡い茶色に日焼けした紙は、ところどころ欠け、墨の色も薄くなってはいたが、数千年の時を経ているとは思えないほど状態がよかった。
     男はショーケースをまじまじと見つめ、その紙に綴られた文字をなぞる。思わずうっとりとした笑い声をこぼしてしまうと、腰の辺りをどんっ、と突かれた。
    「後ろ、人が並んでる」
    「ああ、申し訳ない」
     男があまりに長いことそのショーケースを見ているせいで、背後には順番待ちの列ができていた。江澄に肘打ちされて、ようやくその場を離れる。
    「もっと見ていたかった」
     建物の一階に併設されたカフェでコーヒーを飲むことにした江澄は、後ろ髪を引かれるように言った男の言葉に呆れ返った。
    「散々見てきて、まだ言うのか」
    「とても貴重なものなんだよ」
    「貴重? あれが? ただの紙じゃないか」
    「ただの紙じゃない。手紙だ」
    「手紙も紙に変わりはないだろ」
    「阿澄」
     砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーをひと口飲んで、江澄の隣に座る男は――藍曦臣は言った。
    「筆不精な貴方が書いた手紙がどれだけ貴重なものか、わからないとは言わせないよ」
    「わからないな」
    「阿澄」
     間髪入れずに答えて、江澄は悠々と脚を組み替えコーヒーを飲んだ。
     しっかりと今回の展示の図録まで購入した藍曦臣は、いかに「雲夢江氏江晚吟」が書いた書簡が貴重であるかを切々と訴えている。江澄が適当に「へえ」だの「ほぉ」だのと返しているのには気がついていない様子だ。
    「蓮祭りに沢蕪君を招待しただけの手紙が、そんなに貴重なのか?」
    「懐桑に可か否しか綴られていない手紙を出していた江宗主が、招待状なんて書いていたと知ったら、それは貴重以外になんと言えば?」
    「あれはあなたがしつこく雲夢に行く口実が欲しいとせがんでくるから書いたまでだ」
    「そうでもしないと、堂々と雲夢の街をふたり並んで歩くことなんてできないだろう?」
    「忍び込んで来るのは得意だったのにな」
     姑蘇藍氏の宗主が亥の刻過ぎに度々蓮花塢に忍び込んで来ていたとは、きっとどの記録にも残っていないだろう。江澄は小さく笑い声を上げた。
    「あんなにいい状態で残しておけるほど、嬉しかったのか?」
    「もちろん」
     今度は藍曦臣が間髪入れずに答えた。
    「何度手紙を書いても、貴方は一筆たりともくれなかったからね」
    「返事に困るような手紙ばかり送ってくるからだ」
    「一度くらい返事をくれてもよかっただろう?」
    「返事ならしたじゃないか」
     最後のひと口となったコーヒーを飲み切り、江澄は座り心地のよかったソファから立ち上がった。返却口へと向かってしまう江澄を追って、藍曦臣も急いで甘いコーヒーを飲み干す。
    「会ったときにちゃんと、私も愛してると伝えていただろう?」
     それは筆不精の江晚吟が筆忠実な藍曦臣に送った、とても貴重な返事だった。


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    8nagi87

    DONE曦澄ワンドロワンライ
    『手紙』
     ■ ■ ■


     姑蘇藍氏歴代宗主のなかで、一番筆忠実なのは藍曦臣だった。どんなに些細な、返事を要しない書簡にも時季の香を焚きつけた書簡箋で一筆返し、またその字も大変美しく、いつの間にか「藍曦臣から届いた書簡を懐に入れておくと文字が上達する」という迷信まで生まれていた。
     その迷信が仙門百家の間で広まると、藍曦臣の元にはさらに多くの書簡が届き、酷いときは三日も寒室にこもり、ひたすら返事を書き綴っていることもあった。見かねた藍啓仁が門弟を検閲の役につけ、返事が必要なものだけを藍曦臣に届けるようになったが、それでも雲深不知処には毎日多くの書簡が送られてきた。
     唯一、検閲されることなく藍曦臣の元に届けられる書簡は、共に四大世家と呼ばれる雲夢江氏、蘭陵金氏、清河聶氏の宗主たちから届くもので、だが、清河聶氏聶懐桑から届く書簡のほとんどは返事が必要のない、いわゆる愚痴と泣き言が綴られたものだった。しかし、返事をしなければ聶懐桑の情緒はますます不安定になるものだから、検閲を務める門弟は聶懐桑からの書簡が送られてくると急いで藍曦臣に届け、藍曦臣もまた、急いで返事を書き綴っていた。
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