■ ■ ■
思わず感嘆の声が盛れた。
藍曦臣は江澄の胸に飛び込むように雲夢の地に降りると、挨拶より前にすごいですね、と賛美の声を上げた。辺り一面に淡い紅色と白色の蓮の花が咲き乱れている。その間を濃い緑の大きな葉が埋め、まるでそこに湖などなく、蓮の道が続いているかのようだった。風に揺れると凛とした音が聞こえるのではないかと思うほどその花の姿は美しい。藍曦臣はもう一度「すごい」と言った。
「そうだろう。なんて言ったって雲夢は蓮の都だからな」
支えていた身体を雲夢の地にしっかりと立てた江澄が、両手を胸の前で重ね深々と拱手を取る。
「この度は忙しいなかよくお越しいただいた。礼を述べる。ぜひ、雲夢の蓮祭りを楽しんで行ってくれ、沢蕪君」
藍曦臣がまず連れて来られたのは、湖畔に沿うようにして露店が並ぶ大通りだった。行き交う人の数は多く、飛び交う声も威勢がいい。姑蘇にある彩衣鎮も賑やかではあるが、それに輪をかけて雲夢は活気があった。
年に一度のこの祭りのために遠方から遥々訪れる人も大勢いるから、この期間は常より賑やかなんだ、と江澄は言う。
「宗主! 今年の蓮もきれいに咲きましたね!」
「嫌に綺麗所を連れてる人がいると思ったら宗主でしたか! これ、よかったらそちらの麗人と一緒に召し上がってくださいな」
「あら、宗主が邪祟退治以外で外に出るなんて珍しい。あとでうちの店にも寄ってちょうだい。一杯ご馳走するわ」
右から左から、宗主、宗主と親しげに声がかけられるのに比例して、あっという間に江澄の手は酒や焼き饅頭やサンザシ飴でいっぱいになった。
「雲夢の者はとても貴方を慕っているようですね」
持ちきれなかった凧と茎つきの蓮の花托、それから煎餅をその手に引き受け、頭に色鮮やかな面を乗た藍曦臣は江澄の横を歩くが、その目に映るどれもが珍しく、ついつい小さな子供のように露店の前で足が止まってしまう。買ってやろうか、としたり顔で言われると、本当に幼い子のように扱われているようで、咳払いをひとつして袖から膨れた賽嚢を取り出し、どうにか姑蘇藍氏宗主の威厳を保った。
「慕っているというか、昔からよく知っているんだ。さっきの饅頭屋は子供の頃からあってよく盗み食いをしてたし、あの酒樓の女主人は姉上と仲がよくて、よくいたずらを仕掛けては烈火の如く怒られた。だから慕われているというより、クソガキが悪さをしないか見張ってるようなものだ」
湖の畔に停められていた小舟に乗り込む。古びたその舟は一歩乗り込むとギシと嫌な音を立てて沈み込んだ。男二人分の体重を受け止めるとさらに深く沈むが、江澄は慣れたように「こう見えて丈夫なんだ、この舟は」と笑う。
魯を漕ぐ江澄に、冷めないうちに焼き饅頭を食べろと言われ、藍曦臣は差し出された焼き饅頭をふたつに割った。なかにはぎしっりと具が詰まっている。肉と韮だけの素朴なそれは指を濡らすほど肉汁が溢れ、藍曦臣は思わずわっと声を上げた。
「饅頭は齧りつくのが常識だろう。ほら、早く食べないと服まで汚すぞ」
急かすように言われ、藍曦臣は「あ」と口を開ける。一口、齧ると焼かれた生地のパリッとした歯応えと、まるで汁物を飲んでいるかのような肉汁が口のなかに広がった。ゆっくりと咀嚼すると、今度は胡椒が舌をひりひりと刺激する。もう一口齧ると、今度は先程までは気づかなかった生地の甘さがよく感じられた。肉汁が、胡椒が、と追いかけるようにそれぞれの味が口のなかを巡り、止めどころがわからなくなる。
「美味いだろう?」
口の端を自慢気に持ち上げながらそう問うてきた江澄にうんと頷き、ふたつに割った饅頭の半分を食べ終えた藍曦臣は「こういうものをはじめて食べました」と言った。すると魯を漕いでいた江澄の手が止まり、まさかと驚きの声をあげる。
「露店でよく売られているだろう、見たことはないのか?」
「見たことはありますが、食べたのは今日がはじめてです」
「まさか煎餅も、サンザシ飴も食べたことがないとは言うなよ?」
ない、と言うと江澄は驚きと憐れみを混ぜたような表情を浮かべ、雲深不知処の者はなにを食べて生きているんだと嘆くように息を吐いた。
「煎餅は饅頭みたいにふたつに割って食べるなんでできないから、それも齧りついて食べろ。サンザシ飴もだ。さすがにそれに種が入っているのは知っているだろう?」
「はい」
卵と香菜と搾菜が薄い皮に巻かれた煎餅は甘辛い味がして、サンザシ飴はパリパリとした薄い飴が酸っぱいサンザシの実を優しい甘さで包んでいた。
「雲夢の食べ物はどれも味の種類が豊富で、美味しいですね」
「そんなもの雲夢じゃなくてもどこでも売っている。あなたが知らないだけだ」
舟が蓮の花の間をかき分け進んでいく。そのうちに街の賑やかさが聞こえなくなり、変わりに鳥の囀りが耳に届くようになった。
前が見えないほど茂る蓮の葉をかき分けると、ぱっと開けたそこには黄色の雌蕊を抱えた紫の蓮の花が咲き誇っていた。
「ここは?」
先ほどまで溢れていた淡い色の蓮とは違う、濃い色の蓮は江澄がまとう衣の色をしていて、まるで船尾に立つ江澄はこの蓮池を具現化したかのように見えた。
「ここは俺の秘密の場所だ」
魯を置いた江澄は藍曦臣と対面するように舟に腰を下ろした。酒甕を開け、藍曦臣が食べきれなかった焼き饅頭に齧りつく。その一口の大きさに顎が外れないのだろうか、と藍曦臣はそっと心配をした。
「昔、母上に教えてもらった場所なんだ。雲夢の者も知らない、姉上も、もちろん魏無羨も知らない、俺だけが知っている秘密の場所だ」
そう言いながらあっという間に饅頭が口のなかに消えていく。
「ここに誰かを連れて来たのははじめてだ」
「そんな場所に、なぜ、私を?」
肉汁に濡れた唇が酒甕に寄せられる。細い首の喉仏が数度上下し、江澄は言った。
「秘事の共犯者だろう、我々は」
悪さをする子供のように口端を持ち上げた江澄の顔が近づいて、そっとそれが藍曦臣のものと重なった。酒と、焼き饅頭の味がした。
人の唇がこんなにも柔らかく美味しいものだということを、藍曦臣は生まれてこの方はじめて知った。