いとはじ展示① 全年齢 壮年鯉月 頭の下の月島の足が、もぞ、と遠慮がちに蠢いた。
「ん?すまん、痺れたか?」
「いえ、大丈夫ですよ。読書の続きをどうぞ」
月島が、口元に小さく皺を刻んで微笑む。
今年の春、月島は五十になった。崩した足の上に私の頭を乗せたまま、やはり同じように読書に勤しんでいるが、時折眉間に皺がよる。文字が見づらいようだ。
「ふふ、お前もそろそろ眼鏡を作ったらどうだ?」
「まだ要りませんよ、見えてます」
「その割には、眉間に萎びた芋のような皺が寄っておったぞ」
「萎びた芋とは、随分な例えですね」
ぱたん、と読んでいたロシア語の分厚い本を閉じ、月島が火鉢の炭をつついた。
「愛嬌があると言う意味だ」
「愛嬌など、この年の男にはございませんよ」
「知らぬは本人ばかりなり、だな」
退役で一度は軍服を脱いだ月島は、その数ヶ月後には再び軍服に身を包んでいた。
反乱の後始末で何度も東京に足を運んだおかげで、月島の名前も相当に売った。その副産物が、下士官出身者としては異例のロシア語通訳官の拝命だった。日露での実践経験もある月島は、通訳官としては破格の月俸で迎えられた。
日清戦争以降、通訳の需要は特に増したが、その待遇は決しては良いとは言えず、長く勤める者は多くなかった。最近になってやっとそこそこの月俸が貰えるようになり、第七師団の通訳もやっと充足した。月島は人を纏める才能があるから、今は若い通訳官のまとめ役だ。
「炭、今夜いっぱいくらいはもちそうか?」
「ええ、大丈夫そうです」
「寒いのはなあ、あまり好っじゃなかったが、いつの間にか、寒い方が落ち着くようになってしまった」
「それは、もう随分長いことこちらにいらっしゃるんですから」
私も本を閉じ、月島の太腿に頬を擦り寄せた。
「年月は関係ない、お前が一緒だからだ」
筋肉質なのは変わらないが、往時の逞しさに比べればだいぶ筋肉が落ち柔らかくなった。夜着を通して伝わってくる体温が心地良く、一つ欠伸をした。
「そろそろ、休みますか?」
月島の指が私の髪に触れ、それから眠る猫にするように、慎重に頭を撫でた。
「…そんなむぞか真似をして、押し倒してしまうぞ」
「昨夜、したじゃありませんか」
「昨夜は、昨夜だ」
月島の夜着の褄を割って、足首から膝下を撫で摩る。風呂に入った後だから、まだ肌は幾分水気を含んでしっとりしている。柔こい臑毛ごと掌で慰撫していると、「やめなさい」と月島が私の肩を優しく叩いた。お互い本当にその気なら、風呂上がりに読書を楽しだりはしない。つまりこれはただの戯れだ。月島もそれは分かっているから、私の悪戯な手をそれ以上は咎めなかった。
五分ほどそうしてから体を起こすと、月島も「さて」と立ち上がった。
「すみませんが、今日は、先に休みます」
私を見下ろす表情は穏やかだが、すぐにピンと来た。
「また腕が痛み出したか?今年は、少し早いな」
寒い時期や梅雨の季節に古傷が痛むとはよく聞く話で、北海道は梅雨がないが、その分冬の寒さが堪える。月島の場合は、左肘に顕著にそれが出た。函館の戦いで折ったところだ。
寝間に布団を敷きながら、「軍医には診せたか」と尋ねると「古傷を見せたって仕方ないでしょう」と月島は笑う。
「それにさっき風呂で温まったから、少しは良いんです」
ひと組しか布団を敷かなくなって随分になる。枕を二つ並べた後、敷布の皺を丁寧に伸ばしている後ろ姿を見ていたら、愛しさが込み上げてきた。
「月島ぁ、長生きしてくいやい」
ぎゅうと背中から抱き締める。不安定な体勢だった月島がよろけて、そのまま後ろに倒れ込んできた。それを受け止め、さらにきつく抱く。ゴツゴツした感触も熱い体温も「ちょっと」と不平を漏らす低い声も、月島を構成する全てが、愛しい。
ふう、と溜息を吐いて、月島は右腕を伸ばして私の頭を撫でた。
「師団長になったあなたを見届けるまでは、死ぬつもりはありませんよ」
「そいじゃ足らん。その先もずっと一緒に居ろうな」
「一回りも違うのに無理を仰る…」
でもお前はいつも、私の無理を聞いてくれた。右腕になってくれと言った時も、予備役から通訳官に引き上げる時も、一緒に住もうと言った時も。お前はいつも、私が望むことを、最後には叶えてくれる存在だった。お前だけが私の我儘を許して、私に寄り添ってくれる。唯一無二の、私の右腕。
「わっぜすいちょ、基」
石鹸の匂いがする坊主頭に顎を擦り付ける。出会った頃は黒々としていたこの頭も、だいぶ白いものが増えた。振り向いた月島の顎に手を這わすと、私の頭に回された手が予想外の力で私を引いた。
「…なんとも、困った中佐殿ですね」
目の前で月島の短い睫毛が震え、吐息が頬を撫でた。重なった唇の温みが、今夜も優しく夜を満たす。
私の、秋霜の想い人。願わくば永く倶にあらんことを。
お読みくださりありがとうございました!
メリクリ🎄