自給自足用メリバ風味テキスト*
強い光を最後に、記憶は完結していた。
*
「寿命譲渡、かあ」
モモはバスタブの端に引っ掛けていた両足を引っ込めて、僕が入れる隙間を作る。水の中で色づいた爪が、鱗のかけらみたいにきらめいていた。たっぷりと張られた湯がくゆりと波打つ。
彼がぽつんと落とした単語は、さきほどまでリビングで見ていたニュースの中でしきりに取り上げられていた話題だった。
「興味あるの。僕たちには無縁の話だと思ったけど」
寿命譲渡。その名の通り、人の寿命を人に譲ることができる仕組みになっているらしい。譲った年数だけ、その人の寿命が延びる。海外ではもう制度化されているところもあるらしく、国民でなくても申請すれば通る、ということは最後のほうに軽く説明されていた。
「オレも別に興味あるわけじゃないよ? でも、もちきりじゃんか」
「日本では通らないでしょ」
「たしかにねー」
モモに抱えられるようにして湯船に浸かる。脳がふわりととけていくようなこんな時間が、心底僕は好きだった。
「でもさあ、知ってる? もしそのひとの全寿命を譲ったら、譲られるひとは不老不死になっちゃう仕組みになってるって……まあ、もちろん制度化はされないだろうし、ただの噂話だけど」
モモの声がかすかに沈む。顔の広いモモのことだから、もしかしたらその契約を交わした人と交流があるのかもしれない。僕も既に海外に渡って譲渡したあの人やこの人の名前もちらりと人伝に聞いたことがなかったわけではなかった。もちろん、表沙汰にはなっていないが
それにしてもさすがに全寿命譲渡なんて、お互いにとってメリットがあるとはそう思えないんだけれども。
「そうだとしても、関係のない話なら別に首は突っ込まなくてもいいんじゃないの」
「まあ、それはそうだよね。二人の問題だもんね」
「最近落ち込んでたのはそのせい?」
「えっ、ウソ。顔に出てた?」
モモは「まだまだだなあ、オレも……」と目に見えてしゅんと肩を落としたが、おそらく、気付いてたのは僕だけだろう。身体を捻って、ぺたりとしおれた髪をするりと撫でる。のぞいたおでこの肌が愛らしい。
「でも……モモにならあげてもいいかも。僕の寿命」
ベットの中で甘く噛むと震えるうなじ、僕の手によって開けられた耳たぶの穴、同じ色に染められた毛先。時折食べてしまいたくなるほど愛おしいなにもかも。
この身に僕が命を吹き込めば、正真正銘、僕でできたモモになるってわけだ。
「冗談じゃないよ。絶対やだ。貰ってあげない。オレがあげるんならいいけど」
「言うと思った。言っとくけど、僕だってそんなのいらないからな」
「なら最初っから言わないでよ〜」
鎖骨を指でなぞりながらその胸元にもたれかかる。肋骨の間をつつつと小刻みに人差し指で叩くと、顎に手をかけられて素早く口付けられた。
「急だね」
「ねえ、したくなっちゃった」
「明日早いんじゃなかったの」
「オレは平気だよ。ユキは昼から?」
「そうね」
「ぜっ、たい一回で終わらせるから。お願い」
身体をひとりと寄せて首に巻きつき、せいぜい「優しくできるの?」と鼓膜に囁いて煽ってやった。むくりと反応した下半身がわかりやすくて面白い。
モモの浸食を、いいよ、と赦してしまうのは、モモのものになったようでなんだか気分がいいのだ。ささやかにいつまでも、骨の髄に住み着いていてほしい。
「ここでするの?」
「だって、待てない」
「モモ、終わらせる気ないでしょ」
「そんなことないってば」
あやしげに咲いた笑みに素直に引き寄せられる。もどかしい気持ちでいっぱいだったのだ、癒してやることに乗り気じゃないわけがない。
モモを抜き取られてしまった僕にはなにが残るんだろうとふと疑問に思うことも増えた。答えは、まだ出ていない。出す必要も特になかった。だって、そんなことはありえないのだから。
*
完結したはずの記憶の先には、ふたたび白い光が満ちていた。始まりの予感に染まったやわらかな白は、しかし、あのときとは似ても似つかない。
「ユキさん、おねがい」
手を、握られていた。かすかで生々しい肌の温度は不自然な懐かしさをまとっている。祈るようにすすり泣く声は神聖さを帯びていた。ゆきさん、ごめんなさい、おねがい、はやくおきて。
最後までわがまましかいえなくてごめん。でも、おねがい。
モモの目元は僕の腕に伏せられていて、僕が目を覚ましていることには気付いていない。随分長いこと続いていたらしい白い懺悔の意味はとうとうわからなかった。──わからない、ままでいたかった。
「モモ」
まぶたまで真っ赤に腫れた瞳がはっとこちらを向く。枯れることを知らずに溢れ続ける涙は、いつだって僕を潤してくれた。閉ざされた世界を選んで閉じこもり続けていたあのときも、不甲斐なさに萎れてしまいそうになったあのときも。
「よかっ、た……」
だから今回も、それと同じだと言ってくれないか。この世に神様がいるならば、いつまでも、いくらでも祈ろう。いままでの不信も一生を捧げて償う。だから。
「……よくはないだろう、」
網膜の奥まで強く照らした暴力的なあの光は、猛スピードで突っ込んできた車のヘッドライトの光だ。ぶつかった衝撃を味わう前に、意識なんて一瞬で吹き飛んだ。
あんな目に遭って無事なわけがないのだ。仮に無事だったとして、こんなに無傷な、わけがないのだ。
「おかしいだろう」
正真正銘、僕はきみの相方で、この世界の誰よりも近くで、誰よりも長い時間隣にいた。おまえの選びそうな選択肢なんて手に取るようにわかるよ。嫌になるくらいに。
「ユキさんならもらってくれるかなって」
あの夜と同じ甘えるような仕草で手を取り、やわらかに微笑み、僕の手のひらに涙を落とす。
「勝手に渡しちゃってごめんね」
僕を救ったそのままの笑顔で、僕を打ちのめす事実を口ずさむ。
「ちゃんと、いらないって言っただろ」
「そうだね」
「……許さない」
「うん、」
たちの悪い冗談はいつまで経ってもひっくり返らなくて胸糞が悪い。もうここから出ていってほしい。それきり顔も見たくない。そう思いながら腕を引いて求めた口付けは塩辛くて不味くて、もう片時も離れないでいてほしかった。そのままくっついてひとつになってしまえばよかった。相変わらず、うんざりするほど愛おしかった。
「ゆるさなくていいよ」
容赦なく心を薙ぎ倒していく嵐のような感情の渦は、しかし1粒も瞳からは出てこない。ふんわりと浮かぶモモの微笑のせいで、いつまでもここにいるみたいな顔をしたしあわせの残り香だけが淡く漂う。
せめて握り締めていればここに居続けてくれるような気がして、彼の手首に爪痕が残るほど力を込めていた。それくらいしか、できることはなかった。