運河は今日もヴェネツィアの美しい街並みを滞ることなく流れていく。ここ、ヴェネツィアでは、運河の流れはあらゆるものを運んでいく。海から海へと流れる海水、たくさんの物資、様々な目的でやってきた人々、あらゆるものがこの運河で交わり合う。
星明かりや月明かりがよく見える夜もだいぶ深くなった頃、運河を一つのゴンドラがスーッと流れていった。そのゴンドラには端正な顔立ちの青年が一人、気分良く鼻歌を歌いながらオールを漕いでいた。
彼の名前はガスト、ヴェネツィアでゴンドラの漕ぎ手、いわゆるゴンドリエーレをしている。ガストはこの時間に一人でこうしてゴンドラに乗りながら運河を流れる時間が好きだった。仕事終わりの達成感、程良く賑やかな街並み、体を吹き抜ける心地良い夜風、それらをたった一人、ある種貸切とも言えるゴンドラで感じるのがガストの毎日の小さな楽しみであった。
今日もそんな楽しみを感じながら、船着場へと向かう。そこにゴンドラを戻したら今日の仕事は完全に終了だ。明日はオフであるため、この後は行きつけのシーフードが美味しい店にでも行って、お酒でも飲んで気持ちよく寝ようかと思うと自然とオールを漕ぐ手にも力が入った。船着場近くの人気の無い通路に入り、ゴンドラの速度を上げる。終点までもう少し、と再びオールを水面へと押しつけた瞬間、その勢いとは反対にゴンドラの重みがぐんっと増した。
「うおぉっ!?」
いきなり速度が落ちたことにより、ガストは大きく体勢を崩す。鍛えられた体幹で咄嗟に踏ん張り、なんとかゴンドラから放り出されることは回避したものの、大きくぐらついた衝撃でバシャバシャと水がゴンドラ内に入り込み、座席が濡れてしまった。
「マジかよ……」
最後の最後に余計な仕事が増えてしまったと、ガストはその様子を見てがっくりとゴンドラ上で膝をつく。甲板ならまだしも、布製の座席部分にそこそこ水がかかってしまったのは辛い。ある程度拭いて乾かしておかないと後々傷んでしまうだろう。はぁ、と短くため息をつくと、ガストは再びオールの先をゴンドラの外に出して周囲の水中をかき回した。
「おい、いるんだろ」
やや呆れたようにオールで探っていると、今度はオールがぐっと水中に引っ張られる。
「っ!?」
再び驚きつつも、ガストもそれに負けじとオールを引き上げる。すると、オールの先端にはなんとも美しい人魚が付いてきた。水中から顔を出した人魚は体についた水滴を月明かりでキラキラと反射させながら、イタズラがバレた子供のようにガストに向かって微笑んだ。
「アハ、バレちゃった♪」
「バレるに決まってんだろ、危ないからやめろって前にも言ったよな?フェイス」
悪びれもしない人魚に、ガストは呆れを全面に出しながら注意する。対して人魚はゴンドラに乗り掛かりながら、尾びれで水面をパシャパシャと叩いて楽しそうにしていた。
この見る者全てを魅了してしまいそうな人魚、フェイスはヴェネツィア付近の海から度々海流とともに街にやってくる。基本人前には姿を現さないそうなのだが、以前ガストが偶然姿を目撃してしまってからは、よくこうしてガストに会いに来るようになった。
「ごめんごめん、でもキミなら落ちないと思ってさ」
実際落ちなかったでしょ?なんて軽口を叩きながら、フェイスは首を傾げて綺麗に微笑む。
「そういう問題じゃねぇだろ…って待て、勝手に乗ろうとすんなって」
ガストの言葉をまともに聞こうともせず、気がつけばフェイスは水中から上半身を引き上げ、ゴンドラ内に乗り込もうとしていた。フェイスがゴンドラの縁を掴む手をオールで軽く叩きながら、ガストは慌ててそれを阻止する。
「別にいいじゃん、今日はもう店仕舞いでしょ?」
「いや、店仕舞いってわかってんじゃねぇか。何しれっと残業させようとしてんだよ」
その返答に顔をムスッとさせながら、フェイスはパシャンパシャンとさっきより勢いよく尾びれで水面を叩く。
「いいじゃん。ちょっとくらいサービスしてよ、明日はオフなんじゃないの?」
「なんでそれ知ってんだよ……」
やれやれと呆れながら頭を掻くガストをフェイスは下からじっと見つめる。なんだかんだ、ガストが甘いことを彼は既に知っているのだ。
「迷惑かけてごめん……でも、俺はこういった時じゃないとゴンドラには乗れないから……」
そう申し訳なさそうに口にする。そして、尾びれを力無く水面に叩きつけるのも忘れない。
「もう危ないことしないって約束するから……乗せてくれない?お願い、ガスト」
真剣な顔で訴えかけると、ガストは少し悩んだ後、困った笑みを浮かべながらしょうがねぇなと呟いて持っていたオールをゴンドラにそっと置いた。
「……わかったよ。ちょっとシート敷くから待ってろ」
「ありがと♪」
フェイスはそんなガストにお人好しがすぎるなぁと思いながらも、その優しさに付け込んでいる自覚はあるので、それは言わずにただ尾びれで水面を叩いて嬉しさを表した。
ガストはゴンドラに積み込んでいる荷物の中から防水シートを取り出すと、それを極力濡らしたくないものにかけていく。ゴンドラ内が濡れないようにと使われるこのシート、特別なものというわけではないのだが、フェイスは知っていた。ガストがシートを仕事用とフェイス用で使い分けてくれていることを。
以前、ゴンドラに乗り込んだ時に敷いていたシートが硬めの素材で、フェイスが少し辛そうにしているのにきっと気づいていたのだろう。その優しさが、フェイスには嬉しかった。
「ほら、準備できたぞ」
「ありがとう、お邪魔しまーす」
ガストに呼ばれて、フェイスはよいしょとその体を滑り込ませる。尾びれが全部収まると、ガストはその上を隠すようにシートを更に上に被せた。そして最後に仕上げと言わんばかりに、自分が着ていた上着をフェイスに被せる。これで、遠目からは彼が人魚だと気付かれはしないだろう。
「ゴンドラに乗りたがる人魚なんて、アンタくらいなんじゃねぇか?」
「どうだろうね、人魚だってたまにはこうして風を浴びたくなるんだよ」
「はは、そうかよ」
出発の準備が整うと、ガストはオールを手に取りご機嫌な人魚に向き合う。
「さ、人騒がせなお客さん。今日はどこに行きたいんだ?」
「う〜ん、そうだな……いい感じの音楽が聴こえるところとか?」
「音楽か、OK。あんまり長い時間漕ぐ気はねぇけど、具合悪くなったらちゃんと言えよ」
「はいはいっと♪」
軽い確認を済ませると、ゴンドラはゆっくりと進みだす。夜の暗さを利用して、フェイスはこうして人の世界に混ざり込むことが好きだった。さっそく体を撫でる風を感じながら、対岸に見える賑やかな街並みを楽しそうに眺めている。
こうして、月明かりに見守られながら二人(?)のゴンドラツアーはスタートするのだった。